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A' 【28】

「何回も同じこと言わせないで! 小町はもう消えたわ。死んじゃったのよ。だから、もう用はないでしょ? 帰って。サヨナラ」
 しつこく食い下がる祐介に彼の荷物を押し付けて、そのまま玄関までぐいぐいと追いやった。油性のマジックペンを買って来て欲しい、とお使いを頼んだのは十五分ほど前のことだった。思っていたよりずっと早く帰ってきたので、洗濯物を丁寧に畳んでやる余裕もなかった。もっとも、ここでの暮らしでマイカが洗濯物を畳むなんてことはこれまで一度もなかったのだが。
「納得できませんよ! ちゃんと説明してください!」
 彼の顔が見えないように、荷物はできるだけ高く持ち上げ、自分の顔は低くした。押し付けたものの奥から、くぐもった声で祐介は何度もマイカの名を呼ぶ。自分の耳も塞いでしまいたかったが、ここで両手を放したらきっと負けてしまうだろう。だから一刻も早く彼をここから追い出したかった。
「出てって!」
 最後、思い切り押し出してドアを閉めた。祐介は転んだだろう。けれどそのまま鍵をかけた。案の定、ノックとチャイムが連続で繰り出される。今度こそマイカは耳を塞いだ。そのまま自分の部屋へ飛び込んで、ベッドの上に顔面をうずめた。夏掛けを手繰り寄せ、もっと音を遮断する。やがてドアの外は静かになり、マイカはそっと顔を上げた。乱れた髪の毛に触れた時、手が震えていることに気が付いた。
「バカみたい!」
 勢いをつけて立ち上がり自室を出ると、すぐそこに小さなビニール袋が転がっていた。さっき祐介が買ってきた油性マジックペンだ。また震えそうになる手を一度ぎゅっと握り締め、マイカはそれを拾い上げる。
「バカ、バカ、バカみたい!」
 言いつけ通り、黒と赤の二色である。それらを開封し、マイカは浴室へと向かった。衣類を脱ぐ時、洗面台の鏡の中には素顔の自分がいた。なんて貧相な女だろう。祐介が転がり込んできて以来、ちっとも化粧をしなかった。
 ウィッグも着けなかったし、これではまるで三島亜紀だ。けれど心なしか顔色がいいし、以前より頬がふっくらとしている気がした。祐介が食事を作ってくれたからだ。毎日三食、祐介と一緒に食事を摂っていたからだ。だから、少し健康的になった姿をいつの間にか、三島亜紀だと認識しなくなったのかもしれない。素顔の自分だとしか、思わなかったのかもしれない。
「バ、カ、み、た、い!」
 マジックペンのキャップを外し、鏡に字を書いた。鏡として二度とまともに使えないほど大きく、くっきりと。そのままの勢いで浴室に入り、乾いた壁にも文字を書く。四面あるすべてに書いた。ペンを脱衣所に放り出しシャワーの栓をひねる。冷たい水はすぐに温まり、やがて浴室は湯気に満たされる。指で髪を梳きながら、ああ、浴室の鏡にも書けばよかった、と後悔した。
「あーあ! バカみたい!」
 大声で言うと、少し気分が晴れた。お気に入りのシャンプーやボディソープで香りを楽しむこともできた。鼻歌だって歌える。流行のポップスを途切れることなく歌いながらシャワーを終え、タオル一つで部屋へと戻った。オーディオの電源を入れると、ちょうどさっき歌っていた歌がスピーカーから流れ始めた。今度はそれに合わせて歌詞を口ずさみながら、とっておきのコスチュームに身を包む。化粧を施し、ウィッグを被ればそこには見慣れた自分がいた。見慣れているけれど、なんだか不自然に見えた。
「バカみたい……」
 流れる涙の理由がどこにいくつあるのか、数えることはしなかった。頬を拭い、ドレッサーの一番奥へ手を突っ込むと、とっておきのロゼワインを取り出す。以前、チャットでの稼ぎがとびきり良かった月に買ったものだった。届いてすぐに一杯だけ飲んだが思いの外酔ってしまい、そのまま栓を戻して隠しておいたのだ。亜紀に飲まれたり小町に捨てられては堪らないから、冷蔵庫には入れなかった。亜紀なんて酒の味など分からないくせに酔いたいからと飲みそうだし、小町ならきっと「ずっと入っているから、もう古いだろう」なんて判断して、シンクの中へドボドボと流してしまいそうだ。その想像があまりにもしっくりときたもので、マイカは思わず笑ってしまった。
 保存方法が正しいか間違っているか、それはマイカにも正直なところ分からなかったが、夏の割には瓶がひんやりしているように感じた。コルク栓を抜き一応香りを確かめたあと、瓶の口から直接飲んだ。酔いが回る前に一度瓶を置き、再びマジックペンを手に取った。そしてピンク色の壁紙に、できるだけ大きな文字を書く。この壁紙だって、随分悩んで決めたものだった。でも、これで台無しだ。マイカは次々と、壁じゅうに文字を書き込んだ。
「あーあ!」
 部屋の中ぐるりを落書きし終えたマイカは、座り込んで天井を仰いだ。あそこには無理そうだ。脚立でも無ければとても手が届かない。諦め、改めてワインを飲み始める。ごくごくと、映画に出てくる荒くれものの男のように、あるいは中毒に陥った女のように、瓶に口をつけてどんどん飲んだ。あっという間に半分を空けてしまう頃には既に世界が回って見えた。いい気分だった。投げやりで自堕落で、自分勝手な快楽だった。
「あ! そうだ!」
 思いつき、自分の左腕にも文字を書いた。視界がぐらつく。目を細めて何度もピントを合わせ、どうにか手首から肘へかけて書き終えた。バッチリである。ウン、と頷き残りのワインを一気に飲み干す。その直後、バタンと仰向けに倒れてしまった。それから先は一分もかからない。
 
「やあ、マイカ。早かったね」
 声を掛けられ目を開けると、そこは雲の上だった。あれだけワインを飲んだのに、頭痛どころか眩暈も酔いも感じなかった。やっぱり、あの体は自分のものなんかじゃないんだと再確認し、仰向けのまま苦笑した。あたしは、容器に入った内容物でしかないんだわ。
 顔を横に倒すと、リンゴの木の根元に一つの球体が転がっているのが見えた。透明で瑞々しく、羽化直前の魚卵のように、中で何かがうごめいている。
 人間を詰め込むには無理のあるサイズだった。ひょっとしたら、彼女らの身体はバラバラに壊れているのかもしれない。球体の中の亜紀と小町に表情は無く、ただ流動しているだけなのかもしれなかった。
「驚きだよ、勝手に丸まっちゃってさ。仲が良いんだね」
 背後のカイがそう言う通り、昨日マイカがここへ来た時には、彼女らはこんな姿ではなかった。亜紀の形をした透明な存在の胸元に、小町の顔が埋まっている状態だった。だが、二人がこうなったいきさつなど、どうでもよかった。絶望は昨日味わった。それより強い感情など生まれはしない。背を向けたまま、マイカはカイに語り掛けた。
「約束どおり、あの男は追い出して来たわ」
「ご苦労さん。で、どうする? マイカは可愛いから、特別にここで生かしてあげてもいいよ」
 囁き声は耳のすぐ傍だった。背を抱くカイの腕にそっと触れ、マイカは体を反転させる。見つめ合って数秒後、接近する唇に人差し指を当て、囁きを返した。
「うそつき」
 眉をひそめるカイに微笑み、もう一度繰り返す。
「ダーリンは、うそつきだから」
 腕の中をすり抜ける。カイが鼻で笑うのが聞こえた。
 うごめく球体を見つめ、まるで子宮のようだとぼんやり考えた。それなら、この亜紀と小町は双子だ。けれどこの母体には、一人しか宿すことができないはずだったのだ。だからこんなに窮屈そうにしているのだ。小町と亜紀が双子なら、マイカだって姉妹だ。双子でもはち切れそうなのに、三つ子なのだ。破裂してしまう。どうしよう、どうしよう? 答えは一つしかないのだった。
「じゃあ本当に、融合するんだね? マイカ」
 いっそ、生まれる前の状態に戻ろう。人の姿の、跡形もなく。
 一歩踏み出すごとに未練が過る。だが後戻りはできない。最後に思い出すのは誰だろう。
「ただいま。ママ」
 そう言ってマイカは跪き、球体を抱きしめた。
「さよなら、祐介」


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