見出し画像

A' 【23】

 マイカは夢を見ていた。これまで一度も「夢を見た」という実感を得たことのないマイカだが、今夜はそれが夢であると自覚することができた。その理由は二つある。
 一つは、目の前にいるカイが「ここは夢の世界だよ」と優しく微笑み言ったからだ。もう一つは、天使のような笑顔を見せた彼の手が血に濡れ、残虐な行為に及んでいたからである。彼がこんなことをするわけがない。そうか、これは夢なんだ。あたし今、悪夢の中にいるんだわ。必死で自分に言い聞かせた。
「マイカの時は、もっと優しくしてあげるからね」
 そう言ってカイはまた、亜紀の体の一部をもぎ取った。まるで破けたジーンズを力任せに引き裂くように、素手で人体を解体してゆく。すでにぐったりとして抵抗しない亜紀はそれでも、人間ではないような声を上げた。その様子、血の匂いに吐き気が込み上げる。だがカイは言うのだった。「よく見てごらん」と。
 カチカチと鳴り止まない上下の歯を震える両手で隠しながら、涙で歪んだ視界に亜紀を映した。するとそこには奇妙な光景があった。すでに現実離れしたおぞましいものを目にしていたのだが、ここでマイカが見たものは、奇妙の中から圧倒的な恐怖を引いた「不思議」というものだった。
 亜紀の身体は、所々が透明だった。片足や腕、指先、そして先ほどカイに取られた耳もまさに今、透明な物質で復元している最中である。不思議な光景を見つめるうちに顎の震えは治まり、マイカはまじまじと夢の世界を観察した。
 亜紀の身体はどこも血を流してはいなかった。けれどカイの手には間違いなく生々しい耳が一つあり、そこからは鮮血がしたたり落ちている。その血液は、足元に広がる雲の上に落ちる直前、進行方向を変えていた。まるで大量の血を吸った包帯が風になびいているかに見える。その行く先を目で追うと、そこには一人の女が拘束されていた。
 あれは、誰だろう? 
 林檎の木に、赤い紐状のもので女の両腕は吊し上げられていた。ぐったりと項垂れた顔は薄茶色の髪の毛で覆われ、表情を知ることはできない。腕だけでなく、彼女の全身は四方八方から赤い糸に絡め取られ、むしろ彼女が巨大な蜘蛛の巣の主のようにも見える。
 マイカは歩み寄った。この女を、知っているような気がする。
 女の衣類は乱れていたが、上等なものに見えた。白いブラウスの襟元には繊細なレースがあしらわれ、コルセットの焦げ茶色には深みがある。革でできているのではないかと思った。破けてしまってはいるが、スカートの生地の細やかな縦縞模様は高級なチョコレートを思わせた。布の裂け目から見える、紅茶染めのような褪せた色はパニエというものだ。マイカも一枚持っているが、もっと丈が短くて色が派手だ。透けるほどの薄い生地でできたそれを履いて下着をチラつかせてやれば、インターネット越しの男どもは大喜びで金を落とした。だが本来はこうして、スカートを内側から膨らませる目的のものだということは知っている。
 この子はお人形だ、と思った。上品で値の張る骨董人形だ。気高い人形はパニエの下にもう一枚、身に着けていた。マイカなら進んで見せようとさえする下着を、徹底的に隠すというのだろう。
 それは淡いすみれ色のドロワーズだった。かぼちゃパンツ、とカイがいつか茶化していたのを思い出す。確か、この中にはニーハイソックスを履いているはずだ。だけど、めくって見てはいけない気がする。いくら女同士でもスカートの中身だし、それに、確信するのが怖いのだ。
「あんた……」
 それでも、呼ばずにいられなかった。
「小町……?」
 女は反応を示さない。やはり別人なのだろうか。いくら夢でも、あの真っ黒な小町がこんな姿になるなんて、有り得ないことなのか。あるいは本当に、これは人形なのかもしれない。だが胸騒ぎは増してゆく。その感覚には覚えがある。闇の中で小町が変化を遂げてゆくのを目の当たりにした、あの日だ。そして小町はさらわれた。光に呑まれ、連れ去られた。一体どこへ? ひょっとして、夢の中へ?
「大正解」
「ヒィッ!」
 突如声を掛けられ、マイカは震え上がった。恐る恐る振り返るとカイが微笑んでいた。彼の笑顔はすでに恐怖の対象だ。
「それは小町だよ。死んでないから、安心して」
 どうやら心の中を読まれたわけではないことに、マイカはかろうじて安堵した。だが、彼ははっきりと言った。これは小町だと。
「小町に、何を……」
「何か気が付かない? 参ったなあ、マイカは意外と賢い子だと思ってたんだけど」
 震える声を掻き消すような勢いでカイはそう言い返し、手に持った亜紀の耳を揺らして見せた。這うように漂う血液を見て、マイカはハッと小町へと顔を向け直した。血の帯は、小町の下腹部へと向かってゆく。そして遂にその先端が触れると、それまで息もしていないように見えた小町がびくりと体を震わせた。
「小町!」
 マイカは思わず叫んだ。苦しそうな様子の小町に触れようとして、カイに呼び止められる。危ないよ、と彼は言う。
「触ったら、マイカも融合しちゃうよ」
 それはまるで呪文だった。
 臍の緒を連想させる血の帯が、どんどん小町に潜り込んでゆく。そしてマイカは見た。小町の色が少しずつ淡くなってゆくのを。取り込んでいるのは小町の方なのに、まるで養分を吸い尽す生き物に捕らわれた餌食のようだ。
「やれやれ、小町には手こずったよ。何せ真っ黒なんだもんね」
 ため息交じりにそう言いながら、カイは手にした耳を小町に近付ける。
「やめて!」
 はじかれたようにマイカはカイに掴み掛った。カイの不思議そうな顔を見て、自分でもなぜそうしたのか分からなくなる。小町が邪魔だったはずだ。亜紀の肉体を、独り占めしたかったはずだ。カイと手を組んでこっそりと、小町を弾劾しようと目論んでいたはずなのに、どうして彼を止めるのか。
「どうして? どうしてダーリンが、そんなことを」
「どうして僕にこんなことが出来るのかって?」
 同時に発せられた二つの声は、カイの優勢だった。
「僕が、主人格だからさ」
 マイカは再び動きを止められた。夢の世界の「不思議」がそうさせるのではない。むしろこれは夢であって夢ではないのだと、実感し始めていた。
 手が、するりとカイの肌を滑り落ちる。カイはたき火に小枝を放り込むほど簡単に、亜紀の耳を小町に投げた。小町がもがき、マイカはその場に崩れ落ちた。カイは遠ざかり、距離を置いた場所から彼はのらりくらりと話し始めた。
「闇の世界っていうのは、そもそも僕が作ったものなんだ」
 そう言いながら、あくびをした。
「ちょっと隠れてようと思っただけなんだけど、意外とコイツがでしゃばってきてさ」
 コイツ、というのは亜紀のことだろう。
「どうにかしてコイツを闇に葬ろうとしたんだよ。でも、そこでまた予想外の展開」
 教室で語らう学生のような口調だった。
「まさかコイツが、生意気にも自分の別人格を生み出すなんてね」
 つまり、僕は小町に追い払われるオバケってわけ――。カイはそう言い、大きなあくびをした。これでタネ明かしは終わりだろうか。マイカは足元の雲を見つめ、そんなことを考えた。成す術もなく自分はこのまま、小町のように消されるだけなのか。
 透明な存在になるのだろうか。
「理解したみたいだね。マイカは素直だ。小町とはえらい違いだよ。アイツは強情で可愛くない。だって一言も喋らないんだぜ。けど、亜紀みたいにギャアギャア騒がれてもやかましいだけかな。それにしても、ちょっとくらい声出したって罰は当たらないのにね。あれだけ凌辱してやったっていうのに……ああそうだ、アイツ男がいるんだろ? ええと……『ゆうすけ』だっけ?」
 マイカは走った。カイ目がけての突進だった。理由など考えない。そうせずにはいられなかった。まさに夢中だった。涙が流れていることにも気付かないままに、カイの首を両手で絞めた。げええ、とカイが舌を出して仰け反った。手の平に、骨の折れる感触があった。そのおぞましさに震えたが力を弱めはしなかった。やがてカイの動きが止まり、砂袋のように首が倒れる。やった……。これで悪の主人格は消えた。
 だが、手を放した次の瞬間、カイは映画のゾンビのようにぐらりと起き上がる。唖然とするマイカの目の前で、折れたはずの首を左右に動かし、けろりとした顔つきをしてみせた。
「泣かせるね。女同士の友情なんて幻だと思ってたよ」
 腰が抜け尻餅をついた。かつて恋心さえ抱いたカイが、今は化け物にしか見えない。雲の上を後ずさるが、カイは追って来なかった。追われたとて、どこへ逃げられるのかも分からない。
 カイは面白そうにマイカを見下ろしていた。倒れた亜紀の背中を座布団代わりにし、あぐらをかいて笑っている。
 ふいに亜紀と目が合った。朦朧とした眼差しだった。きっと自我が薄れてしまったのだろう。それは恐らく小町も同じだ。それでも亜紀の目は、まだマイカを見つめている。残る意識で何かを訴えかけているように見えた。
 亜紀はずっと、ここにいたに違いない。目覚めなかった間、この夢の世界でカイと過ごしてきたのだろう。
 それなら一体、彼女は何を知っている?
 両手の拳を握り締め、まとわりつく恐怖と戦う覚悟を決めた。勝てなくとも、爪痕を残したい。何かあるはずだ。往生際が悪いと笑う相手の顔を少しでも歪ませるその手立てが。亜紀が伝えようとしているカイの秘密が。
 握り締めた手の中に、人の首を絞めた感触が残っている。カイの首を絞めた。カイの骨を折った。けれど無駄だった。だが、確かにマイカはカイに触れた。あんなにも強く。それがやけに引っかかるのだった。だが、理由が自分でも分からない。
 懸命に考えた。震える奥歯を噛み締め、爪が食い込むほど拳を握り、混乱する思考を必死で宥めた。分かるはずだ。落ち着いて、落ち着いて!
『マイカさん』
 心に舞い込んだ祐介の声音に、心臓がどくんと鳴った。
 考え事が苦手なマイカでも、祐介と一緒なら導き出せる答えがいくつもあった。彼がここにいたならどう言うだろう。
 ――あたしは、小町に触ると融合してしまうんだって……。
『コマちゃんと三島さんも、触れ合えば融合してしまうんですね』
 ――だけど、彼は……カイは、
『マイカさん、コマちゃん、三島さんの誰とも、融合しない』
 想像の中の祐介がそう言った途端、身体の震えがぴたりと止んだ。幾重にも重なった混沌のヴェールは、初めの一枚が朽ちて落ちた。
 そう、「僕が主人格だ」とカイは言った。だがそのあと「亜紀が自分の別人格を生んだ」とも言った。それはつまり、カイを主人格とする第二の人格、亜紀が彼女だけの別人格を――小町とマイカを生み出したということだ。だから小町とマイカは、カイとは融合しないと、カイはそう言いたいのだ。
 ――あたし達の主人格は、三島亜紀だから。
 主人格と別人格が触れ合うと、融合する?
 生唾を飲み下した。
 
 ではなぜ、カイは亜紀に触れても融合しない?
 
 心なしか亜紀は、さっきよりも穏やかな表情に見えた。マイカは瞬きだけで彼女に頷きかける。分かったわ、あんたとあたしは今、きっと同じことを考えている……。
 とくん、とくん、と胸が鳴る。混沌のヴェールを掻き分けて、真実が歩み寄ってくる足音であった。
「考え事、終わった?」
 マイカはイイ女だから、もう少し生かしてあげてもよかったんだけど……そう言いながらカイが近寄ってくる。彼は気付いていないのか、或いは、知っていながら隠しているのか。マイカは一か八かの賭けに出る。爪痕を残せるかもしれない。それが何の役に立つのかなんて、分からないけれど。
 目の前にしゃがみ込んだカイの瞳に、言葉の刃を突き付けた。
「あたし、知ってるのよ」
 カイの眉間に皺が寄る。疑問、焦り、苛立ち、怒り、彼の表情にあるのはどの感情だろう。いずれであっても結果は同じだとマイカは思った。消される――呼吸が震え出した。
 視線が逸らせない。最後の最後に、「会いたい」と思った。
「祐介……!」

「マイカさん!」
 そこで夢は途切れた。汗だくの身体をベッドに横たえた状態で、マイカは再び祐介のいる世界へ舞い戻った。
「勝手に入ってごめんなさい。トイレに行こうと思って、そしたら、マイカさんの部屋からうめき声が聞こえて」
 弁解する祐介の瞳の中に映る自分の姿が、夢の中で引き裂かれていた亜紀に見えた。それを揉み消すように、祐介の胸に顔を押し付ける。
「マ、マイカさん」
「黙って」
 マイカはしばらくそのまま泣いた。祐介の愛する小町はもう助からないだろう。亜紀も戻らない。それを確信して尚、ここに戻れたことを安堵してしまった。そんな自分をどう戒めればいいか分からず、ただ泣いた。
「怖い夢を見たんですね」
 祐介は、そう言った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?