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A' 【27】

 どこにも痛みは無かった。だが融合が進むにつれて、体力は奪われてゆく一方だった。亜紀を少しずつ取り込んでいるはずなのに、生命の炎は勢いを増し燃え盛るのではなく、今にも消えそうな燻りほどに小さくなっている。だから、融合の度に襲い掛かる衝撃に身を強張らせることもなくなった。解剖された蛙の筋肉が、電流によって勝手に収縮するのと同じだ。
 うっすらと目を開けると、膝の上で弛んでいるスカートの生地が見えた。繰り返し捩れたせいで皺だらけになっている。派手に裂けた部分から糸を吐き出している生地の重なりを目に映した時、なぜか懐かしさを憶え、じっと見入った。
 ―――お母さん。
 心の奥深い場所から、母親を呼ぶ声がした。そしてそれは、自分の声であるようにも感じた。だが自分は幼い子供だっただろうか、そもそも母親がいただろうか。自分という存在がどんどん曖昧になってゆく。やがて疑問はすぐに額をすり抜け貫通し、脳に留まることはなかった。その代わり、誰のものかも解らない記憶が鮮明な映像となって瞼裏に映し出される。
「お母さん、このお花、みて」
 幼い手が母親に差し出して見せたのは、チラシ紙に包んだ一輪の花だった。
「あら、ナデシコ」
 ああ、そうだナデシコだ。思い出した。まるで花弁にハサミを入れたような不思議な花の姿に、破けた衣類が似て見えたのだ。
「やまとなでしこ」
 そう呟いたのは母親だった。同じ言葉を繰り返す幼い娘に、母親はどこか寂しそうな、少し悲しそうなほほ笑みを向け、続ける。
「おしとやかで、きれいな女の人のこと」
 尚も理解しきれずにいる娘と視線の高さを合わせ、母親は言った。
「無理しなくていいのよ、キヨちゃんは」
 髪に、優しい手の平が触れた。繰り返し髪を撫でながら、母親は静かに言い聞かせる。清美ちゃんは清美ちゃんなんだから、無理に女の子らしくしようとしなくたって、いいんだよ。おてんばだって、いいんだよ……。何度も頭を撫でられるうち、娘は俯き加減になってしまう。心の中がほんのりと熱い。胸がどきどきするのは、きっとこの熱のせいだろう。娘には言いたいことがあった。母親に、今すぐ伝えたい言葉があった。くすぶる思いが、勇気が、胸の内側で燃えているのだ。けれど恥ずかしかった。だが言わなければいけない。だって、だって、お母さん。あのね、あのねお母さん。
「お母さん」
 唇が少し震えた。なあに、と返事が返ってくる。娘は顔を上げ視線を合わせた。優しい母親の目を左右交互に見つめた時、もっと胸が熱くなった。
 愛されたい。本当の自分として、母親に愛されたいのだった。
 ―――あのね、わたしね、アキっていうの。
「おい亜紀。勝手に死ぬなよ」
 突如放たれた冷ややかな声が、穏やかな記憶の世界を打ち砕く。はっと我に返るが、現状を全て思い出すことはすでに難しかった。
 身動きが取れない。全身のあちこちをがんじがらめにしているものは不快にべたつき、ふいに甘い砂糖の香りがする。足元に広がるものは綿菓子ではなかった。ぼやける視界を動かせば、一面がまるで絵本の世界の雲である。
 ――絵本? どこでそれを見たのだろうか。記憶が交錯し眩暈がする。ひょっとしてそれは、目の前でいたぶられ首から下の全身が透明に変わり果てたあの娘の記憶かもしれなかった。だが、あれは誰だろう。少し考えてはすぐに疲れ、思考を手放した。項垂れると、自分の体も衣服もあの娘のように随分薄い色をしている。だが、それもどうだってよかった。自分が誰なのかも、今は分からないのだから。
 ふいに、人のうめき声と、何かを引きずる音が聞こえた。項垂れたままの視界にやがて、毛の塊が現れる。それは人間の頭部だった。
「ねえ、小町」
 呼び掛けと同時に、髪の毛を鷲掴みにされた。
「許してほしいって、言ってもいいんだよ」
 乱暴な行為とは裏腹に、優しい声音だった。
「ごめんなさいって、言える? カイ君ごめんね、ってさ」
 語り掛ける唇が近付き、生暖かい吐息が目尻にかかった。その瞬間、投げやりになっていた心の中に、感情の火が小さく灯る。
「これで亜紀のパーツは最後だよ。本当にこのまま融合しちゃってもいいの?」
 頬の上をぬらりとしたものがなぞって行った時、ナメクジという生き物を思い出していた。好きではない。ナメクジも、この男も。首筋や鎖骨に気色の悪い舌を這わせながら、やれ「小町は亜紀には従順だ」とか「僕の方がよっぽど良いのに」とか、独り言を繰り返しているしつこさを確かに知っていた。
「ねえ、小町。僕と融合するくらいなら、死んだほうが、まし?」
 その言葉を耳に入れた途端、つま先から頭頂部まで、ぞわぞわと悪寒が駆け上がった。
 小町は両の眼球を動かし、下品で悪趣味で愚かなカイを笑ってやった。
 
「蜚蠊(ごきぶり)を、百度咀嚼して飲み込むほうが、ずっとまし」
 
 信じられない――。カイはそういう目をしていた。やがてその絶望が怒りへと表情を変えたのを見るや否や、亜紀の頭部を胸に叩きつけられ全身に落雷のような衝撃が走った。声を上げたかもしれない、だが何も聞こえなかった。身体の内側から何もかもを引きずり出される苦しみだった。やがてただの皮袋になった身体は拘束からずるりと抜け落ち、更に蕩けて雲の中へと沈んでゆく。
 雲を抜けたそこは、馴染み深い水溜まりの中だった。だが今は眩さに苦痛を憶えない。痛みは嘘のように消え去り、自分自身の姿かたちさえも認識できないほど穏やかだった。静かに落下する途中でふいに風を感じた。それは自分の胸元から吹く風で、そこから天へ向かい透明な糸が立ち昇ってゆくのを見た。くるくると糸が円をえがくほどに、胸に空いた風穴は広がってゆく。ああ、まるで編み糸を解いてゆくようだ。母の手編みのマフラーが成長した体には小さくなったから、一度解いて別のものを編んでくれるのだ。手袋にしようか、靴下にしようか。それとも帽子がいい? 亜紀ちゃん。
 母親の声がよみがえる。自分はその声を、闇の世界で聞いていた。亜紀ちゃん。それは自分の名前ではない。
「ありがとう。あなたが小町?」
 胸の穴から懐かしい声がした。幼い亜紀の声だ。この場所で出会ったあの日そう問われ、自分には名前が無いのだと答えた。すると亜紀は言う。
「オノノコマチはとってもきれいな女の人だって、なつきお姉ちゃんが言ってた」
 解けてゆく自分自身を見つめながら、ただ懐かしさに感情をゆだねた。亜紀の言う「なつきお姉ちゃん」というのが広岡夏樹だと知ったのは、あれから間もない頃だった。不良的な外見や言葉遣いとは裏腹に面倒見のいい高柳七海に対し、親友だという広岡夏樹は地味な見た目の少女で、高校の制服を着崩していることなど一度もなかった。
「おとなしくしていたほうが、あの子の為よ。小町」
 ずいぶん大きくなった胸の穴から、今度は別の声が聞こえてくる。
「あまり、でしゃばらないことね」
 言葉とともによみがえるのは、長い黒髪をふたつに編んだセーラー服の後姿だった。小町は目を見開いた。胸の穴はどんどん広がってゆく。こんなにも大きな穴が開いてしまっては心臓などもう無いはずなのに、激しい鼓動を感じるのだ。自分に使命が残っていることを、確かに心で感じるのだ。大切なことを伝えなければいけない。だがしかし体の穴は喉元まで到達し、声をあげようにも風が通り抜けるだけである。渾身の力を込め小町は糸を掴んだ。だが次の瞬間、糸はより一層速度を増して手の平の内を駆け上がって行った。断片的な映像が次々と、脳裏に投げつけられる。
 これは記憶の糸だ。記憶の欠片はどれもガラスのように光っている。銀色のピアス、玩具の鍵、そして刃物の切っ先、それから――
 
「コマちゃん」
 
 夏の日差しと、彼の笑顔。
 
「マイカさん!」
 揺さぶられ目を開けると、そこには世界があった。甘い香りが漂うピンク色のその場所は、マイカの部屋だとすぐに分かった。空の布袋のようになっていたはずの身体には確かな重みを感じる。だがその肉体を支えているのは自分の力ではなく、強く両肩を掴む祐介の手だった。
「大丈夫ですか、マイカさん」
 違う名前をぶ彼に、伝えたい言葉が次々と浮かんでくる。どうしてここに祐介がいるのか。なぜマイカの名前を? いいや、それは後で確認しよう。どうにか戻って来た自分が彼に伝えるべきことは他にあるはずだ。腕に力を込めた。が、手の平はカーペットの上を滑り、自分の体重を支えることもできない。倒れる背中をすばやく祐介の腕が受け止めた。さっきよりも近い距離で視線がぶつかった瞬間、甘い脱力感に襲われる。生温い嵐が胸の中心を責め立てる。息をするのが精一杯で、けれど心地よく、そして切なかった。何もかもどうでもいいと思った。この温もり、匂い、眼差しに見守られたまま、眠ってしまいたい気分だった。小町は目を閉じる。だがすぐに見開いた。
 祐介が心配そうに見つめている。今度は意思に反して瞼が下り、その途中でこじ開ける。幾度かそれを繰り返し、やがて意識がもうろうとしてゆくのを感じた。そして悟る。目を閉じた先では、闇が呼んでいるのだと。
「マイカさん、無理をしないで。少し眠ったほうが」
「ちがう」
「え?」
「祐介」
 やっとの思いで絞り出した声は、吐息のようだった。きっともうすぐ口も利けなくなるだろう。誰のものかも分からない走馬燈に抗いながら、自分だけの記憶を必死で手繰り寄せた。伝えなければいけないことがある。口が利けるうちに、消える前に、伝えなければ。眼球に精一杯の力を込め、ぶれる視点を祐介に合わせる。涙がこぼれた。
 ああ、愛しい。なんて愛しいのだろう、祐介。会いたかった。
「祐介」
 何度でも呼びたかったが、それが最後だった。
「私を忘れないで」
 祐介はおかしな表情をしていた。唇を開いたまま瞬きもせずに見つめ、ただ呆然としていた。やっぱり祐介は面白い。その表情を最後に映し、小町の視界は幕を下ろした。
「……コマちゃん?」
 目を閉じれば、そこは闇である。誰もいない、何も無い。


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