境界線
彼女は怒っている。
私は不機嫌です、と誰にでも分かりやすいように丁寧で冷たい声音を放ち、笑っていない目元を隠す気もなく口元を歪める。語気を強める。私を威圧できていると思っている。
ただの一人舞台の観客になる気は毛頭ない。
隣の店員は、きっと関わりたくないのだろう。一瞬で変わった空気を察知して、別の客の相手を始めた。いつも相手にしてもらえていないのか。上司だから逆らえないのか。萎縮したような小さな声で接客している。
少しだけ羨ましい。沸き上がる感情を思いのままさらけ出して、自らの内蔵を撒き散らして、私の血はこんなに汚れているんですとアピールしても恥ずかしくないその神経が。
そうですか、とても汚れているんですね。私の靴には吐かないでくださいね。
それで。何か私に関係が?
文字に起こせば別に不自然な点はない。臓物も嫌だが、気体に紛れた目に見えない何かがふりかかるのは好きではない。そういう趣味はない。
相手が自分の都合よく動かないことが耐えられない人種はいる。他人は自分の世界に存在しているもので、思いどおりになると信じている。涙を流して、奇声を上げて店内を転げ回ったら親にお菓子を買って貰えた記憶を引きずっている。それが世界の全てになってしまった成れの果て。
私が相手にしないことが分かったのか、勝手に脳内でマウンティングを完了させたのか、彼女は乱暴に商品を渡すと先程の威圧的な語気のまま抑揚のない「有り難うございました」を放った。
最後まで不機嫌でいることの説明はなかった。こんなに私が怒っているんだから分かるでしょ、という態度を崩さず清々しいまでに不機嫌を貫いた。
洗濯物に不用意に紛れこんだティッシュは、周りの洗濯物を巻き込んで、こびりついて、繊維に絡まって取れなくなる。洗濯機を回した何倍もの労力をかけないと元に戻らない。二度と戻らないことさえある。
私は洗濯機のティッシュにはなりたくない。
fin.
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