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トリュフォーのお墓の前で

Artwork by Gaby

 28歳の秋、僕はトリュフォーのお墓の前で、イタリア人とフェリーニの話で盛り上がった。なぜだろう。


 モンマルトル墓地は文字通りモンマルトルにある。だからモンマルトル墓地なのだ。——なのだ、と書いてみて後悔した。実際そうなのだろうか。僕は知らない。モンマルトル墓地があるからモンマルトルなのだろうか。はたまたモンマルトルという人物が……あるいは……。

 ——なににせよ、モンマルトル墓地は文字通りモンマルトルにある。大きな墓地だ。大きな敷地に墓ばかりがある。見渡すばかりの墓、墓。しかし墓地然とした鬱屈とか鬱蒼とか、そんな言葉は上手くハマらない。実に優雅——というのは気楽な旅行者の錯覚?

 名のある人のものなのかそうでないのか(この言い方も変だな、多くの人に名はあるものな)、僕にはいまいち分からないが、苔生しようがくたびれようが、大抵の墓は微に入った装飾に彩られて誇らしげな風情。ただただぼんやり歩いているだけで、墓石職人の粋を見せつけられて、まともな精神がなければげんなりするくらいだ。

 地中に眠る誰や彼や。墓石の装飾同様、晴れやかに高らかに散った人もいるだろうし、はたまた鬱々とした日々の果てに倒れた人もいるだろう。しかし墓は墓だ。悪びれもせずふてくされもせず、職人と遺族の思いのままに(あるいは当人の思いのままに)、雅な造形を誇示して屹立し続けている。多分、何年も何十年も。

 墓! 墓だ。墓。

 僕はトリュフォーの墓を訪ねてモンマルトル墓地へと足を運んだ。考えてもみれば妙な話だ。会ったこともなければ話したこともない、預かり知らぬ人の墓を訪ねるだなんて(なんせ僕が生まれた時にはトリュフォーは死んでいた)。


 モンマルトル墓地の敷地内のルートはちょうど校庭に引かれたトラックのように横長の楕円形になっている。トリュフォーの墓はその楕円の中腹あたり、入り口から歩いて10分ほどの場所にある。

 まったくもって簡素な墓だ。数多の墓に囲まれて、大理石が素っ気なくどんと置かれている。そこに刻まれたFRANCOIS TRUFFAUT 1932-1984の文字。周囲の墓が天に向かったその高さでもって自らの所在を伝えんとするのに対し、トリュフォーの墓は平置きゆえに、相対的にひっそりとした趣き、そこにあると知らなければ気づくことは難しい。

 ——そう、相対的に。トリュフォーの墓は簡素だが美しい。無駄がない。潔い。ある種の人々から見ればこれはあまりに理想的な墓(理想なんて大抵はある種の人々の間でしか共有できない)。

 しかしなんたって周囲が派手だ。華美だ。相対だ。蝉が鳴き喚けば風鈴は引っ込み、嵐がやめばせせらぎは鳴る。大抵の物事は相対なのだ、アインシュタインに頼るまでもなく。

 ゆえにトリュフォーは静まった。つややかな大理石の表面に世界を反射させて、トリュフォーは地中奥深くで静まった。

 そしてフェリーニが吼える。不思議なものだなあ。僕はトリュフォーの墓の前でイタリア人の夫婦と出会うのである。


 夫婦は話しかけてきてこう聞いた。君は日本人か? そうだ、と答える。やはりそうか、私たちは少し日本語がわかる、アリガトウ、コンニチハ。それは嬉しい、でも残念なことに僕は英語もイタリア語も分からない。そうか、でもどうだ、イタリアの映画は分かるか?

 まっさきに出てきたのがフェリーニだった。僕はフェリーニ、トリュフォー、スピルバーグに魂を捧げた人間なのだ(あくまでも誇大な比喩として)。

 フェリーニが好きだ、ラ・ストラーダ、ラ・ドルチェ・ヴィタ、エイト・アンド・ハーフ。おお! と夫婦はどよめく。フェリーニは私たちも大好きだ、君は素敵な奴だな、そうだ、君はイタリアに来たことがあるか。ない、と答える。絶対に来るべきだ、なぜならフェリーニの世界がそこにある、ぜひ来るべきだ。そうか、僕は行ってみたい、イタリアに行ってみたい、アイ・ホープ、アイ・ウィッシュ。


 それからしばらくはフェリーニの話をしていた。もちろん、僕は英語もイタリア語も分からない。でもなんとなく、話は通じていたような……。マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エグバーグ、ニーノ・ロータ、そしてジュリエッタ・マシーナ。

 最後に夫婦は聞いた。トリュフォーの墓の上に、メトロのチケットが置いてある、みんな置いていくらしい、何故だ?

 僕ははてなと思った。確かにトリュフォーの墓の上の片隅にはメトロのチケットとコインが無造作に置かれている。なぜだろう。

 僕は、僕にはまったく分からないけれど、と前置きした上で、おそらく、多分、トリュフォーの映画に関係があるんじゃないか、「終電車」という、映画があっただろう。

 夫婦は、ああ! と納得したようだった。確かに、それは関係があるかもしれないね。

 ただ、メトロのチケットとはあまり関係のない映画だったけれど……、僕が言うと夫婦はまた、ああ! 確かにそうだったな、と首を傾げた。


 これは後から知ったのだが、おそらく墓の上のメトロのチケットと「終電車」は関係がない。いや、関係がないことはないのか。少なくとも映画の「終電車」とは関係がなさそうだ。

 それは死んだ人の最終電車、人生の最後の天国への片道チケット、そんな意味合いがあるらしい。あるいは私とあなたを繋げたチケット。私はこのチケットでここへ来た、このチケットの終点はあなたの人生に触れることだ(それはなんとロマンティックな!)。

 しかしその時の僕は知る由もないことなので、夫婦と誤った解釈について問答してしまった。夫婦、ごめんなさい。


 その後、少し話して僕らは別れた。きっと、もう二度と会うこともないのだろう。あなた方はイタリアへ、僕は数日後、日本に帰る。地球は銀河の石ころなれど、僕らにとってはあまりに大きい。日本とイタリア、それは僕らにとってはあまりに遠い。


 そしてトリュフォーだ。僕と夫婦がフェリーニの話で盛り上がっても、はたまた勘違いで「終電車」を持ち出しても、あなたは静かに佇んでいた。霊魂の有無は分からないけれど、あるいは分解された原子や分子や何やかや……宗教や科学の最果てに頼らずとも、僕はあなたがそこにいたと思うんです。ああ、また日本人が来た、イタリア人もいる、フェリーニの話ばかりしてるじゃないか、まあいいか、僕もフェリーニは好きだったものな、それにしても「終電車」か、懐かしいな、あれは良い映画だよ、きっといつかまた観ておくれよな。

 まあ、そんなことは思ってないか。うるさいなあ、くらいだろうな。


 なんにせよ、トリュフォーさん、あなたが眠る静かで美しいその大理石に、これからも日本人やイタリア人や、世界中の人々が群がるんだ。フェリーニの話もすれば、タルコフスキーやカネフスキーの話だってするだろう。テイラー・スウィフトの話もするかもしれない(あなたは知らないでしょうけれど)。でもね、それはあなたが偉大すぎたんだから、それくらいの面倒は仕方がないってところでしょうね。

 そういえば、大理石に彫られたあなたの名前を覗き込む時、石の表面に僕の姿が映ったんです。空が晴れてて良かった、それは見事にくっきりと映ったんです。そうやってこれからも何万、何億という人々が、あなたの中に自分を、自分の中にあなたを見つけていくんでしょうね。

 あの夫婦とは二度と会えないのでしょうけれど、もしもいつか霊魂になって、原子になって、またモンマルトルで鉢会えたなら、次はあなたも交えて、アンドレ・バザンがどんな親父だったのか、ジャン・コクトーはいい奴だったのか、ゴダールは、ルイ・マルは……、そんな話を聞かせてくれませんか。もちろん、フェリーニの話も。

(2018.10.22)

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