「性の問題について思うこと――正しさではなく」

 昨今、性的マイノリティやジェンダーの問題を語る言説を耳にしない日は少ないでしょう。この問題は多種多様な問題が絡み合い、コミットするにはそれなりの知識が必要とされ、しかしある意味では感情的であったり、個人的でセンスティブであったりします。
 専門家でもなく、とくに知識を収拾しているわけでもない私としては、不用意に口を出し、誰かを傷つけたり、無知や醜態を晒したりするリスクをとるべきだとは思わないので、日ごろ積極的になにかを語るつもりはありません。
 ただ今回あえてその問題に口を出すのは、つまるところ、私も(たぶんあなたとは違う)個人的でセンスティブな問題を抱えた、(きっとあなたと同じ)愚かな人間の一人だからでしょう。

 まず私の立場を示しておきます。
 おそらく私はよりリベラル寄りの人間で、性的な多様性を社会は容認すべきだし、各種問題に対する法制化も進めるべきだし、個人間のレベルでもマイノリティに対する前時代的な揶揄はやめるべきだと考えます。ですので、人権を擁護し、多様な性的価値観を認める言説には基本的に賛同します。そして、人権を揶揄するモノや、前時代的なマジョリティの暴力には可能な限り反対の立場を取りたいと思っています。

 ただ、いつもどうしても、疑問に思うことがあるのです。どうしても、人権を擁護しているはずのその言説に、その発話者に問いただしたいことがあるのです。フェミニズムにしろ、人権運動にしろ、多様な価値観を認め、人々を生きやすくするはずの言説に触れたとき、私はどうしても余計な一言を言いたくなるのです。
 つまりそれは、

「あなたが第一に求めているのは、本当に人々の人権の擁護なのですか」

 ということなのです。
 表面上、目指す方向性も結果も同じなのだけれど、私とあなたでは根源的な認識の相違があるのではないかと、いつもそう考えています。

 *

 この問題を語るために、まず私なりのやり方で、図式的に性の問題をまとめてみます。

 生物学的性差(セックス)と社会的性差(ジェンダー)の概念はもう一般化しているのでここであえて説明する必要はないと思います。ただここでは、その下部の構造として、「主体―客体」としての性差(というか属性)がある、と提示します。この「主体―客体」は性的あるいは権力的な主導権や力関係のことだと考えてください。性差が力関係と紐づくという根本的な構造が隠され、セックスやジェンダーの表面上に見える性差の問題として認識、処理されることが、現代の性に関する問題をわかりにくくする要因の一つです。

 たとえば父権社会なら「生物学的男―社会的男―主体」「生物学的女―社会的女―客体」「その他―無視」になる。これは直感的にわかりやすいと思います。男性が支配する主体であり、女性が第二の性で社会参加をいろいろな面で制限され力を持ちにくい、というわけです。

 そしてこれを問い直すのが(男女同権運動としての)フェミニズムだと思うのですけれど、ここで間違えてはいけないのは、問い直すべきはその権力構造を生む仕組み自体であって、たんなる入れ替えや階級闘争ではないということなのです。直截に言えば、「生物学的女―社会的女」を「主体」にすれば済むという話ではないということです。
 この「生物学的女―社会的女―主体」というのは「支配的な母」や(下品な表現ですが)「名誉男性」といった属性が当てはまります。家庭や組織で上位に立った女性が、自分を虐げてきたマチズモをそのまま再生産してしまう悲劇を、おそらくあなたもご存じのことだと思います。
 もちろんその対偶には支配される存在としての「生物学的男―社会的男―客体」があり、これは「男性アイドル」や「男娼」あるいは「過干渉に晒される息子」のようなものがあります。
 つまるところ、この「主体―客体」による権力の不均衡こそが、性の問題をめぐる不平等の本質的な問題であって、表面上の生物学的、社会的性差の入れ替えの問題ではないのです。

 また他にもこの図式化は応用がきき、たとえば「生物学的男―社会的女―客体」とすれば、記号的な『オカマ』キャラクターになりますが、これで「オカマキャラがいるから人権的で多様性がある」わけではないことを端的に示すことができます。というのは、その手の記号的なキャラクター性(実在非実在を問わず)は、権力的に下位の位置に回ることで、性的マイノリティがこの社会で居場所を確保し自己防衛するための、ある種のペルソナにすぎないのです。このことからも、表面的な性差の多様性を認めれば、性的平等が達成されるというのが勘違いに過ぎないということがわかります。

 もちろん、これはあくまでかなり図式化した議論です。そもそもの問題として、両性具有など生物学的男女に必ずしも当てはまらない例や、ジェンダーの細分化による例外を挙げ、この図式化こそが、不自由を強いるマジョリティの権力だと、あなたは批判するかもしれません。たしかに、この図式化は主に男女による性別を想定しており、自由な性的価値観や概念を否定しているともいえます。
 しかし、どれほど自由なジェンダーを望もうとも、自認し自称しようとも、マジョリティの文化的なコードそのものは私たち全員に深く内面化しています。実際にマイノリティであり、マイノリティを自認しているあなたでも、です。私が今図式化しているのは、私たちが内面化し、そこにすでに寄って立ってしまっている、普段は見えない自覚できない、地面のようなそのそれの話をしているのです。
 権力や不自由は、“もうすでに”私たちの内側にあるものなのです。

 *

 さて、おわかりと思いますが、私はこの手の問題に関してはほとんど素人にすぎません。とんでもない無知を晒している面もあると思うし、釈迦に説法な部分もあるでしょう。この程度の文章ではカバーしきれない範囲も多々あります。
 それでもあえてこういう話をするのは、どうしても語っておきたい二つがあるからです。

 一つは、前に述べたように、人権運動と階級闘争を間違えてはいけないということです。たんに客体と主体を入れ替え、他者を自身の欲望の支配下に置くような、そんな卑劣はよくない。でも人はそれを忘れます。きゃぴった(死語!)女の子グループのコンテンツを批判するその口で、都合よく去勢された男友達ホモソーシャルコンテンツを愛でる。それを指摘されても「気にしすぎだよwww」と笑ってしまっては、あの、あれほど嫌だったマチズモたちと変わりがないではないですか。

 もう一つ、こちらが重要なのですけれど、あらゆる人権運動が目指すのは、「真なる、自由で、正しい、なにがしか(この場合はジェンダー)」ではないということ。
 べつに生物学的男性、女性、両性具有者その他が、いつものあのマッチョな人格を指向しても、よくあるフェミニンでフリフリなファッションで自身を着飾っても、それは自由です。
 私たちは生来生まれた世界の中で、個人史を育てて、そこでなにかを選ぶ。その選択は、権利的には自由であり、社会的には自由ではない。つねになんらかのコード(あるいはエクリチュール)にしばられた上での選択です。平たく言うなら、私たちの自由は、99%はすでにある決まった箱から選んでいる。残り1%の新しい箱も、既存の箱の組み合わせから生まれている。だからまったくの自由ではない。誰一人例外なく。そしてその「自由ではないこと」は「悪」ではない。人間である以上そういうものである、というただそれだけです。

 私があえて図式的な議論から始めたのは、いくらかのリベラルな言説において、やはり大いなる勘違いあるのではないかと疑っているからなのです。つまり「凝り固まった、間違った、旧態然とした性的価値観から解き放たれれば、真なる、自由で、正しい性的価値観に、私たちはたどりつける」というような勘違いが。あからさまに「正しさ」を謳わなくとも、最終的には「真なる自由」が存在しているというような、根本的な人間の仕組みを無視した暴論が。

 だから私は「いやそうではない」と言わざるを得ないのです。私たちはすでに囚われていて、誰もそこから自由ではないし、その「真に自由ではない」ところに人間は担保されている。抽象的な議論ですが、不自由(内面化された文化的なコードやエクリチュール)の中で「選択の自由」を認め、できれば選択肢を少しずつ創作していくこと。それが、私たち現生人類の限界なのです。それ以上は何十万年後かの進化した人類にやってもらいましょう。

 今必要なのは、「正しさ」ではなく「生きやすさ」なのです。「正しさ」は「間違い」ではない。でも「正しさ」はあくまで「生きやすさ」をうまく機能させるための道具にすぎないのです。
 いくら女性が不平等な社会だからといって、「マチズモは宮刑に処せ!」なんてのは、それこそマッチョな妄言にすぎない。社会的にグルーミングを排除する仕組みは必要だし、共依存関係にはプロフェッショナルの介入が必要になるかもしれないけれど、個々の人間関係に分け入って「これはグルーミングだ!」「共依存だ」と断罪する権利は私たちの誰にもない。少女がピンクでフェミニンな部屋に住んでいても、壮年の男性が粗野でマッチョな身なりやコミュニティを選択しても、他者の人権を直接侵害しないかぎり、それは選択の自由であり「マイクロアグレッション」という指摘は当たらない。
 そこを間違えれば、人は被害者のまま加害者になり、「正しさ」は自身の欲望を正当化するための凶器になる。やがて「正しさ」は純化と先鋭化を要求し、くいしんぼうのゴリラが玉ねぎの皮をむくように、最後にはなにひとつ残らない。

 以上、
「人権運動は、たんに主体と客体を入れ替える階級闘争ではないということ」
「必要なのは『正しい真なる自由』ではなく『生きやすさ』であり、そのための選択肢を作り出し、増やしていくこと」
 この二つを、私はただあなたに聞いてほしかった。

 *

「そんなことはわかっている」
 とあなたは言うかもしれない。
「それは当たり前の、聞き飽きた、一般論で、私は彼らのように無知ではないから大丈夫だ」
 と。
「そう、それならいいのだけれどね」
 と私は言い、そして老婆心から余計なことを言い足すのです。
「そう口にした人間の犯した蛮行を、私はもう見飽きてしまったけれどね」
 と。

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