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「裸足で逃げる」を読んで ―女性たちの記憶のかけらをつなぐ夜

【初めに】

 このnoteは、DVや性暴力の被害を生き延びた沖縄の女性たちの語りを集めた『裸足で逃げる』という本を読んだあと、自分の心がどういう風に動いたかを書いたものです。掲載している絵の中には著書の内容と直接関連するものもありますが、「裸足で逃げる」の本文に写真は出てこないため、あくまで著書を読んで筆者が想像した光景です。暴力から逃げたあとに(あるいは暴力を受け続ける中でも)居場所を見つけ、生きようとする女性たちの幸せのイメージのことを形に残したいと思い、絵を描きました。



【記憶のかけらを見つける夜】

 私の母は島で育ちました。母の父親(つまり私の祖父)はお酒を飲むと妻と子どもを殴る人でした。だから子どもの頃の母は、祖父がお酒を飲んだときには裏口からばーっと飛び出て、家の裏手の山に逃げ込んでいました。夜の山には野の木の実が成っていて、口に入れて噛むと甘ずっぱい汁がぴゅうぴゅうと出てきたそうです。

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 母はずっと、自分が橋の下から拾われてきた子どもだと思っていました。本来は無条件に周囲から慈しまれ庇護される年齢であるはずの幼少期に、最も身近な庇護者から理不尽な暴力を受ける状況を耐えるため、母は「自分の方に何かの責があるのではないか」と想像したのかもしれません。

「もしも自分が暗い水の流れる橋の下から気まぐれに他人の家に招き入れられた子どもであったのなら、この苦しみを受けるのも仕方がない」、と。

 あるいは、ここが本当の自分の家庭ではなく、心から自分のことを愛してくれる本物の幸せな家族がどこかにいると思いたかったのかもしれません。祖母は、酒を飲んだ祖父から母が受けるよりももっと凄まじい暴力を喰らわされていました。自分を産んだ母親が自分の父親から殴られる光景は恐らく、母の心にどうすることもできない悲しみの影を落としました。その影から逃げるために「橋の下から拾われてきた子ども」という空想を作り上げたのかもしれません。


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 母にとって、島は何もない場所でした。高校生のときに家を出て遠くへ逃げたいと思ったそうです。

 同時に、「遠くへ逃げれば親の死に目には会うことができないだろう」と予想したといいます。

「だから子どもにはそれ以上のことを求めないよ。」

島を出たときの記憶のことを初めて私に語った母は、最後にそうつぶやきました。


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 島の夜を逃げた日の記憶を母から聞いたとき、癒しの観光地として名高い風光明媚な郷里に「交通費が高いから」と言って母がほとんど里帰りをしたことがない本当の理由を知った気がしました。そして、自分たちの家族の歴史になんとなくぽっかり暗い穴が空いている理由を悟りました。本来はまっすぐ伸びていくはずの根が歪んでその穴に入り込んでしまったかのように、今も私たち家族の関係は色んな方向へ捻じれています。

 しかし同時に、母が暴力から必死で逃げていた日々の記憶を聞いた日は、暴力の被害者としての女性たちの記憶のかけらが自分の家族の歴史に含まれていることに気づいた日でもありました。

 それは私にとって非常に大切な記憶でした。



 不思議だと思ったのは、暴力を受けたときの言葉が、とても静かに語られたことです。それは限られた特別なある瞬間の中でしか語られることがない言葉でした。そして、その言葉を聞くことができる心をたまたまその瞬間に持っていた人がいることで、初めて声になるものでした。

 母の声を聞いたあと、「もし自分の家族の痛みの語りについて記すことができたとしたら、読む人には、語りが生まれる瞬間の背景を想像してほしい」と思っていました。「自分たちが今持っている幸せがどこから生まれて、どこへ流れていくのか、ほんの少しだけ考えてほしい」とも。

 そういう望みに自分自身が縛られすぎて書くことができなくなってしまっていたとき、上間陽子さんの『裸足で逃げる』を読みました。

 読み終えたとき、たくさんの涙がこぼれてきました。翌朝になって肩の重さが少し軽くなった頃に、何かが書けそうな気がしました。そうして生まれたのが【記憶のかけらを見つける夜】と見出しをつけた最初の段落でした。




【星のかけらを探す夜】

 『裸足で逃げる』の中に、鈴乃さんという、脳性麻痺を持つお子さんを一人で育てている看護師の女性のエピソードがあります。恋人からのDV被害を警察に訴えるも、何度も警察署を追い返され、たくさんの苦労を重ねてようやく保護を受けることができた女性です。回復の過程で自分を支えてくれた看護師さんたちに憧れを抱いた鈴乃さんは、自分自身も看護師として働くという夢を見つけます。

 努力を重ね、夢を実現して看護師になったあと、鈴乃さんには恋人ができます。仕事のあとに恋人と夜の海に出かけ、波の音を聞きながら時間を過ごすときの鈴乃さんの言葉が、とても好きです。夜の風に撫でられながら大切な人と一緒にいる時間の中で、鈴乃さんは少しずつ星がわかるようになります。北斗七星、オリオン座。夜の星を見ながら二人は空の方角を考え、正しい方角をお互いに確かめ合うように言葉を交わします。


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 ときどき、DVや性暴力の被害者は笑うことができないと本気で思っている人がいます。日常の中で親しい人と他愛もない話をしたり、小さな幸せを見つけて嬉しくなったりすることもできない、と。暴力を生き延びた被害者が楽しそうに笑っている様子を見て驚く人は、その女性が苦しみを抱えた人間であることさえ、ときに疑おうとします。

 けれど、苦しみを抱えたままの女性が笑顔になれることも、笑顔を見せる女性が苦しみを抱えていることも、どちらも真実であることがあります。自分たちが笑顔になることのできる場所を必死の思いで作り上げているからです。生き延びた今日という日を明日ももう一度生きていくために。暴力によって砕け散ってしまったひとつひとつの記憶をつないで、途切れてしまった自分自身の人生の道をもう一度描いていくために。


 星の光のかけらをつないで特別なかたちを夜の空に描くように、バラバラに見えていた記憶のかけらを繋ぎ合わせていけばいつか、ずっとわからなかった大切なことがわかるようになるのだと思います。



【光の夜に】

 そんな風に願う果てしない日々の中で忘れないでいたいと思うのは、島が、経済的にも政治的にも社会の中で弱い立場にあることです。その中で生きている人間たちが、より弱い立場の女性や子どもに色々な歪みを押しつけます。弱い立場の人々のなかでもより脆弱な状況にある女性たちは、暴力の加害者ではなく、被害者である自分自身の存在理由を否定したり貶めたりすることで、社会の中に自分の居場所を見つけようとします。理不尽な社会の中で生きていくために。


 冒頭で触れた祖母は物忘れが始まってから、先に亡くなった夫のことを聖人のように言うようになったそうです。暴力の被害から救われることのなかった祖母の心は、加害者を責めるのではなく、被害者である自分の痛みを忘れる方向に働きました。祖母にとってはそれが幸せだったのかもしれません。けれど、祖母の言葉を聞いたときの母の気持ちを想像し、私の心にもザラザラした砂のような辛さが残りました。

 祖母が暴力を受けていた時代に、祖母の言葉にじっと耳を傾けてくれる人がいたら、何かが変わっていたのだろうか。そんな虚しさが私の胸をよぎりました。祖母の痛みを見つめ、「暴力から逃げてもいい」と気づくきっかけを与えてくれる人がいたら。

 結局は何も変わらなかったのかもしれませんが、今の私はなぜか、自分がどれくらい若い頃の祖母に似ているのかをふと考えることがあります。祖母はおいしい餡子を炊くのが得意だったそうです。甘いお砂糖を惜しみなくたっぷり使って炊き上げた小豆はとてもおいしかったと。私の炊いたあんを「やさしい味だね」と喜んだ母が、つい最近教えてくれたことです。



 『裸足で逃げる』を読んでいると、女性たちの髪のサラサラ揺れる音や、丁寧に手入れされた掌の柔らかさや、軽やかなおしゃべりのリズムが感じられるような気がします。それはこの本に出てくる女性たちにかつての友人たちの姿を重ねて見ることができるという、著者の上間さんの力なのかもしれません。

 上間さんの文章は、自分の望む方向に生きることを否定され続けてきた女性たちに向かって手を伸ばし続けようとします。闇しかないように見える暗く長い夜の記憶を綴り続けながら、どこか一筋の光をたたえています。

 その光は多分、朝まで消えることのない夜の街のネオンサインではありません。女性たち自身が放つ光の反射です。彼女たちの中に決して消えない命の輝きがあることを信じている人の目が、そのきれいな光をとらえるのだと思います。

 たとえば著書の中に翼さんという、配偶者から凄惨な暴力を受けたサバイバーの女性が出てくるのですが、翼さんがインタビューのために上間さんたちのもとに現れた最初の瞬間から、親友である美羽さんが翼さんのために誓った言葉が出てくるエピソードの最後まで、章全体がきらきら輝いているような印象を受けます。そしてどの章に出てくる女性たちも、それぞれの生き方を模索して前に進もうとしています。

 だから私は『裸足で逃げる』を、「性産業に搾取され、男性からの暴力に苦しむ女性たちの実態を取り上げた本」としてだけではなく、「暴力から必死で生き延びた先の未来の中で女性たちが幸せをどうやって作っている/作ろうとしているか」についての本として読みました。

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 『裸足で逃げる』に記された女性たちの言葉には、身体のなかで凍りついていた昏い記憶の結晶を溶かすことができる力があります。私の場合は、溶けた心を使って母の記憶を書きました。母の記憶を書くことで、その声を聞いた日の自分の痛みのことを書きました。書くことで、歪んでしまった家族の関係から自分自身を解き放つこともできる気がしたからです。


 今日も、叫びよりもずっと静かに、嗚咽よりももっと深い諦めの中で、生きられる場所を探している女性たちがいます。

 彼女たちの涙が見えないとき、耳を澄まして感じられる何かがあるとしたら、それは多分、記憶のかけらが心の底で光る音なのかもしれません。


 3月8日は国際女性デー。3月8日から11日前後にかけて全国各地でフラワーデモ(性暴力に抗議し、性暴力のない社会を目指すデモ)が開かれます。

 春の花が次々と咲いていくこの弥生月の頃、色々な事情があってデモに関わることができない人の心にも、デモに行くことができない人の心にも、報道から届く女性たち/連帯する人たちの声が花開いて、小さな種が残ることを願っています。


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※このnoteでは家族にまつわるDVの記憶を主に取り上げたため、『裸足で逃げる』の重要なテーマである性産業・性暴力の問題を深く取り上げることができませんでした。欧米の映画ですがいつか『ROOM』の感想を通じて同じテーマを掘り下げることができたら、と思います。

 上間さんの最新のエッセイ集(『海をあげる』)も取り寄せ中なので、また言葉が溜まった頃に感想をあげたいです。


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