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教育と愛国

 為政者の皆さんや所謂自虐史観論者の皆さんはひょっとして、この国の人々が「クニを愛している」ことに自信が持てないのだろうか?この場合の「国」は為政者の皆さんが思う「クニ」であって、要は「自分たちがどうこうしている」と勘違いをしている「クニ」のことである。大体、この国の人々が「クニ」を愛しているかどうかなんて、どうしてそんなに気になるんだろう?それは「国民がどう考え、どう行動し、より良い未来を作り出せるのか?」を気にしているのではなく、「自分たちと同じようにクニを考え愛しているかどうか?」が気になっているんじゃないのかな?
 もちろん、この国の人々にとっての「クニ」はそれぞれであり、その「クニ」への「アイ」はさらに人それぞれの物のはずだ。当然、「アイシカタ」だって違うはずだ、と思っている。また、そのことは誰にも「どうこう」されるものではない、と信じている。そんな本来は畏れ多いものと私が思うモノに対して「どうこう」しようなんて、思わないでもらいたい。何を勘違いしちゃっているんだろう…
 インタビューのいくつかでは、真摯に応えているとは思えない元首長や「歴史から学ぶことはない」と言い切る歴史学者の姿に「これは新手のお笑いか?」と思わせるような物もあり、インタビュアーのため息や落胆が見える相槌に、スクリーンのこちら側も笑いとともに、なぜか気持ちが落ち込んでしまう…
 真摯に教科書と向き合い、戦争被害が抜けていては戦争の悲惨さを伝えられないと、歴史教科書を作り続けてきた元教科書会社の社員や沖縄戦を語りつぐ元教師、学生時代は平安時代が研究テーマだったのに、現代詩を教えることで、あの悲惨な戦争へと二度と進まない歯止めになるのではないか、と教壇にたつ現役教師。それぞれの立場で未来を作る子どもたちの育ちを支えてきたことに、敬意を表する、とありきたりの言葉しか出てこない自分に少しがっかりもする…
 史実や事象に対するそれぞれの立場からの諸説から何を読み取り、どう考え、その後の自らの行動や生き方に反映させるか、が歴史を学ぶ意味ではないのだろうか?もちろん、何を学ぶか、その後どう行動しどう生きるかは人それぞれで、誰からも「決められる」ものではない。
 どうして、歴史や国を語り出すと「多様性」とか「個性」なんてものはどこかへ行ってしまうのだろう…
 面白かったのは、朝鮮の従軍慰安婦の記述について。各社の教科書で「従軍慰安婦」と記述され、戦争加害についても多く取り上げていたのはバブルの時代。そして、「慰安婦」とだけ記述されていて、戦争加害についてもできるだけ記述を曖昧にしているのが今時の教科書。これは何を意味するのか?景気が良い時は、自国の過ち、戦争加害について認める余裕があったけど、経済が非常に厳しい時は認める余裕がない?ってことでしょうか?それとも、この停滞したムードを誰かのせいにして、人々の眼を逸らそうとしているのでしょうか?それも、意図的に…

https://www.mbs.jp/kyoiku-aikoku/

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