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INTPと「孤独について」と反出生主義


 先日、1人の友人とカフェで10時間近く話した。そんなに長時間も席を占拠するなんて、と言われるかもしれないけれど、数件のカフェをはしごしてのことだ。最近のお気に入りは炭焼き珈琲で、半分ほど飲んでからミルクを入れるのが好きだ。

 10時間のうち一番の話題は、中島義道の「孤独について」の感想だった。前回のお茶会の際に彼女に薦められた1冊で、端的に述べると面白かった。彼の綴ったこと全てに共感したり同意したりできるわけではないが、私がこのまま健全に不健全な人生を歩んだならば、こういうことを書きそうだな、と思う箇所が多々あった。しかし、友人と話す中でも挙がった疑問だが、こういった遁世的なことだとか、自身の人間嫌いについて書く男性作家はなぜ結婚するのだろう。例えば、かの有名な太宰治とか。私も全ての人間嫌いの作家の経歴について網羅しているわけではないし、必ずしもというわけではないのだろうけれど。所謂、男女の違いだろうか。「孤独について」は彼の人生について多く書かれていたが、彼は人間がこれほど嫌いなのになぜ結婚したのかについて詳細には書かれていなかったと思う。そこでネットで少し調べてみると、2013年の東洋経済ONLINEの記事に辿り着いた。内容は、反出生主義的な考えをもつ女性による、彼への人生相談だった。気になった人は調べて読んでみるのが早いと思う。

 私や友人の抱いた疑問は、彼の思想と人生が論理的に矛盾をしていると思ったからこそのものであった。人間嫌いなのに、結婚をしたのはなぜ?記事中で彼は「『論理的に矛盾のない人生』とは、実にチャチな社会的ゲーム」と述べていた。なるほど。たしかに完璧に「論理的に矛盾のない人生」とは、幻想であろう。しかし、私は質問者の彼女に近い悩みを少なからず抱えており、彼の答えは1つの答えとして受け止めるが、即座に自分の人生に反映することはできない。

 質問者の彼女は今は40代半ばになっているだろうか。今の私は24歳だ。結婚することを強制される世の中ではなくなりつつあるが、それでもこの先恐らく10年くらいは、パートナーの有無について訊かれることは度々あるだろう。数年前までは「絶対に結婚なぞしたくない」、「結婚は人生の墓場だと先人達もあれほど遺しているのに、幸福な結婚も存在するからと言ってなぜギャンブルをせねばならないのだ」と思っていた。今でも思ってはいるけれど、断固拒否というよりは、しなくていいならしたくない程度に思うようになった。というのは、身内に私が結婚することを半ば諦めてもらえるようになったから、というのも大きい。相手の性別を問わず、私は恋愛感情を抱いたことがない。性的欲求についても同様である。両親や周囲は、私が恋愛や結婚に興味がない、したくない、と思っていることについて、以前は思春期特有の潔癖さや、或るいは異性ではなく同性が好きという周囲と違う"特別な”自分への憧れなど、そういった時期特有のそれだと思われていたのかもしれない。特に母には、私の考えを説明したため、今はある程度理解をしてくれている。しかし、私にはまだ1つ悩みは残っている。子どもをもつことについてだ。

 私は人間が好きではない。心理学を専攻とする上で、研究対象としては興味深いことに違いはないが、それは人間が好きだから理解したいというわけではない。わからないものは面白い、わからないものは理解したい。それだけのことである。ここで私の中の矛盾を表すると、私は人間は好きではないが人間の子どもは好きである。子どもは可愛い。これも友人との会話の中で少し話題となったが、人間に対する可哀そうに近い可愛いと気持ちとは別である。街中ですれ違う子どもはみな可愛い。手を振られれば振り返すし、時には話しかけたり遊び相手にもなったりもする。しかし、私が子どもをもつ、特に産むことになると途端に恐ろしくなる。先述した記事の中で質問者が言っていた、「こんなむなしい世界に生み落としてしまって申し訳ない」という気持ちが、未だ1人の恋人すらいないにも関わらず私に重くのしかかる。

 私は幸運にも恵まれた環境で育った。両親は背負った義務以上のものを与えてくれた。不自由はなかった。欲しいものはおよそ全て与えられた。私を縛っている不自由も不足も、全て私の内から生み出たものだ。私が産み、私が育てた子どもは当然私に似るだろう。私が子どもを好きが故にこの世に生まれてしまった子どもは、どんなに与えられても、幸せになれないかもしれない。私が今後世界一の資産家になって、私の死後も一生遊んで暮らせるお金を遺したとしても、私の最愛の子どもは不自由を感じるし、人間を好きにはなれないかもしれない。そして、私は必ず子どもに裁かれる。

 なぜ自分を生んだのかを問われて、「論理的に矛盾のない人生」を送ることを私に求めるな、と我が子に言えるだろうか。私自身は「通常人」に憧れはないが、子どもが「通常人」に育ってくれれば私は裁かれずに済むのかもしれない。だが、環境と遺伝を大きく私が占めた子どもが「通常人」になる確率はどれほどのものだろう。それこそギャンブルだ。自分の人生だけならまだしも、まだ見ぬ最愛の我が子の人生を賭けてそんなことができるだろうか。そもそも私の目的は、私が裁かれないことではないのだから、それならば賭けなければいいだけの話である。可愛がりたいだけならば、他所の犬猫を時々撫でさせてもらうのが一番楽だ。自分で飼えば日々の世話も病院へ連れて行くのも、全て自分の責任になってしまう。その分可愛かろうが、面倒は何倍だろう。それが人間となれば、時間も手間も、費用も責任も、比べ物にならないのは分かりきっている。しかし、しかしそれでも、他所の名前も知らぬ子どもがあれほど可愛いのだから、自分が産んだ我が子はどんなに可愛いだろう。うっかり適当に結婚して即座に離婚して、子どもに残りの人生を賭けるなんて暴挙に出てしまいそうだ。

 今の私は、まだ論理的な潔癖から逃れられそうにない。大人になるということは、矛盾をゆるせるようになることなのだろうか。矛盾をゆるせたとして、ギャンブルは存外性に合っていることに最近気づいたが、自分の子どもの人生を賭けようとは到底思えない。人生は賭け事と似ているかもしれないが、既にテーブルに着いてしまった人間が賭けざる得ないのと、まだ着いていない人間を無理矢理外から引っ張ってくるのは別問題だ。せめて私自身が生きることを楽しめるようにならないと、他人に勧めることはできない。



 そういえば、友人に夢日記をつけてほしいと頼まれていた。友人は殆ど夢を見ないらしい。私は反対に毎晩夢を見るうえ、その内容も一晩で3つほどは覚えている。最近は予定に追われているせいで夢見が悪いので、書きにくい内容が多くて書くのを躊躇う日が多い。どうせ覚えているとはいえ、詳細に書くことで記憶が定着しきってしまうのは嫌だし、彼女に読まれることが前提だから、夢とはいえ気恥ずかしさもある。

 証明しようがないが、私は今までに見た夢の殆どを覚えている。一晩のうちに見る夢は3,4つと言われていて、たしかに2つしか覚えていないような日もあるから、正確には全部ではないと思う(レム睡眠の周期で夢の個数が変わるのだから、睡眠時間の長さで個数は変わるはずだけど)。夢の内容を覚えている弊害というほどでもないけれど、夢の内容が現実的であるほど、それが過去に本当にあったことの記憶なのか夢の記憶なのかがわからなくなってくる。記憶力が良いと言われることは今までもあったけれど、現実と夢の区別がつかなくなってるのでは意味がないというか、これでは記憶力が良いと言えないのではと思うけれど。それに、現実の方が当然刺激的な事は少ないから、忘れやすいように思う。過去のクラスメイトの顔や名前も憶えてないのに、夢に出てきた土地や出来事を覚えていたって何の役にも立たない。それでも夢日記を彼女が面白がってくれるなら、今のところ唯一の活用法なので、時々思い出して書こうと思っている。

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