見出し画像

A' 【35】

 ばあば、どうなったんだろうか。ヘルパーの佐々木さん、施設にいるじいじ、職場のみんなは――特に新人のみいちゃんはあれから元気になったかな。まだまだ若く経験の浅い彼女は落ち込むことが多かったから、あの日も自信をなくして泣いていたっけ。
 あの日。あの日から何日、何ヶ月経った?
 私は今、何歳だ。
 この点滴針はいつから腕に刺さっている? 昨日か、それとも数年前か。
 何度も同じ夢を見ている。だから彼女の時間は止まったままだった。目を覚ます直前にはいつも、あの日止まった時間がそれ以上進まずにくすぶっている。よみがえるのは恐怖と絶望、激痛そして血の匂いと感触だ。そしてあの時最後に会った人物、すべてを見てしまったあの子。
 ――亜紀ちゃん。
 何年も会っていなかった亜紀ちゃん、すっかり大人っぽくなっていた。高校の制服がよく似合っていて、とても自身満々、どころか不敵な表情で……。
 ――あれは誰だ。
「あ……あー……」
「なあに? どうしたの」
 上機嫌で流動食を運んでくる悪魔を拒むことはできない。体はとっくに動かず、声だって上手く発せられなくなっていた。脳が健常な状態の人間が介護を受けることは、時に屈辱的であることを知った。だがこの脳もいつまでまともに働くか分からない。日々は朦朧と過ぎてゆき、同じ時間の中をさまようばかりだ。
 しかし、しかし彼女は必死で意識を保った。思い出せることを思い出し続けた。どんなに絶望的な記憶でも、何度も手繰り寄せ決して手放さなかった。その記憶の断片が例え意味のないものだとしても。例えば、そう――。
 あれは誰だ。亜紀ちゃんの姿をした、小町ではない挑戦的な顔をしたあの人格は。
 瞼が落ちかけ、またこじ開ける。その時、玄関のチャイムが鳴った。ぼやける視界の片隅で悪魔は不機嫌そうな顔になる。何度もチャイムは鳴り続け、食事のボウルがゴン、と置かれた。悪魔が部屋を出てゆく。
 やがて複数人の男の声と、狂ったような女の声が聞こえた。そこらじゅうにぶつかりながらこちらへ来るのが分かる。喉がつぶれそうな悲鳴と罵声を挙げる夏樹を押しのけ、入って来た男は警察手帳を開いて見せる。
「高柳七海さんですね」
 呻き声で返事をした。涙が溢れる。たすけてください、おまわりさん。安堵を凌駕した感情に呑まれ、意識が遠のく。いけない、だめだ、手放すな。何か思い出せ。何でもいい。聞いてくださいおまわりさん、おまわりさん……。
「あー……きーい、ちゃーん……」



 カイが目覚めてから、時間だけは止まらなかった。日が昇って室内が暑くなれば風呂場へこもったが、わけの分からない落書きがあるその場所は気分が悪くなる。マイカがやったのだろう。あの女が催眠めいたことを得意とするのは知っている。何か仕込んだつもりに違いなかった。その手には乗るか、と移動するもどこへ行っても落ち着かない。
 やがて夕暮れになり夜になり、空腹をおぼえて冷蔵庫を開けるが、何をどうして食べればいいのか分からない。卵をつかんで握ると割れた。すすってみたが、吐き気がして駄目だった。水を飲むのが精いっぱいだ。冷蔵庫の扉を閉めるとき、むき出しの腕が目に入る。風呂場にあったように、ひどい落書きがしてあった。

 AM I HSIM  KA

 一見暗号のように見えるがそれはアキ・ミシマと読める。妙なところで区切られているし、アキ・ミシマと読むには右から左へ向かっているしめちゃくちゃだ。右腕にあるということは、左手で書いたんだろう。中央の羅列以外は赤いペンで書いてあり、何か意味があるのかとも思ったがどうでもいい。カイがここで目覚めたとき、酒の臭いがひどかった。マイカは酔っていたに違いない。ただの悪あがき、嫌がらせだ。この体は三島亜紀なのだとカイに読ませたい一心で、こんなめちゃくちゃなものになったのだ。
 意味などない。嘲笑うことで否定した。
「……くだらない……」
 羽織ったタオルケットに腕を引っ込め、余計なことを考えるのはやめた。
 ここに置いてある女物の服は着なかった。マイカの部屋へは二度と入らなかった。鏡だけは絶対に見なかった。自分の首から下を、見ようとしなかった。だからしょっちゅうそこいらに体をぶつけた。そうやって体がぐらつくと、必ず乳房が揺れるのを感じた。そうだ、食べるのをあきらめよう。カイはそう思った。もっともっと瘦せたなら、この胸のふくらみも抉れてなくなるかもしれない。でも。
「死ねない……お母さんに、会えなくなる」
 眠い。本当は今すぐ柔らかな寝床で休みたい。しかしカイは眠らなかった。ひとたび眠ればひょっとして、夢の世界へ戻ってしまうかもしれない。そして二度とこの世界へ、どこかで生きているはずの母がいるこの世界へ来られなくなるかもしれない。
「どうして」
 なぜ、そんなことを思う? 自問自答した。
「あいつらは……もう」
 亜紀と小町、そして遂にマイカをもひとつのカタマリにしてやったのだ。奴らがまた単独でこの肉体を支配するなど、できないはずなのに。
 なのに何を恐れている? 居心地のよいあの夢の世界を。カイが支配する白い世界を。
 ――あたし、知ってるのよ。
 マイカはいつかそう言った。あの言葉を聞いた時にも同じ恐れを抱いた。まさか、本当に知っているのか。だからあの日は開放した、いや追い出したのだ。そのあとマイカが自ら亜紀と小町に融合した時、カイは逃げた。この世界へ。
「戻らない……絶対に」
 じゃあ、どうする? 体力は限界だ。外へ出るか。母を訪ねて――どうやって。
 どさり。カイは床に崩れ落ちた。瞬間、睡魔が襲い掛かる。フローリングの中へと意識が吸い込まれていきそうだ。頭のてっぺんをギュッと捩じられたような痺れはどこか心地よく、抗うのは容易ではなかった。
 瞼が震える。頭がぐらつく。だがどうにか力を込め腕を床についた。そしてまた落書きが目に入る。
 AM I HSIM  KA
 なんだ。なんなんだ。なんのつもりなんだ。
 ――あたし、知ってるのよ。
 何を知っていると言うんだ、マイカ。
 AM I HSIM  KA
 否定したはずの暗号がしぶとく食らいついて離れない。意識を反らす。だが気を緩めればまた睡魔に襲われる。吐き気もしてきた。胃がしぼんで枯れる妄想に駆られる。苛立ちを叫ぼうにもか弱い声しか出なかった。乾く眼球をこじ開けて、カイは自分に言い聞かせる。起きろ。起き上がればどうにかなるだろう? 目一杯の力を込めた。その時である。
 カチャリ。
 施錠が解かれる音がした。心臓が跳ね上がるその勢いは、いとも簡単にカイを床に平伏させた。屈辱など感じる余裕はない。だが代わりに睡魔は逃げ去った。何が、誰がそんなことを成し遂げたか――横倒しになった棒切れのごとく、自分の右腕が目の前にあった。



「I……WISH……」
初めに読んだのは黒い文字だった。
 ドアが開き、静かにやって来る足音は、マイカと小町のものに思えた。いや――違う。マイカと小町、そして亜紀がひとつになったカタマリと、そしてもう一人。駄目だ、駄目だ、駄目だ! これ以上この文字を読むな。本能が叫んでいる。なのに目を反らすことができない。目玉が零れ落ちそうだ。まるで呪いか脅迫いや、マインド・コントロール。
「MA……」
 残りの文字はその赤色のせいで、逆さのままにくっきりとそこに存在を示していた。
「……I……KA……」

 I WISH MAIKA

 ――ダーリンは、うそつきだから。

 カイの脳裏に眩しくよみがえったのはマイカの上目遣いだった。その幻影に両腕を伸ばし、這い蹲って爪を立てる。マイカ、マイカ、マイカ! 許さない、許さない許さない。
「大丈夫ですか!」
 しがみついたモノが口を利く。お前は誰だ、小町か、亜紀か! 言葉にならない呻き声を発するほどに唾液が口の端から垂れる。
「あなたは……あなたは、三島亜紀さんですか」
 違う! この僕が、僕が三島亜紀であるはずがない! 
 必死に抗うカイを、容赦なく引きずり込むのは夢の世界だった。瑞々しい球体が弾むように迫って来る。おかえり、おかえり。無邪気な声がカイを呼ぶ。
「……」
 ずるり、とカイの腕は床に落ちる。支える者がいた。誰だ、こいつは。この人は誰だ。あなたは誰ですか。
 ――わたしは、誰ですか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?