そんなにも私はレモンを持っていた。 一抹の哀しさを胸にして、自分で作った不細工なレモンを後ろ手に隠していた。 「何を作ったんだい?」 お父さんはいつもと…
竜子は古本屋までの道のりを、涙を流しながら歩いていた。これから長年をともにした一冊の本を売るに行くのだ。けれど、涙の理由は本ではなかった。この頃の竜子は、こう…
伊吹 真火
2024年10月1日 10:39
そんなにも私はレモンを持っていた。 一抹の哀しさを胸にして、自分で作った不細工なレモンを後ろ手に隠していた。 「何を作ったんだい?」 お父さんはいつもと変わらない薄っすらとした笑みを浮かべているけれど、それが私の心を波立たせていることには気が付かない。 「何も。完成しなかったの。だから、何も無いよ」 今日は父の日だった。学校では先月から刺繍の授業があって、父の日に合わせてお父さ
2024年10月1日 02:44
竜子は古本屋までの道のりを、涙を流しながら歩いていた。これから長年をともにした一冊の本を売るに行くのだ。けれど、涙の理由は本ではなかった。この頃の竜子は、こうして理由もなく涙があふれることがあるのだ。そういうときはきまって小石川植物園の夢から覚めたあとのことであった。夢の中で竜子は植物園の中をぐるぐるとさまよい続ける。そうして植物園の一角の、或る一本のソメイヨシノの大樹を見たところで夢は覚めるの