誰もいないポートレート 3

3 それは、悪くない物語

 クリーム色のソファ席に並んで座っている女が二人、カメラに向かって笑顔を向けている。歯を見せて笑うような面白おかしい笑顔というわけではなくて、静かに表情の筋肉を緩めているというくらいのものだから、それが笑顔だというのは親しい人間か注意深い人間にしかわからないだろうけれど、でもそいつは間違いなく笑顔なのだ。
 場所は、喫茶店かなにかだろう。女たちの前には飲み終わったカップと食べ終わった皿が、店員に見つかる前のモラトリアムの中でまどろんでいる。ライトウッドに統一された店内は、こちらが気恥ずかしくなるほど光り輝いている。背景に写る店内の様子を見るかぎり、まだ込み合う時間ではないらしく、席はまばらに埋まっているだけだった。
 女たちが座る席は窓際で、画面右側は広いガラス張りになっている。写真を撮るには光がやや強く、表情をきれいに撮るならもう一、二段光量を下げた方がいいだろう。窓の景色は午前の陽光に照りかえるビルばかりが並ぶ市街地で、その喫茶店もどこかの商業ビルの高層階にあるのだとわかる。商業テナント上層の飲食フロアにある、どこぞのありふれた喫茶店。女子受けやSNS映えを初めから狙って施工されている、その手の店だ。写真は、そんな現代商業主義の狙い通りに笑顔の女二人を捉えている。少し加工すればSNSにアップロードするのにはちょうどいいかもしれない。
 そいつは仲の良い二人が無造作にとった日常の写真という風で、もし僕がこの写真の撮影者を知らなかったのならば、その道の人間が撮ったとは少しも考えないだろう。二人は、顔はあまり似てないのだけれど、人はなぜかそれを姉妹だと誤解してしまう。その顔の表情の動かし方を無意識に捉えて、きっと同じ環境で育った二人なのだろうと思い込んでしまう。わずかな緊張と恐れを孕みながら、しかしたしかに今彼女たちは笑えているのだと知れるこの笑顔を、僕らは人生のなかで何度か目にすることになる。サバイバーのそれを。
 僕はこの写真のことを知っている。いつどこで撮った写真なのかも、どのカメラどのレンズで撮った写真なのかも、覚えている。なにせ僕が撮ったのだから。

 それともう一枚。これは僕がついに撮ることのなかった、空想の写真だ。
長い黒髪の女が図書館の長机に座っている。僕の知らない図書館で、僕のよく知る女が。でも数秒間じっとその女を見つめていると、それが本当に僕のよく知った人間だったか、うまく確証がとれなくなってしまう。たしかに記憶の中の女の造形は、写真の中の女と一致するのだけれど、でもどうしてかその写真に写る女の方を、僕は「少女」として認識してしまう。まだなにかに立ち向かう力を持てず、ひどく重い地球の引力の中で、それでも立ち上がる術を探している。そんな懸命な少女であるかのように、僕は思ってしまう。
 画面は少女を正面から捉えている。少女の後ろには分厚い本の並んだ本棚がある。背表紙のシールときれいに分類されたそれらから、僕らは記憶の照合を一瞬のうちに図書館に合わせてしまう。少女は長机に置かれた分厚い本のページに手をかけている。そっとページを開く。いや、開こうとしている。一枚の紙が、なにかの実験に使う薄い紙のように、彼女の時間を前と後ろに分け隔てている。その一瞬がこの写真の時間だ。ページを開く前の時間と後の時間の分水嶺。この分水嶺を越えれば、少女は違う人間になる。それが僕には、いや、この写真を見ているあなたにはわかるはずだ。それは一時の変化ではなく、不可逆な成長だ。少女は、本を開いたその瞬間にもう少女ではない。きっと僕のよく知る、いつもなにかに立ち向かっているような、人を斬るために研がれた刃物のような、あの女に……。
 女がなにを決意してそうなったのかは僕にはわからない。きっと個人的な、その人の水底を深く打つような、でも他人からすれば「なんだそんなこと」と思うような、なにかがあったのだろう。僕がそれを知ることはない。ただそんな女の時間がどこかに存在したのだろうと強く信じることしかできない。

 出会うことのなかった少女と、もう出会うこともないだろう女のことを考えると、ほんのわずかな悲しみを覚える。なにかできたかもしれないという後悔と、しかしそうするしかなかったという諦めと、せめて今どこかでなにかしらの幸福を手にしていてほしいという願いが、すべて一緒になっていて、そういう感情を名付けるなら、僕は悲しいというより他はない。

 なぜそんな話になったのかは覚えていないけれど、
「効力感のなさ、というやつさ」
 と僕は言った。諦めを込めた祈りのように。
「こうりょくかん?」
 彼女は初めて聞く言葉のようにそう復唱した。もしかしたら本当に初めて耳にした言葉だったのかもしれない。
「世界に働きかける実感がない、というのかな、自分がなにをしても、世界の結果は変わらない。たとえば、道に空き缶が落ちている。それを拾って捨てても、そのままにしておいても、なにも結果は変わらない。放置していても誰かが缶に躓くこともなく、拾って缶ゴミのゴミ箱に放り込んでも世界の資源事情の一ミリも変えもしない。そういう感覚の話」
「無力感、ですか?」
「似ているけど、少し違う。無力感は自分の力のなさに対する嘆きだけれど、効力感のなさは、ただただ『無い』んだ」
「無い?」
「世界に対する、興味や関心、あるいは愛情というものが、ぽっかりと抜け落ちている。そして世界からも関心を向けられていないという強固なリアリティがある。畢竟、そこにはなにも起こらない。だだっ広い雪原みたいなものさ」
「でも田村さんは、落ちてる空き缶、拾いますよね?」
「そいつは訓練の成果の成れの果て。いや、まあ、日によってはね」
 彼女は僕の下手な冗談をフォローするように柔らかく笑ってくれた。いい子だ。僕の隣にはもったいないと思う。
「田村さんの写真の印象とは正反対です」
「そうかな……いや、そうだろうね」
「田村さんの写真は、ただ画面を映してるんじゃなくて、写真自体が眼差しになってるんです。被写体に対する、慈愛というか、なんていうか、その世界に対しての行為というか、写真が世界から生まれているんです。私、そんな写真を初めて見たんです。だから……」
 だから、のあとに彼女はなにも続けられなかった。その先を続けるには、その時の彼女にはまだ力が足りなかったのだ。僕はそんな彼女のことをなによりも大事に思っていた。
「君の言うものは、多かれ少なかれ、この手の仕事をしている人間の大抵がもっているものさ。君にとっては、それを知るきっかけが、たまたま僕の写真だったんだろう」
「田村さんはどうして、そんなことを言うんですか? まるで自分が、その、冷たい人間みたいに」
「僕は君が思っているほど、豊かな人間ではないんだよ。むしろ貧しい人間だ。そういう効力感の無さというのを、僕は子どものころからずっと宿業のように抱えている。だからこそ、カメラが必要だったんだろうね」
 そして、そのカメラが僕から失われたとき、はたして僕になにが残るのだろうか。自嘲気味に笑ってみようとして失敗した僕のツラは、下手なあくびをする猿みたいだっただろう。
 彼女は僕の失敗した事情に困った顔をした。
「私のことは?」
「ん?」
「私のことは、その……」
 僕は裸の彼女の髪を小さく掬って、それから頬を撫でた。それくらいしか、できなかった。

 *

 すじかい塾に知己を得た彼女は、頻繁に塾に顔を出すようになった。塾に顔を出して、僕の部屋に帰ってきて、話を聞かせてくれる。そういうサイクルが、一時期の彼女の生活だった。僕の事務所を拠点にして少しずつ自分の世界を広げていく彼女を、僕はまるで学校から帰ってきた小学生のようだな、と思ったけれど、そうだ、彼女の家庭環境ではそんな当たり前さえ得られなかったのかもしれない。彼女にとっては、これが初めての『家庭』だったのかもしれない。
 そうやって穏やかに時が過ぎればよかったのに、そうもいかなくなったのは、彼女がある日口にした人名のせいだった。
「カメラマンで、橋下サクラさんっていうんですけど」
 その名前を聞いていろいろな情報が脳みその後ろの部分を錯綜したけれど、僕が言ったのは、
「ああ、彼女ね」
だけだった。
「知ってるんですね。もしかして、お付き合いしてたとか?」
「そういう、自分で言って緊張するような冗談はやめなさい」
 最近ではあまり見なくなった、耳を赤くしてかしこまってしまった彼女を観察しながら、
「仕事や業界の集まりで、二、三回あったことがある程度だよ。まあ、向こうは覚えちゃいないだろうけれど。この地域のフリーランスの界隈ではまあまあ有名な人でね」
「あ、やっぱりそうなんですね。私もウェブサイトとか教えてもらいました」
「だろうね」
「?」

 彼女の話はこうだ。
 彼女が初めて誰でも参加できる正規の勉強会に参加した日(それまではモグリで塾生に混ざっていたらしい)、橋下サクラが塾に初めて現れた。新人同士、女性同士、そして、同じ読みの姓を持つ者同士だった。彼女たちは和室の座卓に隣同士で座った。
「アミちゃんっていい名前ですね」
 橋下サクラは彼女の名前を聞いたときに、そう感想を述べたらしい。
「フランス語で『友達』でしたっけ?」
 そんなこと、彼女の知るところではなかった。
 橋下サクラはフレンドリーな笑顔を浮かべて、勉強会の間中ことあるごとに彼女に話しかけていたという。彼女が撮影の事務所で手伝いをしていると話すと、橋下サクラもフリーのカメラマンをしていると、自分のSNSのアカウントやホームページを教えてくれた。そして最後に、
「あの……私の友達になってくれませんか?」
 橋下サクラは彼女にそう言った。

「苦手です。ああいう人」
 話し終えた彼女は疲れ切った表情でそう僕に言った。
「まあ、君はそうかもしれないね。ほどほどに付き合っておけばいい」
「たぶん、同族嫌悪なんです」
「それは、君と彼女が?」
「まだよくわらかないけど」と彼女は前置きして「私が彼女だったかもしれない。彼女が私だったかもしれない。そんな感じがするんです」
「ふうむ」と僕は唸って見せたけれど、否定も肯定もしようがなかった。

 橋下サクラがこの業界で有名なのは、その悪名のせいだった。
 フリーランスの集まりや大きなプロジェクトに顔を出しては、売り込みや自己アピール勤しむ騒がしい人だった。本人が語った撮影以外にもいくつかの分野に手を出していて、広告やホームページのデザイン、ライターのようなこともしていると、そこかしこで自分の才能をアピールしているらしい。実際、いくつかのフリーランスのコミュニティに参加していて、そういうところで引き受けるプロジェクトにも、ちらほら名前を見かけることがあった。
 だが、橋下サクラが顔を出したコミュニティやプロジェクトは、ことごとくに修羅場になり、炎上、崩壊、ろくな結果にならないのが常だった。直接関わった知人から事情を聞く限り、能力もないのにでしゃばり、リーダー格を引き受けて、散々周りを振りまわしているらしい。
 実のところ、僕も彼女と一度仕事を共にしたことがある。それは企業サイトのリニューアルのプロジェクトでのことだった。知人の依頼で僕はそのプロジェクトに使う画像の撮影を頼まれ、橋下サクラはその企業のウェブサイトの一部とそれに伴う各種広告のデザインを担当することになっていた。それなりの規模のプロジェクトだったから、橋下サクラと直接やりとりをすることはほとんどなかったし、彼女も僕のことを覚えてはいないだろう。
 そのプロジェクトのおり、橋下サクラの所属していたデザインの部署から、僕はかなりのリテイクをもらった。これ自体は仕方のないことだ。相手方から要求されているものをうまく掬い取る作業は、根気と忍耐と慎重さが必要とされる。僕はいつものように根気よく写真を撮り続けた。
 問題は橋下サクラの方で、彼女の担当しているサイトの原案や広告の原稿は遅々として進んでいなかった。チーム内でトラブルが起きて、やむを得ずやり直しをせざるを得なくなったというのが、当時僕が受けた説明だった。おかげでこちらも休日返上で追加の撮影をしなくてはならなくなった。そのうえ、一度撮影の遅れを厳しく指摘するメールがデザインの部署から送られてきたこともあった。僕はそのメールに平謝りの返信をしたが、内心では心底呆れていた。そちらの都合で無理なスケージュールを組まされたあげく、失礼かつ乱雑な(てをにはレベルの誤りがいくつもある文面だった)メールまで送ってくるとは。ギャラは悪くなかったけれど、案件としてはハズレの部類だった。
 のちにそのプロジェクトに誘ってくれた知人から聞いたところでは、サイト制作のおり橋下サクラがどこかのデザインを盗用したらしく、それを指摘された彼女がすっかり拗ねてしまって、周りの人間が急場で一からやり直したらしい。あれはひどかった、と知人はこれ以上なくうんざりしたうんざりをうんざりして語ってくれた。
「そんなんじゃ、すぐに仕事なんてなくなるだろうに」
「いや、それがね……」
 それでも橋下サクラがマルチクリエイターとやらで生き残っているのは、コミュニティを渡り歩く能力が異常に高いためだった。一時期寄っていたコミュニティから冷遇され始めると、何食わぬ顔で別のコミュニティに浸透し始め、とある業界での評判が落ち始めると、事情を知らない別の業界に鞍替えする。そんなことを方々で続けているらしい。自身をマルチクリエイターなどと謳ってはいるが、実情を知る人間からは「壊し屋」「イナゴ」「焼き畑農業」と散々な言われようだった。
 悲しくもおぞましいことだが、橋下サクラに一切悪意はない。それどころか、いつも自分を被害者だと思っているはずだ。私は不当に貶められていて、どこかに私を認めてくれる居場所がきっとあるはずだ、という物語の中に生きている。僕にはそれがわかる。

 *

 いつからだっただろう、塾内で僕の知らないことが増え始めたのは。
 僕はもともと独りで多くの時間を過ごす人間だった。塾の中核メンバーになっても、それは変わらなかった。喜多川達が自主的な勉強会や集まりの場を拵えても、気乗りしなければ参加はしなかった。そうしているうちに、塾内でも初期のメンバーの中で僕だけ呼ばれない勉強会が行われていたり、知らない間に次のイベントや議題が決まったりし始めた。
僕はそれを当然のこととして受け入れた。
 実のところ、すじかい塾のような場所を、僕は積極的に作ろうと考えていたわけじゃない。ただ、先生と飲みに行っていたころの延長で、あれやこれやと人のやりたいことに手を貸しているうちに、こんなところまで来てしまっていただけで。だから本当は、僕が「中核メンバー」だなんて言うのも本当はおかしなことなのかもしれない。僕はずっと「手伝い」という意識のまま彼らと一緒に過ごしていた。彼らが僕抜きで色々なことを決め始めたのも当然の成り行きだ。そのことを、僕は悲しいとも恨めしいとも思わなかった。
……そんな僕の態度が、あるいは彼らを傷つけていたのかもしれない。僕がいつまでも「手伝い」気分で、彼らの「友達」にならなかったことが、あいつらをいくらか不安な気持ちにさせていたのかもしれない。すじかい塾も消えてしまった今となって、僕はようやくそのことに思い至っている。

 塾にいたころ、飲みに行く場所といえば決まっていた。塾の近くにあった個人営業の小さな居酒屋だ。地域の学生たちのいくらかは市街地のチェーン店よりこの店を好んだ。とくに飯がうまかったわけじゃないし、特段安いわけでもなかった。ただ近くて酒が飲めて、だし巻だけは絶品だった。それ以外に取り立てて言うべきことのある店でもなかった。しいて言うなら、壁も机も学生たちの落書きだらけだったことだ。その店に通う青年たちは、そこに自分たちの名前を刻むのをマナーか通過儀礼かなにかと勘違いしていたのだろう。飲みに行くたびにどこかに新しい名前が増えていた。部活、サークル、相合傘に、教員の悪口、キャラクターイラスト、末尾の消えた電話番号。まるで青年たちの話し声が、空気中で文字に固まって、そのまま店中に張り付いてしまったようだった。当時あそこにあった落書きの、それぞれの背景や事情や物語をすべて掬い取れたなら、どれだけ素敵だっただろうか、と僕はときに思う。段ボール詰めにされたサルたちを野に帰してやるような、暖かな光景が手に入ったかもしれないな、と。
 あのとき喜多川の話を聞いていたのも、あの居酒屋で落書きに囲まれながらのことだった。喜多川は珍しく僕一人を誘って、僕らはサシで飲み合っていた。塾の近況のことを少し話して、あとは黙々と二人で酒を飲んでいた。なにかの我慢比べみたいに。僕はずっとビールを飲み、喜多川も最初はビールを飲んでいたけれど、そのうち日本酒、ウィスキー、果てはウォッカと、無節操に度数を上げていった。このままだと、泥酔した喜多川を引き摺って帰る羽目になる。ロープも台車もない僕はあきらめて、
「で、なんだ?」
 と訊いた。
「色恋の相談ならお門違いだぞ。砂森にでもしてやれ」
 小学生レベルのノリが好物な砂森なら、赤い顔して食いつく姿が想像できる。
「バカ言うな。そんなもん、死んでもおまえになんか話すか」
「うん、賢明だな」
「はあ、まあいい。俺はただ、これからのことをおまえに訊きたかっただけだ」
「これから?」
「これから、俺たちがどうすべきか、だ」
「注文した分食って、ちゃんと勘定を払って、帰って寝る。だな」
「俺たちは先生になるべきなんだよ」
 喜多川は僕の軽口を無視してそう言い切った。
「先生、ねえ?」
「学ぶ側から教える側に変わるんだ」
「それは今でもやってるだろ」
「それは、なんというか、学生のままごとの延長みたいなもんじゃないか。そうじゃなくて、本当に、プロフェッショナルとして、だ」
 言わんとすることは、なんとなくわかる。個人の集まりの勉強会みたいなものじゃなく、社会の中でそれなりの地位や評価を得る、すじかい塾をそういう場所にしたい、ということだろう。
「でもな、僕たちは研究者どころか院すら行ってない。ただの会社員とフリーランスだぞ。まあ教員免許だけならあるけど」
 酒を飲む手を止めて、喜多川が不愉快そうに僕を見た。
「なんでそんなもん持ってるんだ?」
「家庭の事情だ」
「ふん、つまらん」
 喜多川はなぜか拗ねたようで、僕を睨んだ。
「とにかく、俺たちは、もう子どもじゃない。学生じゃない。いつまでもこんな感じで内輪の勉強会じゃだめなんだよ」
「まあ、一理ある」
「誰かになにかを手渡せる人間に、ならなくちゃ、いけない」
「ふむ」
 喜多川が言ったことは、言葉だけなら、それは一種の人間性の物語だ。人は生まれて受け取って手渡して死んでいく。そういう類のベーシックなヒューマニズム。だが、喜多川の口調はどこか強迫的だった。そうならねば、自分に価値はない。親から期待される子どものような、無垢で悲惨な願いの欠けらを、僕は見て取れた。
「そう、俺たちは、『先生』になるんだよ」
 喜多川の言う『先生』が一般名詞ではなく、固有名詞であることを僕は当たり前に理解することができた。僕たちはいつのまにか「先生」と『先生』を使い分け、それを聞き分けられるようになっていたのだ。喜多川の纏う陰惨な空気の渦が、『先生』という言葉とともに、収束して消えていった。渦の中心に残ったのは、いつもの劇がかった男だった。喜多川は、劇のセリフのように「そうだ、そうだ」と宣った。ここがもし舞台の上だったなら、BGMが切り替わるタイミングだ。
「でもな『先生』は先生としては、たぶんダメな人だ」
「どういう意味だ?」
「彼は本来的には人になにかを与えるような人じゃない。彼のしたことの結果が、人になにかを与えて、それで与える人のように見えているだけで」
「それでいいじゃないか。俺たちも、そんな人間になればいい。自分のしたことが、自然と人になにかを与えられるように」
 喜多川の声は熱を帯びて上昇していく。その様は、小学生のころに実験で作った、ゴミ袋の熱気球を思い出させる。こんな構造じゃ校舎の屋根にも届くまいと、眺めた校庭の空。
「おまえは、たぶん勘違いしてるんだよ」
「どこがだ」
「おまえは、『先生』になりたいんじゃない。『先生』に憧れる自分でいたいんだよ」
「なにを」
「おまえは与えたいんじゃない。与えられる人間だと認めてほしいんだよ」
「やめろ」
「誰もおまえの父親にはなれない」
「おい!」
 僕もアルコールが入っていた。いつもならば、僕もそこまで言うことはしなかった。あのときは、でも、このままではよくない、と思ったのだ。このまま喜多川が自身の欲望に目を向けないのなら、彼自身も周りも痛めつけられておしまいになるだろう、と。
「おまえには、俺がそんなつまらん人間に見えるのか。俺がその程度の、エディプスコンプレックスを引き摺った、承認欲求まるだしの、紋切り型の人間に。俺はおまえに失望したよ。その程度の一般論で、人を分かった気になるやつだなんて思わなかった」
「自分がその程度じゃないという強固な感情に、論理的な根拠や裏付けがないなら、それはただの『否認』だろうさ。よくある落とし穴だ。自分たちがそれほど愚かな落とし穴に嵌るわけがないというのが先にあるから、穴の中でそこが落とし穴であることを認めようとしない」
「おまえ!」
「ここにも、どこにも、おまえの父親はいないよ」

 そして、僕は飲みさしのジンを正面から浴びたけれど、とくに反撃はしなかった。ただ、今日は奢ると言って、二人分の勘定を払い、ひとりで店を出ただけだ。
 今思えば、喜多川が僕の撮った写真を手ひどく批判するようになったのは、あれがきっかけだったのかもしれない。いっそもっと開き直って、おまえが求めているのは率直な意見や学問や芸術への探究なんかじゃないよと、言ってしまうべきだったのかもしれない。おまえが欲しいのは、参観日に自分の演劇を見に来てくれる父親じゃなかったのか、と。
 あるいは初めから僕の方がおかしかったのかもしれない。というか、おかしいのだろう。

 彼女の話を聞くかぎり、橋下サクラはかなり塾に食い込んでいるようだった。
 まだ正式に入塾しているわけではないらしいけれど、喜多川お気に入りの新人で、彼女の写真をなにかの折に激賞したらしい。
あれを? 
 僕も以前に橋下サクラの写真を何枚か見たことがあるし、塾から帰ってきた彼女にも、最近の橋下サクラの写真を見せてもらったこともあったが、しかし……。

「どう思います?」
 事務所の作業机に橋下サクラの写真を並べ、自分の端末にもいくつかの画像を映し、彼女は僕に訊ねた。僕は彼女の差し出した端末の画像と、勉強会で配られたという数枚の写真をゆっくり眺めて、それから少しだけ考え込んだ。この写真がどういうものか、というのなら、僕は自分の知識と技術を使って説明することはできる。だが、それを今彼女の前で口に出すことは……どうなんだろう。僕は静かに首を横に振った。それから、
「僕の写真とはだいぶ違うんだろうね」とそう言った。
 彼女は不満そうに僕の顔を覗き込んだけれど、僕は天井を仰いで小さな染みを眺める以外しようがなかった。
 それはいつもの僕の事務所でのことだった。僕と彼女は、小さな座卓を挟んで向かい合っていた。一人暮らし用の折りたたみの座卓を、僕らは作業机と呼んで使っていた。彼女が来る前は、そこに名前なんてなかった。
年は明け、重い石塊をコンクリートの上で引きずるように、季節はゆっくりと冬から春に移り替わろうとしていた。冬を越すたびに、僕は自分が年老いて傷んでいく気がしていた。冬の寒さが、少しずつ、でも確実に、僕の中に完治のしようのない古傷を増やしていくのだ。
 僕は自分の目の前の写真と、写真の置かれた作業机を見ていた。ずっと昔のことを思い出す。写真と机と二人。僕のいる場所には先生がいて、向かいには僕がいた。先生は楽しそうに、軽快に、写真を手に取り、あれはこうだ、これはどうだと、講釈を垂れ流していく。僕は先生の講釈を、きれいな石を見つけた子どものように無言でせっせとかき集めていく。
「喜多川さんが、とても褒めてたんです」
「喜多川が?」
「『この写真には生の本当がある。畢竟、実存がある』みたいな感じで」
 彼女のする喜多川の声マネがうまくて、僕は少しだけ吹き出してしまった。この、芝居の中で芝居をするようなわざとらしさが、実に喜多川らしい。
「この写真を喜多川が褒めた、か」
「はい」
「ふうん」
 僕は、困った。喜多川が実際に何と言ったかまでは想像するしかないけれど、これをなぜ喜多川が激賞したのか、皆目見当がつかなかった。うーん、あーん、と情けない唸り声をあげる僕を、彼女は楽しそうに眺めていた。このまま彼女に笑われるのも居心地が悪いし、しかたない、やってみよう。
「これは、桜の枝だね」と僕は一枚の写真を手に取った。
「大ぶりの枝が一本、アップで写っている。先に開花した紅紫の花をつけて、右から左に突き出ている。背景には画面奥から右にカーブした河川敷。枝の流れが画面中央で河川敷と交差している。手前の枝にピントを合わせて、背景はぼかす手法。かなり強めにぼかしてあるから、もしかしたら事後的に画像処理をしているのかもしれない。よくある画といえばよくある画だ」
「それって桜なんですか?」と彼女は僕に訊ねた。「二月の写真って聞きましたよ」
「河津桜。早く咲く品種なんだよ」
「へー」
「天気は晴れ。河川敷によく日が当たっている。この近くのK川の上流のあたりかな。この場所には覚えがある。なら画面奥が北で、光は東からだから、時刻は朝の十時くらいだろうか」
「なんだか推理みたいですね」
「でも犯人捜しをするわけじゃない。むしろ逆だな」
「逆」
「この写真にヒトはいない」
 僕がそう言うと、決め台詞を放った名探偵でも見るように、彼女が期待した目で僕を見る。やっぱり自分が見世物になっているようで、少し居心地が悪い。それに、申し訳ないけれど、彼女が期待するような名推理がこの先にあるわけでもない。
「奥から右に流れる河川敷の距離と、平日昼前の時間、そしてこの地域は比較的観光客も立ち寄る箇所だと考えると、この画面全体に、人を捉えないことは不自然だ。おそらく、人が入らない画を撮るために、長い時間この撮影場所で待機して、そうしてようやく撮った一枚なんだろう」
「それは、じゃあ橋下さんはとても頑張ったってことですよね」
「努力としてはね」
「でもなんで橋下さんは人が写らない桜の写真を撮りたかったんでしょう?」
「この物語の中の主役は桜なんだ」
 物語、と僕は言った。
「川の流れを貫くような枝と、その先にある花。それがこの写真の物語。自立と反抗と開花の物語。言うなれば、少女向けの自己実現の物語、だな。それを遮るものは背景に押し込まれた。まるで安っぽいモブの書き割りみたいにね」
 話しながら、僕は口の中に苦みを感じていた。痛みに近い苦み。この話し方じゃ、先生の劣化コピーだな、と。できればどこかで静かにビールが飲みたかった。
「まだ、大衆受けするソメイヨシノは開花していない。自分は他のサクラとは違う。そう、彼女は自分を撮りたかったんだね」
「ああ、そうか。『サクラ』ですもんね」
「だれか、そう指摘する人は、勉強会ではいなかったのかな。わかりやすいアイコンだと思うんだけど」
「いいえ。みんな光とか場所とか、その感覚的な話とか、そういうことを言っていました」
「――そうか」
 喜多川、おまえ、なにをしてるんだ? 僕は馴染みの顔に不満を投げつけて、それから、
「で、だ。本題はここからだ」と僕は続けた。
 僕がそう言うと、彼女は僕の方を改めて向き直った。楽しそうに、なにかこれから始まる劇を期待する子どものように。この顔を、僕は知っている。
「この写真、ヒトを写していないけど、本当は人が写ってるんだ」
 推理小説なら探偵の謎めいたセリフかもしれないけれど、僕は別にそんな効果を狙ったわけではない。ただ、事実を言葉通りに言っただけだ。
「画面の右端、河川敷の歩道に細く見切れた人影がある」
 それはおそらく帽子の端だろう。顔までは写っていないし、像もぼけているけれど、帽子の下に流れる白髪交じりから初老の、おそらく男性だろうと知れた。
「ありゃ、本当だ」
「気づかなかったか、気づいてもたいした要素じゃないと、そのままにしていたんだろう」
「初歩的なミスみたいに思えます」
 彼女の目が急に厳しくなる。それはプロの目だよ、と僕は彼女に言わない。ああ、もう自然とそんな目ができるのか、彼女は。
「かもしれない。単純なミス。仕事で出すならアウトだろう。ちょっとツールでも使って修正すればいけるかもね。でもまあ、そのミス自体は、特別見るべきものじゃない。問題は、なぜこんなミスが起こり得たのか、だよ」
「それは――橋下さんの不注意で」
「うん、それはそうだ。でも僕が言っているのはね、そもそも無理にヒトを排除した写真を撮影したこと、そのものに橋下さんの問題がある、ということさ。そこに彼女の本質的な歪さがある」
「ホンシツテキ」
「大仰な言い方だけれど、本質、核、なにが基盤になっているのか、そういうところ。さっき話したけれど、この写真は自立の物語だ。おそらく橋下さんは、他者に抑圧されないことを強く意識している。ある種のリベラルな女性が、女性に対する社会的な抑圧、自然に型にはめるようなあの抑圧に対して感じる、激しい嫌悪感。その裏返し、それがこの写真なんじゃないかな。だがそれは時に、自分の自立の物語に没頭して、それ自体が強い型になってしまう。父なる者に対する徹底的な排除が、その型を凝り固まらせ、結果、現実との齟齬をきたす。その齟齬がその人影、父なる者の似姿というわけだ。だから逆説的にこのミスこそが写真の完成度を上げているともいえる。この写真の歪さ、チープさを証明する傍証として」
 僕の目の前で彼女は、うまく魚を呑み込めなかったアシカのような顔をしていた。うん、僕が少し早口にしゃべってしまったせいだろう。
「えーっと、田村さんは、この写真を褒めてるんです、か?」
「いや。技術的にはまだまだだし、橋下さんの意図もたぶんに見え透いている。だから単純に写真の評価としてはたいしたものではない。けれど、そういった単純な評価とは別の部分で、この写真には見るべきもの、読みとるべきものがある」
「それ、橋下さんに教えてあげたら……」
「きっと怒るだろうな。自分はそんなつまらないものじゃない、ってね」
「そんな。だって、勉強会じゃだれもそんなに詳しく見てなかったと思います。なんか、その、もったいないです。田村さんの分析」
「僕のはあくまで一つの見方、やり方だよ。べつに詳しいとか、正しいとか、分析だとか、そういうことじゃない」
 この言いわけを使うのは久しぶりだな、と僕は思う。
「君はどう思ったんだ? この写真、思うところがあるから僕に訊いたんじゃないか」
 彼女は大きな空気の塊を飲み込んで、それから少しずつ話し始めた。
「まだうまく言えないんですけど」
「うん」
「私が思ってる『写真』とは違うなって」
「うん」
「なんだか、素人っぽいし、みんなが褒めるようなものなのかなって。自分でもひどいことを言ってるって思うんだけど、正直、ちょっと、その、こんなものなのかなって」
「うん」
「でも、田村さんの話を聞いて、自分はそこまでこの写真を見てなかったなって思って」
「さっきも言ったけど、僕のは一つの見方に寄った解釈にすぎないさ。いや解釈とも言えない、ちょっとしたコメントみたいなもんだよ」
「田村さんって、どんな写真もそんな風に見てるんですか?」
「必要があればね」
「どうやったら、そうやって、いろいろ考えて、言葉にできるんですか」
「どうやって、か」
 僕は、楽しそうにしゃべり続けるかつての誰かのことを思い出す。
「べつに特別な技術や勉強がいることじゃないよ。ただ」
「ただ?」
「どんなものにも意味がある。いや、どんなものも、意味でできている。それを忘れないでいればいい」
「それは……すべてのものには価値がある、ということですか?」
「少し違う。たしかに言語学的には意味とは価値性だとも言えるんだけど、今はそういう話じゃなくて……」
 僕は抽斗からちょうどよいペンを探し出すように、記憶の中をあれでもないこれでもないと掘り返してみる。
「漱石の夢十夜が近いかな」と僕は言った。「仏像を木から彫り出す運慶の話。わかるかな?」
 彼女はわかったような、わからないような顔で、うーんと唸って黙り込んでしまった。僕は軽く笑って、
「でもね、写真を撮るだけなら、こんなのは不要なことだよ」と言った。「それに君は僕の真似をする必要はないんだしね」
 僕はそう言ったのだけれど、彼女は難しいなぞなぞを前にしたように、すっかり考え込んでしまったのだった。

 彼女の前ではそんな風に言ったのだけれど、僕にとって、橋下サクラの画は単純だった。なにを撮りたいのかは一目瞭然だけれど、そこからそんなのものは汲み取れないのに、無理やりそれを撮ろうとして、結果的に画それ自体が破綻する。本当はそこにはもっと複雑な意味、痛切な物語があるのに、橋下サクラは自身の見たいものしか見えていない。そのうち現実との齟齬も繕いきれなくなるだろう。
 そういうのは、写真でなくても、なにかものを作る側の人間が陥りやすい、よくある罠の一つなのだ。自分の物語があまりに強固であるがゆえに(あるいは強固だと思いたいがゆえに)、現実界の方をねじ曲げようとする。
 おそらくその種の齟齬を橋下サクラ自身は気づいていないのだろう。そこに写る他者の世界ではなく、ただひたすら肥大化した自我を写真の中に投影してきたのだ。傍から見れば哀しい所作だが、他人が何を言っても悲惨なことにしかならないので放っておくしかない。ただ、ときにそういう自我は似たような自我たちの王国に流れ着くことがある。互いが互いを際限なく肥大化させるハウリングが起こり、しまいには救いのない暴走に行きつく、例のアレだ。
 すじかい塾と橋下サクラ。
 もしや、と僕は思う。だが、まさか、あの場所が、と。

 僕の部屋に珍しい客が訪れたのは、四月の中頃だった。
 新学期が始まったおかげで、彼女の方は今までの塾と僕の部屋を往復するような日々から打って変わって、受講登録やらテキストの購入やら、真面目に勉学の準備に勤しむようになっていた。良いことだと思う。僕の方もなんだかんだと忙しい時期で、塾のことなんぞすっかり忘れて、日々の労働に勤しむ日々が続いていた。あるいは、こんな風にお互い仕事と勉学に分かれて離れていくのも一つの道なのかもしれないな、などと詮無いことを考える。そしてそのうちに、そんな詮無い考えさえも日々の忙しさの中に消えていく。すべき仕事が目の前にあるというのは、たぶん幸福なことなんだろう。実感はないけれど。
 そんな日々に浸っていたある日、珍しく電話があった。個人的な電話なんていったいいつぶりだろうか。声の主は懐かしい男だった。今から30分後に部屋を訪ねてもいいでしょうか、と馬鹿丁寧にそいつは言った。
「かまわないよ」
「すみません。急に」
「気にするな。ちょうど時間も空いてたし、おまえが電話なんてかけてくるんだから、それだけの用事なんだろう。茶でも淹れて待ってるよ」

 砂森俊介が僕の部屋を訪れたのは、それからきっかり30分後だった。時間通り。時間通り過ぎるのは、きっと早めに近くまで来て時間を潰していたからなのだろう。そういう男だ。
 僕は部屋の真ん中の作業机(という名の安物の座卓)に紅茶(安売りしていたティーバッグの)を二杯用意して一年下の後輩を迎えた。きれいに染めた茶混じりの金髪に、どこぞのブランド物だろう紺のスーツという出で立ちで、一見すればチャラい系か輩の類に見えなくもない。けれども男性にしてはやや小柄な体系と、顔の印象の幼さなさのおかげで、彼の着こなしが下品の基準を下回ることはない。せいぜい、馬子にも衣裳、慣れてないせいで好感が持てる類の、あの親密さを、砂森からは感じることができた。あるいは、自身の幼く見える容姿を計算に入れたうえで、あえていつもやや気障な格好を選んでいたのかもしれない。それが砂森という男をギリギリ成り立たせるバランスだったのかもしれない。
 僕は砂森に紅茶を勧めて「すまん」と言った。「茶菓子が見つからなかった。いつもは助手が勝手に冷蔵庫になにか入れてるんだけど、最近忙しいみたいで来てなくてね」
「とんでもないです。こっちこそすみません。急に訪ねてきてお茶までいただいて。むしろ俺がなにか持ってきたらよかったです。すっかり抜けてました」
 砂森はそう言ってから自分の失敗をごまかすように、紅茶に口をつけた。
「そういえば、今日は橋本さん、いないんですね」
「ちゃんと学生やってるみたいだよ。偉いもんだ。あ、もしかして彼女の方に用だった?」
「いえ、田村さんに聞いてほしいことがあって」
「おう」
「あの俺」
 そう言ってから、砂森はきっかり30秒間沈黙した。僕は部屋の掛け時計を横目で見ていたからわかったのだけれど、計ったような30秒だった。もしかしたら、事前にここで30秒間沈黙する練習でもしていたのかもしれない。そんな計画的な30秒だった。
「塾、辞めることにしたんです」
「そうか」
「はい」
「いちおう訊くけど、なぜ?」
「結婚することになったんです」
 ケッコン?
「そりゃ、ああ、おめでとう」
 僕は自分で『おめでとう』と口にしてから、『ケッコン』とは『結婚』のことだと気がついた。
「ありがとうございます」
「でも、べつに塾を辞める必要はないんじゃないか?」
「決めたんです。結婚したら塾を辞めようって。なんというか、区切りにしたいんです」
 砂森は僕をまっすぐ見ていた。喜多川の過剰な劇っぽさとはまた違う、実直な演技のような言葉と仕草だ。言うべきセリフ、すべき所作を、台本通り間違いなく行う、そういう類の。おそらく、何度も頭の中で僕に相対するシミュレーションをしてきたのだろう。でも、いったいなぜ? 僕に?
 僕の反応をしっかりと確かめてから、砂森は部屋の中を見回した。
「いい部屋ですね」
「ありがとう。散らかってるけどね」
 僕の部屋の壁はいたるところに写真が張り付けてある。メモ程度のつもりでコルクボードに留めていたのが、いつのまにやら収まりきらなくなって、気づいたらこんなことになっていた。いいかげん整理しなくてはと思っているのになかなか手が付けられずにいる。写真がない壁はたいてい棚で埋まっていて、むかし読み漁っていた本や撮影機材、その他日用品が大小さまざま、床に置くよりましだからという体で突っ込んである。お世辞にも「いい部屋」なんて言えたものじゃないのは自分でもよくわかっている。
「こんな部屋に住みたかったな」と砂森は言った。
「どうして?」と僕は柔らかく訊ねた。彼の微妙なバランスを崩さないように。
「俺、みんなみたいに、頭よくないし、田村さんみたいに得意なものもないから。こんな風に、本とか写真とか、音楽でもいいし、なにかこれだってモノに囲まれてみたかったんです。でもけっきょく、みんなについていくだけで精いっぱいだった」
「そんなことはない」
 砂森がずっと自分の学力にコンプレックスを持っていたことは知っていた。彼は中学高校とスポーツに勤しんで、大学も推薦入学だった。なにかしらの試験自体は受けてきたはずだけれど、自分には基礎的な知力が足りてない、とそう思い込んでいた。
「本を読むのが苦手だったんです。昔からぜんぜん文字が頭に入らなくて」
「ああ」
「でも、西町先生とかみんなと一緒に、少しずつ読めるようになって、楽しかったんです。なにかを学ぶってことが、楽しいことだって大学に入って初めて知りました」
「そんなおまえだからこそ、きっと塾に必要なんだよ」
 砂森は、わずかな痛みを無視したような顔をして、それから首を横に振った。
「ずっとみんなみたいになりたかった。最近ようやく、それが自分でわかるようになりました。みんなのあとを追っかけて、その仲間になりたかったんだって。覚えてます? 俺が初めて田村先輩たちに会った時のこと」
 あれはたぶん、先生の講義が終わったあと、廊下で少し西町先生と学生数人で雑談をしていたときだと思う。見ない顔の学生が一人、いつのまにか混ざっていた。まるで座敷童みたいに。たぶん受講生の誰かだろうという感じで、誰も、僕も気にせず、雑談に興じていた。それから、いつのまにか砂森が講義の終わりの雑談に顔を出すのが当たり前になっていた。あとで知ったことだけれど、砂森は別にその講義の受講生というわけではなくて、ただの通りすがりの学生だった。でも、大学なんてそんなものだ。少なくとも僕らはそんな気でいたから、砂森が半ばもぐりの受講生と化しても誰もなにも言わなかった。先生なんか面白がって砂森の出席カードも集めていたくらいだ。
「あんな、なんていうか、知的だけど、熱意があって、ああいうの。勉強するって机に向かって問題集やるようなのしか考えたことなかったから、すごく、その、楽しくて。そういう世界に俺も関われるのかなって。俺もその世界の中でなにかできるのかなって。すみません、俺、今うまく言えてないですよね」
「大丈夫、わかるよ」
「俺、やっぱりみんなみたいに、うまく言えないんです。自分の言葉で話したり、自分でなにか作り出したり、そういうのが決定的に苦手なんです」
「それは、違う。買い被りだ。みんなそんなになにかうまく言えてるわけじゃないんだ。言ってる本人たちだって、自分が言ってることの半分を理解しているかどうか怪しいもんだ。おまえだけが特別苦手なわけじゃない。あの喜多川だって……」
 僕が喜多川の名前を出したところで、砂森の顔に憂いが浮かんだのが見て取れた。はっきりと、その名前を聞きたくなかったと、そう僕に伝えていた。
「なにか、あいつに言われたのか?」
 その言葉が思った以上に鋭く出たのを僕自身自覚していた。砂森が慌てて否定するその様に、わずかな怯えの色があった。
「いえ、だいじょうぶです。喜多川さんに直接なにか言われたわけじゃないんです。だた、喜多川さんが今目指しているようなのが、なんだか最近『怖い』って気がしてきたんです。その『怖さ』から、俺はたぶん逃げようとしている、そんな気がするんです」
「『怖い』?」急に現れたその言葉は、妙な説得力があった。「それは、なにか喜多川が、法に触れるようなことをしている、とか?」
「いいえ、そういうんじゃなくて……」
 言葉に詰まった砂森は、僕の部屋をもう一度見回した。自分に適した言葉を僕の部屋のどこかに見つけ出そうとするように。あるいは、テストの時にヒントになる掲示物でもないかと難儀している小学生のように。砂森は壁に張った写真を一通り見渡して、それから自分を落ち着けるようにゆっくりと息を吐き出した。僕の部屋になにか都合のいいヒントでもあったのならなによりだ。
「大学の夏休みに、バイクに寝袋積んで一人旅をしたことがあるんです」
 そう砂森は切り出した。一人旅。そんな話を砂森から聞くのは初めてだった。
「国内の遠いところ、普段行かないような、山の中の国道とか、海沿いの県道とか、適当に走って回る……つもりでした」
 砂森は恥じ入るように声量を少しだけ落とした。
「最初の一日目はなんてことなかったんです。たぶん、はじめてそんな一人旅をしたものだから、気分が上がっていたんでしょうね。エンジンを回せば回すほど、自分の元いた世界から自分が遠くに離れていくのがわかりました。俺はどこまで遠くでも行けるんだっていう、なんていうか、万能感みたいなものさえありました」
 ばかみたいでしょ、と砂森は付け加えたけれど、僕は、そんなことないさ、と首を振った。
「でも二日目の夜になって、急に『怖く』なったんです」
 砂森は軽く右手で口を押えた。
「あれは、山の中の田舎の無人駅でした。夜の一一時で駅には誰もいませんでした。羽虫だらけの照明は薄暗くて、便所のにおいが待合のベンチまで臭ってきました。その日はそこの待合室のベンチに寝袋を敷いて寝るつもりでした。ここまで誰もいないなら誰にも迷惑は掛からないだろうと思って。
 でもいざ寝袋を敷いて、目を瞑ると、全然眠れないんです。ハエみたいな大きさのが額をひっきりなしにコツコツ叩くし、ふと見ると非常食を入れてたリュックにアリがたかっているし、全然落ち着いて寝られない。そうこうしているうちに、だんだん、俺なんでこんなところにいるんだろう、って。素に戻るとか我に返るとか、そういうのに近いと思うんですけど、でも違うんです。それは『怖さ』だったんです。こんなところで、いつもの世界から遠く離れて、俺は馬鹿みたいじゃないか。こんなところで虫まみれで、なんの勉強にもならない。帰って資格試験の勉強でもしてる方が生産的じゃないか。一度そんな風に思い始めたら、だめでした。今自分のいる場所が、なんの強度もない、今にも崩れそうなボロボロの骨組みの上なんだって、そう思ったら……」
 すみません、と砂森は話を区切った。俺今から馬鹿な話をします、と砂森は言った。僕は頷き、わかった、と言った。
「……本当に揺れたんですよ。地震だと思ったんです。危ないって本気で思って、寝袋から這い出て無人駅から飛び出たんです。それから、その、外に出たら揺れが収まってるのに気づいて、持ってた携帯端末で地震があったかどうか確認したんです。NHKのニュースとかSNSとか。でも揺れてなかった。地震なんてなかったんです、どこにも」
 砂森の言葉には悔恨の色があった。それがとてもひどい過ちで、口にするのは恥ずべき事だと、彼自身がそう思っていた。僕にはそれがわかる。とてもよく似た悔いの感情を、僕たちは何度も見ていたのだから。
「情けない話なんですけど、その次の日、俺は来た道をバイクで走って家に帰りました。できるだけ何も考えないように。家に戻ったのは、平日の昼でした。当時は実家暮らしだったんで、家には母親がいました。居間のソファに座ってテレビを見てました。テレビでは昼のニュースショーが流れていました。今でもその画面に映っていたタレントの顔を思い出せます。真剣そうな顔の演技をしながらクソにもならないことをしゃべってました。くだらないことだけど、なぜか覚えてるんです。それで、母親は俺を見て『もう帰ってきたの?』って。俺は『ああ、うん』って言って。それだけ。それで俺の一人旅は終わってしまいました。次の日から、普通に飯食ってバイト行って、すぐにそんな短い旅のことなんて忘れてしまいました」
 すみません、長々と、と砂森は言った。僕は、かまわない、と言った。
「俺が今塾に感じてる『怖さ』って、そういう『怖さ』なんです。地に足が着いてないというよりもっとこう、自分がこうしている地面が揺れてるような。前提そのものがなくなっちゃたような『怖さ』なんです。言ってること、支離滅裂ですよね、俺」
 僕はふうむと唸って少しの間考え込んだ。砂森の言っていることを、僕はちゃんと理解できているだろうか。うまく掬い取って言葉を返してやることができるだろうか。考えて、仕方ないから僕は正直に述べた。
「支離滅裂とは思わない。ただ、おまえの言いたいことを僕がうまく掬い取れるかは、わからない。僕なりに理解はしているけれど、それがおまえの感じている質感そのものだと、分かったように言うつもりはない」
「はい」
「その上で訊くよ」
「はい」
「結婚相手は?」
「へ」
「おまえの結婚相手だよ。誰なんだ? 塾のやつか?」
「あ、いえ、その実は小学校からの幼馴染で。高校の時にちゃんと付き合ってたこともあったんですけど、別れたりくっついたりして、今はなんか腐れ縁みたいな感じで、ずっと一緒にいるのが当たり前というか。なんか変ですかね、幼馴染と結婚とか。上手くいかない、とか」
「いや。いいじゃないか。おまえらしいよ。そうか、幼馴染、ね」
「あの、それがなにか?」
「それは、『怖く』ないのか?」
 砂森は僕を見ていた。きょとんとした、という顔をしながら、とても楽しそうだった。まるで、僕のくだらない解説を聞く彼女のような。
「え、ええ、まあ、結婚なんて言っても、今もほとんど一緒に生活してるから、ただ書類上の話で、なにか今すぐ変わるわけでもないんで」
「僕にはバイク旅行よりよっぽど大変な旅路に思えるよ」
「そうですか?」
「不安にならないのか? 途中で引き返したくなるかもしれない、とか」
「ええまあ、たしかに上手くいかないかもしれないって思わなくはないけど……そうですね、たしかに、『怖く』はないな。なんでだろう?」
「いいね。なぜあれがよくて、これがだめなのか。その差異には意味がある。考えてみるといい。僕から言えるのは、たぶんそれくらいだ」
「ああ、なんか、考えたことなかったです。今の塾についていくのは『怖い』けど、結婚するのはそんなに怖くない。たしかにそうだ」
 それから砂森は、ひどくおかしそうになって、自分の右腕を口に押し当てて笑いをこらえた。紺のスーツに少ししみができていたけれど、それすらおかしそうに砂森は笑った。
「先生みたいだ。ほんと田村先輩はすごいや」
「似てたかな。先生っぽくならないように、いつも気をつけてるんだけど」
「ええ、言葉は違うかもしれないけど、まるで先生と話してる気がしました。やっぱり田村先輩は本物です。俺はそう思います」
 砂森の言う『本物』というのが僕にはなにを指すのかよくわからなかったけど僕は精いっぱいの「やめてくれ」を言うだけだった。砂森は僕の白旗を見てさらにおかしそうに笑った。
 ひとしきり笑い終わった砂森は、
「俺は『怖い』んです」
と口にした。
「このまま何者にも成れないんじゃないかって」
 でもその言葉に、さっきまでの悲壮はなかった。なにか、開き直って笑って空を見上げるような、あっけらかんとした諦観があった。
 だから僕も少し笑ってしまった。
「みんなそうさ。これくらいの歳になると、なににも成れてない自分が嫌になる」
「田村先輩もですか?」
「もちろん。夜中に吐きそうになる」
「とてもそうは思えないですよ」
「こう見えて、けっこうナイーブな人間でね」
「はは、どの口」
「いいじゃないか。調子が出てきたな。そうだ、住所教えてくれ。お祝いになにか送るよ」
「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく」

 それからしばらくして、僕はもらった住所に祝儀とそれなりのカメラを送った。それが正しい選択だったのかはわからない。砂森はひどく恐縮した連絡をくれたが、僕は、気にするな、と返した。子どもが生まれたら写真でも撮ればいい、と。
 なにもかも終わった今でも、時々子どもの写真入りのハガキを砂森は送ってくれる。今どきわざわざハガキなのが、いかにも砂森らしい。

 *
 
「大学をやめて、撮影の仕事がしたいんです」
 五月の連休中、大学の方が落ち着いた彼女が、久々に部屋にやってきたと思ったら、出し抜けにそんなことを言った。僕は、PCに向かって仕事をしながら、ほーん、と唸った。まじめに大学に行ってると思ったら、なんじゃそりゃ。
「だめ」
「だめって、そんな一言で」
「まあ、本気でそう思ってるなら、止める権利は僕にはないけどね。でもやめた方がいい、これは真剣にね」
 僕はそう言って、彼女の方を振り返った。今日は特に助手がいるような仕事もないものだから、彼女は僕のベッドに腰かけてなにか本を読んでいたようだ。彼女のひざ元には真新しいテキストが何冊か積み重なっていた。彼女は困ったような、困惑したような、どうにも置き場所のない顔で僕を見つめていた。
「あの、私、写真の才能、ないですか? やっていけないですか?」
「いや、そういう問題じゃない。才能で言うなら、そりゃ僕よりあるよ」
 彼女の表情に、不思議さと不可解さのレイヤーが追加された。まあたしかに、僕と比べたところで仕方ない。
「ああごめん、僕よりはるかに才能がある、という意味だよ。ちゃんとやれば、十分食べていけるんじゃないかな。もちろんあんまり無責任なことを言える立場じゃないんだけど」
 なにを言っているのかわからない、と彼女の目は言外にそう言っていた。どうやらなにか間違えたらしい。
「ともかく、だ。今は才能の話は関係ない」
「じゃあ、なんで?」
「焦らなくていい、ということさ。君にはまだたっぷり水を飲む時間がある。飲むべき水がある。そういうのを飛ばして先に行くべきじゃない、と僕は思う。そもそもなんで大学をやめたいんだ?」
「その、なんていうか、このままじゃ、私、なににも成れない気がして」
「君もか」
「?」
「いや、なんでもない。詳しく聞こう」
「このままだと、大学に行って、単位を取って、たぶんそのうち資格試験とか就職活動とかして、そんな流れに乗っちゃうんじゃないかって」
「いいじゃないか。そういう風に生きられるなら。そういう生き方ができることだって、一種の才能だよ」
 そう成れなかった人間からすれば、羨ましい話だろうと、僕は思っていた。
「でも私、嫌なんです。それは、巻き戻っちゃう気がして。実家にいたころの自分に。もうあんな生き方をしたくないって、思うんです。教室とか家とか、あの感じは、嫌なんです」
 彼女の言う「あの感じ」というのを、僕も理解はできなくはない。空疎なキズナでコーティングした同調圧力と相互監視。愛情という言葉で誤魔化された過干渉と支配。子どもたちがうんざりしながら日々をサバイブしている、とある惑星の物語。
「でも君は強くなった」と僕は言った。「なら、同じような流れの中でも、違う生き方ができるんじゃないか。面従腹背というか、名を棄て実を取るというか――」
「私は強くないです」
 彼女は僕の話を遮って、強く言い切った。そして僕に対して怒っていた。なにを勘違いしているんですか! 私のどこが強いんですか? 言ってみてください。さあ、さあ。彼女の眼が僕をそう非難している。やれやれだ。
「君は、なにかに成りたい?」
「わからないけれど、たぶん」
「写真を撮ればなにかに成れそう?」
「成れないかもしれないけど、でも、このままは、なんか嫌なんです」
「本当にカメラマンになりたいなら、大学に通いながらでもできるさ。僕だっていちおう卒業まではして、いちおう写真で飯を食ってる」
ぜんぶ『いちおう』だけれど。
「はい」
 しぶしぶという体で彼女は小さく返事をした。
「それに、カメラマンとか写真家になったって、なにかに成れるわけじゃないと思うよ。僕がそうさ。べつになにかに成れたわけじゃない」
「そんな。田村さんは、私は、田村さんの、その……」
 彼女はなにか僕に言い返そうとして、けっきょく黙り込んでしまった。
 僕は困った。
 沈黙。
 なにを言うべきか考えて、二人で考え込んで、数分後に出てきたのは、またも場違いで素っ頓狂な言葉だった。
「君は誰かに恋をしている」
 表情の平衡を保つために、激しい感情が必要だった。
 彼女の表情は、さっきまでの怒気や焦りや困惑がすっかり洗い流されて、なにも引っかからない垂直な壁のように僕の前に存在していた。
「なぜそう思うんですか?」
「そういう相談を女の子からよく受けたものだから、女の子を見ると、なんとなくわかるんだ」
「よく?」
 わずかな苛立ち。疑念。でもそれも壁の表面をわずかに垂れた雫のようにすぐに消え去っていく。
「僕なら話しても大丈夫だろうと、そういう風に思われるんだろう。探りを入れるにはちょうどいいバッファ。あれだね、つごうの、『いいひと』というやつだ。でもまあ僕のことはいいとして、君の話。たぶん君はうまくその相手に振り向いてもらえていない」
 まるで強固なコンクリート壁に向かってしゃべっている気がした。彼女は重々しく時間をかけて、
「はい」
 と一言だけ返事をした。
「だいじょうぶ、君は魅力的な人間だよ。愛すること、愛されることに、少し自信をもっていい。いっぱいだと困るけどね。でも君なら少々自信過剰に思うくらいでちょうどいい。自分はもっと愛されていいんだって、胸を張るくらいでちょうどいい」
 彼女は困った顔した。
「だから――」
 と僕は言った。その接続詞に論理はないかもしれないけれど、僕はそう言うべきだと思った。
「なにも急がなくていい。焦らなくていい。君はまだ変わるし、変われる。これからいくつも恋をするかもしれないし、いっぱい失恋するかもしれない。今すぐなにかに成らなくていい。いやそもそも、なにかに成れた人間なんて人類史上きっとどこにもいないんだろう」
「よく……わかりません」
「きっと、どんな『先生』だって、なにかに成れたわけじゃないんだよ。少なくとも、本人の中ではね」
 なにかに成ることと恋をすること、それはまったく関係のない話のような気もするけれど、僕はそれが一番適切な語り口だと思った。
「万が一フラれたら飲みに行こう。愚痴くらいは聞いてあげるさ」
 彼女は「はい」とも「いいえ」とも言わずに、少しだけ笑った。つまらない冗談のささやかなフォローのように、少しだけ。

 *

 嫌な夢を見て目が覚めるのは、ひどく惨めだ。夢の中の自分を思い出して、自分はこの程度の人間なのかと、自身に失望したくなる。失望して、打ち据えて、踏みにじりたくなる。そして夢の中の自分より、失望している自分の方に、失望している自分に気づく。馬鹿馬鹿しい。
 事務所の小さな洗面所で顔を洗って、鏡で自分の顔を見る。毎日少しずつ老い、崩れ、ひび割れていく、くだらない人間の顔だ。この調子じゃ、半年も経たないうちにきれいさっぱり消え去って、残りの人生、毎日何も映らない鏡ばかり見るはめになるかもしれない。
 僕はいつのまにか30歳になっていた。誕生日はもう何日も前に過ぎ去っていたことにいまさら気がつく。30歳、気の利いた人間なら、結婚して、子どもだっているかもしれない。あるいはどこかの組織でそれなりの立場になっているかもしれない。だが僕にはなにもない。人をうまく愛することも、愛されることも。親愛も、友情も。自分の写真すら撮れていない。
 自嘲しているのか、おまえ。鏡の中で30歳の男が意地の悪い獣の顔をしているのがわかる。
 いっそのこと、彼女を愛するか。奪ってしまうか。なにもかも、めちゃくちゃにしてしまおうか。女を記号化して支配する。ナイフを持って、弱いものを刺しにじる。それはあいつらが(おれたちが)ずっとやってきたことだろう。さあ、そうすれば、おまえも少しは人間らしく成るかもしれないぜ。
 僕は鏡の前で一つだけため息をつく。偽悪的な言葉を積み上げても、なんの衝動も湧きはしない。善であれ悪であれ、今の僕を揺り動かすものはない。なっしんごなちぇーんじまいわーるど。下手に歌ってみて、僕も世界も一ミリも動いていないことを知る。
 いい加減朝飯の準備をしよう。今日は撮影の仕事がある。方向音痴の助手を拾って、出かけなくては。僕はキッチンで簡単に朝食を拵える。インスタントコーヒーとトーストと目玉焼き。とりあえずそれだけあれば腹は足りる。トーストと目玉焼きを腹に押し込み、上から味のしないインスタントコーヒーを流し込んだところで、着信があった。ディスプレイの通知を見た瞬間、僕の指はすぐさま応答していた。
「おはよう。朝早くにすまない」
 電話越しに聞こえるのは、やはりよく知った老人の声だった。
「どうかしましたか?」
 朝早くにわざわざ僕に電話をしてくるなんて、なにか緊急の用件かもしれない。たとえば塾でトラブルが起こったとか、あるいは僕の知っている人間になにか起こったとか。
「ああ、火急の用ではないんだ。すまない」僕が身構えた声を出したせいだろう、先生はバツが悪そうにそう言った。「なんだか、今ならいけそうな気がしただけなんだ」
「はあ」
 電話越しで、意を決したように先生が深く息をしたのがわかった。なんだろう、そんなに困ったことがあるのだろうか。金銭関係だと、僕ではあまり力になれないぞ。
「塾生たちが、写真の批評会とか勉強会とかをやりたいって言っててね。その講師を君に依頼したいんだ。退塾した君に頼むのもどうかと思うんだけれど、後輩のためと思って、お願いできないかな」
 ん? そんなことか?
「でも僕の撮影技術なんて、人に教えるようなものじゃないですよ。技術書をいくらか見れば書いてあるような基本的なことしか教えられませんよ」
「いや、そういう感じじゃなくていいんだ。写真家としての君の経験談とか、あるいはいつもみたいにみんなに混じって、一緒に色々言ってくれればいい」
「それ、ほんとにいつもと変わりませんね」
「さすがにダメかな」
「いえ、ご依頼とあれば引き受けますが、でもなんで僕を?」
「最近写真に興味ある子が増えてね。とくに君のところの橋本さんと、それからもう一人橋下さんって子がいるんだ、知ってるかな。塾じゃダブルハシモトなんて呼ばれてるよ。その子たちが起爆点になって、今塾じゃちょっとしたカメラブームになってるんだ」
「でもその二人は正規の受講生じゃないでしょう?」
「いやあ、なんかほとんど正規の受講生みたいな扱いで。よくモグリで話を聞きに来てくれるんだよ」
 モグリの受講生を楽しそうに容認している先生の様は、いつぞやのようだ。
「先生も相変わらずですね」
 そしてコンプライアンスはどうなったんだ、喜多川。
「ところでこの話、他の塾生は知ってるんですか?」
「ああ、ちゃんと企画の会議で了承を取ったものだよ。君が知ってるメンバーもみんな知ってる。砂川君は退塾しちゃったけどね。知ってるね?」
「はい、わざわざうちまで訪ねてくれましたよ」
「最後に彼のために小さなお別れの会をしてね、そう、君のところに挨拶に行ったと言っていたよ。えらく喜んでた」
「そりゃ、ああ、よかったです」
 たいした話はしていないけれど、なにか砂森のつっかえが少しでも解消できたなら、それはよかったんだろう。
「ついでにいうとこの話、村山君からの提案なんだ。今塾に写真を専門的にやってる子がいなくってね。君なら来てくれるんじゃないかって」
「村山」
 思いがけない名前に、声が低く出た。
「あいかわらず苦手かい?」
「はは、まさか……苦手です」
 喜多川とは見解の相違や衝突があっても、そういうものだと割り切っている。だが村山の場合はそういう割り切り方はできない。村山はどこか底の方で、僕に対して敵意に限りなく近い苛立ちを抱いている。それが僕にはわかる。だが僕にはそれが僕の(あるいは村山の)なにに由来するものなのかわからない。僕の存在に対する根源的な苛立ちのようなものなのだろうけれど、それはあまりにも根源的で根本的すぎて、僕には村山の苛立ちをわかってやることもできないし、まして村山のために僕自身を是正してやることなど不可能で、たぶんお互い腹に焦げすぎたトーストみたいな苦みを抱えたまま、この歳まで来てしまっていた。
 そんな村山がわざわざ僕を指名するなんて、さて、これはとうとう松の廊下かハルビンか。なにかの時代劇みたいに、塾の襖を破って槍でも飛び出てこなければいいが。黒髪切れ長の女武将みたいな同期を思い出して、僕はいくぶんげんなりしていた。
「で、どうかな。もちろん、少ないけど謝礼は出すよ」
「引き受けましょう」
 シャレイ、というのは実に魅力的な音の響きだ。まるで台風の夜に空を飛ぶトイレットペーパーのような軽やかさを思わせる。素敵だ。それがあるだけで、馬鹿みたいな言葉遊びで自分に言い訳ができる。
 電話で軽く今後の予定を話し合い、少し雑談に興じたあと、僕は電話を切って、朝食の皿を洗う。
 僕が講師、ねえ? 勉強会で司会の真似事のようなことはしたことがあるけれど、前に出て人にものを教える立場というのは、これが初めてではなかっただろうか。

 *

「田村さんって、子どものころよく褒められましたか」
 僕は反射的に、いや、と言いかけて、息を止めて口を閉じた。彼女のその問いは、たぶん彼女にとって切実な問いだった。そんな風に、あしらっていいものではない。僕はどう話そうかと思って、思って、黙り込んでから、仕方なく、彼女に訊ね返した。
「なんでそんなことを?」
「気になったから、です」
 彼女の来歴を考えれば、ただ『気になった』だけではないことは明白だった。だが、僕は、その問いにうまく答えられない自分を知っていた。
「そうだなあ。そういうこともあったかもしれない。褒められたことも、そう、あったかもしれない」
 僕の中途半端な返事に、彼女もうまく言葉を返せないようだった。少し間をおいて「田村さんって、優等生っぽいですもんね」と言い、慌てて「その、悪い意味じゃなくて」と付け足した。
 僕らは、それからしばらくの間沈黙を続けた。彼女になにか言いたいことがあるのはわかっていた。今の僕の答えが、それをうまく引き出せないものであることもわかっていた。でも僕は、僕からそこに踏み込むのはフェアではないと、そう感じていた。
「私は……私のことなんですけど」
 しばらくしてから彼女はそう言った。
「うん」
 と僕は答えた。
「私は、よく、褒められました。というか、褒められることをするのが当たり前でした。自分にとって正しいことをして、正しいことをすれば褒められるのが日常でした。褒められるためになにかをして、褒められて、それがうれしくて、ずっとそれを繰り返していました」
「うん」
「でも、それがどういうことだったのか、今の私にはわかります。そういうのを表すいくつかの言葉も、知っています」
 それはたぶん、彼女にとっては告白に近い言葉だった。そしてそこに悔恨の色があることが、僕にはよくわかった。そういう色をした人を今までたくさん見てきたのだ、僕のような者だって。僕は返事をする代わりに、裸で毛布に包まっている彼女の髪を、掬って撫でた。
「僕とはだいぶ違うな」
 彼女の身体が少しだけびくりとはねた。
「僕は陰気で嫌なガキだったから」
「?」
「褒められてもうれしいと思ったことが、あまりなかったように、思う」
「それは、どうして?」
 成績のこと、写真部のこと、その他いろいろ、かつて僕が学校などという大層な場所に通っていた日々の記憶を、僕は少しだけ手に取って眺めてみる。
「なんでこの程度のことで僕を褒めるのだろうか、とか、本当にこの人は僕のなにがしかを評価できたうえでそんなことを言えているのだろうか、とか。あるいは、そういう風に褒めることで子どもにモチベーションを持たせたいのであって、僕が実際に行った行為やなんやを理解して褒めているわけではないのだろうな、とか。まあ、陰気で自尊感情の低いガキの考えそうなことさ」
 僕は冗談っぽく自嘲気味に笑って見せたけど、彼女はピクリとも笑わなかった。ならばいっそ、僕に心底失望するか、あるいはかつての彼らのように怯えを孕んだ痛ましさを僕に見つけてくれたらよかった。でも彼女はそんな風には僕を見なかった。ただ少し驚いたように、成長期の少女のような利発そうな瞳を、僕に向けていた。
「もしかして」
「うん?」
「今、もしかして、と思ったんですけど、あの写真集」
 写真集? 言われて少し考えて、たぶん僕が出したあの本のことだと思いつくのに、数秒の間が必要だった。
「ああ」
「先生は、田村さんの写真を褒めてたんですよね」
「そうだね」
 先生は、方々で僕の私家版の写真集のことを話してくれた。なにかの対談の折に、有名な作家にその話をしてくれたり、テレビで塾での活動を紹介するときに僕の写真集を出してくれたり。こちらが恥ずかしくて恐縮してしまうほど、贔屓してくれたものだった。
「それは、嬉しかったですか?」
 うれしい?
 そんなことを訊かれたのは、もちろん初めてだった。先生に褒められ、贔屓にされて、嬉しかったか? そんなもの考えるまでもなかった。
――いや、まったく。
 だが、それを彼女の前で口にするのは、僕にはためらわれた。なにか、今まで僕と彼女の間にあった信頼(に限りなく近いもの)すら否定してしまう気がしたのだ。彼女は僕の回答を待っていた。僕たちは裸で、ベッドの上で、ここは僕の部屋、今は夜の何時かだった。彼女は横たわって顔だけ僕に向けていた。彼女が僕に向けた黒い孔は、僕らの周りの空気をゆっくりと吸い込んでいるように見えた。
「彼は、写真の専門家ではないよ」
 僕はいくつか先に言うべき言葉を飛ばして、それだけ言った。彼女が短く強く息を吸い込んだのが分かった。
 僕が予想していたのは、彼女の失望や落胆だった。これだけ一緒にいれば嫌でもわかる。彼女が、どういう希望、どういう理想を、僕たちに向けていたのか。そして今の僕の言葉は、少なくとも僕に関しての事柄について、とどめを刺すものだった。端的に言えば、それは彼女の幼年期の終わり。言い換えれば、僕は君の夢想したイメージのそれではないのだよ、という最後通告。さらに言うなら、たとえ君の過去が、善き師、善き親に恵まれていたとしても、僕には成らなかったんだよ、という話。もちろん、成る必要すらないのだけれど。
 そんな風に僕は考え、そして彼女の反応を待っていたのだけれど、それが的外れな勘違いだということにすぐに気がつくことになった。
「なぜ、君が泣くんだろう?」
 横たわる彼女から流れるそれは、地球の引力に引かれて、左目から右目に、右目からシーツに落ちた。それは当たり前の自然現象だったのだけれど、その時の僕からすれば、ひどくおかしなことに思えた。まるで猫が消えたあとに笑いが消えるようなナンセンス。
「違うんです。そうじゃないんです」
 と彼女は言った。
「なにが?」
 と僕は訊ねた。いったい、なにが違うというのだろう。あるいは、僕は失望を通り越して、彼女を傷つけてしまったのだろうか。
「悲しくなったんです」
 悲しく……? それは、なんだろう。失望、憐憫、恐怖……僕は彼女の悲しみにいくつかの言葉を当てはめてみる。たとえば、僕と先生の関係が彼女の理想ではなかったことに失望したのならそれは悲しいかもしれない。あるいは、僕の幼年期の歪さを憐れに思ったのなら、それは悲しみなのかもしれない。
 だが、おそらく彼女の言う悲しみはそういうことではないような気がする。もっとなにか、違う――なんだ?
「田村さんのことを考えると悲しくなったんです」
「それは、憐れみ?」
「違うんです」
「失望?」
「そうじゃなくて」
 ゆっくりと重力に沿って流れていくそれを、僕は見守っていた。
「田村さんが、悲しいんです」
 それはナンセンスなもの言いだった。チェシャ猫の笑いよりもっとナンセンスだった。僕の悲しみで彼女が泣くなんて、そんなことはあっていいことじゃ、ない。
 彼女は僕の悲しみを悲しんではいけない。彼女は自分の悲しみのために涙を流さなくてはいけない。弟子は師の悲しみを背負ってはいけない。子は親の悲しみを背負ってはいけない。子どもは、大人の悲しみを背負っては、いけない。
 だがもし、彼女がもう大人なのだとしたら、僕にはもはやなにも言うことはできない。それは、僕の悲しみであったとしても、すでに彼女の悲しみでもあるのだから。

 僕が思っているよりずっと、彼女は強かったのかもしれない。あるいは、彼女自身が思っているより、ずっと。

 *

 休日の午後一時半。予定より早く来てしまったなと思いながら、すじかい塾の入り口の引き戸を開けると、正面に腕を組んで仁王立ちしている女性が待ち構えていた。長い黒髪に切れ長の目、人を値踏みするような刃物のような眼光。この女は生まれる時代を数百年間違えているのだ。
「逃げずに来たな」
 ふんと鼻を鳴らして開口一番それだから、僕も呆れて
「一騎討じゃないんだから」
 とため息交じりに返すしかなかった。
 すると、
「いらっしゃい」
 入り口右手の勉強部屋の襖を開けて、西町先生が顔だけ出してきた。
「まだ前の勉強会をやってるんだ。よかったら見学していってくれ」
 それだけ言うとさっと引っ込んでしまった。その様子が妙にコミカルで、なんだかマンガのキャラクターの動作でもマネしたみたい。あるいは、そんな動きを模して楽しんでいる少年のような。僕は内心少しだけ苦笑して、
「邪魔するよ」
 と村山の前を通り過ぎ、靴を脱いで勉強部屋へと上がった。村山は腕を組んだまま微動だにしなかった。僕は襖を静かに引いて、座敷部屋の端に座る。一瞬だけ僕に視線が集まったが、何人か知った顔の塾生がわずかに笑って頷いただけで、みなすぐに僕のことなぞ気にかけなくなった。
 今はなんの時間だろう? 誰が、どんなことに興味を持っているんだろう。三つ並んだ座敷部屋の仕切りを外して大部屋にして、誰かが一人立ちあがって発表をしている。しゃべっているのは大学生くらいだろうか。部屋に集まっているのは、学生、社会人、高校生や中学生も混じっているし、最年少はどうやら小学校高学年くらいの少年だった。僕は発表者の声に耳を澄ます。
――だから、寺社仏閣と地域経済は古くから……――
 僕には専門外の話だけれど、僕は可能な限り、耳を澄まし、意味を拾っていく。知っている知識と関連付けて、頭の中のメモ帳に体系的に並べ、そのいくつかに疑問府をつけておく。どれほど自分と遠く離れた事柄でも、発話者の人格にどれほど問題があろうと、僕は手を抜かない。人の話を聞くことに、手を抜くことはしないと、僕は決めている。声が聞こえれば、そこには『意味』がある。

「すまないね。待たせてしまって」
「いえ、僕の方こそ早すぎましたね」
 先生と僕は、僕の担当の時間が始まるまで、さっきまで勉強会が開かれていた勉強部屋で雑談に興じていた。
「さっきの発表、どうだった?」
「専門外だけど、興味深く聞かせてもらいましたよ。古くからある寺社仏閣と地域の関係を歴史的に紐解いてから、現代の地域経済にその考え方を活かせないか。そういうことでいいのかな。温故知新といえばそれまでだけれど、現代社会で機能しなくなった宗教性をどのように現代化していくか、という問いは、これからもっと必要になるでしょうから。とくに面白かったのは廃仏毀釈と国家神道の――」
「あいかわらずだね、君は」
「なにがです?」
「聞かれたら答える」
「ええ、まあ」
「そこまでいろいろ考えてくれていたなら、あの場で発言してくれてもよかったのに」
「いやだって、正規の塾生でもないですし。それにOBが口を出すのも煙たがられるだけですよ」
 先生は少し困った顔をして「ふむ。まあ、そういうことにしておこう」とだけ言った。
「すみません」
「うん」
 塾の様子は、僕が在籍していたころと特別変わったようには見えなかった。微風が固い枝揺らすような、密やかな人々のざわめきが聞こえる。休日の商店街の町家には様々な人々が集まる。近所の子どもたちや他に行き場のない中高生。目を輝かせ、正確に標準語イントネーションで声を上げ、今に自分も何かに成るのだと言わんばかりの学生たち。ただ近所だからと塾に物を持ってきてくれるご婦人。仕事の合間を縫って塾の運営に携わる社会人スタッフ。
 僕は塾のスタッフと一緒に勉強部屋にホワイトボードやプロジェクタの設置をしたり、事前に印刷してもらっていたレジュメの確認をしたりしながら、知った顔の塾生に、それとなく最近の塾の様子や、塾生たちの近況を聞いてみたりもした。みな熱心に塾の運営に携わっているようだったし、そこになにか退廃や先鋭化の影は見えなかった。以前宇和島は今の塾に不平を漏らしていたが、彼が言うほどの惨状になっているようには、部外者の僕には思えなかった。宇和島に塾の現状についてもっと具体的に聞いておけばよかったかもしれない。
「そういえば、宇和島と喜多川はどうしたんです?」
 部屋の端で手元のレジュメを眺めていた先生に訊いてみる。
「今日は宇和島君も喜多川君もいないんだ。仕事が忙しいんだってさ」
 たしか喜多川は地元新聞の記者として、塾以外も忙しい毎日を送っている。昨今は紙面に小さな連載を持たせてもらって、文筆家としても活躍しつつあるらしいが、あいにくと読んだことはない。宇和島は広告会社に勤めていて、その関係で僕ともたまに仕事上の付き合いがある。本人は大手の下請けの下請けの使いっぱしりだと自嘲していたが、待遇は悪くなさそうだった。二人とも、社会の中でそれなりの(あるいはいくぶん上等な)居場所を確保できているのだ。もしかしたら彼らも、砂森のようにそのうち塾を離れ、自身の道を自身の足で歩き始めるのかもしれない。
 準備を進めているうちに、時間は午後の二時になろうとしていた。もうじき僕が依頼された写真講座が始まる。中庭から射し込む光がぼんやりとした色を湛えたはじめ、夕刻の始まりを教えてくれる。ああ、あの色だな、と僕は思って、そして自分がひどく場違いなことを始めようとしていることに気がつく。まったく、この光の加減のなかで、僕が、こちら側に立っているなんて。
「そろそろだね」
 先生がそう僕に話しかけた。
「本当にいいんですかね。こんな風に前に出て人にものを教えるなんて、僕たぶん初めてですよ」
「そうなの? 塾ではけっこう君が前に出てしゃべってた印象があるけど」
「こんな風に講師とか先生とかの肩書き背負って、人に教える側に立つのは今までなかったんですよ」
「ふうむ」
 先生はなにか記憶の奥から引っ張り出すように、少しの間考え込んで、
「知ってるかい?」
と楽しそうに言った。
「誰でも教壇の前に立つと先生なんだ」
「はあ」
「けっして、教師になったから教壇に立つわけじゃない。教壇に立ったとき、その人は教師になる。親が子どもを産むんじゃない。子どもがいて人は初めて親になる。そういうことさ」
 そう言ってから、
「まあ、私は人の親になったことはないけど」
 といたずらをした子どもの言いわけのように付け足した。
「なんとなく、わかります」
「じゃあ大丈夫――と、時間だね」
「やれるだけはやってみます」
「よろしく頼むよ。君はきっと教師とか親とかに向いてると思うんだ」
「まさか」
 いつのまにか、勉強部屋にはたくさんの人が集まってきていた。六帖部屋三つの襖を外して、横長の部屋にした即席の教室に30人弱の人間が三つの座卓を囲んで座っていた。僕は三つの部屋の真ん中壁際でホワイトボードの前に立って部屋を見回す。小学生から老人まで、年齢も性別も、たぶん国籍も様々で、講義というよりは、なんだか親戚の集まりみたいに見える。右手の一番奥に先生が座っていて、本人はにこにこ笑っているけれど、僕にとっては監督教官みたいなもので、背筋に冷たい筋が一本通る。その隣には、いつからいたのか、村山が澄ました顔で座っている。なにか少しでも失敗したらすぐに斬って捨てるとでも言いたそうに僕を、あれは睨んでいるな。他にも知った顔が数人。僕の近いところに、彼女が行儀よく座っていた。生真面目に、開始前からレジュメを読み込んでいる。彼女の隣には橋下サクラらしき人物が見えた。
「じゃあ、そろそろ始めますね」
 僕がそう言うと、受講生たちの視線が一斉に僕に向く。そこには期待がある。この場からなにかを学び取ろうとする切実さがある。かつての獣たちがそうであったような、なにものも逃さないという飢餓がある。僕は彼らの視線にチリチリと冷たい緊張を感じながら、でも努めてのんびりとした口調を使う。
「まずは簡単な自己紹介をします」
 それは本当に簡単な自己紹介だ。以前塾に在籍していたこと、フリーの写真家・カメラマンをしていること、それから講師として話すのはこれが初めてだということ。続けて、僕は自分の仕事について、いくつかの失敗談を交えて、自分で撮った写真を使いながら話してみることにした。カメラマンというのがどういう仕事で、写真家というのはどういうものか。どんな風に日々口に糊して、どんな写真を撮っているのか。といっても、僕は他の同業者がどのように生計を立てているのか詳しくは知らないので、僕が話したのはあまり一般的な内容ではなかったかもしれない。
 僕はその話をする間、年少の人間でもわかるように話そうと努めた。その場で最年少だったのが、小学生くらいの男の子だったから、その年齢の子どもが理解できる言葉をできるだけ選んで、ゆっくりと話すことを心掛けた。僕の試みが成功していたのかはわからないけれど、男の子は長い前髪を揺らして熱心に頷きながら話を聞いてくれていた。
 15分ほどそんな話をしたのだけれど、実のところそんなものは前説程度のもので、本題はその後だ。僕は事前に受講者に対して、可能であれば写真を一枚撮ってくるように指示していた。
「今日写真を持って来てくれたのはどれくらいかな?」 
 訊ねてみると九人の受講生が画像データや写真を持ってきてくれていた。
「今日の話でその写真を使ってもいいよ、という人は?」
 二人が、恥ずかしそうにやっぱりやめたという風に手を下ろす。
「わかりました。ありがとう。二人の人はまた今度があれば、お願いしますね。じゃあ今日はその七枚を使って、写真についてみんなで考えたり話したりしようと思います」
 もう少し多ければ、別の手段を考えていたのだけれど、七枚ならばちょうどいいだろう。僕は七枚の写真を預かって、プロジェクタを起動させる。プロジェクタ対応のホワイトボードに、預かった受講生の写真から一枚を映す。最初の写真は庇の上の猫の写真。三毛猫と白黒の二毛猫が、赤いトタンの庇の上で寝転んでいて、カメラはそれをやや下から見上げるように捉えている。赤いトタンはちょうどその上の屋根の影に入っていて、猫たちはきっと強い日差しから逃げてきたのだと知れる。二毛猫は首だけ器用に仰向けに寝転んで、三毛猫は二毛猫の尻にあごを載せて目を瞑っている。
「いい写真ですね」と僕は言う。それからいくつか考える。くちゃと潰れたような猫の顔。時間と季節。二匹の猫の関係性。でも、僕からはなにも言わない。
「少し受講生に意見を訊いてみましょう。誰か、この写真を見て思ったこと、考えたこと、発言してみてください」
 最初に手を挙げてくれたのは、最年少の男の子だった。僕が促すと、邪魔そうに前髪をかき分けて立ちあがり、
「二匹が兄弟みたいに見えます」
「それはなぜ?」
「仲が良さそうだし、顔を似てるし、年齢も同じくらいに見えます。それと、毛の色もなんだか似てる気がします」
「なるほど。あなたは、二匹の猫の関係に注目して、兄弟という印象を持ったわけですね。そうすると、兄弟が仲良く日陰で休んでいる、そういう写真として捉えることができる」
 僕は少年の発言に礼を述べて、また他の受講生の意見を募ってみる。
「私は二匹の猫を恋人同士のように読みとりました」
「たしかに、そうも見えますね」
「僕は、猫を人間の関係のようにみること自体がナンセンスだと思います」
「そう、良い意見ですね。われわれは無意識に人間のアナロジーとして猫の写真を見ている。誰か他にもありますか?」
「なんで庇の上の猫を撮ったのかが気になります」
 そう言ったのは彼女だった。
「庇の上って、たぶん普段あまり注意して見てることはないと思うんです。この写真だとアップだからわからないんですけど、これはたぶんお店か民家の庇だと思うんです。それで、そこに猫がいることを、撮影者はどうして気づいたのかな、て」
 僕は頷いた。
「もしよろしければ、この写真を撮影した方……ああ、ありがとうございます」
 恐る恐る手を上げていたのは30代後半くらいの女性だった。ややふくよかで、眼鏡をかけていて、服装はシンプルなベージュのカーティガンを羽織った、大人しい印象の女性だった。
「あの、この写真は、買い物の帰り道に、たまたま手持ちの端末で撮った写真なんです。場所はうちの近くの小さな一軒家で、少し遠くからこのおうちの庇が見えたときに、猫が見えて――私猫が好きなんです、それで思わず、はい」
 女性は自信なさげに、なんどもつまりながら、僕たちにその写真を撮ったいきさつを教えてくれた。
「いつも、その庇には猫がいるんですか?」
「わからないんです。たぶん、その日はたまたまその家の庇が目に入って、それで猫がいることに気がついて」
「なるほど。つまり、あなたにとってその光景は、非日常的だからこそレンズに収めたということになりますね」
「たぶん、そう……言えますね。でももしかしたら、今思ったんですけど、私が気づいていなかっただけで、そこにはいつも猫がいたのかもしれません」
「ふむ、あなたにとっては非日常で、猫にとっては日常だったかもしれない、そういう風景なんじゃないかと、あなたは思うわけですね」
「はい、その撮った時にそこまで考えていたわけじゃないと思うんですけど、はい」
「ありがとうございます。とても興味深いお話だったと思います」
 僕は女性に礼を言い、それから五秒間だけ間を取った。このあたりでディスカッションを切り上げて、少しこちらでまとめてみようか。考え、場の様子を見ながら、僕が口を開こうとしてたそのとき、一人が手を上げた。僕は「どうぞ」と促した。
「つまりこの写真は、世界の二面性を写し取っている、と言えるんだと思います。我々の日常の中には、普段意識していない別の世界――この場合は猫にとっての日常の世界――があって、わずかに見上げた視線の先にあるものだと」
 はっきりとした発音で、表情で節をつけて、橋下サクラはそう語った。それは見られることを意識した発話方法だった。優等生の女の子が、先生の前で正解をすらすら答えるような。
「なるほど、そういう風に読みとることもできると思います」
 僕のその応答に、橋下サクラの顔がわずかに歪んだ。でもその歪みも一瞬で、へえじゃあどうなんでしょう、という風に無害な微笑を作って見せた。
 僕は、さっき頭の中でまとめかけていた文言をすべて捨てて、橋下サクラの反応にできうる限り真摯に応えようと思った。たとえその真摯さが、橋下サクラにも、この場の他の誰にも伝わらないものだとしても。
「あなたがおっしゃったように、そういう世界の二面性の写真として読みとることはできると思います。ただそれよりも、この時間において重要なことは、さっきこの写真を撮影された方がおっしゃったことだと、私は思うのです」
 僕がそう言ったとき、橋下サクラの顔に少しだけ、今までになかった獣の色を見た気がした。それは? と橋下サクラは無言で促した。
「『今思ったんですけど』という言葉です」
 僕は橋下サクラから視線を逸らして、部屋を一度だけぐるりと見渡した。期待するような視線、冷たい視線、見守るような視線、視線を落として興味なさげなのもある。
「この写真に写り込んだとある意味を、当の撮影者はついさっきまで知らなかった。あるいは意識の上にのぼっていなかった。作者、筆者、撮影者……どのような立場であれ、我々は我々が見出したもの、作り上げたものを十全に理解したり、まして支配しているわけではないのです。もちろん、こういう話はもう一般論、あるいは古典的な文学論になってしまっているのかもしれません。でも、一般論であることと、それを実践し、手作業で固有のなにかと結びつけることは、また別のことです。
 だから、その、我々はその感覚を研ぎ澄ます必要がある。そこに写ったものに、目を凝らし、耳を澄ませる必要があると思うのです」
――それはなぜ?
 僕にその疑問を投げかけたのは、誰だっただろう? その場にいた誰かのはずだけれど、もしかしたら過去にいた誰かかもしれない。あるいは、それはまったくもって僕の幻聴だったのかもしれない。
「それは……それはたぶん、我々は誰も特別ではないという想像力を持ち続けなくてはいけないから、です」
 その場にいたほとんどの人間が、僕を不可解そうに見た。当然だ。前後関係に論理的な繋がりが欠けている。繋がりを僕なりに説明するには小一時間ばかり別の時間が必要だ。その言葉を知っていた二人だけが、笑い出しそうなのを堪えているようだった。僕は誤魔化すように頭をかいて、
「すみません、ちょっと脱線しましたね。勉強会を続けましょう」
 疑問符の浮かぶ勉強部屋に居たたまれない謝罪を放り込んで、次の写真の準備に取り掛かった。

「なかなか面白い話が聞けた。よかったよ」
 勉強会が終わって、僕が一つ深呼吸をしていると、先生が僕にそう話しかけてきた。
「いやあ、なかなか緊張するもんですね」
「なあに、ようは慣れさ。またやってみたらどうだい?」
「リクエスト次第ですよ」
「次はないんじゃない。よくて及第点、というところだから」
 と横から評してくれたのは村山だった。
「良くて及第点なら、村山の評価にしてはマシな方だな」
「私は聞いてた側として、客観的に評価しているだけよ。あんた自身はどうなの?」
 言われて少し考えてみる。講師としての評価としては、『良くて及第点』というのは妥当だろう。途中何度か言葉をつっかえたり、うまく発言を拾えなかったり、いたらない点もあった。時間もややオーバー気味だった。それに、勉強会の趣旨から考えれば、もう少し具体的な技術論に踏み込んでもよかったのかもしれない。僕がやったことのほとんどは、その場にいた人たちとの言葉のやりとりだった。誰かが撮った写真を見ながら、その場で発言し、考えてもらうことだった。
「事前に考えていたことがうまくいったかで言えば、甘めに見ても50点くらいだろうな。良くて及第点、とは僕からは言えないな」
 村山はこれ見よがしに僕の前でため息をつく。呆れた、と言われないだけマシなのだろう。
 講師としての評価はそんなものだろうと思いつつ、実のところ、僕個人にとっては予想外の収穫があったのだ。
 今日使わせてもらった受講生の写真のそのほとんどは、初心者の写真だ。技術は稚拙だし、テーマだってないかもしれないし、あるいは単調だし、あるいは手振れしているし、人に見せるものとしては、ほとんど未完成と言っていい。
 でもそこに写り込んだ――写り込んでしまったものを丁寧に指摘し、なぜこうであってああではないのか、受講生に訊ね、一緒に考え、時に黙り込んで、時に間違えて、少しずつ地道に歩んでいくと、そこには、教える側の僕も思いもしなかった微細な意味を見つけることができた。どんな写真にも、「それ」はあった。どんな写真にも考えるべき事柄があり、どんな写真にもまだ見つけられていない意味があった。
 そこに僕は感触を見つけた。ずっと昔初めてカメラに触れたときのような、一種の義務感を見つけた。僕にはすべきことがある。素人の写真に意味を見出すこと、だけじゃない。僕には、いまだこの世界から多くの見出すべき事柄がある。それがなにかはわからないけれど、世界は、まだずっと広がっている。幼いころに空を見上げたときのような単純で強烈な憧憬が、僕の身体の中心線にいまだ存在し続けているのを見つけた。
もしかしたら、と僕は思う。これならば、僕はまたどこかに自分の写真を見出すことができるのかもしれない。いや、それは今すぐ可能なことなのだ。今すぐにでも、僕は自分のカメラをもって走り出さなくてはならない。もう一度、始めなくてはいけない――
「ぜひ! もう一回やってほしいです!」
 彼女の声が聞こえて、体が一瞬だけ驚いて、僕は彼女を振り向いて、見つめて、固まった。僕の視線の先には黒くて大きな目の輝きがあった。今日初めて、僕は彼女の顔を見た気がした。綺麗に揃えられた短い黒髪。少し焼けた肌色は、彼女がよく外に写真を撮りに行っている証拠。僕はいったいぜんたい、どれほど彼女に助けられたのだろう。どれほど、彼女を利用してしまったのだろう。どれほどまでに、僕はおろかなのだろう。おろかで、いられるのだろう。
「君は――」
 僕がおかしな顔をしていたせいだろう、彼女も不思議そうに目の光を固めて、僕を見て止まっていた。
「――本当にセンスがいいな」
 それだけ言って、僕は自分の中に生まれた感触に、そっと蓋をした。今はまだ、置いておこう、と。
「私も次があったら参加したいです」
 と橋下サクラが彼女の隣で声を上げる。
「次はもっと技術的なことも、聞いてみたいです」
 その言葉に嫌味の色はなかったが、橋下サクラが僕になにかしらの不満を抱いているのは、その表情から見て取れた。それが具体的になにかはわからないけれど、こういう女性からの冷ややかな態度は、覚えがある。
「そうですね。もし次があれば、少し具体的な話もできたらいいですね」
 僕は当たり障りなくそう答える。
「じゃあやろうよ。どうだろう。村山さん」
 と先生。
「そうですね。どのみち今度の企画会議で今日のフィードバックをすることになると思います。そのとき次のことを話し合ってみましょう」
 村山はそう淡々と事務的に述べる。その様子は、見る人によっては、先生付きの敏腕秘書かなにかに見えるらしい。
「そういうことだから、オファーが来たら逃げずに来なさい。でもまあ、今日の評判が悪けりゃ次はないんだけど」
「じゃあその万が一が決まったら、早めに教えてくれると助かる。いちおう僕にも他に仕事があるからね」
 僕がそう返すと、村山は呆れたような、肉の筋でも歯にはさまったような、あるいは別れた元パートナーでも見るような苦々しい顔をして、
「あんた、ほんっと……」
 と、続きのないセリフを吐き出した。
 
 *

 その年の、夏の終わりに向かう下り坂の日々に、僕は少しずつだけれど自分の写真を撮り始めた。写真講座で手に入れたあの感触を、少しでも形のあるものに変えてみようと、空いた時間、彼女のいない一人の時間に、僕はレンズを世界に向けて歩き始めた。
 残念ながら、夏の終わるその時までに、僕はその感触を写真という形に落とし込むことは、ほとんどできなかった。できたのは、わずかにいくらかの試行錯誤の跡を残すことだけだった。
 僕は家を撮り電車を撮り道を撮った。人々の営みとその振舞いを撮った。珍しい空模様より、いつも目に写るもの、いつも目に写っているはずのものを撮った。そして以前のような、今すぐにでも僕が能動的に世界を切り取らなければならぬという衝動は、小さくしぼんでいた。むしろ被写体をシンプルに、しかしそれでも意味のある形で、丁寧に掬い取らなければならない、そんな義務感をこそが、衝動にとって代わっていた。
 それは僕には難しい作業だった。技巧にこだわったり、あるいは前衛的に既存の意味性を排除したり、ずらしたり、というような作業は、むしろ今僕が撮るべき写真には邪魔になった。僕が今持つテクニックや知識でもって写真を撮ろうとすると、それは世界に対する容易な暴力になり、被写体が持つ柔らかい果肉のような存在感を、潰し、腐らせてしまう。僕は、モノになるのかどうかもわからない新しい感触に、忍耐強く応え続けた。
その時に撮ったものは、あるいは単純に過ぎて、あるいはナンセンスに偏り、すっかり初心者の写真であったり、ただただ平板で「作品」と言われる以前の試し撮りにもならないような画像データであったり、ともかく、なんにもならなかった。
 しかしながら、その時の再構築は、今現在、これを語っている僕の写真に繋がっている。僕は相変わらず、なんとか糊口をしのぐことができる程度の、写真家・カメラマンで、ありがたいことに写真を撮り続けることができている。今となっては、アミの方が技術も外的な評価もよほど上になってしまったけれど、その境遇について、僕はおおむね納得し、なにより、生きている。
 そして、アミは僕の二流の写真を好きだと言ってくれる。まったく幸せなことだ。

 けっきょく、すじかい塾の写真講座は、月一回、夏の終わりまで、計三回続くことになった。三回、というのはちょうどよい数字だと、僕は思う。全体の構成も組みやすいし、変にルーチン化してだらけたり、中弛みしたりしにくい。短い学びの場としては妥当な回数だ。それに僕とて他に仕事を受け持つ身なので、これ以上塾にコミットするのは負担が大きくなりすぎる。
 この三回というのは、村山の発案だったそうだ。この企画案を村山から聞かされたとき、「チャンスをやるから三回でまとめろ」というような指示を受けたのだけれど、べつにそれは無茶ぶりでも命令でもなく、わかりにくいけれど、村山なりの仕事に対する真摯さと僕への気遣い結果にすぎないのだ。
 ただ結果的に、僕はその三回においてそれほど良い成果は残せなかった、と思う。身内にはそれなりに好評だったが、一般の受講者にとってはやや期待外れの内容だったかもしれない。村山に倣って言えば「よくて及第点」というところだろう。
 僕がやったことは単純だ。受講生にはあらかじめ、提示したお題やテーマについての写真を撮ってきてもらう。そして講座の時間にはその回のテーマや狙い、それに関連する撮影テクニックの前説を行ってから、受講生が提出してくれた写真の講評を、受講生の意見交換を主として行う。受講生から闊達に意見の応酬があることもあれば、どうしようもなく沈黙し、僕が助け船を出すこともあった。提出してくれた写真が多くて時間が足りなかった回もあれば、あまりに写真が少ないせいで、僕が参考程度にと撮っておいた写真を使う羽目になったこともあった。先生と村山はその様子を(手際の悪い学生の実験のように)見守っていた。喜多川と宇和島はそれぞれ別の回に一度だけ来て、端で静かに座って写真講座を聞いていた。二人とも、僕になにか声をかけることもなく、ただ各々、苦そうな、でも驚いたような、それでいて納得したような、居心地の悪そうな顔をして帰っていった。
 あまり上質とは言い難い写真講座だったけれども――ただそれでも、僕が話したことのうちどれかが、心のどこかで引っかかって、何年か先、もう僕の講座のことを忘れてしまったいつかどこかで、思いがけなく誰かの助けになる、そんなこともあるかもしれない。そんな想像は傲慢にすぎるかなと僕自身思うのだけれど、でも僕は今もそう願っている。

 *

「おつかれさま」
 と誰かが言って、カタと食堂のテーブルが鳴った。僕が目を開けると目の前にはグラスに注がれたアイスコーヒーが置かれていて、「ありがとう」と村山に礼を言ってから顔を上げると、向かいにはやはり村山がいた。
「全三回、あんたにしてはよかったんじゃない?」
「そりゃどうも。必死でしゃべり続けたかいがあったな。おかげで滑舌が少し良くなった気がするよ」
「ああ、それは全然ダメだったけど。つまりすぎ」
 僕はとくにうまい反論も思い浮かばず「うん」と唸って、もう一度目を瞑った。
 時刻は夕方の五時、最後の写真講座を終えて、僕は塾の食堂で席を借りて休憩していたのだった。目を瞑って耳を澄ますと、うっすらと蝉の声が聞こえるけれど、いったいそれがどこで鳴いているのかはわからない。もしかしたら僕の幻聴かもしれない。もしかしたら空気の中に目に見えない小さな蝉が漂っているのかもしれない。もしかしたら、僕の意識の方が今ここになくて、別の時間のどこか、蝉の鳴き声のする時間の中に紛れてしまったのかもしれない。
「先生は楽しそうだったからいいけど。おかげで私も先生に恩返しができたわけだし。最後のね」
「うん?」
 僕は目を開けて、目の前にいる同期の女を見た。目を開けたときに、村山の視線が前から下に動いたのがわずかに見えた。警戒するキツネみたいに目を細めて、両手で大事そうに囲った手元のグラスを見つめている。視線の先で入れすぎて溶け残った砂糖がグラスの中で灰のように舞っている。こいつは、たしかまだ29だったはずで、今なら僕の方が一つだけ年上だ、なんて思いついたけど、口にしたら険しい顔でまた呆れられるだろう。
「あんたの講座が終わったら、塾も今の仕事も辞めて、地元に帰る……予定」
 村山の生家は、北の遠方の雪国だ。
「先生には?」
「先生には半年前に伝えてる」
「そうか」
「そうよ」
 なにか言おうと思うのだけれど、たいした言辞は思い浮かばなくて、それより今どうやって村山を撮ろうとかと頭が回ってしまう。まったくもって馬鹿馬鹿しい。言うべき言葉はもう用意されている。
「おつかれさま」と僕は言った。
 村山はじっと僕を見ている。その視線には村山の真摯な気遣いと親しみがある。と同時に、澱のように溜まった敵意と嫌悪感が視線の底に溜まっているのも知っている。その敵意をこいつから垣間見るたびに、僕はできればこの同期に――いやもっと、世界中の女性全てに、謝罪したい衝動に駆られる。ある種の女性に、僕はたびたびこの手の嫌悪感を向けられることがあった。僕のなにが悪いのか、なにが彼女たちを苛立たせるのか、僕にはわかっていないのかもしれないし、どうやってもわかることはできないのかもしれないけれど、それでも、彼女たちの視線に相対する度に、僕は呪いのような義務感を呼び起こされる。
 僕が口を開いて、「すまない」の「す」を言いかけたところで、
「なに――」
 と食堂の入り口から気持ち悪そうにつまった誰かの声が聞こえた。見ると、橋下サクラだった。橋下サクラは自分の出した声色のあまりに剣呑なのに、自分自身で驚いたようで、一度息を詰まらせた。それから無理やり、落ち着いて、親しみがこもった言葉のフリをするためにゆっくりと「やってるんですか?」と高い声で繋げて言った。
「ささやかな打ち上げですよ」
 僕は橋下サクラの失敗には気づかなかったフリをしてそう答えた。
「えー、私も入れてくださいよ。私もっとプロのカメラマンの話、聞きたいです」
 ひどく高い声だ。社会に出た女性が自己防衛のために出すこの高い音質は、どれもひどく似ている。橋下サクラは僕の向かい、村山の隣の席にかけた。
「アミちゃん……橋本さんは一緒じゃないんですか?」と村山が訊ねた。「いつも二人一緒にいる気がするけれど」
「アミちゃん、さっきまで一緒にいたんですけど、今日は用があるからもう帰るって」
「そう。珍しいですね。彼女、勉強会のあとはいつもここにいるのに」
「代わりに田村さんがいるのも珍しいですね。前回と前々回はすぐ帰っちゃったのに」
「今日はたまたま暇があったんで、コーヒーの一杯でも飲んで帰るつもりだっただけですよ」
 僕が橋下サクラと個人的に会話をしたのは、たぶんこれが初めてだった。もっと言えば、橋下サクラ本人を直接見たのも、この写真講座の一回目が初めてだった。三回のすべての講座に、橋下サクラは出席し、写真を提出した。なんども意見や感想を出してくれたし、客観的に彼女はとても熱心な受講生だった。だが不思議と、橋下サクラの外見的な印象は僕には常に朧気だった。上手く形あるイメージとして捉えられず、ただそこにあるだけの背景のオブジェのように認識してしまう。ある程度意識しないと、着ている服の色さえ覚えていられない。
 橋下サクラの外見的な特徴を、僕は我慢強く注視してみる。身長は一六〇前後というところ。短くまとめたブラウンのショートヘアは、快活で活動的な印象を与えるが、しかしそれは「少年」のような幼い男性性ではなく、一般的には「女性的」と形容される範疇だ。同じような髪形を男性がすれば、多くの人は違和感を覚えるだろう。上はシンプルな白のワイシャツの上にベージュ色をした薄手のジャケットをラフに羽織り、下は黒のスリムパンツにヒールの低いパンプスを履いている。あとは、……そう、左に女性向けの腕時計をしていた。一般的な女性向けのオフィスカジュアルを踏襲した格好だ。フェミニンになり過ぎず、かといって、男性的なマッチョさは欲しくない。しかしそれは中性とか中庸というのではなく、ある種の女性が辿り着かざるを得ない、最後の聖域のようなものだ。
 見た目は二十代後半と言っても通じそうだが、かりに二十代だとすれば、人はそこにささやかな違和感を覚えるだろう。どれほど繕ったところで、若さと実存との齟齬をきたすそのポイントを、この人はすでに折り返している。実年齢は僕と同年代か、それ以上というところだろう(実際僕より五つほど年上だったと知るのはもっと後のことだ)。
「ああ、そうだ。橋下さん。三回とも写真を提出してくれてありがとうございました。とても助かりました」
「いえいえ。仕事で撮ったけれど使わなかった写真とか、そういうのですから」
 当たり障りのない会話の導入。だが僕はべつに、橋下サクラを警戒して様子見の一手を打った、というわけではない。本当に橋下サクラは熱心に講座に参加してくれていて、なかなかいい発言もしてくれていた。おかげで、講座の流れもスムーズに進行したのだ。橋下サクラの、なにかを学ぶ姿勢そのものは、他の受講生と同じように、真摯な獣のそれだった。
「ところで、田村さんから見て、私の写真は、どう、でしたか?」
「どう、と言われると難しいのだけれど……」
 橋下サクラの写真は、決して悪い写真ではなかった。仕事で撮り慣れているというだけあって、右も左もわからない初心者の段階からはとうに脱却しているようだった。なにかしら仕事の素材にする分には十分使っていけるだろう。ただもちろん、専門的にカメラを握っている人間からすれば物足りなくはあるし、技術的な面でも粗さを馴らしていく余地はまだまだあった。なにより、このまま撮影に対する技術や知識が向上しても、橋下サクラの写真には決定的に足りないものがある。ただそれは、今ここで僕が指摘すべきことではないのだろう。
「すでに独り立ちしている写真を、軽々しく批評はできないなあ。橋下さんはもうすでに自分なりに写真を撮り始めているのだから、外野の評価に拠らなくても、自分で考え、自分で撮って、自分でピントを補整していけるでしょう。それに仕事で写真を扱う人に本気でなにがしかの評価をしなくちゃならないとなると、こっちも腹を括らなきゃいけなっちゃいますよ」
 それこそ、今ここでグラスの水を浴びせかけられるくらいのことは受け入れなければならない。今のところ、そういう場所でもないし、そういう覚悟を決める義理もないので、僕は橋下サクラの写真に言うべきことはない。
「それでも、参考までに訊いておきたいんです。その、自分で考えるためにも」
 その真摯さにとりあえず嘘はなかった。克己的であり、また貪欲でもある。でも、その真摯さゆえに各地で醜態をさらしてきたのだろうと、僕には容易に想像することができた。わかっていないのだ、彼女は。
「そうだな」
 僕は目線を逸らしてあごを右手で撫でて、考えるふりをした。もちろん言うべき言葉なんかまるでない。この追及をかわすためのうまい言いわけを、僕は仕方なくしゃべりながらひねり出すことにした。
「評価、というのとはちがうんですが、『人』の写真をもっと撮ってみるのもいいかもしれません」
 自分でもなぜそう言ったのかわからないけれど、口から出た言葉を自分の耳で聞いて反芻すると、それは悪くない切り出しのように思えた。
「なぜ?」
「人をうまく撮るのはそれ専用の技術とかコツとかが要るものです。人がうまく撮れると、写真の幅がだいぶ広がります。単純に訓練になる、というのが一点」
 僕はちらと橋下サクラの表情を見やる。意外そうに、少しだけ目を見開き、僕のことを真剣に見つめていた。むべなるかな。僕自身だって意外だ。
「もう一つの理由は」
「理由は」
「勘です」
「勘」
「あなたの写真を見て、なんとなく『人を撮ると面白そうだな』と思っただけです。要らないお節介だったら聞き流してくださいね」
 と、橋下サクラには笑い話のように話したが、これには少しだけちゃんとした理由がある。三回の講座と我が事務所の優秀な助手から見せてもらったいくつかの写真を見るかぎり、この女性は人を撮っていなかった。というか、人を撮ることを避けている節が見受けられた。それは画面に人間が写っていないということではない。人間は写っているが、それを自己と同じ現存在として捉えるまなざしが、決定的に欠けているのだ。人間がどれほど画面を占有していようが、そこに写っているのは、アニメの背景画に描かれている省略された記号だった。おそらく意識的なものではないだろう。というか、撮影者本人は人を撮っているつもりなのだろう、と。
 もちろん、これは僕から見た勝手な印象にすぎない。橋下サクラには橋下サクラの言い分があろう。けれど終わったあとの楽屋裏で人間存在について議論するのは、あまり適切な行いではない。僕はただ「勘」と言うだけだ。
「いえ、とても参考になりました」と応えた橋下サクラの声は低く、なにか別に考え事をしながら反射的に言葉を選んだように聞こえた。
「あんた、写真のことに関しては手を抜かないと思ったけど、『勘』って」
 村山がいつもの呆れ声で僕をくさす。
「勘は勘さ。インスピレーションでも第一印象でも直感でも直観でもいいけど、その手の言語化しにくい思い付きはどんなものにもあるものだろ」
村山が突っかかってくるなら、僕もいつもの調子で応ぜざるを得ない。
「なんならおまえも写真の一枚でもだしといてくれりゃ、僕もこの場で色々言えたのに。せっかく毎回講座に出てたんだから」
「私は写真にとくに興味ないの」
 さらりと言い切ってしまうのが、こいつの美徳と言えば美徳だ。
「村山さんは、じゃあどうして講座に出てたんです?」
 不思議そうにして、橋下サクラが村山に問うた。
「そりゃ――半分以上私が企画したことだからです。この男がちゃんとやってくれないと、私の顔に泥が塗られることになりますから、その監視です。この男、『自分は温厚な朴念仁です』みたいな顔をして、人前で場を凍り付かせるようなことを平気で言いますからね」
 橋下サクラは村山の気の利きすぎた冗談を「あはは、わかるような気がします」と嗜虐的に笑って頷いた。冗談だろう。冗談だよな? 
「じゃあ村山さんって、普段塾でどういう活動しているんですか? 他の人は写真を撮ったり、文芸活動や研究発表したりしてるじゃないですか」
「私は、みんながしたいことをやりたいようにできる場所を作るのが自分の仕事だと思ってます。組織運営とかマネジメント……というほどじゃないけど、お祭りの準備と片付けが楽しい方の人間なんです。お祭りの中身の方は、人に任せます」
「じゃあ、村山さんが個人的にやりたいことってのは特にない?」
 心底不思議そうに、橋下サクラがそう訊ねた。その問いに悪意がないことは僕にも、たぶん村山にも伝わった。おそらく橋下サクラは、その人にとって打ち込めるなにか、夢だとか目標だとか専門だとかライフワークだとか、そういうものを追求するのが人間の在り方だと信じている人間なのだろう。非常に克己的で、自己拡大的な自我のモデルだ。だが……。
 村山は橋下サクラに問われ、珍しく困ったように目線を落として考え込むように「あぁ」と小さく唸った。 
「そう……あえて言えば『本が読みたい』、かな」
 それは村山にしては意外な言葉だった。
村山が本を読みたがっていることが、ではない。村山は、塾の身内の中では、一番の読書家だった。本人は寄贈だと言い張っていたが、塾の書庫の四分の一くらいが村山の部屋からあふれた本に占有されている始末だ。だから村山が本を読むことにはなんの意外もなく、そりゃそうだろうなと、知る人ならみなそう言うだろう。
 僕が意外だと思ったのは、そんなことを村山が他人に述べていることだった。この厳めしい同期は、自分の趣味嗜好を、あまり人に感情的になって話すことがなかった。冷徹とか機械的というのではなく、むしろもっと野性的な理由で。まるで子どものころに図鑑で見たキタキツネのように、村山は自分のテリトリーに人を近づけさせなかった。それが村山の中のなにに由来する気質なのかはわからないし、詮索する気も僕にはなかった。ただ、それはそれで完成された生き方なのだろうと僕には思えた。獣の住む美しい曲線のかまくらを遠目から眺めるように、僕はそんな村山と接してきた。
 しかしなぜ? 村山はなぜ今になって自分のことを語ろうとしているのだろう? 村山はうつむき加減にグラスを無表情に見つめて、もうなにも言わない。問うた橋下サクラは不思議そうに「はあ」と応えて固まっている。なんだろう、この状況は。
 塾の食堂は静かだった。耳に薄く聞こえる蝉の声は、ヒタヒタヒタヒタ。ああ、これはヒグラシだったんだな、と僕は今さらに気づいて、終わりに近づいていることを知る。何分間そうしていただろう、唐突に、
「ところで、田村さん、橋本アミちゃんは?」
 と沈黙に飽きたのか、橋下サクラが僕に訊ねた。
「なに?」と、突然現れた固有名詞に、僕は単純な訊き返ししかできなかった。
「橋本アミちゃんの写真は、田村さんから見てどうなのかな、と思って。アミちゃん、田村さんのお弟子さんなんですよね? でも、講座ではあんまりアミちゃんの写真に時間をかけてなかったように思えたんで。アミちゃんの写真を、田村さんはあんまり評価してないのかなって」
 心底不思議そうに橋下サクラは僕に訊ねた。僕には、それがなぜ不思議なことなのかわからなかった。
「なぜもなにも、僕は他のみなさんの写真と同じように、橋本アミさんの写真を扱ってたと思います。自分の助手だからと、特別扱いはしていないと思いますが」
「だから、それです。アミちゃんは田村さんのお弟子さんだし、すごくいい写真ばかりだったんだから、もっと時間をかけて見てあげるべきだったんじゃないでしょうか」
 たしかに、彼女の写真は、他の写真と比して頭一つ抜けていた。控えめに言って、その質だけならプロとして使えるレベルに達している。
「受講生として講座に参加してくれた以上、特別扱いなんてするほうが失礼ですよ。それに、技術的に彼女の写真が抜けていたとしても、それはただ彼女個人に能力があるというだけであって、学びの場に直接資するものではありません。参考にはさせてもらえますけどね。でもけっきょく、どんな素人写真だろうと、どれほど高等な写真だろうと、学ぶことについては等価です。どんな写真についても考えるべきことはある。そういうものです」
 橋下サクラは僕の説明を聞いたあと、ぼんやりと
「立派な考えだと思います」
 と感想を述べた。
 おそらく橋下サクラは僕の述べたことを「道徳的な一般論」程度の意味に捉えたのだろう。つまり、「人は誰しも価値がある」とか「みんな違ってみんないい」とか。その誤解を解くために長々と説明してもいいが、しかしさて、それはこの場にふさわしい議論なのだろうか? ただの休憩時間にするような話なのだろうか。
 僕がわずかに逡巡しているあいだに、橋下サクラは続けて、
「もしかして助手に負けたくない、とか?」
 と言ってしまった。ためらいがちにも聞こえたが、言ってしまった以上、そのためらいにはなんの意味もない。引き返せない分岐点を過ぎてしまったことを理解しながら、僕はやむを得ず、橋下サクラのその俗っぽい勘繰りに対して、真摯に15秒ほど考えを巡らせた。僕は彼女に嫉妬しているのか、と。
「いや、それはないな」と僕は言った。「彼女はすでに僕よりいい写真を撮りますよ。大学を卒業したら、たぶん写真で食べていく人でしょう。なんなら今からでもやっていけるかもしれない。その地力はもう十分あります。僕としては、彼女のその力が将来この世界に正当に認められ、彼女が望むような道を進んでくれればいいと思っています」
 僕がそう事実を述べると、橋下サクラの顔が変わった。外見的には眉の形一つ変わっていないけれど、今まで外面を取り繕っていた表面の薄い膜が、水に溶けるオブラートみたいに消え去ってしまっていた。もちろん膜の内側にあったのは嫌悪感で、それは当然のように僕に向けられていた。もののわかっていない男性を侮蔑するとき、女性はこういう風に人を見る。やれやれまただ。僕はなにかまずいことを言っただろうか?
「じゃあ、アミちゃん、私が取ってもいいですか?」
 橋下サクラのそのセリフは、僕にとって不快に響いた。彼女を「取る」? そういう言葉が不快に響くことが僕自身驚きだった。
「あなたが何の話をしているのか分からないけれど、とりあえず、彼女はモノじゃないですよ」
 僕は間髪いれずにそう言い返していた。彼女はモノじゃない。自分の意思があり、自分の展望があり、自分の足で世界の端まで歩いて行ける。橋下サクラの物言いは、人が歩くことそのものを否定している。そんな風に誰かを語ってはならないと、僕は随分昔に教えられたのではなかったか。不快感……怒り。これは、珍しく僕にとっての怒りだった。
 僕の声を聞いた橋下サクラは、半瞬だけ驚きと怯えをないまぜにしたような眼の光を見せたあと、ひるんだ自分を許さぬようにぐっと口を強く閉じ、頬の筋肉を強張らせた。狩るべき野獣を前にして緊張するハンターのようだな、と僕は他人事のようにそう思った。
「アミちゃんに言ったんです」
「なにを?」
「私と組まないかって」
「彼女はなんて?」
「やんわり断られましたよ。まだ学生だし、写真もまだ田村さんのところで勉強中で、仕事にできるほどじゃないからって」
「そうですか」
「『そうですか』って。はあ、やっぱり、そうなんですね」
 橋下サクラは一度目を伏せてから改めて僕に向き直る仕草を見せた。今から私はあなたにきっぱりとした判決を下します、と言外にそう言っていた。そういう仕草は人からは白々しくみえるものだと、橋下サクラはどこかで学ばなかったのだろうか?
「私はプロとして見てきたからわかります。彼女には才能がある。あの才能の塊を導くには、あなたでは荷が勝ちすぎると私は思うんです」
 まるで生徒を否定しないよう教職課程で教えられた新任教師のように、橋下サクラはわざとらしいゆっくりとした口調で僕に話しかける。
「僕の話、聞いてました?」
「わかってますよ。そのうえで、『あなたはわかってない』と言っているんです。失礼だけれど、あなたとアミちゃんでは、アミちゃんの方がはるかに写真家として才能に溢れています。そのことは、プロの方ならよくわかっていると思います。それなのに、アミちゃんはあなたをお手本にして、自分を抑えてしまっている。それは不幸なことだと思いませんか?」
 どうやら意思疎通は不可能なようだった。ことりと音が鳴って、蚊帳の外になっている村山が、グラスをテーブルの上に置いたのがわかった。村山はなにも言わないまま、ただグラスを見つめている。
「彼女がどこでなにをするかを決めるのは、彼女自身です。たしかに大学を卒業しておくように助言したのは僕ですけれど、それだって、彼女が本気で中退して写真を撮る道を選ぶなら、僕は否定しませんよ」
「世の中には、本人の意思を尊重している風をして、その実、自分の都合の良いように女を支配する男が腐るほどいるんです。君のためだ、とか言ってね」
『ほんと、クソです』と橋下サクラは口にはしなかったが、僕には聞こえた。
 橋下サクラが朗々と語っているのは男性全般に向けての一般論ではなく、もちろん僕個人への非難だった。目の前の人間は本気で僕を、女性を利己的に束縛する悪しき男性として断罪するつもりのようだった。僕は才能ある女性を都合のいいモノとして支配し、奪い、将来性を摘み取る、マチズモの後継者なのだ。
 ところで僕は苛立っている。まったくもって、やれやれだ。この女は鏡を見ないのだろうか。
「繰り返しですけど、彼女の才能は、たぶんあなたが思っているよりはるかにすごいものです。私にはわかります」
 本当は、私にだけはわかります、と橋下サクラは言ったのだ。同じように才能のある私にだけはわかると、橋下サクラはそう言いたいのだ。
「なるほど。そして、目の前にいる三流の写真屋が、自分より若く才能のある女性を手元で束縛し、腐らせている、と」
 世の中にはどうしようもないレベルの人間というのがいて、自分がどの程度からすらわきまえていないのに、他人に上から物を言えるつもりで社会の中で飯を食って生きている。それは仕方のないことだけれど、ここまで白々しくて阿呆なものにまともに付き合う義理はない。いや、それよりもっと、僕はその手ぬるさが気に入らない。やるなら徹底的にやればいい。そうすれば話はようやくスタートラインに辿りつくというのに。
「その物語は悪くないな」
 僕は誰にでもなく、そう言った。
「田村」
 村山が低くたしなめるように僕を呼ぶ。
「いいじゃないか、村山。言わせてくれよ。たしかに僕は彼女を束縛し搾取しているクズ人間なんだから。そう指摘してもらって清々しているくらいだ。ああ、僕はどうしようもないな。こんなのだからおまえにも嫌われている」
 橋下サクラは気持ち悪そうに僕を見ていた。徹底的に戦うつもりだった獣が、その実、肉が腐り眼球が飛び出た動く死骸だったのだ。その嫌悪ももっともだ。
「いえ、そこまで言ってるわけじゃないんです。ただ、田村さんも同じプロなら、私の言っていることがわかると思って」
『同じプロ』とはまた、ありがたすぎて恐れ入る。
「いやいやいやいや、いいじゃないか。僕はあなたの言ってることを否定はしない。その通り、結局のところ、男というやつは、女性を記号的に消費していくだけの人権蹂躙機構にすぎないのさ。可愛い歳下の女の子を手元で囲って、犯し搾取し支配して人生を台無しにするわけだ」
「あの、田村さん、酔ってます?」
「酔狂だ、という意味でなら正しい。そこの村山が言ったように、どうにもときどき我慢ができなくなるタチでね」
「すみません、私が悪いですよね。言い過ぎました」
「そんなことはない、あなたは実に正しい。そして、僕はここに長居しすぎた。部外者が腰を落ち着けるべきではなかったな。悪かった。これ以上、余計なことを言わないうちに失礼するよ」 
 僕が席を立つと「気持ち悪い」と橋下サクラは言った。たぶん誰にも聞こえないように小さく言ったつもりだけれど、その音はちゃんと僕まで届いていた。もしかしたら本当は口に出していなかったのかもしれないけれど、僕には聞こえた。しかしいいね。『気持ち悪い』。実にいい言葉だ。
「田村、あんたいい加減にしなさい」
 食堂の出口に向かって歩き始めた僕に、村山が強く窘めるように言った。いい加減こいつも我慢の限界なんだろう。
「橋下さんも、喜多川の軽口なんて真に受けるもんじゃないですよ」
と村山が喜多川の名前を出したものだから、僕は一瞬はてと考え――なるほど、それで合点がいった。喜多川が彼女と僕のことで下世話な話を橋下サクラに吹き込んだのだろう。喜多川にとっては冗談程度のつもりだったかもしれないが、橋下サクラにとっては看過し得ない大問題だったのだ。男が女を(保護しているつもりで)搾取している、というその物語構造が。
「田村、あんたそこまでやって逃げるの?」
 僕は立ち止まって、村山を振り返る。
「言ってやればいいじゃない。あんたが今言ったことと同じことを橋下さんが目の前でやってるんだって、そう指摘すれば済む話じゃない。そのためのフリまでやっといて、逃げるの?」
「あの? なに? 私?」
「逃げるさ。僕にそれを指摘する資格はないからね」
「あんた本気で、まだ、そんなことを」
「勝手なことを言わ――」
 橋下サクラの言葉を遮るように、村山が音を立てて椅子から立ち上がった。長い付き合いだからか、事前に村山がなにをするか、なんとなく僕にはわかった。それにしても、こいつが誰かを叩くなんて、初めて見るな、と思って、村山は右腕を振りかぶって、僕はなにも言わずに体の力を抜いた。左頬に痛みが走って、派手に後ろによろめいたのは予想通りだったけど、僕は、あれ、と思った。痛みが鋭い。じわと頬に熱が湧く。村山が怯えたように驚いている。ああ、そうか、そういえばこいつの爪、長かったなと思って、僕は右手で頬を触って、手に着いたものを確認する。その様子を殴った村山が心配そうに見ているものだから、
「大丈夫。この程度なら深くない」
 と言って、僕は村山に背を向けて食堂を後にした。

 食堂を出ると塾の入り口近くに先生が立っていた。壁に体重を預けて腕を組んで、反対側の壁の、そのずっと先を見つめていた。その表情があまりに剣呑なので、僕には彼がひどく怒っているように見えた。その怒りが僕に向けられたものだったなら、僕はその怒りを受け入れるつもりでいた。でもそうではないだろう。彼が怒るとすれば、それは外に向けてものではないのだ。案の定、彼は僕の姿を認めると表情を崩して、
「ごめん、立ち聞きしてしまった」
 いつものように、いたずら好きの子どものような顔をしてそう言った。それから懐からポケットティッシュを取り出して、「押さえておきなさい」と僕に一枚手渡した。
「すみません、騒がしくして」と僕はそれを受け取りながら謝罪した。
「やっぱり僕じゃ人に教える立場になるなんて無理みたいですね」
「あーうーん、そういう、ことじゃ、ないと思うんだ」
 彼はそう言いよどむと、凝り固まった言葉をほぐすように両手を頬に当ててぐっと押し込んだ。
「だめだな、言葉がうまくまとめられない。いつかちゃんと、まとめて話すよ、君とは」
「はあ……はい」
「ただ、今一言だけ」
 彼は僕の目を見て、でも僕の目よりもっと先を見て、言った。
「君は君のために人に教えてもいいと思うんだ」
 それはいったい、誰に向けての言葉だったのか。

 *

 部屋の扉を開けると、彼女がベッドに座っているのが見えた。ベッドの上で壁にもたれて座って、本を読んでいる。ベランダから射し込む外の街明りが彼女のめくるページを薄く照らしているようだった。彼女は白いシャツと下着だけという格好で、シャワーを浴びたのだろう、彼女の髪が光を受けて細かく輝くのが見えた。僕はそれがひどく痛ましい光景に見えた。傷つき、地に伏した、路上の鳥のように思えた。僕はその痛ましさが好きだった。その弱さが好きだった。傷を受けたものを嗜虐的に好むのではなく、人は弱くあることができるのだ、というその事実が、僕は好きだった。
 本から顔を上げて、僕の姿を認めると、
「あのすみません、勝手に」
 と小さく彼女は言った。
「好きにしてくれてかまわないよ。合鍵を渡したんだから」
 僕は最近になって合鍵を彼女に渡した事実を話しながら思い出す。今さらなような気もする。過ぎたことをしたようにも思える。
「なにを読んでるの?」
 彼女は表紙をそっと見せてくれる。彼女が持ち歩いている例の本だ。手垢擦り切れ折れ、曲がり反り返り、カバーはどこかに消えてしまっていた。あまり読み返すこともなくなった今も、アミはずっとその本を持ち続けている。
「読んだことありますよね?」
「一度飛ばし読みしただけで、もう何年も読んでないな」
 少し残念そうに、そうして意外そうに、彼女は僕に訊ねる。
「うれしくなかったですか? 自分のことが書かれてるって」
「恥ずかしいだけだよ」
 僕は短く答えて、彼女の隣でベッドに腰掛ける。彼女は僕の横顔じっと五秒間見つめて、僕の頬に手を伸ばした。
「ケガ、してます?」
 彼女の冷たい指先が赤く切れた線をなぞる。
「ちょっとぶつけたんだ」
 僕は彼女の指先に僕の手を重ねて、ゆっくり撫でた。小さな動物を落ち着かせるように、丁寧に。それから彼女の手をベッドの上にそっと置いた。
「どこ読んでたの?」
「このT君とMさんの論争のところ。これって本当にあったことなんですよね?」
「ああ、でもね」
 そいつは、ささやかな認識と価値観の違いだった。西町先生は、僕と村山のそのつまらない意見の相違を哲学のテストケースのように本の中で描いていたが、実際のところそんな高尚なものではなかったのだ。少なくとも、当事者にとっては。
 僕はその時の話を、当事者目線で彼女にしてから、
「村山には昔から嫌われてるんだ」
 と付け加えた。
「田村さん?」
 教師の間違いに気づいた生徒のような顔をして、彼女は僕に訊ねた。
「村山さんに嫌われてると思ってるんです?」
「ん? 思っているというか嫌われているんだけど、なにかおかしい?」
 彼女は困ったように「ふうん」と唸ると、視線を本に落として、
「田村さんって、どうしてそうなんでしょうね」
 皮肉でも嫌味でもなく、まるで「今日はいい天気ですね」とでも言うように、彼女はそう言った。僕は彼女の言葉になにか反論しようと考えて、しかしそれが意味のないことだとすぐに思い当たった。彼女は、べつに僕に向かって言ったわけではないのだ。
 彼女はしばらく無言で本のページに視線を落としていた。ページはめくられず、彼女の視線はずっと一点を見ていた。彼女が見ていた行はたいして面白い箇所でもない。僕らのいつもの馬鹿な掛け合いだ。
 五分ほどして、僕は諦めて彼女に言った。
「聞いたよ。橋下さんの話、断ったって」
「はい」
 彼女には珍しい、冷たく突き放すような言い方だった。一瞬だけ僕が彼女に突き放されたように思った。僕は彼女の小さくて、しかしゆるぎない、固い雹のような怒りに、どんな言葉もかけることはできなかった。
「私、あの人のこと、たぶん嫌いなんです」
 彼女は一人でセリフを朗読するようにそう言った。
「あの人はずっと私にかまってくるんです。たぶん私に認めてほしいんです。『自分には能力があって、その自分が認めてあげるのだから、自分を認めてほしい』。そういうありがちな、でも本人は無自覚な承認欲求が透けて見えるんです」
 彼女が他人を直截に悪く言うのは珍しいことだった。だからだろうか、彼女が本当は橋下サクラではなく、誰か別の人間か、あるいは一般化した架空の人格を非難しているように、僕には聞こえた。
「でも、言ったら悪いけど、あの人は自分が思ってるほど、すごい人じゃない。今の私でもあの人の写真を見ればわかります。平板で、単調で、人間の不思議や複雑や不合理に、この人はコミットしてこなかったんだって」
「それは、もしかしたら僕も同じなのかもしれないよ」
僕がそう言うと、彼女は僕の手を強く握った。
「あの人を見ていると、思うんです。もしかしたら自分がこうなっていたのかもしれないな、って。ううん、こうなるかもしれないな、って」
「そう?」
「よくわかるんです。あの人の心の型が。自分の正しさに疑いを持たず、だから承認欲求と自己正当化の塊になってしまって、でも自分がそんな単純でやわなものだと思っていないし思いたくないから、贅肉だらけの自我が坂道を転がっていくように肥大化していく」
「うん」
「私も同じです。同じように、あの人をダシにして自分を正当化してるんです」
「そうかな」
「そうです」
 僕は少しだけ頭を掻く動作をフリだけして、五秒だけ間を置いた。困ったようで、困ったわけでもなく、考えているようで、考えていたわけではない。
「あまり、そんな風に思わなくていいんじゃないかな。自身への懐疑は必要だけれど、度がすれば自虐になる。それはまあ、君の言う肥大した自我と同じものさ」
 彼女は僕に透徹した瞳を向ける。明かりのない薄闇の中でも、瞳に光る知性が僕にはよく見えた。
「一般論ですか?」
「そうだよ。ただの一般論」
「じゃあ、個別的な事例としては、どう思います?」
「そうだなあ」
 当たり障りのない文言、関係を維持するだけの言葉、安易な相槌、そういうものが、いくつも思い浮かんで、山ほど思い浮かんで、どうにだってできるのに、僕は言った。
「君に、そういう承認欲求や自己正当化バイアスがないとは言わない。あるいはこの先、橋下さんのような生き方に、君がいつのまにか落ち込む可能性がないとも言わない。それは、誰にでもある可能性の一つだからね。でも今のところ、君がひどく自分を卑下するほど、君は無自覚に尊大な人間ではない。むしろ少し抑制的すぎるきらいがある。君はもう少しだけ外に向かって自分を開く意識をする方が、たぶん良い結果を生むだろうね」
 通信簿に書いてある教師のコメントのようなものだ。だが、率直に、散文的に言ってしまえば、彼女は今そういうところにいる。かつて誰もがそうであったような、その場所。
 彼女は納得したように頷いたけれど、目はひどく不満そうに僕を見ていた。正しいけれど正解ではない答えだったと、彼女は言外にそう僕に伝えていた。
「田村さん、私、邪魔ですか?」
 それは、自虐や卑下ではない、真摯な問いかけだった。実存をかけた、もしかしたらよほど哲学的な問いだった。
「いや、そんなことはない」
 むしろ、と繋げようとして、でもそれは彼女に今言うべきことではないと思って、「む」の形の空気を肺の中に押し込んだ。
「田村さん、最近、自分の写真撮ってないですよね。私のせいですか?」
「それは僕の都合さ」
「田村さんは嘘つきですか?」
「嘘はつかないように努力している。とくに君の前では」
「本当に?」
「本当に。でも、人にはよく誤解されるよ」
「それは『嘘はついていないけど、本当のことも言っていないから』じゃないですか?」
「そうかもしれない」
「やれやれです」
「ああ、やれやれだ」

 *

「あんたってなんでいつもそうなの?」
 と言った村山の声は呆れているようでもあり、馬鹿にしているようでもあり、どうしようもなく諦めているようでもあって、でも底の方には村山らしい気遣いもあって、僕にはどう受け取っていいのかわからなかった。
 きっかけは些細な論争だ。大学での先生の講義のあと、いつものように学生たち数人で廊下に集まって講義の内容を話していた。見知った顔をもあれば、知らない顔もある。その日の話は、記号化され客体化される他者とか表現の自由と公共における制限とか、まあ、ありていに言えば性的な要素を含むアニメ・マンガキャラクターはどこまで公共の場で許されるのか、という問題についてだ。僕はその議論の内容に特段興味が惹かれるものはなかったけれど、学生同士の議論については面白く聞いていた。それは彼らの議論のレベルが高かったからではなかった。僕から見れば、議論としては稚拙で、単純な知識不足や論理の把握が甘く、いくつかの意見ですれ違いが生じていた。先生はたまに交通整理でもするように、その学生たちの議論にいくつかの助言や解説を加えていた。青く臭く、未発達で、まだまだ一般的な常識論の域を出ないような議論を、先生は柔らかい卵でも温めるように、馬鹿にせずに大事に育てていた。僕は、その様子そのものに、なにか惹かれるものがある気がして、じっと耳をすませて彼らの議論を聞いていた。そうやって僕がすっかり聞く側に回っていると、突然先生が、「田村君、なにか言いたいことある?」と僕に話を振ってきたのだった。廊下で話していた学生たちが一様に僕の方を見てしまった。
「いえ」と僕は反射的に言ってしまって、でも、振ってくれた先生の手前、それで終わらしてはならないと、なんとはなしに思えてしまって、「あえて言うなら」と続けてしまった。
 僕が言ったのは、議論についてのいくつかの不備だった。たとえば、異性を記号的かつ性的に表現する方法を取る主体は、その表現方法を内面化した同性の場合があること。たとえば、我々が日常的に使っている各言語体レベルでも異性を、他者を記号化しており、他者の記号化は差別主義者やアンチフェミニストなどに限らず、我々に常に内在していること。……とまあ、つまるところ、双方の議論の不備についていくつか指摘や批判を加えたのだった。おかげで、その場にいた幾人かの学生からは、自分の反対意見を擁護する論『敵』のように捉えられたようだった。僕はそういうのはいつものことだと思って、特段その誤解を解こうとも思わなかった。
 でもその雑談会が終わったあと、たまたま帰る方向が同じで、一緒に歩いていた村山に言われたのだ。おまえはなぜいつもそうなのか、と。
「なにが?」と僕は村山に訊ね返した。
「あんたなんで自分が誤解されているのにそれを訂正しないの? あんなの不愉快なだけじゃない」
「この程度で誤解するような思い込みの強い人間には、下手に反論をした方が逆効果だよ。けっきょく、説明しようがしまいが、面倒なことには変わりない」
「そういうところ。あんたどんだけ他人に興味ないの? どんだけ他人を見下しているの?」
 激しくそう言われたわけではないが、村山の怒気が本物だということはわかった。僕は村山の、なにか絶対にそうあってはならないものに触れているようだった。それはさすがに申し訳ないな、と思って僕は弁明を試みた。
「それこそ誤解だ。僕は別に他人に興味がないわけじゃない。むしろ他人の話を聞いてる方が面白いよ。さっきの話だって、少々僕が誤解されることより、彼らが自分たちの見識を育てることの方が、僕にとって面白いから、ああいう風に言っただけさ。先生もそれを望んで僕に話を振ったんだろうしね」
 僕が当たり前のことだと思ってそう説明すると、
「あ」
 と言って村山は路上で立ち止まった。近くにいた学生が一瞬だけ怪訝そうに村山に視線を向けて、足早に去っていった。
「もしかして、そういうこと、ね」
「なにが?」
「今から私と飲みに行こう。いや、その辺でお酒買って、私の下宿近いから、飲もう」
「かまわないけど、突然なんだ?」
「世話のかかる後輩に、いっぺん示しをつけておくだけ」
「同期だろ、僕たち」
 けっきょくそれがきっかけで、僕たちはしばらくのあいだ村山の下宿を起点に生活をすることになった。酒を飲み、熱心に話し込み、寝食を共にし、半分同棲生活のようなことを二か月ほど続け、そして唐突にそれは終わった。

 *

 一定の年齢以下の現代人の多くがそうであるように、僕もそれほど電話というものを好まない。連絡手段が必要なら、メールでもSNSでも文字媒体の方が手間がなくていい。仕事や個人的な連絡を受けるのも、そのほとんどが文字媒体を利用したものだ。というのに、ここ最近なにかあると僕に電話がかかってくる。僕の人生の中でも珍しい、その年は電話の年だった。もしかして、周りの物事が変わらざるを得ないときに、一般に人は電話をかけたり受けたりするのだろうか? 誰もが人生のある時期に差し掛かると電話の年がやってきて、一生の半分くらいの電話をかけたり受けたりするのだろうか。そしてそれが終わるとぱったりと電話は止み、僕らは文字情報の土くれの中で埋没してしまう、そういうことなのかもしれない。
 という無為な想像を、僕はその電話を受けたときに考えていた。その想像に、僕はコール音五回分の時間を費やした。それから、その想像に先がないことを認めて、僕は諦めて自分の端末を操作した。
「田村です」
 と僕は応じた。
「知ってる」
 と相手方は答えた。
「さすが村山だ。僕が田村であることをよく知ってたな」
「あのねえ」
 村山は低く唸ってから、小さな沈黙をした。まるで海底の丸い小石のような沈黙だった。
「今日はそういうのじゃない」
 平板な声だった。
「そうか、すまなかった」
 僕は自分の余計な世話を謝罪した。
「今、家?」
「ああ」
「アミちゃんも?」
「二人で仕事中だよ」
 ちょうどそのとき、僕たちはこのあいだ撮影に行った企業広告の写真を整理していた。今時ほとんどの仕事は画像データのやり取りだけで終わるのだけれど、たまに写真の現物を要求されることもある。僕ら二人、座卓に向かい合って、現物の写真や紙の資料を整理し、まとめて、郵送の準備や手渡し資料の整頓など、アナログの手作業にあけくれていた。
僕が電話を受けているあいだ、目の前の助手は不思議そうに僕の顔を眺めていた。まるで、家族の知らない一面を見た子どものような顔だった。
「じゃあ、かけ直す」
「いいよ、たいした作業じゃない。それよりわざわざおまえが電話なんか寄こしてきた方がよほど重大事項だ。話は?」
「たいしたことじゃないけど……ちょっと私に付き合いなさい」
「サー、イエッサー。かまないけど、具体的には?」
 僕はそう訊ねたけれど、村山は僕の返事に対して不満そうに、
「違う。そうじゃないな」
 と言った。どうやら、僕はまたなにか間違えたらしい。
「言い方を変える。お願い、私にちょっと付き合って」
「うん」と僕は短く答えた。
 もしかしたら、と僕は思った。違ったのは、僕の答え方ではなく、村山の言い方のことだったのかもしれない。
「できれば、アミちゃんも一緒に」
「うん」
 それから村山は、僕に場所と日時を告げた。場所はこの街の中央駅近くにある喫茶店だった。僕が村山からの用件を彼女に伝えると、彼女は僕を見つめたままこくりと小さく頷いた。
「二人で行くよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それとこのあいだのこと、ちゃんと謝ります。ごめんなさい」
「気にしてないよ。言われるまで忘れてたくらいだ。じゃあ、またその日に」
「うん」と村山が言うのを聞いてから僕は手早く電話を切った。十秒間自分の端末を見つめて、それから電源ボタンを押してスリープにした。バックライトの消えたディスプレイに、深く息を吐き出した。そうか、今僕は緊張していたのだな、と僕はいつもあとから気づく。
 顔を上げると、ずっとそうしていたのだろう、彼女は作業の手を止めて不思議そうに僕の顔を眺めていた。それから軽く息を吐き出すように自然に、
「田村さんって村山さんと付き合ってたんですか?」
 と言い放った。
 僕は呼吸を止めて、唇を結び、ぐっと胃と肺に力を込めた。五つ、数えた。それから急に息を吐き出さないようにゆっくりと唇を開いた。
「危うく、噴き出して資料をダメにするところだった」
「すみません」
「いちおう言っておくけど、村山とはそういうのじゃないよ。たしかに二か月くらいほとんど一緒に暮らしていた時期はあるけど、男女の中じゃない」
「じゃあ、どういう?」
「そうだな、あれは――」
 僕の頭の中に色々な関係性が喩えの形を取って浮かんでは消えていく。獣と狩人。医者と患者。主人と召使い。いや、そう、あれは、言うなれば――。
「コーヒーと溶けない砂糖」

 村山はベッドに胡坐をかいて座っていた。僕は村山の正面で床に座っていて、僕と村山の間には独り暮らし用の白い座卓があって、村山の姿を架空のカメラのファインダー越しに見ていた。切れ長の目、黒い長髪を後ろで束ねてポニーテールのようにして、黒のノースリーブとジーンズ地のショートパンツ。格好だけなら、なにかのスポーツ選手のオフのようだが、その装いに反して肌は異様に白い。中学のころは陸上部だったという話だが、昨今ではまとまった運動をすることもないのだそうで、その白い肉は柔らかで冷たく、踏みしめれば鳴き雪でも聞こえそう。
 悪くない被写体だ、と僕は思っていた。でも、なにがなんでもカメラを持ち出すほどではない。なにか、あと一つ二つ、足りていないのだ。
そのころの村山はひどく消沈していた。僕を部屋に上げた直後こそ熱心に僕との議論に勤しんでいたが(大抵は先生の講義の内容についてだ)、どうやら目論見は外れ、熱は覚め、どこにも行けない女の残骸だけが残っているようだった。どうしてそんなことになったのか、僕にはよくわからない。あるいは村山は僕に期待していたのかもしれない。与えるにせよ、与えられるにせよ、僕にコミットすることで、村山にとっての変化の兆しのようなものを僕に求めていたのかもしれない。しかし非常に申し訳ないことなのだが、僕は角の生えた瑞獣でもトナカイに乗った白ひげでもなく、今後そうなる予定もなかった。
「あんたは、写真の才能があるじゃない」
 と村山は言った。村山はよく他人の能力のことを『才能』という言葉で表現した。
「こういうのは才能でもなんでもない。それに、これくらい撮れるやつはいくらでもいるさ」
「私にはできない」
「そりゃね。でも別のことはいくらでもできる。僕はおまえみたいに大量に本を読んできたわけでもない。資格試験の勉強もしてない。成績表にずらっとS評価を並べられたりもしない」
「私にはなにもない」
 感傷や自己卑下でもなく、ただ垂直な壁のように事実なのだと、村山の無表情が語っていた。
「やれやれ」
 僕は立ち上がって二人分の飲み物を作りに流し台に立った。この二か月で二人分のインスタントコーヒーを淹れるのにもすっかり慣れたものだった。僕は砂糖一さじ、村山は大盛り二さじ。砂糖は多めじゃないとコーヒーなんて飲めないのだと、村山は僕に教えた。
 僕は雑に作ったアイスコーヒーを村山の前の座卓に置いた。村山はベッドに腰かけて前かがみに、グラスの中の溶け残った砂糖を匙でかき混ぜながら、
「実はコーヒー自体そこまで好きじゃない」
 と独り言のようにそう言った。
「じゃあなぜ飲む?」
「わからないけど、でもいつまでだって自分を罰したくなる気持ちってあるじゃない」
「わからなくもないけれど、そいつはあんまり健全じゃないな」
「私、不健全だから」
「困ったやつだ」
 僕らはしばらく自分の前のグラスを眺めて黙り込んだ。なにをやっても堂々巡りになりそうで、たぶんこれ以上は僕にもなにもできない。それは『村山に足りないものを僕が与えられないから』ではないことを、僕はこの二か月で学んでいた。実のところ、その足りなさそのものが、村山なのだ。だから、足りないことを、足りないままでいることを認められない村山に、僕がしてやれることはなにもない。それが僕の結論だった。まったく僕自身なんてあやふやな言い方なんだろうかと思う。もっと村山の問題を具体的に、記号で、暴き立て、そこに論評でも分析でも加えてやれば、あるいは介錯程度にはなったのかもしれないけれど、でも僕はこの女を傷つける気持ちにはどうしてもなれなかった。どうせその資格もなかった。
 僕は話を変えることにした。
「最近先生が、大学を辞めたら私塾を開きたいって言ってるんだ」
「私もそれ聞いたかも」
「もし本当にそうなったら、先生を手伝ったらどうだろうか。おまえなら、そういうのうまくできるだろ」
「どうだろう。わからない」
 と、村山は言葉を濁したが、たしか学生自治組織のなにかに携わっていたはずで(あいにく僕はそういうのには縁がなく、詳しい事情は知らなかった)、そういう作業には向いているはずだった。
 まずいインスタントコーヒーに口をつけながら、僕は改めて村山の部屋を見渡した。学生が使うアパートの中でも、そこそこの家賃の小ぎれいな物件。中流より少し上の親が子息のために探してくるようなワンルームだ。壁のほとんどはぎっしり詰まった本棚で埋められ、学習用のデスクは整頓が行き届いていた。キッチンには過不足なく調理器具が揃えられ、どれもきちんと手入れされている。壁は白く、傷の少ないフローリングの上には、分厚いラグが敷かれていた。その部屋は僕に、きれいに掃除されたペット用のケージを思わせた。おそらくその部屋を見た誰だってそう思うはずだ。
 部屋を一通り眺めてしまうと、僕は女の手の中で大事そうに抱えられているまずそうな半透明の液体を見つめることにした。そこになにかこの状況を打破するものが見えるような気がして。
いや、そうじゃない。
 僕にはずっとそのまずそうな液体がなんであるのか、見えていたのだ。そして二ヶ月の間、その事実を指摘するかどうかを、ただ迷っていたにすぎない。だからもう、この部屋で見るべきものも語るべきことも終わってしまったこの段階においては、僕はその引き延ばしに終止符を打つしかなかったのだ。
「それ、父親が飲んでたんだろ?」
 僕はそう言った。それがどうにもならない余計なお世話だと知っていながら、言わざるを得なかった。
 村山は僕を見た。睨んだ。憎々し気に。今まで僕の前では抑えて、ぼんやりとしていた敵意や憎悪に、形を与えて僕を貫いた。純粋で、真剣な怒りだった。まるで頬をひっかく真冬雪の結晶のカドみたいに、それは混じりけのない感情だった。
 僕は村山の敵意を真正面から浴びながら、それでよかったのだ、と思った。おまえはそれでいい、と。
 村山が自分の部屋に僕をあげたのは、単純な好意や興味ではなかったことぐらい、僕にだってわかる。僕が自身のセンシティブな部分に触れるなにかを持っていると、村山は直感的に感じ取っていたのだろう。そしてそれは事実だった。ただそれは、足りないものを与えるとか、知らないことを教えられるとかいう関係ではなくて、本当にただ、「おまえのそれはどうしようもない」ということを見せつける鏡像のようなものだった。あるいは個人史上の不適応の反復だったかもしれない。つまるところ、俗な言い方をすれば、僕は村山にとってのトラウマだったのだ。
「悪かった」と僕は言った。「もうここには来ない」
 僕は立ち上がり、玄関の自分のスニーカーに足を突っ込んだ。
「でも、先生の件は考えてあげてくれ」
 僕が最後にそう言うと、
「あんたがやるなら手伝う」
 と村山は答えた。
 僕はなにも言えずに、扉を開けて部屋を去った。

 *
 
 村山に会いに二人で出かけたのは、よく晴れた秋の日のことだった。そう、それはまるで、童話の書き出しのような十月の朝で、僕たちは森にキノコを探しに行くみたいな調子で、電車に揺られて市街地のターミナル駅までやってきたのだった。電車を降りるとホームからまっさらな秋晴れが見えて、彼女は「いい天気ですね」と言った。
「葬式をするにはよさそうな日だな」
「そうですね」
「仏花でも買っていくかな」
「そうですね」
「ふつうは、縁起でもないことを言うものじゃないと怒られそうなものだけれど」
「そうですねえ」
 僕はホームで立ち止まって、後ろの彼女を振り返った。人々の作る流れは僕らを場違いなテトラポットのように避けていった。彼女は見慣れないデニムのハンチングを深く被り、ボタンを閉めた黒のワイシャツの上にやはりデニム地のジャケットを羽織っていた。
「なんだい?」
「朝からきれいにひげ剃ってました。普段使わないシェービングクリームまで使って」
「まあ、いい天気だからね」
「秋物のジャケットを出してきました。きれいなブルーグレーの」
「肌寒くなって来たからね」
「なかなかの気合いの入れ様ですねえ?」
 彼女はじっと僕を見ている。からかっているような、怒っているような、でもそれを楽しんでいるような。つまるところ、今日の彼女はとても意地悪だった。僕はゆっくり深く息を吸って、時間をかけて吐き出した。
「緊張してるんだ」
「緊張?」
『緊張』という言葉が僕から出るのを、彼女は予想していなかったようで、その不可解な言葉を不可解だと言うように復唱した。
「まるで、初めて法事に出る子どもみたいなもんさ。どうしていいか、勝手がわからない」
 僕はホームの自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、近くのベンチに座って、一本を彼女に渡した。彼女は僕の隣に黙って座った。
「君、村山と、塾では仲いい?」
「仲がいいのかはわからないけど、よく話をします」
「どんな?」
「勉強会のあとにその内容の話題とか、塾の運営の話とか。いろいろ教えてくれます」
「そいつはよかった」
「田村さんは、村山さんといつもどんな話をしてたんですか?」
「よく覚えてないな」と僕は言った。「少なくとも、流行りのドラマやいもしない友達の恋バナでなかったのはたしかだ」
「田村さん」
 彼女はいたずらをした子ども窘めるように僕の姓を呼んだ。
「悪かった。たいていは、大学の講義や塾の勉強会の内容の話や、村山が読んでた本の話……あとは、コーヒー」
 僕はそう言ってから、意を決して、缶コーヒーのプルリングを引いた。缶に口をつけるとミルクと砂糖の甘ったるい味だけがした。
「田村さんは、村山さんのこと苦手なんですよね?」
「まあ、そうだね」
「でも、今日のこと断らなかったんですね。どうしてですか?」
 呼吸は落ち着いて、乗客の人波は秋の薄い日差しの中に溶けるように消えてしまっていた。僕と彼女は二人ホームのベンチに並んで座っていて、ホームには次の列車の行先を告げるアナウンスが流れていた。少し肌寒く、わずかに暖かい。いい天気だ。
「村山には、そうする義理がある」
 言い切ってから「と思う」と付け足した。
「義理、ですか。友達だから、とかじゃなくて」
「そう、義理」
「義理って言われた方は傷つくこと思います」
「本人には言わないさ」
「そういうところ」
 彼女は僕が渡した缶コーヒーの蓋を開けて、刹那の戸惑いのあと、ぐいと喉の奥に流し込んだ。舌をできるだけ通さないようにする飲み方だ。
「村山さんに嫌われる理由なんじゃないですか」
「返す言葉もない。それと、コーヒーすまなかった。要らなかったら僕が飲むよ」
「いいです。これ私のですから、飲みます」
 次の電車が来るまでのあいだ、僕と彼女はずっとベンチに座って、不味い缶コーヒーを飲みながら、駅のホームを眺めていた。僕たちの位置からはターミナル駅に並ぶいくつものホームが見えた。何度か列車が視線を遮り、列車が去って視線が通ると、いくばくかの人の流れが僕らの前を映画のワンシーンのように流れていった。流れ行くその誰もが、主役であってもおかしくない画だと、僕は思った。見えた顔の一つ一つが生み出す物語を想像できる気がした。気がしただけで、けっきょくただの一つも、どんな物語も、僕には見出すことはできなかったけれど、それで僕は少しだけ落ち着くことができた。ただそこに人の営みが感じられたのなら、今日はうまくやれそうな気がした。
 彼女が長い時間をかけて缶を空にしたのを認めてから、僕は立ち上がった。

 村山に指定された喫茶店というのは、駅の近くの百貨店の中にあった。見晴らしの良い地上八階で、店の窓からは僕たちがさっきまでいた駅のホームが見下ろせた。店内は採光がよく、内装もライトウッドでまとめられ、薄暗いレトロ趣味の喫茶店というより、若年層が気軽に立ち寄るようなタイプの店だと知れた。人に呼ばれでもしなければ、とても僕なんかが立ち寄る店ではない。
 村山は窓際の四人掛けの角席に座って僕らを待っていた。僕らが店内に入って来たのを見ると、手を上げて合図したが、それはたぶん彼女に対してだったのだろう。彼女に対して放った村山の柔らかな笑みは、僕の顔に視線を合わせた途端皮肉っぽい微笑に変わった。巧く獲物を罠に掛けた狩人が、自身の技量を誇るときにやるような微笑だ。
 僕らは村山の正面に並んで座って、あいさつもそこそこ、形だけの飲み物と軽く摘まめるものを注文した。まだ缶コーヒーの甘ったるい砂糖が舌の上に残っていたのだ。
 村山は珍しい格好をしていた。暖かそうなモスグリーンのセーターを着て、旅行用のキャリーケースを座席の脇に置き、深いベージュのトレンチコートを丁寧に畳んで空いた席にかけていた。
「旅行か? 物々しいな」
「ああ、これ?」
 村山はキャリーケースにちらとだけ視線を向けた。
「地元に帰るから、途中から着られるように厚手のが何枚か入ってるの。今から着ると暑いけど、向こうはもう着込まないと生きてられないから」
「今日? 急だな。言ってくれりゃこっちも準備できたのに」
「そういうのいいから。塾の方も送別会してくれるって言ってくれてたけど、断ったし」
「砂森のときはやったんだろ?」
「あいつは善人だからいいの」
「いつからおまえは善悪二元論の支持者になったんだ?」
「ずっと昔から。私は生まれついての悪人。その他は善人。あんた知らなかった?」
「知らないね。あえて言うならそんな自己卑下こそが『悪』ではあるけどね」
 すると、僕らのやり取りをおかしそうに彼女が笑った。
「それ、『本』にあった話ですよね」
「『悪とはなにか』の?」
「うん?」
 僕だけがわからない顔をしていると、二人ともが僕の顔を見て心底おかしそうに噴き出した。まるで夏服で登校してしまった衣替え後の同級生でも見たように。
「わかんないの? あんた、ほんとに?」
「田村さん、たまにわざとなんじゃって思うくらい鈍感ですよね」
「こいつ、自分のことになると、ご自慢の頭でっかちがフリーズする仕様なのよ」
「おい、ちょっと待て。今思い出すから、あんまりひどいこと言わないでくれ」
 投げやり気味に懇願して、そうだ、あの本で『悪』について語っていたのは、……悪とはなにか、弱さ、そして内在するもの、しかし外形的に投影され、人はその本質を見失う……だから……。
「僕がおまえに言ったのか」
 そんな自己卑下こそが悪だと、僕は昔村山に言ったのだ。自己卑下はやがて、外向きに投射されて、自分の鏡像を憎むようになる、そんな話をどこかでしたのだ。
「そう、思い出した?」
 でもそれは本の中の話で、本当に僕らがそんな風に話したのかは、正確に思い出せるわけでもない。
「あの本はよくできてる。まるでときどき、私たちの方が本の中の登場人物で、先生が描いた私たちの方が本物なんじゃないかって思うくらい」
「ああ、そうだな」と僕は同意した。「僕よりももっとふさわしい僕があそこにいるべきだったんだって、たまに思うよ」
 僕は笑い話のつもりでそう言ったのだけれど、二人はきょとんとして僕を見ていて、これはまたなにかつまらないことを言ったなと、僕は理解した。なんでそんなことを言うのか? と二人から問い詰められる前に、
「ものの喩えさ」
 僕は誤魔化すようにそう言った。と、運よく注文した飲み物と茶菓子が運ばれて来て、僕らの関心はそっちに移った。僕と彼女はレモンティーを頼んでいた。さっきの缶コーヒーがまだ舌に残っていたから、あまり濃くて甘いものを飲み気にはなれなかったのだ。僕らと一緒に村山が頼んだ飲み物は、コーヒーではなく、ホットココアだった。村山は一緒に運ばれてきたガトーショコラを自分の前で少しだけ眺めてから、それには口をつけず、大事そうにカップを両手で抱えて、ココアに口をつけた。その様子を見ながら、僕はてきとうに頼んだクッキーの山から一つ摘まんで口に入れ、レモンティーで流し込んでから、
「今日は本の話をするために呼んだんじゃないだろう?」
 と村山を促した。
「ああ、うん、そうね」
 村山は迷うようにガトーショコラ用のフォークを動かしてから、手を付けず皿の上にかけた。
「最後だしね、あんたになにも言わずに終わると、後味が悪そうだったから。そういうのわかる? 言いそびれたあとずっと後悔するの」
「うん」
 そうして村山は息を吸い込んだ。僕は耳を澄ませた。なに一つ聞きもらさないように、心を止めて、人を見た。僕が耳を澄ませると、村山は少しだけ楽しそうに微笑んだ。昔どこかで一緒に学んだときに、彼らはよくこんな顔をした。僕が聴こうとすることを、彼らはなにかの救いのように安心して笑うのだった。
「私、あんたと初めて会ったころあんたのことが嫌いだった」
「ああ、そうだろうな」
「なに、その言い方」
「よく嫌われるんだ。リベラルな、強い自立した女性に」
「はあ」
 村山はげんなりした風で、でもそれは楽しいお芝居でもするようで、僕は少しだけやれやれと思う。
「その、それ」
「ん?」
「その、あんたの『なんでもわかってます』ってその感じが、うざい」
「そうか」
「まるで父親みたい」
「父親……」
「あんたを嫌う女の子って、そういうこと。いつも人を上から分かったように言うあんたが、父親みたいに見えるんでしょう」
「それは……初めて言われたな」
 僕の隣で彼女が少しだけびくりと反応したけれど、それがなんなのかはよくわからなかった。
「まったく、あんたほんとに、自分のことになるとダメね」
「面目ない。というか、自分のことどころか、他人のこともさっぱりでね」
村山は、僕の冴えない返しに、楽しそうに笑った。僕が見た中でも珍しい村山の笑顔だ。もっと呆れられると思ったのだけれど。今日の村山に、僕の調子が狂う。
「今日は、でももう、あんたのことはいいや。私の愚痴を聞いてもらうことにする。いい?」
「いいさ、聞くよ」
「今の良くないな」
村山は自分の言に不服そうに言い直した
「あんたは私の愚痴を聞く義務がある。だから聞きなさい」
「さーいえっさー」と哀れな新人二等兵は応えたのだった。
「私、地元に帰る」
「うん」
 村山の地元はここからだいぶ北、飛行機の国内線でも使うか、さもなければ鉄道を何度も乗り継いで行くような、辺鄙な地方都市だ。
「そこで、図書館司書をやる」
「そうか」
 僕はその言葉にただ相槌を打つだけだった。もちろん僕だって昨今の司書採用の事情くらい人並み程度には知っている。そして村山は人並み以上によく調べているはずだった。
「正直、条件は最悪だし、そのポストだっていつまであるかわからないし、寒いし、実家は近いし、いいことなんてなにもないんだけどね」
「でも行くんだな」
「これだけは絶対に諦められないの」
 挑むように、村山は言った。もちろんそれは比喩ではなくて、本当に村山は新しい職場に『挑む』わけだけれど、僕がそう思ったのは別のことだ。村山は、その宣言をもって今この場で、僕か、僕のようななにか、僕のもつなにかに挑んだのだ。今ここで、喫茶店のテーブルの反対側にいるものに、村山は挑んだのだ。
「最悪な街よ」
 言葉は吐き捨てるようだったけど、でも村山は大切な思い出を語るように、楽しそうにそう言った。
「特に冬は。寒いし、雪は面倒ごとでしかないし、ろくに外にも出られない。土地柄も最低。保守的で前時代的。いまだに地元の商工会だとか議員だとかが幅を利かせるようなところ」
 僕はそんな雪国の保守王国を想像しようとしてみたけれど、その想像に質感を持たせることはとうとうできなかった。僕にとっては、剣と魔法のファンタジーよりもっと非現実的な世界のように思えた。
「うちも保守的な家でね、子供に厳しく接することが愛情の形だと思ってる類の、化石のような家だった。ああいうの、ゴキブリより古くから生き延びてるんでしょうね。そうして核戦争後もゴキブリと一緒に生き残るの、きっと」
 言ってから、村山はぐっと口をつぐんで言葉を切った。自分が声を荒げていることに今気づいた、というように。
「ごめん、食事中に」
「いいさ。気持ちはわかる」
「ほんと?」
「生家のことを考えると気が滅入る人間は、そこそこいるものさ」
 ね? と彼女に視線をやると彼女も小さく頷いた。
「信じられる? 私、大学に入って家を出るまで、八時半には自分の部屋のベッドの上に居なくちゃいけなかったの」
「気の毒だ」
「寝る前に親に黙って毛布の中で本を読むのが唯一の反抗だった。そんな子供時代」
「うん」
「こっちに出てきて、先生やあんたたちに会って、ああ、ちゃんと『考えてる』人たちもいるんだって、そうやって実感できて、私はようやくまともに呼吸ができるようになった」
「彼女がようやくまともに呼吸できるようになったのは、一八歳の春のことだった」
「ん?」
「小説の書き出しみたいだな、と思って」
「あんたの冗談って、いつもわかりにくい」
「精進します」
「でもそう、お話みたいなものよ。私にとってすじかい塾は大事な物語だった。喜多川、砂森、宇和島、きっとみんなそうだろうけれど」
「うん」
「あんたは?」
「僕にはもったいない場所だったよ」
「ふうん」とわざとらしく唸ってから「まあいいや」と村山は言った。そして、
「ごめんなさい、私の話ばっかり」 
 と彼女に向けてそう言った。申しわけなさそうに、まるでグラスを落として割った子どものように。
 彼女は黙って首を横に振った。それから、
「聞きたいです。村山さんの話」
と小さく言った。
 村山は、僕の知らない控えめな声で「ありがとう」と彼女に感謝を述べた。
 それから村山が語ったのは、他愛もないいくつかの思い出話だった。
「昔から、夢だったの。図書館で働くの」
「ああ、そう言ってたな」
「家に帰りたくなかったから、閉館ギリギリまでずっと図書館にいることが多くてね」
「うん」
「司書さんともよく話して、友達になった」
「そうか」
「私も誰かにとっての、そういう人間になれると思う?」
「なれるよ、おまえなら」
 僕は、村山の話を聞きながら、とある小さな雪の街の図書館を想像していた。冬の気配が差し迫る秋の図書館、雪国の窓ガラスからわずかに伝わる冷気。まだ弱く痛々しい黒髪の少女が、窓際の席で、やがてくる冬に向けてせっせとその身に活字を貯め込み続けている。まるで親を亡くしても懸命に生き延びようとする幼い獣が、見よう見まねの冬ごもりをするように。それを見かねた職員が、例年より早めに暖房をつけてくれる。小さな気遣い。それは少女にとって初めての物語だった。人はそういう風に生きることができるのだという、小さな、しかし確信に満ちた人間性の物語。
 それなら画になるかもしれない。写真に収められるかもしれない。幼い日の文学少女を、僕は架空のカメラ越しに捉えることが、できるのかもしれない。
 でも、とシャッターボタンを押そうとして僕は気づく。村山香はこんなに弱々しく、痛々しい人間だっただろうか? 思い出を抱えるように、ホットココアを抱えるような女だっただろうか? 僕のつまらない冗談に、小さく穏やかに笑う少女だったろうか。
 そう、本質的にはこいつはずっと痛々しく、弱い、白い少女だった。僕はなぜかずっと村山のことを、戦い続ける闘士のように見ていたのだ。なにか致命的な思い違いしていたのだ。
「どうしたの?」
 と村山は僕に訊ねた。こんな風に、村山は目の前の人間の感情の変化を鋭敏に察知する。それを親の顔色伺う子供のそれの成の果てだと、僕はどうして気がつかなかったのだろう?
――僕はおまえのことを勘違いしていたんだよ、村山。
 と、僕は今さら口に出せるはずもなかった。第一、言ってもまた笑われるだけだろう。
「意外だっただけさ。自分のことを話すの、楽しそうだから」
「そう?」
「おまえがあまり自分のことを話した記憶がないし、たまにそういう話になったときも、あまり楽しそうじゃなかったから」
「そう、そうかも。今もそんなに楽しいってわけじゃないんだけど、なんだか、一周回っておもしろくなってきたっていうか、徹夜明けのテンションみたいなものかもしれない」
「なんだそりゃ」
「私、正直あんたに会うの、怖かったの」
「へ?」
 潰れたドードーみたいな情けない声が出る。隣でやれやれという顔の彼女。あきらかに僕に向けて呆れている。仕方ない。僕だって僕自身に呆れているのだ。
「あんたのこと、昔からちょっと怖いと思ってた。それにこないだひっぱたいちゃったし。大丈夫だった?」
「たいした傷にもならかったし、なんならおまえの手の方が痛かったと思うぞ」
「よかった」
 心底ほっとしたようにそう言われると、僕の方こそ申しわけなくなる。
「今日もいきなりコップのお冷とか浴びせられたらどうしようかと、ちょっとだけ想像してた」
「僕はそんなことしない」
 されることはあったとしても。
「そんなに僕のことを警戒してたのに、なんで呼んだんだ?」
「言ったでしょう。あんたのことそのままにしたら後味悪そうじゃない。一生逃げたって思われるのもシャクだし」
「そんなこと思わない」
「あんたがどう思うかじゃなくて、私がどう思われると思うか、の問題」
「む」
「でも、こうしてみると、あんたって意外と話しやすいのかもしれない」
「意外とは心外だな。僕はいつだって親しみやすさがウリの平和な人間だぞ」
「ははは、どの口」
「どいつもこいつも、僕をなんだと思ってるんだか」
「だいじょうぶですよ。田村さんは、優しい人です」
 話の流れを静かに聞いていた彼女が、小さくフォローを入れてくれる。
「ただわかりにくすぎるだけで」
 それは言わなくてもいいんじゃないかな。
 それから僕らはかつての思い出話や塾の近況のことを話した。僕はたまにつまらない冗談を言う以外は相槌ばかりで、村山の話し相手はほとんど彼女だったけれど、悪くはない時間だった。少なくとも場違いな喫茶店で女性二人と席を供にしているにしては、悪くなかった。
「話を聞いてくれてありがとう」と村山は言った。
「お礼に一つだけ教えてあげる。あんたにはうんざりするようなお節介なんでしょうけど」
「拝聴しよう」せいぜい楽し気に、自分の演技を楽しむ道化のように、僕は言う。
「あんたは自分で思ってるほど、冷たい人間でも悪い人間でもない。むしろその逆なんでしょうね。あんたほど、他人に真剣に眼差しを向ける人間はまれなの。みんなあんたほど他人に興味をもたない」
「買い被りだな」 
「いいえ、これはあんたへの非難。あんたはそこまでするべきじゃなかった。あんたは他人の姿を捉えすぎている。少なくとも捉えようとしすぎている。それは、なんていうか、画面が暗転したときに映る自分の顔みたいなもので、そんな過剰な鏡、誰だって誤解するのよ」
 僕はこの女の言うことをうまく理解できない。公式を知らない数学を解くみたいで、とっかかりもなく、要領も得ない。
「過剰に見えた自分は、過剰に美化されて見えるか、過剰に醜悪に見えるか、どちらかしかない。喜多川があんたに『単純だ』なんて言ったのもの、今思えば、あいつが自分自身の単純さをあんたの写真を通して見てしまっただけなのかもしれない」
 僕は黙り込むしかなかった。一昔前の、自己喪失した小説の主人公のように、よくわからないと、嘆いてしまえば楽かもしれなかったけれど、僕にそれはできなかった。彼女が僕を心配そうに見ているのが、見なくてもわかるから。
「あんたはどうしてそんな風になっちゃったんだろうね」
 悲しそうに女は言った。まるで自分の悲しい思い出を語るように、僕を悲しんでいた。
「アミちゃんを大切にしなさい。それがあんたには必要なことだから」
「うん」
 それはなんとか理解できた。
「はい、お説教はこれでおしまい」
 楽し気に、終わった劇の感想のように、村山はそう言った。
「ごめんね、アミちゃん。巻き込んだみたいになって」
「いえ」
「ついでに言っておくと、こいつとはたいした関係じゃないから安心して」
「わかってます。私、村山さんのことも好きですよ」
「そう? 私もあなたのこと好きよ。とくに最近のあなたはとても――なんていうか、魅力的に見える。どう、そんな男捨てて、付き合わない?」
「遠慮……しときます」
「残念」
 そうして二人の視線が僕に向けられる。僕はまさか、二人が共謀した罠にのこのこ嵌りにきたのだろうか。そんな想像がよぎるくらい、僕一人がなにか分かっていなくて、蚊帳の外になっているような居たたまれなさが、この場には存在する。
「この状態で、そんな話を聞かされて、なにをコメントしろと?」
「大丈夫、あんたに気の利いたコメントなんて誰も期待してないから」
「あんまりじゃないかな。もうちょっと手心というやつを知ってほしい」
「でも、そうね、せっかくだから写真撮ってよ」
 僕の哀切漂う懇願を無視して、女はそう言い放った。
「構わないけど、おまえの?」
「あんたねえ。私たち三人に決まってるじゃない」
「そうか」と言って僕は席を立って通路に出た。それから、カバンからいつも持ち歩いているカメラを取り出して、ガラス張りを背景にテーブルを挟んで向かいあっている二人を軽くファインダーに収めてみる。よくないな。女性二人は僕を指名手配犯でも見るように訝しみ、なんなら通りがかったウェイターも僕を迷惑そうに見ていたような気がする。しかし、やはり、よくない。僕はカメラを下げる。
「君は村山の隣に入ってくれ」
 僕が彼女にそう言うと、彼女は、はて、という文字を頭のてっぺんに張り付けたまま、村山の隣にちょこんと座った。二人掛けの椅子に二人並んで、僕は向かいの席でカメラを構える。これなら悪くない。できれば窓からの光量を絞りたかったが、そこまで機材の準備はしていない。だがまあ、これでもなんとか写真にはなりそうだった。
「オッケー、これでいこう」
「あんた、なにやってるの?」
「なにって、撮影」
「あんたも入るの」
「女子二人に混ざる勇気はないよ。それに三人分のいいスペースがない。諦めてくれ」
「いつもの『下手なものは撮れない』ってやつ?」
「そういうこと」
「でも、それ半分は言いわけでしょ?」
 僕は思わず、シャッターボタンを押していた。村山が僕の誤魔化しを指摘した瞬間の顔が、あまりに良すぎたのだ。村山香という人間の、厳しさと、甘さと、少女らしさが、ちょうど均等な割合で混ざり合った、実に意地悪な笑顔だったのだ。
「もう、撮るなら言ってよ」
「僕は」
「ん?」
「写真に写らない性質なんだ」
「そうなんですか」とまじめに訊き返す彼女に、僕は「そうさ」と真摯に答える。
「そういえば、あんたが自分の写真を撮ってるの、見たことないかも」
「自分を写真に写そうとすると、鏡に映ったドラキュラみたいになにも写らないんだよ」
「あんたならありそうな話ね」
「次はちゃんと撮るよ。いいかい……はい、さん、にぃ、いち」
 撮れた写真は、とてもプロのカメラマンが撮ったとは思えないほどありふれた写真だった。けれど、被写体の表情のおかげだろう、ちゃんと写真としては成立していた。喫茶店の明るい席で並んで座る二人は、まるで同じ家庭で育った姉妹のように見えた。特別仲が良かったわけでもないけれど、劣悪な関係でもなく、大人になってからたまに会って話をすると、やはり自分たちはよく似た姉妹なのだと実感する、そんなありふれた関係だ。
 アミはそんな僕のつまらない写真を今も大切な一枚として、自分の仕事机に飾っている。

 帰りに僕らは駅のホームで村山を見送った。
 必要なことはもうきっと話し尽くしてしまったのだろう、村山も彼女も言葉は少なく、電車が来るまで僕らは静かにホームのベンチに座っていた。三人とも沈黙が苦にならないタチだった。ホームには、同じように平日の特急を待つ旅客が幾人かいたけれど、誰もがこの先に待つ厳しい寒さに身構えるように、静かに口を閉ざしていた。やがて列車がホームに入って来ると僕らはなにも言わずに立ち上がり、ブレーキ音が人生の中にわずかな幕間をつくるその瞬間を聞いた。アナウンスは数分後の発車時刻を告げて、沈黙した。
「さようなら」と村山は言った。
「さようなら」僕は言った。
「いつかあんたも写真に写るようになるといいね」
「そうだな」
 それから村山は列車の扉に向かって歩き始め、そしてくるりと翻って、僕の目の間に立った。その動作があまりに自然に、そして流麗にすぎたので、僕は目の前の光景が、なにかの画面越しに見えている映像のように思えた。それから村山は両の掌を僕のこめかみに当てて、自分の額に僕の額を寄せた。女の指先は冷え切っていて、額はまるで雪玉をさらに固めたみたいで、女の吐息は空気に触れたとたんに氷の粒になってしまったようで、どのような熱もその女は持っていなかったのだけれど、僕はただ力を抜いて女のしたいようにさせた。
「幸せになりなさい」
 女は僕だけに聞こえる声でそう言った。

 村山が扉の先に去り、しばらくして列車が発車してからも、僕はその場からうまく動くことができなかった。ひどく重い石材を背負わされたのだけれど、僕はそれを正しく運搬する術を知らない。ただ一歩でも進めば、そこでバランスを崩して、僕は膝をつき、石塊に潰されてペシャンコになってしまうだろう。そうして何百年もすれば由来もわからない奇怪なオブジェクトとして地域住民に親しまれるのかもしれない。そんな想像を何度か頭の中で繰り返していた。
「たぶん」と彼女は言った。彼女はずっと、動けない僕の斜め後ろにいたのだ。
「たぶん村山さんは田村さんのこと、その大事に、というか、たぶん……」
 僕は彼女の言いたいことをちゃんと理解していた。だから、
「それは、誰にも話しちゃいけないよ」
「はい」と彼女が小さくはっきりと言ったのが、僕にはちゃんと聞こえた。

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