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往復書簡・ゆのみのゆ 四通目

雨季さんへ

こんばんは、最近はずっとレポートを書いていたので、ひとつ、またひとつとこなしている間に一月は終わってしまって、こうして淡々と目の前のことをやり続けているうちにすぐに春になってしまうんだろうなと、それ自体は楽しみではありつつ、あまりに早い時の流れを前にしてぶるるとふるえてしまうような怖さもあって、今日は夕飯に恵方巻を食べながら、そんなことを考えていました。

緊急事態宣言も延長が見込まれていて、先行きの見えない状況が続きますが、最近わたしは『小笠原鳥類詩集』をすこしずつ読み進めています。雨季さんとも11月の末頃にあの詩集についてすこしお話をしていた記憶がありますが、やはりなかなか読み進めにくい。あの二段組のなかにみっちりと並べられた言葉は読み手を拒んでいるようにも感じられて、一気に読むことなんかできなかったので、毎日1篇ずつ読んでいくようにしています。ただ、最近はあたまのなかで朗読するように、音声として読むようにすると、なかなか面白いような気がしてきました。そのあたりのはなしもまたぜひしましょう。

そういえば、ちょうど去年のいまごろ、雨季さんと初めてお話ししたのを、今書いていてふと思い出しました。あれは渋谷でしたかね、ご飯を食べて、GEN GEN AN幻でお茶をして、その時もやはり詩の話をしていました。あの頃私は、詩を書いてちょうど1年くらいになってきていて、詩についていろいろ考えることはあるけれど、あまりきちんと詩の話をほかの書き手と話す機会が無くてうずうずしていたので、あの日雨季さんとお話しながら、自分が抱えているもやもやをなんとか言語化して、それに丁寧な応答をいただいて、とても充実した時間を共に過ごさせてもらったなと思っています。そして今こうして書簡を交し合ったり、恋愛の話を聞いてもらったり(笑)、という間柄になれて本当にうれしい、なんだか最終回のようなことを書いてしまいました、詩集の話でいえば、石松佳さんの『針葉樹林』のお話もしたいのでまたちかぢかぜひお電話でもいかがですか。


香央へ

さて、レポートお互いお疲れさまでした。そういえば香央に話そうと思っていたことがあったのです。それは「眼差し」ということについて。1か月前だったか、もっと前からだったか、香央が、文学の身体表象における、眼差すということ、眼差されるということに問題意識を持っているのだな、というのはTwitterなんかで何となく感じていたのだけど、最近美術史のレポートで、アメリカ抽象表現主義のマーク・ロスコについて書くことがあって、いろいろと手探りで論じていると、ふと、そのレポートで論じていることが、眼差し、に深く関連していることに気がついて、そして同じ授業の前期末レポートを見返してみると、その時はポール・デルヴォーについて書いたのだけど、それもまた絵の中の眼差しと、鑑賞者の眼差しを紐づけていくもので、なんだかんだ私も気がつかぬうちに眼差す眼差される、ということについて気にしていたのだなと思って、この話を一度香央としたいなと考えていました。わたしはまだ特になにも勉強できていないけれど、眼差しの暴力性であったり、絵画や、特に宗教芸術における鑑賞者と作品との関係性には今何となく関心があって、そんな話をしつつ、香央の考えていることも教えてほしいな。ここで応答してくれても問題ないです。

まだまだ話したいことはあるけれど、そろそろ冷えてきたので湯につかります。

では、また。

2021.2.2

最近買った本:『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)

よく聴いている音楽:ゆうらん船「夜道」


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