誰もいないポートレート 5


 幕間 「アミ」

 一葉の写真がある。少年がカメラを両手に抱えて、空を見上げている。私たちはそれを少年の左側わずかに後方から見ている。季節は春だろうか。冬のクリアで厳しい色が和らぎ、春の場当たり的でぼんやりした空気の層を、その写真からは読みとることができる。彼の傍らには二本の電柱。春のはっきりしない空を、緑のワイヤーフェンス越しに見上げている。足元には白い花をつけたシロツメクサ。花は硬いアスファルトの隙間から、光を求めて生えている。少年と電柱とフェンスと花の影を、私たちは気づいている。画面の手前にその影が生えることを、画面越しに見ている私たちは知っている。
少年はまるでなにかに気づいたように、目を見開いている。カメラを下ろして、ああ、とうめき声を漏らして、空を見上げている。きっとファインダー越しになにかが見えたのだろう。少年にはなにが見えたのだろうか? 美しい春の空だろうか? 孤独な鳥がレンズを横切ったのだろうか? 風の形をした草木のざわめきでも見えたのだろうか?
 たぶんどれも違う。
 少年は自分自身に気がついた。生きづらさ、やりにくさ、窮屈さに、そのとき初めて気がついたのだ。自分がそんなものを抱えて生きていることを、一段高いところから見下ろすように知ることができたのだ。それはきっと天啓だった。あるとき、どこかの気のいい神さまが小さなメモ用紙に言葉を書いてひらひらと落っことしたような、それでほっとしたような。ああ、僕はそんな風に生きなくてもよかったのだ、と。

 それは彼がついに見ることのなかった、私の夢だ。
 
 彼はそんな風に折れなかったのだ。夢を見なかった。ただそれでも、カメラのレンズ越しに写る人々の、その夢をこそ撮るべきものだと思った。自分の夢よりも、なによりも。
 それはきっと正しいことではなかった。もし彼がカメラを手にしなければ、そして彼がもっと弱く小さくて、どこかで折れてしまえていれば、きっと彼自身はもっと救われた人生を歩めたはずだ。
 でも彼は折れなかった。与えられないままに、彼は自分の熱と善性だけを頼りに、折れずに生きた。生き延びてしまった。
 そんな風に生きてはダメなんだ! なによりも彼自身のために、彼の周りにいる誰かがそう叫ぶべきだった。でも誰も言わなかった。言う資格がなかったのだ。みんな彼の善性に甘えていたから。私も。

 だから、これは私が撮った架空の写真。
 誰にも救われなかった少年の残影。ありきたりな善性を最後まで信じた、ただ人の轍。

 *

 彼がアミの前から消えたのは、西町博の葬儀から一月が過ぎてからだった。
 それは、熱せられたアスファルトの匂いが段々と陽炎とともに立ちあがってくる、ある初夏の日のことだった。突然書き置きを残して――といっても「しばらく部屋を空ける。部屋の物は好きにしてかまわない」とそれだけだが――、彼は部屋からいなくなった。
 突然……いや、前兆はあったはずだ、とアミは思った。新しい依頼を引き受けなくなり、今ある仕事を前倒しで仕上げていった。今考えれば、明らかに、計画的に、この後のことのために準備していたのだ。
 そのことに思い当たったとき、アミは後悔と、それに倍する苦い羞恥を覚えた。少し考えれば気づけたはずのことだった。だが考えようとしなかった。考えなかったのは甘えだ。幼児性だ。なにもしなくても日々があたりまえに過ぎていくという、子どもの傲慢さだ。自分はあのころからなにも変わっちゃいないのではないか。これは私の悪癖だ。そう思うと、今までのすべてが無駄に思えてくる。これではダメだ。すべて消して撮り直さなくてはいけないのだ。せめてなにか、つぐないになるなにかをしなくてはいけないのだ。自分のミスを取り返すために、アミは今できるなにかを彼の部屋の中で探し求めた。
 もしその場に彼がいれば、アミを見てこう指摘したかもしれない。そんな優等生的な生真面目さこそが、むしろ君の悪癖なんだよ、と。それはね、親の前でうっかりミスをしてしまって目の前が真っ暗になってしまった、過剰適応児のそれなんだよ、と。

 アミがその場所を訪れようと思ったのは、そんな見当違いの贖罪からだった。
 その住所をアミは前々から知っていた。時々、彼の誕生日とか年末年始に、その住所からメッセージカードが送られていた。彼は一瞥して、困った顔をして、中身も見ずに適当な抽斗の中に放り込んで、なにごともなかったかのような顔をする。アミはそのメッセージカードのことを訊ねはしなかったけれど、だいたいの予想はついていた。アミもまた、同じようなものをよく知っていたのだ。
 そこに彼がいるわけはないと知っていたのだけれど、彼がそうなった理由がそこにあるのだろうとアミは察しが付いていた。不自然なくらい、彼はその話題を避けていたのだから。
 彼らの住む街から電車で二時間ほど揺られた先にある地方都市が、彼の故郷だった。駅を出ると、そこは全国どこででも見るような、大型商業施設が並ぶ扁平な市街地で、アミはそこからロータリーでバスに乗り換え山の手に向かった。バスは二十分ほどで郊外型の住宅区画にたどりつく。大きな資本が山ごときれいにならして同じような形の住宅を建て続けた、一時代の遺跡のような街並みだ。バスから降りると、山が近いせいだろう、蝉の鳴き声が空気から飽和したようにそこかしこに反響していた。平日の昼間、人影はなく、そのせいで蝉の声だけが聞こえる住宅地は、突然の災害で人類が宇宙に逃げ出したあとの廃墟のように思えた。その空想の廃墟の中の通りをさらに徒歩で上り続けると、やがて行き止まりのようなT字路に出る。それより上は、もう人が住むような場所ではないのだ。その天辺のような、辺境のような場所に例の住所はあった。アミは、そこまでなんの迷いもなく辿りついた。重度の方向音痴にとって、それは奇跡的な偉業だった。
 アミは、一見してその場所にある住居をどう形容したらいいのかわからなかった。豪邸というほど巨大で豪奢なわけではないけれど、さっき通りすぎてきたありきたりな建売住宅より、敷地は倍ほど広かった。建物自体も、周りの家と同じような量産品の建材が使われた、コンクリ造りの一戸建てなのだけれど、他の家より一回りほど大きく、まるで二つの家を無理やりつなげて作ったキメラのようだった。事実、その家には玄関が二つあった。もしかしたら、祖父から孫までが住むような多世帯住宅として建てられたものなのかもしれない。ガレージには車が二つ。さすがにプールはないけれど、バスケットゴールが置ける程度には広い庭があって、花や野菜の鉢が所狭しと、まるで子どものおもちゃ箱のように並べられていた。
 さて、とアミは思った。ここまで勢いで来てみたのはよいものの、この先どうするべきか、アミにはなんの算段もなかった。ただ来て、知りたかっただけだ。外から様子を見て、万が一彼が戻っているのが確認できたならそれでもよかった。でも、家の中は静かで、外から人の気配を伺うことはできなかった。それならそれで十分だ。帰ろう。彼の生家が確認できただけでもなにか収穫はあったはずだ。だから余計なことはよしておこう。
 と自分に言い聞かせながら、アミはすでに門柱のインターホンに手を伸ばしていた。きっと家に気配もないし誰も出てこないだろう。万が一誰かが居ても、「田村さんの後輩で、近くに来たから挨拶しようと思った」とか言って誤魔化せば――
「あら、どなたでしょう?」
 女の声だった。あと二秒でインターホンのボタンに触るという位置で、アミの伸ばした手は止まった。まるで山中で獣に相対したようにゆっくりと手を下ろして、一歩だけインターホンの前から下がり、できるかぎり平和的な笑顔を作ってから、声の方を振り向いた。老年に差し掛かったくらいの女性が、麦わら帽子と頭の間にタオルをはさんで、ゴム手袋にスコップを持って、庭の奥から門柱の前のアミに、柔和そうな、それでいてどこか幼そうな笑顔を向けていた。そう、アミは、その初対面の初老の女性に幼い少女のような印象を持ったのだ。アミは、ひとまず想定した通りの応対で誤魔化そうと口を開いた。
「たむ――」
 だが、アミが彼の名前を出そうとしたその言葉は、
「ああ、■■の助手さんでしょう? 知ってますよ」
 いたずら好きの少女のような、楽しそうな声に遮られた。

 女性に言われるまま、アミはその家に上がり、客間に案内された。
「ちょっと散らかってるけど、ごめんね」
 と言われて通されたのは、六帖程度の和室だった。部屋の真ん中にはちゃぶ台と座布団が置かれているが、壁際には追いやられたように雑多な本類が詰まれ、半開きの押し入れにアイロン台やソーイングセットが見えた。おそらくあまり来客のある家ではないのだろう、とアミは思った。アミは行儀よく座布団の上に座った。女性は、しばらくアミを待たせたあと、作業着を脱いだ姿で現れ、
「お茶とコーヒーどちらがいい?」
 とアミに訊ねた。
 アミは一瞬お茶と言おうとして、思い直して「コーヒーを」と答えた。その方がこの相手と話すにはふさわしいと思えたのだ。アミの答えを訊くと女性は嬉しそうにコーヒーを淹れにいった。なんだかなあ、とアミは声に出さずぼやく。
 しばらくしてから、女性は嬉々として茶菓子とコーヒーを盆にのせて運んできた。
「よかったらどうぞ。口に合わなかったらごめんなさいね」
 女性のその様子は、同年代の友達が久しぶりに訪ねて来てくれたかのようで、アミは無礼とは思わなかったけれど、底の方になにか根本的なズレがあるような、小さな嫌悪感を覚えていた。
「あなたとはお話してみたかったのよ」
 おそらくアミの表情にその小さな違和感だとか嫌悪感だとかが出たのだろう、女性は慌てて、
「ああごめんなさい、まずなんで私があなたのことを知っているのか、不思議でしょうね」
 女性はせっかく来てくれた「お友だち」を不快にさせないように、場を繕おうとしていた。
「べつに■■があなたのことを話してくれたとかじゃないんです。あの子は私たちに全然連絡なんて寄こさないから」
 その言葉で、さらにアミの表情に疑念が積もる。それはそうだろう。まともな推論ができる人間なら警戒の度合いを上げざるを得ない。
「親としては気になって、あの子の仕事について少し調べたの。もちろん興信所とかそんな本格的なのじゃなくて、個人で調べられる範囲のことよ」
「はあ」とアミにはそう言うしかなかった。この段階で、自分の違和感を口に出すわけにはいかなかった。
 しかし女性の方は自分の失策を取り繕えないままに、
「あなた、たしかテレビに出てたでしょう……だから顔は知ってて……」
と、そんなことまで、なんでもないことのように言ってしまう。
 この女性は人を雇って調べたわけじゃないと言っているけれど、あるいはそれに近いレベルのことはしたのではないだろうか? 彼の仕事をネットで検索にかけた程度では私の名前は出てこない。ある程度、彼と直接仕事のやりとりをしていなければ私の顔も名前もわからないはずだ。ニュースに出ていたのが彼の助手だと、この女性はどうやって知り得たのだろうか? そもそもあのニュースはかなり小さな報道だった。事前に私のことを調べていなければ、そんな話題は出せないはずだ。
 だが今は、それよりなによりこの女性に訊ねるべきことがある。
「あの、すみません。田村さんのお母さま、ですよね?」
 女性は「あ」と口に出してから五秒間ほど固まって、それから楽しそうに笑い始めた。
「ああ、ごめんねえ!」
 自分の失敗をおもしろそうに、けらけらと。高校のころの女子グループがこういう笑い方をまき散らしていたな、とアミは思った。
「そうです、言ってませんでした。私は■■の母です、ええ。ごめんなさいね、私、舞い上がって大事なことを忘れていました」
 アミはそれを聞いて頷いた。それは単なる相槌ではなく、アミにとって芯からの冷たい納得だった。この人は、まさしく彼の母親なのだろう、と。
「それで、今日いらしたのは、あの子のことですよね? あの子になにかありましたか?」
 アミはまず重大なことではないと断った。事故や病気、仕事上のトラブルなどではない、と。
 アミが説明した事情はこうだ。
 彼はしばらく仕事を止めて旅行に出かけることになった。私はたまたま彼の実家の近くに来たので、もしかしたら実家に一度顔を出しているかもしれないと挨拶に寄ったまでだ。もちろん苦しい言い訳であることは承知の上だし、相手もそんな説明を真に受けたとも思えない。それでも今正面からなにかことを構えるようなことをしてはならない。慎重にならなければ。アミはそう考えていた。
 納得したのかどうか、女性は「そうですか、それはわざわざ」とかなんとか、口の中でもごもごと唸った。そして、
「あの子はここには来ませんよ」とピタリとなにかを手で押さえつけるように言った。
「私たちはあの子にあまり好かれていませんから」
 好かれていない――『嫌われている』と言わないことがおそらく最大限の譲歩だったのだろう。
「あの子は、なんというか、私たちにはよくわからないんです。少し変わっているから」
「変わってる? 田村さんが?」
「頭はいい子でしたけど、中学くらいからですかね、親の私たちでも近づきがたいような、そんな雰囲気でしたから」
 女性は難しい顔をして口元に力を込めた。まるで普段使わない筋肉をどうにかして使って、慣れない作業でもするような、そんな顔だった。
「いえね。べつに不良だったとかそういうんじゃないんです。ただ、悪い子じゃないんですけど、どこか達観してるっていうか、ちょっと人を見下したところがあるというか。小さなころはそうでもなかったんですけど」
 なんとかその言葉をひねり出したあと、女性は自分の言った言葉に自分で驚いたようにはっとした顔をして、
「息子の悪口なんていうもんじゃないですね」
 と付け加えた。
「いえ、その――」
 アミは考えた。言うべき言葉を。今の自分なら、きっと今言うべき言葉を口に出せると、そう信じて。だから口に出した言葉に嘘はなかった。少なくともアミ自身にとって。
「田村さんはとてもいい人です。少なくとも一緒にお仕事をさせていただいている私から見れば。とても誠実で、善い人です」
「そうですか。ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、なんだかほっとします……あの、もし違ったらごめんなさいね。もしかして■■とお付き合いされています?」
「あの……いえ……そういうわけでは……」
 婚約者だと言ってやったらどんな反応をするだろうか。そんな誘惑に駆られたけれど、あとで彼に迷惑が掛かることを考えて、アミはなんとか思いとどまった。
「そうですか。ごめんなさいね。ちょっと残念。あなたみたいな可愛らしい方があの子についてくれたら、私たちも安心なのだけど」
 なぜこの人が勝手に安心するのか、なぜ勝手に人のことを可愛らしいなんて言うのか、アミはこのコミュニケーションに大きな徒労を感じていた。はじめから、この人とは言葉がかみ合っていないのだ。
 女性は気まずそうにコーヒーに口をつけて間を作った。アミも同じようにコーヒーに口をつけた。味のしないコーヒーだった。ただ酸味の残滓のような舌触りの悪さだけが口に残った。
 沈黙に耐えられなかったのだろう、
「もしよかったら、あなたの写真を見せてもらえないかしら?」
 と唐突に女性はアミに頼んだ。
 アミは少し迷ったあと、持ち歩いているカメラからいくつかの画像を女性に見せることにした。しばらく前に撮ったもの、さっきここに来るまでに撮っておいたものを、いくつか。もしかしたら、とアミは思ったのだ。自分の写真への反応を見れば、この人の考えていることが少しはわかるかもしれない、と。見知らぬ土地で言葉が通じないときにジェスチャーを交えてみるような、そんな試みだった。
「へえ、へえ。いいわねえ」
 デジタルカメラのディスプレイに表示される画像を順に送りながら、女性はそんな風に連続して唸り声を上げた。その声を、安っぽいおもちゃの電子音のようだな、とアミは思った。アミの知る、真摯で力強い、鋭くてあたたかい、背筋が緊張するような、でも次の言葉を期待してしまうような、あのまなざしとは、それはまったく異なるものだった。
「私、あなたのファンになっちゃうかも」
 女性はそうポツリと漏らした。ファン? ファンってなんだ?
「あの子の写真は、なんというか頭でっかちというか、私はあんまりでね。あの子よりあなたの方がよほど才能があると思うわ」
「写真にお詳しいんですか?」
「いえね、ぜんぜん。写真展とか美術展とか行くのは好きなのよ? でも専門家ってほどじゃないの。でもなんというか、あの子の写真は、シンプル過ぎるというか、ちょっと単純というか。悪くはないんだけど。あなたのほうがきっと情緒が豊かなのね」
 見当違いの誉め言葉だ、とアミは思った。本当にこの人は私の写真を評価できたうえでこう言っているのだろうか。ここまで人を失望させ、不快にさせる誉め言葉というのを、アミは初めて知ったような気がした。
「あの子にはないものがあなたにはちゃんとあるのね。あの子は、なにかしら欠けているから」
「なんで、田村さんのことをそんな風に言うのですか?」
 不思議と、アミのその言葉に怒りはなかった。ただ単純にわからなかった。なぜこの人はこんな風に彼のことを語るのか。なぜ、その程度で(アミにとってはその程度だった)、他者のことを支配的に語ってしまえるのか。もしこの場に彼がいたなら、いつもみたいに少し困った顔をして教えてくれるのだろうか。
「そこまでなぜ彼を否定しようとするのですか」
 女性はなぜ自分が責められるようなことを言われるのか、心底不思議そうな顔をして、申し訳なさそうな顔を作った。「誤解をまねく表現がありましたことを謝罪します」と人が言うときにする顔だ。
「いえ。それは。ちょっと誤解というか。大事な一人息子ですから、そんな否定しているつもりはないの。ただあの子にはもっと自分に合った生き方があったと思うの。たぶん、きっとエンジニアとか研究者とか、そういうものの方が合ってたんじゃないかって」
 かみ合ってないな、とアミは思う。文字通り話にならない。こんなものは会話ではない。
「それは、たぶん、田村さん自身が決めることだと思います」
「そうね、そのとおりかもしれない。でもね、あなたも親になればわかるわ」
「そうかもしれませんね」
 もはやアミの心は止まっていた。おまえも親になればわかる、おまえは親の気持ちがわからない、と言って子どものように泣きわめき、とうの子どもを責め続けた親を、アミはよく知っていた。もうここまでだな、とアミは思った。
「すみません。長々とお邪魔して。今日はお話しできてよかったです」
「あら、もうお帰りになるの? 一緒にご飯でもどうです? お父さんにもあなたを紹介してあげたいの」
 アミは今の自分にできる最大限の丁重さで女性の申し出を断った。自身から冷たい汗のように滲み出る嫌悪感を相手に悟られていると理解しながら、それでもアミは出来るかぎり後腐れのないように、その家を後にしようとした。そういうのは得意だ、と自分に言い聞かせながら。
 だがもちろん、その手の努力が水泡に帰すことは、人生においては往々にしてあることだ。
「あなたは嘘をつきましたよね」
 玄関で見送る女性はそう言った。
「■■になにかあったのでしょう。さすがになにもないのに、こんな場所までわざわざ来る人はいないでしょう。それに、そうまでしてここに来たあなたも、ただの助手さんというわけじゃないのでしょ?」
 うるさい! と一秒後の自分が叫ぶのを、アミは抑え込んだ。
代わりに「婚約者です」と今度は本当に言ってやった。それくらいは許されるだろう、と自分に言い訳して。
 後ろに「え、はぁ、ちょっと」と息を吸いながら話す大げさな声が聞こえたが、アミは取り合わなかった。

 来た道を下りながら、アミはずっと考えていた。考えなければならなかった。いったいぜんたい、この短い幕間はなんだったのか、と。
「欠けている」とあの女性は言った。
「それは違う」とアミは即座に思った。
 欠けているのはあの家だ。アミはそれをよく知っている。あそこには私の知っている家と同じものがある――同じものがないのだ。
 彼の生家とアミの家の事情は全く違う。にもかかわらず、同質のものをアミは読みとることができた。それを、今のアミはいくつかの言葉でもって語ることができる。だが、アミにそのとき必要だったのは状況の説明でも、説明のための言葉でもなかった。
――生家のことを考えると気が滅入る人間は、そこそこいるものさ。
 彼は以前そう言った。私はその通りだと思った。でもわかっていなかった。それは誰しもにあり得ることだった。私だけじゃない。誰だって同じなのだ。そのことを、身体を刺し貫く錆びた針金のような、あの実感としてわかっていなかった。自分の内側の経験にだけ納得して、外の世界にその言葉をつなげて考えていなかった。
 そんなものは、そんな悲惨さはありふれている。人から見れば「なんだ、そんなこと」だったとしても、その人にとってはどうしようもなく切実で、取り返しのつかないもので、痛みで、でもその痛みすらも日々の痛みの中に埋没してしまう、そんなもの。
 そのそんな「そんなもの」を誰しもが抱えている。世界は「そんなもの」であふれている。どれほどチープに見えても、どれほど単純に見えても、あの母親にだってきっと、「そんなもの」はあるのだ。
 今のアミはそのことを信じることができる。同じような形、素材を使った、同じような家の一つ一つに営みがあり、明かりがあり、「そんなもの」がある。
 蝉の声。初夏の暑さ。アスファルトの匂い。当たり前の感覚なのに、そこにはなにか新しい意味が、今まで見過ごしてきた世界の秘密が隠されているような、予感。
 夏が来るのだ、とアミは知った。行こう、とアミは思った。だって彼女はもう子どもじゃないのだから。

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