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種をまくこと

私の家は、農家だ。私が幼少時に、父が農業に見切りを付け、勤め人になってからは、母が畑を守ってきた。田んぼがあったから、日曜に田植えや稲刈りをしたので、父は毎日休むことなく働いた。農閑期の冬になると日曜だけ休むことができた。

母はひとりで、養蚕をした。桑を切り、束ねて、肩に担いで運ぶのは重労働で、夏痩せをしたそうだ。子供でも手伝えることはした。桑の葉を蚕の上に並べたり、繭についたケバをとったり。

そんな母の手は、日焼けして指が太い。高校三年の三者面談の日、廊下で順番待ちをしていたら、母の爪に泥がいっぱい詰まっているのに気付いた。「なんでそんな汚い手なの。ちゃんと洗ってきた?」と思ったことをそのまま口にしてしまった。母は、小さくなって「洗ったけど、きれいにならなかった」と答えた。その指を担任に見られたくなかった。

私は、自分の家が農家であることを他人に言わなかった。知られたくなかった。農家はカッコ悪い、汚い、貧乏で下層階級の代表だと思っていた。

それが変わったのは、32歳でUターンしてからだ。それまで私は農家のイヤな部分しか見てこなかった。帰省して農家のいいところにやっと気付き始めた。

とれたてのキュウリのみずみずしさ、露地栽培のほうれん草の甘さ。無農薬だから、安全だけどキャベツにアオムシが住みついている。だから葉っぱをめくるときはよく見る。じゃがいもは、段ボール1箱の種芋が50倍?くらいの量に増える。

もちろん、種まきだけでは野菜は育たず、肥料や水も与えなければならない。天候によっては、日よけや雨よけをしたり、わらをしいたり、手をかけないといけない。こう書くと私が実際にやっているみたいだが、デスクワークしかできない私は、普段は畑に入らない。じゃがいも掘りとか人手が必要な時だけ手伝う。

畑を耕し種をまくことは、書くことに似ている。まかぬ種は生えない。

畑を耕すのは、本を読んだり動画を見たりしながら考えること。種をまくのは、書いたり削ったりしながら文章にすること。まいた種が育つかどうかは、畑の状態にもよるし、まれに芽が出ない種もある。

収穫は、自己満足であったりコメントをもらったりして得られた新たな気づき。実った果実を誰かにおすそ分けできるまでは、桃栗三年柿八年かかりそうだ。日々、種をまきつつ、芽が出た苗が木となり、枝を伸ばし、雨風に耐えながら花を咲かせ、実るまで、たとえ途中で枯れたとしても守っていく。

2ケ月投稿して気付いたことは、明るく楽しそうな話題を求める人が多い傾向。そういう話はスキの桁が違う。スキをあいさつ代わりと考え、毎日限界まで使う方がいるみたい。私は、限界回数までスキをしたことがないが、一体何回までできるのだろう。

書くことに一貫性がなく、日々の思い付きを下書きして、何日か寝かせて投稿するか考える。ボツにしたのは、上書きして消滅したが、これからはタイトルにボツと書いて下書きのまま残そうと思う。あの日あの時、こんなことを考えたのかと思い出し笑いできるはずだ。

いつも読んで下さる皆様、本当にありがとうございます。駄作・迷文の中に作者の心の揺らぎを感じ取っていただけたら幸いです。明日から4月、全身全霊とか喜怒哀楽とかの四字熟語を面白おかしく変換したタイトルをつけた文章を書くのが目標です。