現代麻雀技術論註第2回「”流れ”の有無から離れる」

 麻雀における「抽選」とは配牌、ツモ。「選択」とは打牌、鳴き、リーチ、アガリ、テンパイ宣言。「結果」は得点精算。こうしてみれば、抽選が選択、結果に、選択が結果に、結果が選択に与える影響を予測することは出来ても、選択、結果が抽選に与える影響を予測することは出来ないことが分かります。予測することが出来る人がいるとすれば、(人知を超えた能力者でも無ければ)イカサマ、不正行為の類いを行っていることになります。

 「流れ論」を提唱してきた代表的な人物が、いずれも麻雀のイカサマにも造詣が深かったことも留意されるべきでしょう。確かに人は、「抽選に与える影響」をあたかも予測できるかのように感じてしまう性質があり、定義が明確になっていないものをとりあえずあるものと信じてしまう傾向にあります。

 しかし、運気が上がるアクセサリーを売る人が、果たして本当に効果があると信じているでしょうか。本当にあると信じていたら、果たして他人に売ろうとするでしょうか。『現麻本』でも触れたことですが、「流れ論」はイカサマ師が自分のイカサマをごまかすためにでっち上げたもの。そうでないとしても、そう信じていると周りに主張することが本人にとって利益になっていたのではないかと考えます。私が、「流れ論」の提唱者はそれを信じてなどいなかったと確信するに至った経緯については、いずれ気が向いた時にでもお話しましょう。

 麻雀における「流れ」をあると思う人も、ないと思う人も、今一度、自分が考えている「流れ」を、「抽選」「選択」「結果」の3つの言葉を用いてどのように説明できるかを御確認下さい。「抽選に影響する」という話であれば、それは人の錯覚に過ぎず、「選択や結果に影響する」という話であれば、それは「流れ」以外の言葉を用いた方が伝えやすいもののはずです。

 麻雀を極めるということは、麻雀で起こり得る事象をありのままにとらえ、それに応じた適切な打牌を選ぶということ。仏教では、事象をありのままに受け止めるために、「有無を離れる」。「有見」「無見」両方のものの見方から離れなさいと説きます。

 たとえば、人間が死んでしまっても、霊魂のようなものが実在し続けると考えるのが、「有見」。また、人が死ねば、まったく滅尽してしまって、無に帰するのだと考えるのが「無見」です。流れ論に傾倒しない方には、「有見」の立場を取る人は少ないと思われますが、「無見」の立場を取っているのではないかと思われる方は少なからず見受けます。信教は自由ではありますが、麻雀打ちであれば、『天 天和通りの快男児』の赤木の最期のシーンくらいは一読して欲しいと思うことです。少なくとも「無見」というのもまた誤った物の見方であることは言えるのではないでしょうか。 

 人が人である以上、有無から完全に離れることは不可能でありますが、目指すところはそこにあるという見解だけでも、お互いに共有できればと思うことであります。

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