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A' 【25】

 小町の恋人なんかに頼み事をするなんて何だか悔しい気がしたけれど、それでもマイカは祐介にお願いがあった。けれど祐介は小町のための物探しに夢中で、ちっともマイカを見ようとしなかった。それなら、いっそ催眠にかけてやろうかとも思った。小さなお願いを叶えてもらうより、よっぽど大きな達成感や満足が得られるかもしれない。けれど、遂に振り向いた祐介が手にしていた物により、集中力は途切れてしまった。
「マイカさん、これに見覚えは?」
 そう言った祐介の片手には一つの招き猫があった。そしてもう一方の手の平に、小さな鍵が乗っている。アンティーク調でロマンティックなデザインのそれを、マイカは凝視した。全体に黒ずみ、一見して古いものだと分かる。だが本当のアンティークではない。レプリカと呼ぶにも及ばない。これは玩具の鍵だ。マイカはそれを誰よりも知っている。
「これ……どこに……?」
「この中に」
 そう言って祐介は、手にした招き猫を傾ける。貯金箱のゴム栓が抜け、ぽっかりと穴が開いていた。
 マイカは祐介を見上げた。催眠にかける計画はすでに消え去り、代わりに忘れたい恐怖や不安が再び、じわりと視界に滲んだ気がした。脚がよろめき、後退した。名前を呼ばれた。だが背を向け一気に走った。走るほどの距離ではないはずだが、まるでそこらじゅうを駆け回っている気分だった。足を滑らせながら飛び込んだ自分の部屋で、次は視線を走らせる。慣れ親しんだその場所も、まるで他人の玩具箱のように感じた。どうしてここにはこんなに物が溢れているのか。だから鍵を失くした―――失くしてしまったと思い込んだのだ、本当は隠されていたのに!
 クッションの陰に、それはあった。飛び付く勢いでマイカは少女時代の日記帳を掴み取り、呆然としている祐介の手から鍵を奪った。ハート型の南京錠に差し込めば、かちりと鳴って開錠される。震える手で、マイカは表紙をめくった。
『あたしの居場所はここ! I WISH』
 懐かしいその文字を祐介の影が覆った。一度彼の目を見上げ小さく頷いてから、マイカはページをめくった。「えっ」と、祐介が声を漏らす。
 それは、分厚い本の形をした小物入れである。初々しい少女だったマイカは秘密の日記帳をそこにしまっていたのだ。その思い出に守られるようにして、三島亜紀の通帳が眠っていた。
 目線で促し、それを祐介の手に取らせた。すると通帳の間から何かが滑り落ちてきた。キャッシュカードと、二つ折りの小さな紙切れだ。暗証番号らしき四桁の数字が書かれてある。小町の字だ。
 通帳は地方銀行の口座のものが一冊のみで、表紙には傷みが無く、真新しい印象である。緊張した面持ちでページをめくった祐介が、すぐに眉をしかめた。マイカも覗き込む。するとそこには、見開きの半分に収まる程度の記帳があった。日付は五月二十七日から始まり、六月十五日で終わっている。
 最初の一行には「合算」の文字があり、預金残高が印字されてある。その額はおよそ三七万円だった。次の行にはクレジットカード会社の名前があり、五月二十七日付の引き落とし金額は十八万円弱である。その金額が祐介にはショッキングだったのだろうか。だがマイカ一人で使った額ではない。生活費は全て一枚のカードを経由して支払っているのだ。それは祐介にも説明したはずだ。とは言えこの月はどうしても欲しい服があり、いつもより高い買い物をしたのは確かだった。だがマイカはそれを言わず、敢えて平然とした態度で再び通帳に目をやった。
 同じ五月二十七日の取引は他に二件あった。そのうち一つは、頭に「(有)」の文字が付く見慣れない社名の相手により、十八万円の引き落としがされていた。もう一つは半角カタカナで読みづらく、『シユウゼンツミタテ』と書いてある。引き落とし金額は六千円だ。
「しゆう、ぜんつ、みたて? なに、これ?」
「修繕積立、だと思います。俺はアパート住まいなんで詳しくは分かんないけど、アパートにも『管理費』って言って、家賃とは別に支払うお金があるんで、これもマンションの何かで間違いないと思います」
「ふうん……」
 特に気にはならなかった。そういうものもあるだろう。マイカは一行上を指さした。
「こっちの、十八万って、何よ」
「家賃か、ローンでしょうね。この部屋の」
「そんなにするの?」
「するでしょうね」
「そんな……。だって、あたしのお給料じゃ、足りないじゃない」
 そう言って身を乗り出し、次の行を指す。
 六月十五日、「ラッキーメイト」から約二万円の振り込みがある。それはマイカが掛け持ちで登録しているスマホ専用のコミュニティサイトだ。片手間での仕事なので、ここからの収入は毎月この程度である。だが祐介が妙な顔つきになったのを見て、マイカは慌てた。
「ちょっと待ってて!」
 すぐにノートパソコンの電源を入れ、マウスを滑らせる。簡単にアクセスできるように設定してあるライブチャットのサイトを開いた。ピンク色を基調としたデザインのトップページが表示され、マイカと同じチャットレディと呼ばれる女たちの写真がずらりと並ぶ。その画面の右上にある「女性ログイン」の文字をクリックすると、IDとパスワードを求める画面に切り替わる。すぐ傍で祐介が見ているが気にしている場合ではなかった。手早くログインを済ませ、今度は専用ページ内の「報酬履歴」をクリックする。次の画面に表示された数か月分の収入一覧を、パソコンを傾け祐介に見せた。
「六月二十五日……十五万、六二〇〇円。入金済み」
 画面を覗き込んだ祐介が読み上げ、マイカは項垂れる。自分の収入が、記帳されていた二万円程度のあれっぽっちではないのだと、祐介に示すことは出来た。だが、それが何になるというのだろう。
「七月は、十六万と三五〇円ですね」
 マイカは俯いたまま頷いた。二つのサイトから得た収入を合わせても、二十万円足らずなのだ。それでいいのだと、マイカは今まで思っていた。もっと稼げないこともないが、マインド・コントロールを使ってさらりと適度な額を稼いだなら、あとは自分の部屋でアイスを食べたり映画を観たり、着飾って写真を撮ったりすることの方が大切だった。この世に存在できる限られた時間の中で、それを有意義としてきた。ちゃんと自分で稼いだ金で遊ぶことを。それなのに。
「あたしのお給料じゃ、ここの家賃も払えないってこと?」
「だけど、今まで何の問題もなかったわけですよね?」
 マイカはただ、祐介を見上げた。うん、と頷くにはまだ早いと感じた。代わりに祐介が一つ頷き、宥めるようにマイカの肩に手を置いた。
「マイカさん、落ち着いて下さいね。ネットでもう一つ、調べて欲しいことがあります」
 見つめ合った視界が歪み、やがて涙がこぼれ落ちた。もう一度励ますように名前を呼ばれ、マイカはパソコンに向き直る。キーボードに乗せた指が震えた。まるでパソコン初心者のようにゆっくりとキーを押す。検索サイトを開き「クレジットカード 未払い」などのキーワードを入力したところで、祐介に止められる。
「何をやってるんですか?」
「だ、だって……今まで使ったお金、きっとすごい金額になってるわ」
 そう言うと、少しの間を置いて祐介が笑い出した。
「大丈夫ですよ。だって、ちゃんと引き落としの記帳がされてるじゃないですか。それに、ほら」
 祐介が指さしたのは、記帳ページの一行目だった。そこには『合算』として、三十七万円ほどの残高が印字されている。マイカは「あっ」と声を出した。
「調べて欲しいのは、こっちです。この口座の、未記帳分。どこからか、結構な額のお金が入ってきている可能性があります」
 ごくり、と喉が鳴った。

 インターネットバンキング、というものがある。各金融機関のホームページから自分の口座を登録することで、わざわざATMへ出向かなくてもパソコンやスマホから送金、預金の残高や入出金などを照会できるサービスである。三島亜紀の預金口座について一切の管理を行っていなかったマイカは、当然ネットバンキングへも未登録だった。だが、ネットとパソコンに慣れた者にとって、特に難しい操作はなかった。
 個人情報の類を入力する際、祐介はいちいちパソコンに背を向けていた。今更そこまで律儀にすることもないだろうとマイカは思った。それに、何か悪さをするような男ではないと分かっている。それでもマイカは、そんな祐介の真面目な行動に口出しはしなかった。
「できた!」
 時間にして約三十分で、三島亜紀の口座はインターネットバンキングへ登録された。
「ええと……」
「未記帳分の照会。そう、それです」
 祐介に促され、マイカは「えい」とクリックした。別画面が現れ、そこに六月十五日以降の取引が一覧表示された。
「六月二十五日、株式会社キャストイン、十五万六千二百円。これはさっきのサイトからの入金ですね?」
「そうね」
「この、『ヒロオカナツキ』っていうのは?」
「えっ?」
 画面の前で、互いの髪が触れ合った時である。聴き慣れない着信音が鳴り響いた。同時に振り返る。ピンク色のラグカーペットの上で振動しているのはマイカのものでも、祐介のものでもない。三島亜紀のスマホである。画面に表示されている発信者の名前は、高柳七海であった。
 マイカはただ戸惑った。無機質な振動と電子音を響かせながら存在を示すその四文字は、祐介とのアジトと化しているこの家に突然現れた不気味な侵入者に思えた。無視していればそのうち切るだろう……マイカはパソコンに向き直ろうとした。だが、祐介が言う。電話に出て下さい、と。
「イヤよ!」
「大丈夫ですって、あなたは『三島亜紀さん』でもあるんですから」
「……」
 確かに、事情を知らない赤の他人の目にはマイカも小町も、男であるカイさえも、三島亜紀という一人の人間として映るのだろう。だからこそ個人情報を操り、銀行口座の取引を調べても、何の罪にも問われない。分かってはいても、その事実を祐介の口から聞きたくはなかった。マイカは口を噤むことで反抗した。気を悪くしたことに気付いて、謝って欲しかった。電話は鳴り止まない。祐介が急かす。視線を反らすと、急に両肩を掴まれた。
 思わず向き直ると、すぐそこに祐介の真剣なまなざしがあった。その眼球に小さく映るのは、マイカの理想とは違う三島亜紀の姿をした自分だった。
 ふいに、その眼を突き破って中を確かめたくなった。もちろん実際にそんなことはしない。だが、彼の瞳の奥では、どんな姿で自分が存在しているのか確認したいのだった。
「祐介」
「マイカさん」
 同時に名前を呼び合った。マイカは発言権を譲る。自分の名前を呼ばれただけで、少し心が落ち着いたからだった。その次に向けられる言葉に、何らかの期待を抱いたかもしれない。例えば、突拍子もなくこんな時に、愛の告白が欲しかった。
 だが祐介は言うのだった。
「コマちゃんのふりを、して下さい」
 電話は鳴り止まない。マイカは一度目を閉じて、細く息を吐いた。そうして密かに心の一部を吐き出してから、三島亜紀のスマホを手に取った。


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