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A' 【24】

 その日朝食を摂ってすぐに、祐介は三島亜紀の通帳探しを始めた。高柳七海に電話をかける予定があるが、常識的に考えて午前八時は早すぎると思った。
 昨晩、悪夢にうなされていたマイカは気分が悪いらしく、食事を拒否して自室に引きこもっている。そんな彼女に手伝って欲しいとは言えなかったが、家の中で探し物をする許可はちゃんと得てある。
 三島亜紀に代わって生活費もろもろの収入を得ているマイカが、小町に依頼された日用品の購入代金と水道光熱費や携帯電話使用料、家賃の引き落とし、更には自分の給料の振り込み先である口座について、一切の管理をしていないという。それを聞いた時、呆気にとられるあまり真っ先には思いつかなかったが、何日かここで過ごすうち、この家の一ヶ月間の総支出額を知りたいと思うようになった。
 なぜなら、祐介の見る限りこのマンションは相当に――少なくとも祐介が借りているワンルームのアパートよりは遥かに――家賃の高い物件だからだ。直接本人には言っていないが、マイカがそこまでの高給取りとは思えない。「彼女ら」は4人だが働いているのがマイカだけなら、独身の一人暮らしと同じである。こういったマンションに住まうのは、いわゆるキャリア・ウーマンと呼ばれる、長い会社勤めでそれなりの地位を得た大人の女性であるのが、祐介のイメージだ。
 マイカに確認したところ、やはりクレジットカードや口座の名義は『三島亜紀』である。それならほぼ間違いなく、この部屋のどこかにしまってあるはずだ。
 まず初めに小町の部屋を探したが、例によって押し入れ以外に探すあてなど無く、五分足らずのうちにリビングへ逆戻りした。
 リビングには探すべき場所がいくつかある。まず目についたのはテレビ台だったがそこにテレビ本体は無く、一般的にDVDプレイヤーなどを納める収納部分には、台を買った当初に付属していたと思われる説明書類が置いてあるだけだった。そもそも、通帳や契約書類がこんな所にただ置いてあるとしたらあまりに不用心だが、念の為に中身を全て確認した。予想通りそこには無く、苦笑いをしながらテレビが無くて不便ではないのだろうかと考えた。だが小町はテレビなんか観そうもないし、マイカは自室に揃えているから特に不便も無いのだろう。納得した時、祐介の頭の中に三島亜紀という女性はいなかった。
 別の場所に手をつけながら、時折時計に目をやる。まるで時間に追われるコソ泥みたいだと思った。だとしたらこんな家は見かけ倒しである。盗めそうな物など何も無いのだ。物を収納してありそうな場所が少な過ぎる。
「そんな所には無いわよ……」
 キッチンの食器棚やシンク上下の扉まで開けて確認していると、背後から溜め息まじりの声がした。壁にもたれたマイカは寝間着姿で、そのやけに布地の少ない上下に祐介は目を泳がせた。寝間着というよりは下着である。「念の為です」と小さく言い、視線を戻した。
 ようやくキッチンから出た頃、窓の外では既にアブラゼミが羽音を立て、高くなった日差しが眩しかった。
「……」
 逆光を浴び、マイカがそこにいた。ダイニングテーブルに小さな尻を乗せ、気怠そうな目付きで祐介を見ている。言葉を交わさず、祐介はリビングを横切った。だがリビングを抜け切る前に腕を掴まれる。
 振り返り、目が合った。腕を引かれる。彼女は見つめ合ったまま後退する。元いたダイニングテーブルへ導かれ、更に強く引き寄せられた。彼女の肘がテーブルに着く。仰向けになった彼女に圧し掛かるような恰好に持ち込まれた。彼女の指先が滑るように動き、頬に触れる。首を引き寄せられ、顔と顔がもっと近付いた。化粧を落としたままのまっさらな顔は、何度見ても恋人に似ている。腕の中で小さく吐息する同じ唇の面影が過った。彼女の手の平に誘われて、そこへ口づけそうになった。だが。
「冗談が過ぎますよ」
 穏やかに告げたつもりだったが、マイカは気を悪くしたようだった。突き飛ばす勢いで腕を突っぱね返し、テーブルを降りて顔を背けた。祐介もまた、それ以上の言葉は掛けずにリビングを抜け出した。
 廊下の壁にある収納スペースを確認したが、中にはトイレットペーパーの予備と掃除用具があるだけだった。溢れ出しそうな溜息を呑み込んで、祐介は気を引き締め直した。まだ目の前をチラついて見えるマイカの誘惑を振り切るためでもあった。
 立ち上がり、収納扉を背にして振り返る。
 太陽光が差す廊下の中に、あんぐりと口を開いた不気味な闇があった。ここへ来た日に案内され、ほんの数秒間覗いて以来、祐介はこの個室を極力意識しないように過ごしてきた。だが、避けては通れない。
 昼も夜も無い、時間の流れさえ拒絶しているような、三島亜紀の寝室である。
「……よし」
 自分の頬を両手で叩き、そこに一歩を踏み入れた。遮光カーテンが引かれた室内は、季節さえも遮断していた。鳥肌が沸き上がる。外界と切り離された異空間の中、手探りで照明のスイッチを押した。一気に明るくなった室内に安堵するも束の間、更なる不気味に再会する。
 カーペットが敷かれた床にずらりと、大量の招き猫が並べてある。それを知っていたからこそ避けてきたのだが、改めて気味が悪い。招き猫の他に達磨やフクロウの置物も混じっていた。本来なら縁起物であるはずなのに、不吉なものにさえ見える。すべてが一様に部屋の中心を向いていて、それらに取り囲まれたベッドはまるで、恐ろしい儀式の生贄を供えるためにあるかに見えた。
 それ以外には、小町の和室と同様に家具は一切置かれておらず、壁面に備え付けの扉が並んでいるだけだった。祐介はゆっくりとその扉に近寄る。取っ手を掴み、蛇腹式の扉を左右に開くが、中はほぼ空だった。思わず安堵の息が漏れる。
 三島亜紀がもし高給取りのキャリア・ウーマンだったなら、この中にはずらりと華やかな洋服が収納されていただろう。だがそこには何も掛けられていないハンガーが数個、侘しく揺れているだけだった。
「亜紀は服なんか持ってないわよ」
 いつの間にそこにいたのか、再び背後でマイカが言葉を放ってきた。驚きの声が喉元で詰まる。祐介は咳払いをし、敢えてマイカに視線を向けずに次の作業へ移行した。彼女の声の調子で分かるのだった。マイカは自分を誘っている。理由は分からないでもないから厄介だ。男女が二人きり、一つ屋根の下で衣食住を共にしている。ただそれだけである種の感情が燻るのは不思議なことではない。ついさっき包まれた性的な空気を、祐介は拭い切れてはいなかった。恋人と同じ顔をした別人にもう一度あんなふうに迫られたら、絶対に流されないという自信がない。
「あの子が着るものは、小町の服だもの」
 マイカの声が近付く。「へえ」と適当な相槌だけを返し、床に並んだ招き猫に手を伸ばした。持ち上げてみると思いの外、軽い。よく見ればそれは貯金箱だった。底の部分には黒いゴム製の蓋があり、バーコードのシールが剥がされないまま残っていた。誰もが知る百円均一ショップの名称が書いてある。ごく身近なアイテムだと分かると、途端に不気味さが薄れた。そうとなれば次々に貯金箱を手に取り、軽く振って中身を確かめる。そうしながら、この部屋でやるべき作業が見つかったことにほっとしていた。これらを一つ一つ確認する間、マイカと視線を合わせずにいられる。
「小町はね、何でも百均で買うの」
「ふうん」
「サングラスも、下着もね」
「はは……」
「でも、アンタが脱がせたのは違ったはずよ」
「……」
「あたしが買ってあげたの」
「……へえ」
「ちゃんと洗濯してあるわ」
 次第に苛立ってきた。わざと遠回しな言い方をする彼女が今に「あの時の下着をつけてあげようか」などと言い出すのではないかと思い始めた。そんな行為は祐介自身と、小町に対する侮辱だと思った。だがここで関係を悪いものにするのは賢明ではない。苛立ちを抑え込み、ひたすら貯金箱の確認作業に没頭した。途中、貯金箱の中になど通帳があるわけないと気が付いたが、そのまま続けた。
「祐介」
 ふいに名前を呼ばれた瞬間、胸が高鳴るのを感じた。マイカに名前を呼ばれるのは初めてだと気が付く。喋り方や抑揚の癖は違うとしても、今「祐介」と呼んだ声はまるで、小町のそれに思えた。振り返れば、そこにコマちゃんがいるのではないかと錯覚しかけ、頭を振った。
 その時、手の中の招き猫がカチャリと小さな音を立てた。
「ねえ、祐介」
 背後で甘えた声を出すマイカを無視し、貯金箱を耳元で振った。
「お願いがあるの」
 強く揺らせばカチャカチャと確かな音が鳴り、マイカの言葉を掻き消した。
「ねえ、こっち見てよ」
 マイカが泣きそうな声を出している。だが祐介は貯金箱のゴム蓋に爪を立てた。意外に硬い。今度は逆に押し込んでみる。
「ねえ!」
 マイカが声を荒げたのと同時、蓋がすぽんと穴に落ち、かわりに内容物が転がり出た。祐介はそれを手に取り、しばし見つめた。これでまたマイカの誘惑から抜け出せる。そう思いながら、ゆっくりと振り返った。


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