誰もいないポートレート 6


 *

 先生が死んでからしばらくして、僕は独りで旅行に出た。彼女には、ただ旅行に出ることだけを書き置きで伝えた。面と向かってみても、自分でもうまく説明できないのがわかっていたから。
 もらった手紙の封は開けられないままだった。どこかで開ける決心がつけばいいけれど、けっきょく開けられないままでも仕方ないだろうと、とりあえず他の荷物と一緒に旅行鞄に入れた。
 先生の死は自分でも意外なほど僕の心を不安定にさせた。まるで自分の中にあった柔らかい肉の部分を大きなスプーンでごっそりえぐられたみたいに、ひどい欠け方をしていた。おかげで身体のバランスがうまくとれなくなって、不意に倒れそうになる。
 だというのに、手先だけは器用に動いて仕事ができてしまうのだ。それは、ひどく酒に酔っているときに、これはまずいなと思って、逆にいつもより慎重になってしまう、あの心持ちに似ている。
 あるいはこんなものは一時の酔いと同じようなものなのかもしれない。なにか、慣れていない感情に、僕は小学生の乗り物酔いのように、酔ってしまっただけなのかもしれない。
 長く遠く、電車に揺られて向かった先は、海に面したとある街だった。地方都市ながら、全国的にも観光名所としられる文化都市で、かつては芸術や学術のサロンでにぎわったこともある。もちろん、とくに観光名所を回りたくて、その街を選んだわけじゃない。その街で先生が生まれ育った聞いたことがあった、ただそれだけ。先生の生家を探訪してみようなんて気はさらさらなかったし、街にどんな思い出があったのかも聞かないままだったけれど、行く当てのない僕にはふさわしい選択肢のように思えた。こんな時でもないと一生この街を訪れることはなかっただろう。
 海の近くの駅で降りて、さて、どこに行こう。選択肢は二つだ。上るか、下るか。南に行けばすぐに海岸線がある。北に行けば急な斜面を上ることになる。上る気にはなれなかった。
 初夏の海岸沿いを歩く。港沿いの街は活気にあふれていた。駅前には地元の物産コーナーの入った中型のデパート。少し歩けば観光フェリー。歩道は端末のカメラで溢れていて、思ったより騒々しい。生活と観光が混在した人々の強靭な営み。今の僕には強すぎる。
 どこか、静かな場所に行きたかった。しかしそんな場所は少し歩いたくらいではどこにもなくて、でも静かな場所を探し求めて歩き彷徨っているうちは、たしかに静かだった。いっそのこと、このまま遠くに見える橋を渡って向かいの島まで行ってみようか。
 目標を決めてしまえば、考えなくても足は行先に向かってくれる。空いた思考の領域は、やはり先生の死について考えてしまう。「死」そのものについて考えるべきことはない。それは僕にはどうしようもない話だ。でも、その死に僕は、なんで?
 先生は肉親でもない。恩師とは呼べるが、プライベートで特別親しかったわけでもない。大学と塾で一緒だっただけだ。先生からしても僕からしても特別だったわけじゃないはずだ。
 そうやって自分に言い聞かせてみても、この欠落はおさまらなかった。僕はあの老人にひどく残酷な最期を与えたのではないかという後悔を、僕は拭い去ることができなかった。けっきょく自分には誰もが持っているなにかが、決定的に足りていなかったのではないか。そのことをいままでなんとか誤魔化していただけで、けっきょくすべてがダメになるんじゃないか。
 いやもっと、僕はやはり単純だったんじゃないか。みすぼらしく単純で、人間存在のどんな不思議も複雑さも不合理も、僕にはわからないんじゃないか。
 そう思うと、カメラを持つ手が怖くなる。ファインダー先に見えるものが、もしどうしようもなく単純な画だったら、僕はいったいどうなってしまうのだろう。どの面をさげて彼女の前に帰ればいいのだろう。周囲の観光客は携帯端末や、なんならそれなりのカメラを手にして世界を覗き込んでいて、そこに映っているのだろうどんな画にも、僕は打ちのめされてしまうんじゃないだろうか。いやきっと打ちのめされるだろう。どれほどの初心者が撮った写真でも、どれほどありきたりな写真でも、どのような平凡さにも、僕はもう太刀打ちできないかもしれない。
 僕らの中で一番平凡だったのは砂森だった。ありがちな生き方。ありがちな格好。ありがちな物語。たしかに人目を惹くようななにかはなかったのかもしれない。だが素晴らしい人間だ。僕らの中でもっとも誠実に人の営みを紡ぎだせる者がいるとすれば、あいつのほかにないだろう。いつも後輩の位置を崩さず、ろくでもない僕らを立ててくれていた気遣いに、僕はなんの報いもできなかった。僕が本物だって? やめてくれよ。僕はおまえと違って愛情一つ巧く通せない人間なんだぜ。あいつに贈ったカメラで撮った写真を、できることなら今ここで見たかった。僕は打ちのめされたかった。
 考え事をしながら歩いていたせいだろう、いつのまにか繁華街を過ぎて、あたりは人の少ない海沿いの国道になっていた。民家や小さな商店が並ぶ道で、少し歩くと目的にしていた橋の下に出てしまい、このまま進んでもたもとまでは行けないらしい。どうやら橋を渡るための分岐道を知らずに通り過ぎてしまったようだった。手近の目的を見失い、さてどうしたものだろうかとあたりを見回すと、海沿いの駐車場の脇に小さなスロープを見つけた。覗いてみると、猫の額のような小さな浜に出られるようだった。僕はその浜に下りてみることにした。それを浜といちおう呼んでみたものの、そこは海沿いの小さな空き地のようなところで、人一人腰を落ち着けるともう他になにもない、そういう世界の切れ端のような場所だった。駐車場側のコンクリの段差に背中を預けて座り込むと、南からの日差しと海の照り返しが僕を焼いて、磯の潮の匂いが僕の体の中にじわりと染みて、妙に体の力が抜けていく。それでようやく今自分がひどく疲れていることに気がついた。思ったより長い間歩き続けていたようだった。立ち上がるには、時間がかかりそうだった。腹も少し減っていた。なにかないかと鞄を開けると、先生の手紙が目についた。取り出して、眺める。封を開けるか迷う。海を聞きながら、ずっと手紙の封を見つめていた。そこから、僕はもうどこにも行けそうになかった。

 いったいどのくらいそうしていただろう。不意にからんと小石に金属が当たる音がして、僕は顔を上げた。目の前の地面に小ぶりのナイフが一本、風景画の主題のように転がっていた。ぬうっと、影が僕にかぶさった。逆光の中、僕の目の前に男が立っていた。顔ははっきりしないがどうやら知った男のようだった。
「俺をそのナイフで殺すといい」と影の中の男は言った。
 よく見ると、それはやはり僕の父親だった。癖のある短い髪の毛。目立たないワイヤーフレームの眼鏡。やや濃い眉に、少し大きな鼻。ひょろりと長い背丈に、充血した目。取り立てて容姿に目立った特徴のない、僕のよく知る歳をとった男だった。
「俺をそのナイフで殺し、走り出すといい」
 男はもう一度そう言った。
 僕は目の前に落ちたナイフに手を伸ばして、その柄を握った。取り立てて面白味のあるナイフではなかった。木製の柄は傷だらけで、手あかの黒ずみが腐食のように染み込んでいた。反り返った刃はところどころ刃こぼれして、これで紙を切ったらひどくいびつな線を引くだろう。刃渡りは十センチ強。こんなナイフでは人の肉どころか、空気の層だって突き刺せるのかも怪しいものだ。
 僕は男の言葉の意味について考えていた。男は自分を殺せと言う。男は父だ。ならばそれは父殺しなのだろう。古い物語のアーキタイプ。われわれが繰り返し語り継いできた物語の形の一つ。父を殺し、走り出し、空気すら凍りついた薄闇の中でなにもかも切り裂いてしまえたら、ああ、それは、どんなに。
 僕は深く強くナイフの柄を握りしめる。それは僕の手によくなじんだ。ナイフは僕の手を求め、僕の手もナイフを受け入れた。まるで、今まで自分でも知らなかった天性の才能を見つけたような、あまりにできすぎた物語だった。
 僕はナイフを強く握り、立ちあがり、ナイフを持った腕を大きく振りかぶった。正面の男は微動だにしなかった。僕はそのまま強く腕を振りぬいた。
「いいえ」と僕は言った。
 ナイフは美しい放物線を描いて、男の背後に流れ落ち、ぽとん、と小気味よい音を立てて海の中に沈んでいった。
「あなたは私の父じゃない」
 僕がそう言うと、父は少年のような無邪気さと賢さを僕に向けた。それはもう父ではなかった。僕の父は、こんな風に瞳の中に少年の知慧を残しているような人ではない。
「それでいいのかい? 私を刺せば君のすべてはうまくいくかもしれない。すべてが解決に向かい、大団円を迎えられるかもしれない。そして、現実に傷つくものはない。なにひとつ、ない」
 この人がそういう風に言うのなら、あるいはそれは真実なのかもしれない。僕はここでナイフを振るい、すべてを解決し、終わらせてしまえるのかもしれない。だが――
「それはね、先生」
 と僕は言った。
「物語に自分を売り渡してはいけないからです」
 僕がそう言うと、先生は少し困った顔をしたように見えた。相変わらず顔は影の中に隠れてしまってよく見えないのだけれど、そんな気がしたのだ。
「そうか。そうだね。そうだった。まったく、老いては弟子に従うものなのかもしれないね」
「死人に歳なんて関係ありますかね」
「それもそうだ」
 よく見ると、先生は僕の知る先生よりずっと若い、青年の姿をしていた。今にも走り出しそうな情熱を持ち、どこまでも世界の広がりを信じられる、みずみずしい気概に満ち満ちていた。もちろん僕はそんな姿を知らないから、これはきっと僕の夢の中での想像なのだろう。そこまで考えて、だからこれは夢なのだな、と僕は思った。
「でも、君は本当にそれでいいのかい? なにも終わらないし、なにも解決しない。救いも成長もない。ただ重い石材を背負って死ぬまで歩き続けるようなものだ」
「でも、そんなものでしょう。みんな、そんなものでしょう?」
 やはり先生は、頭をかいて少し困った顔をする。それからなにか考えるようにあごに手を当てて、「いいかな?」と言った。
「なんでしょう?」
「一緒に写真を撮ってもらえないだろうか、君と二人で写ってるやつがいいんだ」
「かまいませんけど、僕は写らないかもしれませんよ」
「なあに、ここは夢の中なんだろう? だったら現実には起こらないことが起こるかもしれない。たとえば、そう、吸血鬼が鏡に映る奇跡みたいなことが、ね」
 僕は、仕方ないな、という顔をわざと作った。
「わかりました。じゃあいいですね?」
「いいとも」と先生は言った。
 僕はカメラを僕に渡して先生の隣に立った。背中に南からの照り返しが強く当たる。こんな逆光の中で写真を撮っても顔ははっきりしない。きっとまともな写真になりはしないのだけれど、でもこの位置が完璧だ。正面に立つ僕と先生がファインダーの中に納まったのを確認すると、僕はちゃんとシャッターボタンを押した。

 目が覚めると、どこまでも歩いていけそうなくらい、不思議と気力がみなぎっていた。あいかわらず身体はおんぼろで、気持ちだって巧く定まっていないのだけれど、それでも歩き続けられることだけは、かけらも疑いようのないくらい、確信に満ちていた。長く海の光に当たり続けていたせいだろう、皮膚がちりと傷んだけれど、なあに、このくらい。
 封の開いた手紙を旅行鞄にしまって、僕は立ち上がった。

 *

「ただいま。いやあ、疲れた」
 二週間ぶりに事務所兼自宅のワンルームの扉を開けて、僕は開口一番そう言った。
 彼女は部屋の真ん中でいつもの作業机の前にちょこんと座っていた。一瞬だけびくりとしたように見えたけど、すぐに普段通りの表情に戻って、
「おかえりなさい」と言った。
「やっぱりわが家が一番だね」
 僕は旅行鞄を玄関に投げ出して、手に持っていたいくつかの買い物袋を作業机の上にならべた。
「こいつはおみやげ」
 そう彼女に告げると、そのままごろんとベッドに寝転んだ。身体が予想していた感覚以上に深くベッドに沈んだような気がして、なるほど僕は本当に疲れていたのだ。
 彼女は不思議そうに僕の置いた袋の中身を検分していく。
「さるぼぼに、ご当地ラーメンに、きんつば……うすかわ饅頭……温泉プリン?」
 中身を漁れば漁るほど、彼女の困惑は深みを増していった。
「いったいどこ行ってたんです?」
「あちこちさ」と僕は言った。
 本当にあちこちを回ってきたのだ。おかげで体力も気力も金銭も、これ以上減れば死活問題になるラインを割り込みそうになっていた。
「そろそろ本格的に自分の写真を撮らなきゃなと思ってね」
 僕がそう言うと、彼女は大きな息の塊を飲み込んだ。
「あとで見てみるかい? 新進気鋭の女流写真家の鋭い批評が聞きたいね」
 僕がそうまぜっかえすと、飲み込んだ息をむせる手前でなんとか吐き出して、
「もう、そういうのやめてください」
 と彼女は僕の軽口をあしらった。それから、
「田村さん、なんだか雰囲気変わりました?」と言った。
「変わらないさ」
 僕はベッドの上で目を閉じて、腕で目を覆い、今後の予定について考えた。まずは撮ってきた写真の整理をしよう。なにかしらものになりそうなら、写真集のような形にしてもいいかもしれない。あるいはどこか発表できるような場所を探してみようか。たとえそれが他からどのような評価もされないものだとしても、まずなにか形にしてみるのは、悪くない気がした。そうしてそれが終わったら、
「ばりばり働かないとな」
 仕事を休んでいた上に旅行費用がけっこうかかってしまった。口座の残高が切ないことになっているだろうが、通帳君には気をしっかり持ってもらいたい。それと、不安定なフリーランスにとって長期の休業期間はコネクションの維持という点でも痛手だ。忘れ去られないうちに、仕事を元の軌道に戻さなくては。
 と、あたたかいものが僕の胸に触れた。僕は手を伸ばした。僕の胸に顔を埋めた彼女の髪を、僕は何度も撫でた。何度も何度も、宇宙が膨張を続け、いつか熱量すべてが死んでしまうそのときまで、ずっと。

 *

 店内に入って軽くあたりを見回すと、窓際のテーブル席に知った顔が二つ、ぎょろとこちらを見て頷く。店員も営業スマイルを浮かべて軽く頷くだけで、僕に「連れが先に来ている云々」も言わせてくれない。さっさと歩けと小突かれる哀れな政治犯が、たぶんこういう気持ちになるのかもしれない。
「よお」
「おはようございます」
 休日の朝十時、ファミレスの四人席で顔を突き合わせる男二人。夜の居酒屋以上に絵にならない。机には食べかけのポテトフライ大盛りが一皿と、飲みさしのカップが二つ。こんなもの絶対写真では撮りたくないな、と思いつつ、僕は「おはよう」と言って宇和島の隣の席に着く。
「僕なんて呼んでよかったのか? もう部外者だぞ」
「なあに、第三者の見届け人みたいなもんだ。それにべつにこの場でなにか決めようってんじゃない。なんだその、『けじめ』みたいなもんだ」
「『けじめ』ねぇ。やくざ映画じゃないんだから」
「じゃあ帰るか?」
「ああ、店員さん。すみません、フレンチトーストとアメリカンコーヒーを」
「てめえなあ」
 なにか軽口を叩きそうになったのを、喜多川はぐっとこらえて話を戻した。
「まあいいよ。とりあえず塾の現状をおまえに教えておく」
 喜多川が話した内容はこうだ。現状塾の責任者は、先生の妹という人が引き継いでくれているらしい。ただしそれは名前だけで、その妹さんは実質的な活動をする意思はない。それも期限は一年で、それまでに新しい塾長を選出して、今後のことを決めてほしいというのが生前の先生との取り決めだったらしい。
「すまんがその先生の妹さんの詳細はおまえにも教えられない。それなりに著名な方でね。葬儀には来ていたんだが先生との関係はあまり公にはしてないんだ。けっしておまえをないがしろにしているわけはないんだが、込み入った事情というやつだ」
 珍しく、心底すまなそうに喜多川が言った。
「いいさ、別段知りたいことでもない。なにより今はもう僕は部外者だ。気にするな」
「すみません」
 そう重ねた宇和島に、僕は気にするなと首を横に振った。
「ああ、それとその先生の妹さんからおまえに伝言がある」
「ん?」
「兄の写真を撮ってくれてありがとう、とさ」
 どの写真だろうと一瞬思いかけて、僕は小さく首を振った。馬鹿馬鹿しい。
「おまえが塾に撮りにきた先生の写真、妹さんの勧めだったそうだ。遺影用もないんじゃあとの人間が困るから、ってさ」
「なるほどね」
 あれはやはりそういうことだったのだ。
「そんなことより」と運ばれて来たフレンチトーストを頬張りながら僕は話題を変えた。
「おまえがやるのか? 次の塾長」
 こいつなら真っ先に自分が手を上げるだろう。そういう男、だった。
「それも考えたんだが――」
 歯切れ悪く、喜多川は答えた。 
「俺もやめるかもしれない」
 僕はじっと喜多川を見つめた。喜多川は取り立て人を前にした債務者のように、情けなく目を伏した。
「少し俺の話をしていいか?」
 おっかなそうに、おずおずと、歯切れ悪く、まるで細い板の上を両手にバケツを持って歩くような調子で、喜多川はそう切り出した。
「いいとも」
「うん」と小さく喜多川は頷いた。
「本業の方で、特派員として都心の支社へ行くことになったんだ。それで、もしかしたらそのあと海外に行くことになるかもしれない」
「おまえのところ、地方紙だろ?」
「今はどこもグローバル化の時代ってやつだ。まあそうは言っても、大手みたいにどかどか海外で取材ができるわけじゃないんだけどな。あくまで先遣隊みたいなもんさ。それがうまく軌道に乗ったら、ちゃんとした海外事業として展開するんだそうだ」
「じゃあ塾の方は?」
「しばらくはオンラインで塾に参加して様子見だな。それで後輩連中が不甲斐なければ、俺が戻ってきて一からしごいてやるさ」
 そう言ってから、喜多川は僕から目を逸らして宇和島に視線を送った。それは会話の引継ぎのようにも、僕の視線から逃げたようにも見えた。
 喜多川を受けて、さっきまで静かにしていた宇和島が話を引き継いだ。
「俺は、今やってる仕事がひと段落したら、仕事の方を辞めて塾の方に専念しようかと思います。塾長は、たぶん俺が正式に引き継ぐことになると思います。もし他に手を挙げる人がいなければ、ですが」
「それは……思い切ったな」
 宇和島は今の会社にいれば安定した地位や出世が望める位置にいるのを、僕は知っていた。それをすべて棄てると、この後輩は言っているのだ。それは、僕が持つ宇和島のイメージとはずいぶん乖離しているように思えた。宇和島は、もっと保守的で、変化よりは堅実さを選ぶ人間だと僕は思っていたのだ。あるいはそれは、僕の勘違いだったのだろうか。それとも宇和島が大きく変化しようとしているのだろうか。
「ずっと考えてはいたんです。このまま広告の仕事を続ける人生でいいのかなって。死ぬまでそれをやって、それでなにか残るのかって。俺はもしかしてとんでもなく無意味なことをずっと続けて終わるんじゃないかって。なににも繋がってない歯車を一生回し続けるんじゃないかって」
「ふうん」と喜多川がなにか感心したように唸った。
「それに前々から塾にフリースクールのような部分を作りたいと思ってたんです。学校に馴染めない子とか今まで勉強する場所がなかった人たちに、なにか学ぶ場を提供できないかって、実は生前の先生とも少し話していたんです」
「初耳だそ」と喜多川。
「そりゃ、まだ全然形になんてなってないような、茶飲み話みたいなもんでしたから。でも先生が亡くなって、それで手紙をもらって……」
 そこで宇和島は言葉を切った。そして僕たち二人を交互に見た。これは、言ってもよかったのかと、僕らに許可を取るように。僕は黙って頷き、喜多川は「そっか」と気のなさそうに相槌を打った。
「あの、だから、なんというか、やってみようかな、って」
 喜多川は、不機嫌そうな、でも恥ずかしさを誤魔化すためにわざとそうしているような、不格好な仏頂面を作った。
「いいじゃねえか。そいつがうまくできたら記事にしてやるよ。採用されるかはデスク次第だけどな」
「もしなにか僕にも手伝えることがあったら言ってくれ。たいしたことはできないけど、雑用くらいは引き受けるさ」
「あの、ありがとう、ございます」
 おずおずと、巣穴の周りを警戒するアナグマのように、宇和島は慎重に感謝の言葉を述べた。その様子は、まるで親に将来の進路を告げるいたいけな学生に似ているなと僕は思って、今になって「ああ、もしかしてそうだったのか」と思っている。もしかして、あいつもそうだったんだろう、と。
「俺たちの話はそんな感じだ」と喜多川がいつものリーダー面で場をまとめた。
「それで、どうだ?」
「どう、とは?」
「おまえのいつものつまらんコメントがあるだろう」
「ないよ。べつに」
「ないって、おまえ」
「だってないものはない。おまえたちに僕から付け加えることはなにもないよ」
「じゃあ一つ訊いていいか」
「答えられることなら」
「俺たちは友達だったのか?」
「おまえがそう思いたければ、僕はいつだっておまえたちの友達だよ」
「ああ」
 とだけ喜多川は言って、飲みかけだったコーヒーの最後の一滴を飲み干した。
 それを見ていた宇和島が、
「じゃあ俺も田村さんに訊いていいですか?」と口を開く。
「今日は質問日和だな。ラジオ番組でもやろうかな」
「いいですね。似合うと思います。で質問なんですが」
「おう」
「俺と田村さんって、似てません?」
 喜多川が口に含んだコーヒーを吹き出しそうになって、慌てて紙ナプキンに手を伸ばした。
 僕は意外さと驚きと、なぜか納得もあって、そんな別々の感情のようなものが混ざらないまま、口の中の苦い塊になって詰まってしまった。仕方ないから、フレンチトーストの残りを口の中に放り込んで、コーヒーで流し込んだ。柔らかいものが胃の中に納まった感覚があって、よしこれで大丈夫。見れば、眼鏡をかけた丸顔の男は口の筋肉を一ミリも動かさず、まっすぐに僕を見ていた。笑ったり混ぜ返したり、つまらない冗談を言うべきではないことはこんな僕にだってわかる。僕もまっすぐに宇和島を見返した。
「どうしてそう思う?」
 言ってしまって『しまった、この言い方はまるで』と僕は思いかけるけど、『すぐに、いやいい、これでいいんだ』と表情を崩さない。宇和島は少しだけ息を吸ったように眼を見開いたけど、すぐに元に戻って、言葉を続けた。
「情熱がない。夢がない。それでもうまくやれてしまう」
「うん」
「俺のフリースクールの話だって、なんていうか俺個人の情熱というより、そうした方がいいとか、みんな口にしてないけど必要なものだからとか、そんな理由な気がするんです。なんとなく残った皿を一人で片付けてしまうような」
 違う、違うよ、宇和島。
「それは、もしかしたら違うのかもしれない」
「田村さんは違うと?」
「そうじゃない」
 喜多川はこちらを気にしない風に視線を外して、口の中でお冷の氷を弄んでいた。
「僕もおまえも違うんだ」
「それは、どういう?」
「おまえは自分で思ってるほど薄情な人間でもないのさ。ただちょっとわかりにくいだけで」
「そうですかねえ」
「そうさ」
「そう、なんです、か?」
 宇和島はなにかの願いを祈るように、「そうですかねえ。そうなんですかねえ」と何度も宙に繰り返した。それからストンと視線を落として言った。
「田村さん、少し変わりました?」
「べつに、変わらないさ」
「どうした。アミちゃんにフラれたのか?」
 喜多川がしょうもない顔でしょうもないことを言う。そもそも彼女とは付き合う付き合わないみたいな話じゃないし、かといってこいつにそんな話をしても面倒なだけだし、まったくよほど無視してしまおうかと思ったのだけれど、まあ僕ばかり聞き側に回るのも座りが悪いかと思って、僕は余計なことを言ったのだった。
「彼女とは大学を出たら結婚しようかと言ってあるんだ」
 今度はしっかり吹き出した喜多川のお冷の氷は、僕の額でこつんと跳ねて、隣で豆が鳩鉄砲くらったような顔をしていた宇和島の膝に落ちた。

 *

 僕と彼女が道を歩いている。僕は31になり、彼女はもう22になっていた。
 そこは商店の並ぶいつもの大通りで、空気はすっかり夏の色に変わってしまっていた。緑の可視光がどんな障害物にも邪魔されず、野放図に空に向かって伸びていく、そんないつもの夏。
 着古した紺のTシャツが少し汗ばみ、日よけに羽織っているワイシャツの中を風が通ると、すこしくすぐったいくらいの涼しさで、弛みそうになった僕は、ねじを締めるように灰色のストローハットを深くかぶり直す。
 彼女は白のノースリーブで日に肌を晒し、ベージュのワイドパンツをゆるく風になびかせ、強烈な夏の光の中を泳ぐように進んでいく。彼女の方はとくにかぶり物はしていない。というか、いつごろからか彼女はなにかをかぶることを止めて、最近は僕がよく帽子をかぶっている。
 あいかわらず僕が前で彼女が後ろだけれど、ときどき僕が立ち止まってカメラを構えると、彼女は僕の隣で立ち止まる。彼女がカメラを構えるときは、僕も立ち止まって彼女の視線の先を見つめている。
 結局それが正しい位置関係なのかどうか、きっと誰にもわからないのだろうけれど、今はただそういう感じがしっくりきていて、たぶん時が経てばまた違う感じがしっくりくるのだろうと思って、変わっていくような、でもあまり変わらないような、けっきょく同じことの繰り返しのような、それでも世界は意味あるもので溢れかえっているような。この感じはなんというのだろうな、と小さな欠けらのような感触を体の芯に通しながら、僕は今日もカメラを構えている。

「この間久しぶりに親と連絡を取ったんです」
 僕がカメラを下ろしたところで、タイミングを計っていたように、彼女が僕に話しかける。
「思ったよりはひどいことにはならなかったけど、あいかわらず子どもみたいで、ほんと困ります」
「親なんてそんなもんさ」
 と僕は短く返した。
「田村さん」
 と彼女は僕を呼んだ。その声には、微細な、海に降る雨のような震えが含まれていたのに、僕は気づいた。親云々は、ただ僕に話しかけるきっかけにすぎなかったのかもしれない。
「なんだい?」
 と僕が訊きかえすと、
「あの、田村さん」
 と彼女はもう一度僕を呼んだ。
「うん」
「結婚したら、田村さんって呼ぶの変ですよね?」
 僕は考えるふりをしながら、でもやはり少しだけ考えた。
「そうだなあ。事実上の別姓とか事実婚とか、そういう選択肢があるにはあるけどね」
「それはそれで面倒ごとが増えるでしょう。私とくに実家の姓にこだわりはないから、その……だから面倒は少ない方がいいと思うんです」
「それは、でも」
 そうしたら改姓に関わる細かな雑事は全部彼女が負うことになる。それはそれで、違うのだろう、とそこまで考えて、
「でもまあ、まだ先のことさ」と僕は言った。
「君の気持が変わることもあるだろうし、もしかしたら写真なんてやめてしまうかもしれない」
 いろいろな可能性、いろいろな物語。詮無い考えのその詮無さを、僕は先送りしてまた歩きはじめる。と、なにか覚悟を決めたように、彼女が僕の背後で強く息を吸ったのがわかった。なんだろう?
「これから田村さんのこと、名前で呼んでもいいですか?」
 なんだ、そんなことか。
 まるで初めて会ったときの、あの緊張した小学生のような声音で、彼女はそんなことを言ったのだった。
「君の呼びやすいようにしたらいい」
 僕はそう言ってから、
「ああ、そうだ」
 と彼女を振り向いた。
「アミさん」
 と僕は呼んだ。 
「はい」
 と彼女はこたえた。
「アミさん」ともう一度、僕は彼女の名前を呼んだ。


 エピローグ あるいは顛末記

 *

「みーちゃんまた勝手にカメラ弄ってるな。ほら返して」
「あー、めー、めー」
「だめだよ。このあいだいっこ落としてこわしたろ?」
「とってん? とっあぁ?」
「ああ、ほら撮ってやるから」
「さしんとったー? とおったのぉお?」
「ほら」
「おおー。とったぁー! とったぁ!」
「まったく、手柄を上げた足軽じゃないんだから」
「とったったー!」
「はいはい、とったったー!」

 *

 アミが大学を卒業してから、僕らはけっきょくそのまま結婚した。結婚したのを機に、今まで使っていた部屋を引き払い、小さな家を借り、そのあと娘が生まれ、今に至る。ただそれだけ、ただそれだけだ。

 塾はその後、やはり宇和島が塾長を引き継ぐことになった。宇和島も慣れないうちはときどき僕を飲みに誘ったり、喜多川と連絡を取り合ったりしていたようだが、僕が結婚してからは僕を飲みに誘わなくなった。僕もそれで塾との縁がすっかり切れてしまった。
 そしてその二年後、宇和島正司は短い生涯を終えた。救命作業中の事故だったと聞いている。たまたま交通事故の現場に居合わせた宇和島は、けが人を退避させようとしていたところ、事故に気づいてなかった後続車両に追突されたのだという。
 宇和島亡きあとのすじかい塾は、その後輩たちが引き継いだようだった。だが組織としてうまくまとまらなかったようで、いくらかの迷走ののち、活動資金に事欠くようなったらしい。短期間のうちに何代か代替わりしたのち、徐々に右傾化し、威勢のいい右派系言論人を塾に招聘して、その界隈では一時興隆した、らしい。そのころの塾のことを僕はほとんど知らない。あとになって、ネットに残る情報を調べただけだ。
 しかし、その手の言論人の一人が塾内で差別的な発言を繰り返し、炎上事件に発展すると、芋づる式に塾内の金銭トラブルが明るみになり、グダグダのままに閉塾。すじかい塾はその役目を終えた。かつては時の人だった西町博の名前も、そのころにはどこにも聞かなくなっていたし、すじかい塾も僕らがいたころとはだいぶん変質し、知っている者はとうにいなくなっていた。あの橋下サクラもどこかで見切りをつけたらしく、いつのまにか消えてしまっていた。
 あるいは、と僕は今になって思っている。もともとすじかい塾の理念や理想は、そういった過激なイデオロギーに流れやすいものだったのかもしれない。政治的な左右の別など関係なく、なにかただ、中心になる人や物や物語を求める人たちを、どうしようもなく惹きつけて、増幅してしまう性質のものだったのかもしれない。

 喜多川は新聞記者を続けている。特派員として世界各地に取材におもむき記事を書き、ときどきそれらがまとまった本になると、律儀に僕に送ってくれている。あいかわらず抒情に走りがちなのが珠に瑕だが、以前のような芝居くささはだいぶ減って、いっぱしの文章家として一定の名声を得ていた。本人は本と一緒に送って来る手紙で「こんなはずじゃなかった」とぼやいてはいるけれど。

 アミは売れっ子の写真家として活動を続けている。写真集を出せば固定ファンが買うし、個展を開けば、この業界では珍しくなかなかの盛況を見せた。最近は芸術祭で審査員に呼ばれることも多く、全国各地を忙しく飛び回っている。

 僕の方はフリーのカメラマン兼いちおうの写真家、そして兼業主夫といったところだ。妻は多忙で全国を飛び回ることも多いし、子どもがいなかったころも家のことは主に僕がしていたから、自然と家事と育児は僕がメインになったのだ。
 写真の方は、たいして売れはしないが、たまにまとまった写真集を出せることもあった。ただまあ実際のところ、その売れ行きすら妻のネームバリューのおこぼれのようなものなのかもしれないけれど。金にならない写真家と、なんとかやっていけるカメラマンと、ときどき自治体の文化事業や小さな大学とか専門学校なんかで写真の撮り方を教えて、どうにかこうにか収支を合わせてやっている。

 娘はそろそろ二歳になろうかというところで、最近のお気に入りはテレビアニメとカメラ。僕の仕事用のカメラを一台壊されてから、仕方なくデジタルのトイカメラを一台買ってあげた。テレビ画面に映る好きなキャラクターを自分のカメラで撮っては、僕に見せに来てくれる。

 ……

 僕は今、眠ってしまった娘を膝にのせながらこの文章を綴っている。赤ん坊のころは胡坐を組んで座ると膝の上にすっぽり収まっていたのに、いつのまにかはみ出すくらいに大きくなってしまって、おかげで足が痛い。でも別の場所に移そうとするとたぶん起きてしまうから、もう少しだけこの窮屈な体勢を維持しなくてはならない。それがどれほど、不格好であろうと。

 と言っても、僕がこの話にこれ以上付け足すべきことは、もうそれほど多くない。平凡な人間の凡庸な人生が語る退屈な話なんてのは、こんなものなのだ。
 ただおそらく、最後に、断っておかなければならないことがある。
 きっと僕がここで語った話は、一部の人に、あるいは多くの人に、もしかしたらあなたに、ひどく不愉快な思いをさせるものだったかもしれない。なにかその人の核のようなものの、その表面を無礼にもがりがりとひっかくようなものだったかもしれない。
 そしてもしかしたら、あなたは憎むかもしれない。こんな話を語るやつは、なんてつまらない、愚かで間違った人間なのだろう、と。
 僕はこの話を綴っている間中ずっと、そういう人のことを考えていた。僕の愚かさに、気分を害し、傷つき、憎しみを募らせる人のことを考えていた。
 それはもちろん、仕方のないこと、当たり前のことだと、割り切ってしまうべきことだというのは僕にもわかる。すべての人にいい顔はできない。誰も。
 ただそれでも、今こうして娘を膝にのせている僕は、その寝顔を見るたびに、誰かの憎しみを思い出す。湖の底に細かな砂粒のように積もっていく、その憎しみのことを考える。そして、もしかしたら、この子もまた――僕はそこで立ち止まる。

 ときどき僕自身、「僕は間違っているのだろうか」と自問することもあるけれど、もちろん答えなんかない。しいて言うなら、正しくはないのだろうけれど、間違っているというほどでもない、そんなところだろう。ただとりあえず今は、正しくないなりに、でもそこで生まれたものがあって、僕はその生まれたものの重さを否定しないために、今日も日々写真を撮り続けている。

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