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A' 【36】

「よう、久しぶり」
 およそ半年ぶりに再会した山鉾に、祐介は無言で頭を下げた。どうした元気ねえなと肩をたたかれ笑顔を作ったつもりだが、硬い表情に見えたことだろう。実際、祐介の気持ちは新年の晴れやかさとは程遠い。世話になった相手を前に、目深に被ったニット帽を外すことさえ忘れていた。
「よし、じゃあ……行くか」
 祐介は頷き、二人は歩き出す。
 去年の夏、三島亜紀の自宅に強行突入した山鉾はあのあと、予想通り神崎にひどく叱られたらしい。意識を失った三島亜紀を介抱し救急車を呼んだことで全てがばれた。結果、祐介も警察から事情聴取を受けることになったが、救急車が来るまでの間に山鉾と口裏を合わせていた。要するに、三島亜紀の交際相手としてこの部屋を訪れた、ということだ。側から見れば間違いではない。だが祐介にとっては根本的に違っている。
 だから正直に話した。自分は三島亜紀の別人格である女性と交際していたと。三島亜紀なんて女は、祐介はこれっぽっちも面識がないのだ。警察が信じるとは思わなかった。それでもよかった。なんらかの容疑者として扱われることになっても構わなかった。
 だが意外にも祐介の話は受け入れられた。三島亜紀に接触したあの日、広岡夏樹が現行犯逮捕されていた。逮捕容疑は知人女性の拉致と監禁、つまり本物の高柳七海は生きていた。しかし長年にわたり家畜用の麻酔薬を投与され続けた彼女は著しく筋力が衰え、意識も朦朧とした悲惨な状態だったという。広岡夏樹はちかく、医療刑務所へ入るらしい。
 いいご身分だ、と吐き捨てるように山鉾が言い、それからはお互い無言で歩いた。溶けかけの雪を踏む音、若者たちの無邪気な話し声、車道から飛んできたシャーベット状の雪に文句を言う男の声。すべてが自分とは違う世界のものに聞こえた。脚が動くのが不思議だった。前へ、前へ。空っぽの心を抱えて、それでも。これが生きているということか。祐介はただ、それだけ思った。

 目的地に着くと、中年の男が待っていた。頭はほとんど白髪で顔にも深い皺が刻まれているが体格は良く、差し出された手も分厚かった。
「坂本祐介君だね。刑事の宮崎だ」
 大きな手に促され、祐介は自動ドアを抜けた。独特の臭いがする。待合ロビーには多くの人がいた。パジャマ姿で点滴をしたまま歩く患者、車椅子の老人と、話しかける看護スタッフ。白衣をなびかせる医師、外来の受付係。
 そして、面会に来た者。
「坂本祐介さんと……なんだ、お前も病室まで来るつもりかマホ」
「行かねえよ。俺はその、なんだ、保護者だ」
「坂本君は未成年じゃないだろ」
 受付カウンターを挟み親しげに言葉を交わした山鉾と宮崎が同時に祐介を振り返る。二人の間から受付の女性が笑顔を向けていた。身分証の提示を求められ、保険証を見せる。
「五階です」
 そこは精神科病棟だった。

 エレベーターが上昇するほどに、祐介の中で何かが目覚める感覚があった。冬の外気で冷えた体が温まったからなのかもしれない。それまでどんなに筋肉が固くなっていたか実感する。ニット帽が暑苦しく感じた。上着を脱ぐと、セーターの上にぶら下がった銀色のペンダントに目が留まる。鳥の羽根を模ったそのヘアピンを、ぎゅっと握りしめた。
 ナースステーションに着く頃には深呼吸ができた。落ち着け、しっかりしろ。自分にそう言い聞かせることもできた。大丈夫だ、大丈夫。
 が、病室の前に立った時、自分を奮い立たせたものは所詮淡い期待にすぎなかったと痛感することになる。
「三島……清美?」
 患者の名前を読んだのは山鉾だった。次いで「おい」という宮崎の小声がし、山鉾が気まずそうな声を漏らすのが聞こえた。
「それが彼女の本当の名前だよ。……坂本君、無理はしないでいいが」
 気遣う声にハッとする。瞬間、目の焦点が再びその名前に合った。三島清美。
「話はできる状態まで回復している。もし、万が一だ。何かあったら……例えば彼女が興奮して暴れるとか、そういうことがあったらすぐに出てくれ。ここにいる」
 返答も、踏み出すこともできずにいるのを宮崎がじっと待っている。不思議と焦りはなかった。祐介はゆっくりと振り返り、山鉾を見た。
 ――受け入れる覚悟はあるか。どんな結果でも、だ。
 あの日、覚悟は決めたつもりだった。マンションで介抱したのは誰だったのか。その答えを知る日が来たのだ。愛しい人は、どこへ行ったのかを。
 山鉾と、そして宮崎にも一礼し祐介は病室に向き直る。銀色の羽根をもう一度強く握りしめ、ドアをノックした。


 長椅子に腰を下ろし、宮崎は待った。向かいの病室では今、入院患者とその交際相手が半年ぶりの再開を叶えているところだ。いや、正確には入院患者の別人格と交際していた青年、か。
「オカルト話だと思っていたんだがな」
 独り言を呟いた宮崎の目の前に、缶コーヒーが差し出される。古い友人の部下である男だ。付き合いは長い。坂本祐介という不憫な青年の付き添いでやって来た、探偵助手だ。
「探偵ってのもまた……胡散臭い存在だよなあ」
 苦笑すると、缶コーヒーがさっと引かれた。いつまで経ってもガキみたいな男だ。悪かったよと言えばすぐにコーヒーは宮崎のものである。
「つまりさミヤさん、三島亜紀ってのは偽名だったってことかよ」
「そういうことになるな」
 プルダブが軽やかな音を立てる。熱い雫が少しだけ手に飛んだ。
「しかし……」
 一口啜って、宮崎は語った。
「本当にオカルト話のような事件だった」
 三島亜紀。それは確かに、戸籍の上では彼女の名ではない。しかし、彼女本人にとっては長らくの間、自分を示す名前だった。
 異常な独占欲によって友人を拉致、そして八年にわたり監禁したうえ、友人本人になりすまして生活していた容疑で逮捕した女、広岡夏樹にとっても、三島亜紀という存在は真実だった。被害者である高柳七海にとっても。
「母親は、いつか時がきたら本当に改名してやるつもりだったらしい」
「でも学校は? 本名で呼ばれるだろ、先生に」
 素朴だが鋭い質問だった。やんちゃ小僧のような探偵助手を、宮崎はしばし見つめ返す。どうやらこいつの上司の口の堅さは相変わらずのようだ。場違いにも思わず笑みが出る。なかなかじゃないか胡散臭い探偵、元同僚よ。そしてまた子供のように口を尖らせる山鉾に、宮崎は話してやることにした。解決した事件だ、いいだろう。


 先日終了したばかりの浮気調査報告書を封筒に入れ、神崎はデスクに戻った。通常こういった作業は助手にやらせているが、あいにく今日は休暇を取っている。理由を訊けばデートだと言うが、馬鹿がつくほどの正直者の表情から嘘を見抜くのは簡単だった。相手は坂本祐介か、とは確認していない。付き添いにマホを寄越したのはお前かと、腐れ縁の刑事からメッセージは届いていた。
「相思相愛か」
 独り言で冗談を呟き、その言葉の本来の意味が頭を巡った時、思い浮かべたのはやはりそれでも、坂本祐介の顔だった。
「会ってみたかったな、君のコマちゃんに」
 つい数分前にシャットダウンしたノートパソコンを再び開く。デスクトップに表示されたフォルダーのひとつにカーソルを合わせた。それは依頼主に渡す報告書とは別の記録簿だ。関わった案件の覚書、神崎にとって日記のようなものである。
『三島亜紀』とタイトルを付けたファイルを開けば、半年前の感覚がよみがえる。本来の依頼――三島亜紀の元交際相手による「彼女の主治医を調べ上げてほしい」というものの範疇を超えた内容が、そこには綴られてある。だからこれは神崎の個人的な興味だった。
 想像を超えた重大な事件が関わっている可能性、そこに近づくにつれ見えてくる第三者の存在、そして。
「あいつならオカルト、とでも言うかな」
 高柳七海と広岡夏樹、数年にわたって入れ替わっていたのは彼女らだけではなかった。

 

「まず、小学校だが」
 真剣な顔つきでじっと聞く山鉾に、宮崎は語った。
「まだ幼い児童が家庭環境で得た心の傷により自分の名前を拒絶するのなら……と、容認してくれたらしい」
 持ち物やテストの記名欄、出欠をとる際に教師が呼ぶ名前、それらはすべて三島亜紀で統一された。だから同級生たちもまた、彼女の名前は三島亜紀だと、そう認識して過ごした。
 とは言え、三島亜紀と過ごしてきた他の児童たちの前で清美の名を呼ぶわけにもいかなかった。話し合いの結果「三島亜紀」の証書を用意し、三島清美と記名した正式なものが母親に届けられていた。
 しかし卒業式の日について、聞き込みに応じた同級生のうち何人かがこう語っていた。
 ――あの日のマイちゃん、妙に大人っぽくて。
 ――急に別人になったみたいで、ちょっと怖かった。不気味っていうか。
 ――低学年の頃はそんな感じだったんです。何考えてるか分からないっていうか……。
 ――いつからだったかな、すっごく明るくなって。それからあたしたち仲良しグループではオリジナルのニックネームで呼び合ってた。
 ――そうそう、懐かしい。私はシンディで、彼女はマイ。おっかしいよね、ふふふ。
 ――それなのに、卒業式の日だけは……ね。
 ――え、でも卒業証書を貰ったあとは普通になってたよ。緊張してたのかな。
「中学に上がってニックネームは自然となくなったみたいだが、それでも同級生たちは誰一人として彼女の名を『三島清美』だとは思わなかったそうだ」
「ずいぶん理解のある地域だな」
 頷き、最後の一口を飲み干した宮崎は首を回した。骨がごりごりと音を立てる。両の目頭を指で押さえると、心地よい痛みと共に視界が真っ暗になった。そして解放した視界はしばし靄がかかり、やがてすっきりと見えるようになる。
「例の、大人びた人格が母親に言ったそうだよ。このまま亜紀でいさせてほしいって」
 母親は、それに従い中学にも頭を下げた。
 娘が多重人格だとは思わずとも、まだ心の傷が癒えていないのだと思ったのか。あるいは――これは宮崎の印象にすぎないが――娘が幼い頃に垣間見せた不気味さをもう二度と見たくなかったのではないか。だが中学を卒業する直前、娘は再び様子がおかしくなってしまったと、母親は静かに語った。
 やがて精神科医になったという高柳七海がひとり自宅を訪れた時、娘を引き渡した。それが広岡夏樹だとも、本物の高柳七海が行方知れずになっていることも分からなくなるほど心を病んでいた母親の姿は、今もこの病院にはない。
 そこまで話し終えた時、隣の探偵助手は柄にもない悲しそうな顔をしていた。そのまなざしが向かう先、閉ざされた病室のドアを、宮崎も見つめた。


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