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たかしと海底

「ごめんね、むりよ」
「え、なんで」
「むりだもの」
「なんでなの」
「あたし、たかしくんのこと、すきではないもの」

 そうしてかおりちゃんはたたたと園庭の隅の砂場へと走っていった。たかし、6歳。初めての失恋である。

 たかしは衝撃を受けた。初めての衝撃であった。心は深く沈んだ。しばらくはその場に立ち尽くした。それから休み時間の終わりの合図を聞き、はっと気がついて、教室に戻って行ったが、かおりちゃんはその日1日、目も合わせてくれなかった。


 保育園が憂鬱に終わり、母が迎えに来た。帰り道をとぼとぼ歩いた。青ざめた顔で家に着くと、かばんを放り出して、すぐにリビングのカーペットに仰向けに寝転んだ。大の字になって考えた。

(なぜむりだったのだろう)

 かおりちゃんはたかしの幼なじみだった。年少組の頃からいつも一緒に遊んでいたし、一緒にお風呂に入ることだってあった。お母さん同士も仲が良くて、条件は悪くなかったはずなのだ。

(かなしいなあ)

 たかしの心はひどく重かった。みぞおちの奥が深く沈んだ。初めての衝撃であった。

(まるで、プールの底に落ちたみたいだ)

 けれどたかしは、保育園のプールの底は案外浅いことを思い出して、

(いつか読んだ、深い海の底に落ちたみたいだ)

 と思い直した。

「おかあさん」と大の字のまま台所の母を呼ぶ。

「なに」と母は答える。
「海の底は、どのくらい、深いのだろう」
「なにそれ。しらないけど、すごく深いんじゃない。5000mくらい」

 たかしは驚いた。

「5000って、5000円札の5000だろうか」
「そうね。その5000」

 たかしはさらに驚いた。5000円札はすごいものだった。

(そんなにすごいものだったのか)

 けれどたかしは、本当にそんなにすごいものなのか疑った。

「おかあさん、アイパッドを借ります」
「どうぞ」

 たかしの丁寧な口調を訝[いぶか]しがりながら、母はアイパッドを渡した。

 たかしはアイパッドで調べようとした。インターネットを開く。けれど、なんと調べればいいのかわからない。とりあえず『うみのそこ』と打つと、難しい漢字がたくさんでてきたので、たかしは諦めた。たかしは母にアイパッドを返した。

「あきらめました」
「あら、そう」

 母は平然と受け取った。

 たかしは、一体、何で海の底のことを読んだのかを考えた。すると、祖父にもらった絵本に思い当たった。すぐに自分の部屋に駆け込んで、本棚から祖父のくれた海の本を取り出した。

(でも、これはすごく子供の本だから、海の底の深さなんて、そんな難しいこと、書いていないだろうなあ)

 と、たかしは思った。けれど書いてあった。それによると、昔、アルキメデス号という潜水艇は、およそ9500mの海底へ潜ったらしい。

「9500!」

 たかしは思わず叫んだ。それはたいへんすごいことであった。すぐに母のもとに駆けて行った。

「おかあさん、9500mって、どのくらい」
「むずかしいこと聞くね。9500mって、1mが9500個あるの」

 この母の回答は大体間違ってはいなかったが、たかしには複雑だった。

「1mはどのくらい」
「うーん、だいたいあんたの身長くらいじゃない」

 この母の回答は曖昧であったが、たかしには十分だった。

「ぼくが9500人!」
「そういうことね。5000円札よりすごいよ」

 たかしは大発見をしたような気持ちだった。海の底にはたかしが9500人もいるのだ。こんなすごいことは、はやくかおりちゃんに教えてあげなくちゃならない。けれど、たかしはそこで思い出す。たかしは失恋したのだ。

 たかしの心は9500mの海底に沈んだ。それがどんな場所かはわからなかったが、海の底なのだから、つまり、魚がいて、サメがいるのだ。それはプールの中みたいに息が出来ず、冷たいのだ。そこに9500人のたかしがいる。

(かなしいなあ)

 たかしは悲しかった。たかしは初めての失恋と同時に、海底の深さを知った。

(2015.5.29)

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