「コロナウイルス」と「100日後に死ぬワニ」から考える「身近である」ことの意義

いつも通りに最も穏やかな季節の到来を告げる花の香りが、通行人を失った通りに立ち昇り、かえって現在の異常さを際立たせている。

地元をランニングしながらそんなことを考えてしまう現在の日本は、まさに「コロナ時代」とも言える様相だ。

そんな中、昨日からこんなツイートが話題になっている。

“毎年、餅で喉詰まらせて死ぬ人が1000人以上、交通事故で死ぬ人3000人以上、インフルエンザで死ぬ人1万人以上、新型コロナではまだ10人も死んでいません“
(引用:https://twitter.com/enemy_konishi/status/1235328246650150913?s=21)
このツイートに限らず、「コロナの命への危険度は低いから過度に警戒する今の世の中は異常だ」という風潮はいろいろな場所で見てとれる。

しかしながらこのツイートを見た自分の率直な感想は、「餅やインフルでそんなにたくさんの人が死んでいるのか…」というものであり、餅を詰まらせないように、あるいはインフルにかからないようにこれまで以上に気をつけようと思った。そこから、

コロナウイルスによって我々は、「死は誰にでも身近なものである」という、誰もが頭の隅では「知っている」言葉そのものを身近に感じ、色々な局面における死のリスクを現実的に捉えられるようになったのではないだろうか?

そんな考えに至った。思えば、コロナウイルスなんてものを誰も知らない数ヶ月前から「100日後に死ぬワニ」なんてコンテンツが大流行し、多くの人から、「いつ死ぬか分からないから一日一日を大切に生きようと思った」「普通に暮らしている人が突然死ぬ現実が怖くなった」といった声が上がっている。

でもよく考えてみれば、こんなの当たり前のことである。免許取り立てなのに首都高を運転している大学生は大事故を起こしうるし、何でも触ったり舐めたりしてしまう小さな子供には大きな病気のリスクが付きまとう。自宅で穏やかに寝ている休日のサラリーマンだって、地震や心筋梗塞で急に亡くなるかもしれない。いつだって死は隣合わせだ。

だからこそ、安全運転には細心の注意を払わなければいけないし、小さな子供にはしっかりと目を配らなければならないし、いつ地震が来ても逃げられるよう対応を考えておかなければならない。

でも、身近にそうした出来事が起きないと、どうしたって人は現実味を持って考えられない。

ここ数日、某アパレル企業の社長の社員への「セクハラ」(どうやら性暴力という言葉と同義語になったらしい)が話題になっているが、Twitter上では、「サステナブルなんて言ってる場合じゃない」といった批判が見かけられた。自分もそれまでearth music&ecologyがサステナブルを謳っているのはなんとなく耳にしてはいたが、そのことを実感したのは、Twitterの批判をみかけた後でTGCのステージやCMを見た時であった。なんとも皮肉な話だ。

少し無関係な方向に話が逸れたが、結局世の中で起きている物事なんて、何らかのきっかけで「身近なもの」になって初めて実感されるものである。

2020年代に入り、社会全体として世の中の様々な課題への向き合い方そのものを考え直さなければならない局面を迎えた今、企業や政府には改めて、「当たり前のことを身近に感じさせること」の重要性を考えてほしいし、我々生活者も、関係ないと一瞥するのではなく、感染病が流行ったり、ワニが死ななくても、少しでも「身近に感じられる」接点を見つける態度を持つべきではないか。
それは別に、「水が不足したらお酒が飲めなくなる」みたいな極めて個人的な接点で良い。(というかそれが当然だ)

ワニの「死亡予定日」の2週間前を迎え、改めてこんな「当たり前のこと」を発信したいと思った今日この頃である。

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