海_初稿
あの夏の僕は、いつも海を見ていた。
海は退屈そうに漂って、漂うのに飽きたら夢を見た。
黄昏時には黄金色に染まって、海は静かに風に揺れていた。
◎
おかしなことを言うようだけど、僕の街から海は見えない。空だって大して見えやしない。ビルというビルも無いくせに、僕の街は不思議と窮屈だった。一本の道路を西に向かえば都市に出て、東に向かえば山に着く。ただそれだけだ。
窮屈な街で誰かと出会うのはそう難しいことじゃない。朝起きて、顔を洗って、服を着替えて外に出る。車に乗って街へ出る。街へ出たら財布を開いて、千円あれば店に入る。そうすれば誰かがいる。仕組みはそんなものだ。
だから僕が海に出会うことは奇跡でも運命でもなく、ただの仕組みの問題だった。海の見えない街で海に出会う。そういう仕組みだって宇宙の中にはあるのだ。宇宙は広い。
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海と僕に共通の友人がいないのは不思議なことではあった(この街は窮屈なのに!)。けれど、さほどの問題でもない。”海と僕には共通の友人がいない”、...そんなことになんの意味がある?
だから海と僕の時間は、常に2人だけの時間だった。両親や友人や先輩や同僚や、その他諸々の「この街の人々」は、海と僕の時間とははるか遠い場所にいた。きっとお互いに兄弟なんかもいたのだろうな。いたのだろうけど、まぁ。とにかく。
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海と僕はよく映画の話をした。海はトリュフォーが好きで、いつも「暗くなるまでこの恋を」のDVDを探していた(結局それは見つからなかった)。僕はゴダールが好きで、週末に一緒に「ウイークエンド」を観よう、というつまらない提案を何度もした(結局それは叶わなかった)。
海は映像の哀しさをいつも見ていて、僕は映像の情熱をいつも見ていた。だから同じ映画を観ても大した意見交換も無く、「良かったね」と頷き合うだけだった。なんだって、良ければいい。哀しさと情熱の点で良ければ。
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海と僕はたまに口論だってした。人間は出会って死ぬまで笑っていられるものでもない。出会って死ぬまで。
とはいえ、どれも大きくも些末な話題だった。僕が哀しさは青色で、情熱は赤色だと言うと、海は静かに反対した。哀しい赤色や、情熱的な青色もあると言った。それは確かにそうで、なぜならそういう風に僕に反対する時、海の哀しさは赤色に染まって、海の情熱は青色に輝いた。
重要なのは、”僕らはそんなことで言い合いたかっただけ”だということだ。青色や赤色は、情熱でも哀しさでも退屈でも消し忘れたテレビでもあり得た。それはシャガールの絵を一目見れば分かることだし、僕らは一緒にシャガールの絵を一目見たことだってある。重要なのは、僕らは出会って、笑ったり怒ったり、静かに反対したりして、そうしていつか死ぬということだ。海と僕は出会って、そうして死んでいく。どうせ死ぬなら、いろんなことで言い合ったりもする。どうせなら。
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海と僕はあの夏を駆け抜けた。駆け抜けるだけの夏がまだこの街にも残っていた、ということに僕らは驚いた。そして驚くままに駆け抜けた。僕は何十回もガソリンスタンドに駆け込む羽目になったし、その度に財布は軽くなった。でも気にしている暇はなかった。海はふざけて僕のサングラスをかけていたし、僕にしたっていつも海の口癖を真似ていた。そんな時にアラブの石油問題なんて問題ではないし、レギュラーの値上がりなんて記号でしかなかった。リッター168円。なるほど。
僕らは千円で駆け込める美術館を探し、千円で入れるイベントを見つけ、千円で飲めるお酒を飲んで、僕らなりに静かに騒いだ。レイトショーの後にレッドブルを飲んで、部屋で何度も同じDVDを観た。晴れた午後には動物園へ行って、ライオンの不機嫌より飼育員の働きに感動した。月が大きく見える夜には、なんとなくビールで祝杯をあげた。
好きだなんて言い合える二人ではなかったけど、同じ時間を過ごせるだけで十分だった。僕らは同じテンポと同じリズムで、たまにはちゃんとうんざりしながら、二人の物語を進めていった。楽しみを明日に持ち越したりして、二人の物語は進んでいった。
そうして僕らは静かに騒ぎ疲れて、午後6時が薄暗くなった公園のベンチで、僕らの季節の変わり目を見つけた。
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海と僕が最後に会ったのは、夏の終わりの海辺だった。物語はいつだって一つの季節で終わるし、終わるときには場所がある。馬鹿みたいだけれど本当のことだ。意味があるのかはわからない。それを決めるのは結局は僕らの仕事だ。
その日の海は穏やかで、静かな陽の光に輝いていた。それはそれで、その方が良かった。荒れた海は海に似合わないし、強い日差しは海を白くぼかして、海の表情を隠してしまうからだ。
海へ向かう車で、僕は得意げにビーチボーイズを流して、海はそれを静かに聴いていた。ビーチボーイズは夏の終わりには合わない。季節の終わりを浮き彫りにするからだ。今となってはそのことがよく分かるけれど、その時の僕では仕方が無い。海に行くならビーチボーイズで、栗拾いに行くならビージーズだと決めてかかっていた。そういう不思議な時代が誰にだってあるのだ。
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海と僕が海へ行っても、何をしたというでもない。あの夏の終わりの僕らは、ずっと海を見ていた。海も僕らを見ていた。両親や友人や先輩や同僚や「あの街の人々」は、こんな時でもやはりはるか遠い場所にいた。海と僕の時間は、とうとう最後まで二人だけの時間だった。海を照らした遠くの夕陽はすぐそばの海に溶けて、少しずつ世界は夜へと向かった。
海は「良かったね」と呟いて、僕は頷いた。本当に良かった。僕らは最後にも哀しさと情熱を見つけたのだ。
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海は海辺の駅から電車に乗って、静かに手を振って、暗がりの中で遠く離れて、それきり僕らは出会わなかった。それも宇宙の仕組みだ。そんな仕組みだって宇宙にはあるのだ。宇宙は広い。そして複雑だ。
これからも僕は「この街の人々」となんとなく出会って、笑ったり怒ったり、静かに反対したりして、そうしていつか死ぬんだろう。千円があれば街に出るし、たまには東の山にだって行く。誰かと動物園やレイトショーにも行くだろう。僕だってちゃんと「この街の人々」なのだ。
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少し長くなりすぎたな。よし、これで最後だ。最後か。うん、最後に言っておくと、僕は週末に1人で「ウイークエンド」を観た。つまらない提案ではあったけれど、叶えるべきだったな。いつだって、1人で泣くのは哀しすぎる。
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ついでにおかしなことを言うようだけど、”もう”僕の街から海は見えない。いや、おかしくはないか。まぁ。とにかく。
(2014.9.18)
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