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2021.11.16

 11時ごろ起床。近頃はバイトも予定も何もないと基本12時をすぎないと起き上がれなくなってしまったので、今日は珍しい。
 起き上がってしばらくは、先日買ってきたレースフラワーを眺めながらぼんやりと考え事をしたりそれをノートに書きこんだりしていると、何となく本棚と積んでいる本を一気に片付けたくなった。そうと決まればこれもまた珍しく、掃除や洗濯物干しもてきぱきと終え、昨日の夕飯の残りの色ご飯おにぎり(きくらげと小さく切った鶏肉が混ざってる)をふたつ胃にいれ、ジャージのズボンとパーカーで本棚から本をガサガサ取り出し、積読も全部崩し、全ての本を改めて分類していく。家にはまた一人しかいない。母はいつもより帰りがすこし遅いと言っていた。父はすでに仕事に出ている。こういう時に似合うのは決まってカネコアヤノ『祝祭』だ。だって「Home Alone」だもの。

 片付けは思いのほか時間がかかった。蔵書がどれくらいあるのか、単に数えるのがめんどくさいだけでとんでもない数の本というわけでもないのだけど、積んでいた本を崩すと部屋に足の置き場がなくなって困った。民俗学・神話民話関係、小説、詩歌、文学論、文芸誌、哲学思想系、美学、漫画、画集、と分類しつつ本棚に詰めていきつつ、直近で読みたい本だけは勉強机の近くにまた積む。何となく今の関心と本棚として薄い分野がはっきりしてきてやる気は上がったが、ずっと動かしていなかったブースの本を取り出した時の埃がかなりきつく、途中ノックダウンして本に囲まれてその場にうずくまった。ものの群れに紛れてほんのわずか、ものになったような気になる。またいつのまにか日が暮れる。

 結局手元には気に入っている詩歌集(大森静佳『カミーユ』とかマーサ・ナカムラ『雨をよぶ灯台』とか)や、都市論、明治から大正期の小説に関する文学論、エリアーデ、ハラウェイ、バトラー、バタイユ、古井由吉、大庭みな子あたりがやってきた。10月から最近まで読書会が多くあり、課題図書を読むばかりだったのでようやく落ち着いて、という感じのラインナップだ。部屋の景色はずいぶんすっきりして、自分が何をしたいのかくっきりしてくる。

 境界侵犯的な移動のなかにこそ自分のアジールはある、と思っていて、その気持ちは変わらずずっとありつつ、移動するさなかのその地点地点への意識、ということをふと考える。ひとところに留まらない移動・流動、というものは私にとってたしかに大事なのだけれど、その前提としてのそれぞれの地点への意識をおろそかにしてしまっては、何にもならないのではないか。ふと当たり前のことに気が付き、今の自分に足りていないのはこうした意識だったかもしれない、と思ったりする。

 掃除を終えると、埃を落とすべくシャワーを浴び、布団にくるまって堀江敏幸「砂売りが通る」を読む。そのうち母が帰ってきて、夕食。その後21時半ごろから年末に企画していることの打ち合わせ。深夜テンションで企画したことだったのに、かたちになってきていてわくわくする。

 明日はまたバイト。もうしばらく勉強をしてから寝るつもり。


↑ 洗濯物を干すときにきいていた

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