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A' 【37】

 ベッドの上に体を起こし、薄曇りの空を格子のついた窓越しに見ていた。目を覚ますとここに居たが、いつから眠っていたのか曖昧な一方で、とても長い間遠い異国に住んでいたような感覚もある。寂しさと懐かしさが同居する心は、この街の名を知らないはずなのによく知っていて、なぜここに入院しているのか分からないようで、すべてのいきさつを覚えている。
 振り返れば、ベッドには「三島清美」と書いてある。それは自分の名前だと知っていて、けれどどうして今更この名前を呼ぶんだろう、と少し腹立たしさもあった。この名前は嫌いだった。でも、三島亜紀の名も嫌い。いいや、自分は亜紀のはずだ。
 目をギュッと瞑ると、暗がりの中に浮かぶ文字があった。
 ――I WISH――
 胸の中が熱くなるようだった。とても元気で明るい友人がいて、彼女に会いたくなるのだ。彼女の傍に居るのはとても楽だった。何もできない自分の手を引き、これから何をすればいいのか全部決めてくれる。そんな存在だったはずだ。しかし彼女の顔を思い出せない。
 目を開け、再び窓に視線を移すと急に気分が悪くなった。硝子に映る自分の姿がとても嫌だった。息が上がり、姿を映す窓を破壊したい衝動に駆られる。しかし、それはやってはいけないことだと知っている。まるで自分の中に潜む怪物を抑え込むように両肩をぎゅっと抱いた。手懐けなければいけない。何を? 誰を。誰か助けて――。
 ふいにドアがノックされ、現実に引き戻される。
 どうぞ、と小さく応えると、とても静かに引き戸が開き、一人の青年が姿を現した。彼は俯き、後ろ手にドアを閉める。一呼吸ついてから顔を上げた、その目と目が合う。
「マイ……カさん……?」
 思わずのように彼が呼んだその名前を聞いた瞬間、心臓を掴まれた気がした。すぐに「すみません」とまた目を伏せる彼から目が離せない。両手から力が抜け、二の腕を滑り落ちる。俯いた彼の胸元には銀色のペンダントが光っていた。羽根の形をしたそれを見るうち、勝手に涙が溢れてくる。
「だ、大丈夫ですか、今人を呼んで……」
「待って」
 行かないで。そう言って彼の腕を掴んだ。温かい。ますます涙が止まらなくなる。
「分からない……分からないけど、アンタを見てると……」
 泣きたくなるの――そう告げるや否や、今度は憎さがこみ上げる。掴んだ腕を力任せに引き寄せて、次は両手で首を絞めた。が、すぐに抵抗に合う。大きくて強い手だった。これが男の力か。本物の、男の。悔しさにますます涙が溢れた。それは自分の内にある怪物の感情だと悟った。もう抑え込むのは無理かもしれない。委ねたらどうなる? また夢の世界へ行けるだろうか――夢の世界?
 意識が遠のいたほんの一瞬、パシャリと何かが破ける音を聞いた。
「カイ君!」
 名を呼ばれ、あっという間に引き剝がされる。しかしその動作は優しかった。
「まだ……三島さんの中にいるなら、聞いてほしい。カイ君」
 真剣な眼差しだった。目を反らさないままにそっと両手を離し、青年は語りかける。
「俺は……その、ごめん、男性をその、そういう対象にはできなくて」
「……何言ってるんだ」
 率直に言葉を返すと、なぜか青年はパッと顔色を良くした。
「カイ君、俺はコマちゃんを愛していました。今も、愛してます」
 コマちゃんというのは小町のことだろう。そんなことは知っている。そうか、この男が。
「ゆうすけ」
「はい」
 素直な男だ。自分で言ったくせに耳まで真っ赤にしている祐介を見ているうちに、気が抜けてゆく。涙で濡れた頬をぐいと拭い、ため息を吐いた。もういい、聞いてやろう。そう思った。この姿を見てカイと呼び、男同士として語る祐介が、何を言うのか興味があった。
「俺、本当は嬉しかった。さっき、カイ君がこうして出てきてくれて」
「……」
「こんなこと思っちゃいけないのかもしれない。三島さんに、すごく悪いこと考えてるんだと思う。たぶん……でも」
 もうみんなに会えないのかと思ったから――。祐介はそう言った。嘘つけ、とカイは笑った。小町に会いたいだけだろう、祐介。三島亜紀に悪いだなんて、本当に思っているのか? 
「あ、いや、あの、それは……ちがうよ、いや、それはそうだけど、マイカさんにも」
「僕はどうなる」
「カイ君にだって会ってみたかったよ。本当に、ホント」
 からかい、恥じらい、ごく自然に交わす会話と表情の、どれもがカイにとって初めてのものだった。どうしてこの男にはこんなことができるのか不思議で、面白かった。あの小町が惚れた男が、こんな奴なら仕方ないと思った。仕方ない、仕方ないからカイは教えてやった。安心しろよ祐介。
「僕が主人格だ」
 え――、と間の抜けた顔になった祐介を置いてカイは夢の世界へと昇ってゆく。恐怖はなかった。辿り着いた真っ白な世界は、なんとも子供っぽくて味気ないものに見えた。バラバラになった小町、マイカ、そして亜紀が溢れて転がっている。あの球体はもう破けていた。さっきカイが引っ張り出されたのだ。あの祐介に。
「笑っちゃうな」
 ぐず、ぐず、と動き出したバラバラの体たちの中へ、カイは呼びかけた。
「亜紀」
 するすると人の形を取り戻した亜紀が、怯えた目を向けてくる。
「融合しよう」
 亜紀の目が大きく見開かれる。
「おまえが嫌いじゃなくなった」
 もう、女の子に縛られる必要はない。男の子であることを否定することもない。
「ただし清美には戻らない。あの名前は嫌いだろ? 僕もさ」
 そう告げると、亜紀は顔を綻ばせた。やがてみるみる縮み子供の姿になり、小さな手をカイへ伸ばしてくる。拒絶が解かれた両者は触れ合った。瞬間、世界はもっと白く輝き、やがてそこには一人の少女が残された。

「カイ君! カイ君、大丈夫?」
 目を開けるとすぐそこに祐介の顔があり、マイカは思わず突き返す。ここはどこなのか、どうして祐介がいるのか。混乱しながら辺りを見回したあともう一度祐介を見て、自分の二の腕を抱き寄せた。
「キスしようとしたでしょ!」
「はっ? えっ! マ、マイカさん?」
 互いの時間が止まった。そろりと動いたのはマイカが先で、咳払いをしたのは祐介だ。
「何がなんだか分からないけど、戻って来れたんならいいわ」
 それは嘘である。夢の世界でカイから話は聞いていた。カイ――彼はもう男の姿ではなかったけれど。とにかくマイカは嬉しかった。なにせこれからは小町に監視されないのだから。じりじりと、今度はマイカの方から祐介に迫る。焦る様子が愛おしかった。いっそ想いを伝えてしまおうかと思ったその時、するりと躱した祐介が、なにやら足元をごそごそとやり始める。
「マイカさん、これ」
 差し出されたのは一枚の絵だった。小さなフォトフレームに収まったそれは一見、小町に贈られたものと同じに思えたが、描かれてあるのは小町ではない。
 いつだったか、マイカが勇気を出せずに伝えられなかったお願いごとが、形になってそこにあった。
「もしまた会えたら、渡そうと思って……うわっ!」
 フォトフレームごと祐介を抱きしめた。ぐりぐりと胸を押し付ける。やっぱりもっとふくよかにならないといけない。こんな貧相なバストじゃ祐介を奪えない! どうしても腕を背中に回してくれない祐介に焦れて、解放するなり今度は両の頬を抑え込む。我慢できなかった。奪ってしまおう、マインド・コントロールで。
「あっ……」
 ぐらり、視界が歪んでマイカは崩れ落ちる。
「マイカさんっ!」
「祐介」
 強く掴まれた肩が少し痛い。その指にそっと触れ、小町は顔を上げた。見つめ合う彼の瞳には、確かに自分の姿があった。骨っぽい指の節、利き手にできたペンだこをなぞり、いくらか痩せた頬の感触と、相変わらず乾いている唇に触れたとき、瞳に映る姿が揺れた。
「コマ……ちゃん……」
「祐介」
「コマちゃん」
「そう、祐介」
 髪に触れる彼の手は震えているようだった。硝子細工を扱うようにそっとそっと触れてくる祐介に、小町は囁く。大丈夫、私はもう壊れて消えたりしない。
 指先を、彼の涙が濡らした。拭っても、拭っても溢れてくる。思えば祐介が泣くところなんて、小町は初めて見るのだった。子供みたいだと言うと、祐介はようやく笑った。その涙も笑顔も、名前を呼ぶ声も、触れ合う体温も、全てが彼の存在を伝えてくる。ここにいてもうどこへも行かない、たったそれだけのことが幸福なのだと知った。そしてその幸福を形作るのは、彼という存在だけでは欠片が足りないのだ。この自分という存在がなければ完成しないのだ。そのことが嬉しい。嬉しくて嬉しくて、どんな言葉で伝えればいいか分からない。
「祐介……」
 言葉が見つからなければ、行動で。
「コマちゃん……」
 こんなふうに自分から仕掛けるのは初めてだった。祐介のように手が震えて、少し驚く。一瞬、同じように驚いたふうな顔つきを見せた祐介がしかし、腰に手を添えてきた。さっきまでよりもしっかりとした手のひらの圧力を感じたとき、背筋から力が奪われる。もっと強く抱き留めてくれなければ溶けてしまう――もう、消えたりしないと言ったのに。
 互いの顔が近付き、見つめ合う視界が細くなる。この時に小町は遂に知った。伝えるべき言葉を。
 唇が触れ合う寸前、呼吸を食むようにしてそれを告げる。
「祐介……愛し……」
「……」
 ふたりは黙って離れた。気まずい沈黙が流れ、互いに咳払いをしながらなんとなく服を正す。
「おまえ、なんで分かるんだ……無理だけど」
「それは俺も同じなんで。遊ばないでくれる、カイ君」
 顔を背け耳を赤くしている祐介に、カイという名前は変えなければいけないと教えた。
「お母さんのために女の子でいようとした亜紀が、僕の中にいる」
 祐介は意外そうな顔をした。やはり素直なやつだ。
「じゃあ、海っていうのはどう? カイとも読めるし、女の子でも違和感ないんじゃない?」
「いまいち。アキでいいよ。とりあえず」
「そう……じゃあさ、アキ君」
 ギッとパイプ椅子を動かし、向き直った祐介にアキは怯んだ。まさかさっきの続きをやるつもりじゃないだろうなと思ったが、違った。
「退院したら、一緒に暮らそうよ。四人で」
 あのマンションみたいな所は無理だけど、と付け加え照れてみせた祐介は、どうやら本気で言っている。椅子も食器も、いろんな物をそれぞれ分けて――。祐介が夢見がちな乙女のように語るそれを、想像するほどに鼓動を感じた。
「悪くない……」
「ほんと? よかった!」
 花が咲いたように表情を明るくする祐介に面食らい、アキは感情をごまかした。うっかりすると友達になりそうである。
「それにしてもおまえ、本当によく見分けがつくもんだな。どこが違うんだよ、僕らの見た目の」
「全然ちがうよ。当たり前でしょ、違う人なんだから」
 言葉を交わせば交わすほど、保ちたかった祐介への隔たりはいとも簡単にヒビを入れられる。ため息を吐いたとき、アキは自然と笑んでいた。
「それであの……ひとつだけ、わがままを言いたいんだけど」
「なんだよ」
「あの……正直、性転換とか……しないでほしい」
「は?」
 思わずアキは吹き出してしまった。敵わない。降参だ。一度吹いたら止まらず、つられたように祐介も笑った。それから冗談で脅しをかけ、正直者の反応にまた笑う。何事かと男二人が病室へ入って来たが、構わずふたりは笑い続けた。
 ひとしきり笑ってアキは窓の外を見た。いつの間にか雪がしんしんと降り積り、世界を白く染めていた。



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