善意の強要

善意を強要されると、面倒臭いなと感じることが多々ある。
頼んでいないことへの感謝だとか、"ついで"だとか、暗黙のルールの明文化だとか、そういうやつ。

こちらが善意や"ついで"で勝手にやる分には、感謝されようがされまいがどうでもいい。
というか、やたら褒められたり大袈裟に感謝されたりすると、寧ろやる気を失くすことすらある。

何も言わなければ、こちらのただの善行になるというのに、善意を強要されたら面倒臭いったらありゃしない。
例えば、家事で言うなら、当番制やら分担にされると、やる気なんか到底起こらない。
服の畳み方、皿の洗い方、片付け方。
それを行う事自体が既に面倒臭いのに、強要されたら倍面倒臭いし、後からやり方に文句なんか言われようものなら、「もう一生やらねえぞ」と思う。

ハウスキープが善意のみで成り立つとは思っていないし、家のことに限らずだけれど、あれをやれ、これをやれと言われると途端にやりたくなくなるのは何故だろう。
今まさに、これから宿題をやろうとしていたところだったのに、親に「宿題をやりなさい」と言われた時の、気の削がれようと似ている。
何も言われなきゃやってたのに、強要されたからやりたくなくなった、みたいな。
つまり、私の精神が未熟なのかもしれない。
だとすれば、私が悪いのか?
いいや、易々と引き下がってたまるか。
ああ、いや、それも面倒臭いな。

人間は天使でも獣でもない。不幸なことは、天使を気取ろうとする者が、獣に成り下がってしまうことだ。

パンセの358を思い出した。
たかが高尚な哲学者の言葉を引用したところで、論に説得力なんて出ないのはわかっている。
じゃあ、何で引用したのかなんて、ただ偶々思い出したからでしかないけれど。
背景や真意は知らないけれど、善意によって行動することが、この場合の天使を気取ることだとするならば、善意の強要とは罪にあたらないのか?
人間は天使になれないし、神を信仰していない身からすれば、そもそも善悪などというものはどこにもないし、人間が獣より上とも思わない。
だけど、まあ、言いたいことは何となくわからなくもない。
善い奴ぶるのは*野郎ってことだ。
いや、流石にこれは言い過ぎだな。
偽善だろうが悪業よりは役に立ってる。
自分が善良だと確信していることが悪なんだ。
でもまあ、偽善だろうが何だろうが、大勢の善意の行動によって社会が成り立っているのはたしかで、"何もしない"をしている役立たずに不快感を持つのは理解ができる。

とはいえ、善いも悪いもどこにもない。
けれど、私は"善意"の強要に対して嫌悪感を持っているのはたしかだ。
つまりそれは、私の中で、少なくとも私の置かれた社会ではそれが善とされていることを認識しているとも言える。
私がそれを本心で善だと思っているかは別として、善悪の獲得はコミュニティの中で生きるには必要なものだから、それに則った行動をするのは適応的だと言えるだろう。
善意の強要とは、その場における(その人の思う)適応的な行動を強要することというわけだ。
善意であるから性質が悪い。
そしてなぜ強要するんだ?
集団社会を円滑に循環させるためか?
たしかに、集団の中に総意の善に従わない奴がいたら、そいつは輪を乱す不穏分子なわけで、集団の存続に邪魔だ。
排除するか、従わせるのが妥当だ。
排除できれば楽だが、そう簡単にいかないことの方が多い。
だから従わせる。
集団の総意の善意を強要する。
なるほど、集団生活が苦手な私には向かないわけだ。

かと言って、別に私は天邪鬼で善を行わないわけではないし、他者に害を与えようという気もない。
悪行も善行も、どちらも進んでやろうという気がない、ただの枯草だ。
端的に言うなら、放っておいてくれ、となるのだろうか。
ゴミになろうが腐葉土になろうが、どうでもいい。
価値は勝手に決めてくれて構わないから、私に何も強要してくれるな。
それでも価値を見出すのなら、私を使うというのなら、せめて私の素知らぬところでやってくれ。
君たちの世界に勝手に引き入れるな。

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