「冬の駅の記憶」

「冬の駅の記憶」

 それは少し昔、まだK線「某大前F駅」がただの「F駅」という名前で、駅舎および東西連絡通路がだらだらと長い階段と中途半端な角度のスロープ通路に挟まれた構造をしていて、僕らがまだ大学生だったころの話。
 
 当時の「F駅」というのは、1960年代に建てられたもので、僕らが学生だった2000年代にはすでに老朽化が目立つようになっていた。陸橋に屋根がついた程度の通路に無理やり駅舎をくっつけたような建物は、トイレは汚いし、ホームに降りる階段にはエレベーターもスロープもないし、ほとんど打ちっぱなしのような床はところどころひび割れも起こしていた。出入り口になる東西の階段とスロープは、手すりと屋根を付けたような構造で壁がない。そのせいで、冬場の改札前はよく風が抜けて、とてもじゃないけれど人が長時間居座っていられる場所ではなかった。
 それでも僕らが家に帰れない夜に、そこに座って夜を明かしていたのは、つまるところ屋根があったからだ。会社帰りの社会人や遅くまで残っていた学生たちが、改札の前を通りすぎる数秒の内の半秒ほどを僕らに向けたその場所には、きっと駅でたむろするだらしのない学生二人がいるのだろうけれど、僕はついに見ることはなかった。やがて夜は更けて終電が去ってしまうと、駅員は改札を閉めて帰り支度に入る。生真面目そうな駅員だ。きちんと制服を着こなし、頬の筋肉を一ミリも緩めることなく、まるで職務以外のすべての雑事はこの世界に存在していないかのように、足早に駅員用の事務所に去っていく。もしかしたらトイレに急いでいたのかもしれない。駅員が去ってしまうと、そこに残されるのは、時おり過ぎ去っていく酔っ払いの足音と、いい歳をしてどこにも行けなくなってしまった二人の学生だけだった。

 そうやって描写してみたけれど、実際のところ、僕にはもうそのころの風景はうまく思い出せなくなっている。そのときの記憶、そのときの匂い、そのときの色づかいの断片を、今でもなにかの拍子に垣間見ることはあるけれど、でもそれは、街ですれ違った昔の知人のように、一瞬後には足早に去ってしまっている。
 とくに寒さを思い出すのは難しい。夏になれば早く冬が来ればいいと言って、冬になれば早く夏が来ればいいと小さな子どもは言うのだけれど、そいつは大人でも同じようなもので、とりもなおさず人間というやつは感覚を感覚のまま記憶するというのがあまり得意ではないようだ。

 F駅は線路にまたがる橋上駅舎として建てられていたので、駅が閉められたあとも自由に東西を行き来できる。だからたとえ通路の屋根の下で一晩を明かしたとしても、基本的に咎められることはない。そこにいることを咎める存在があるとしたら、それは彼ら自身以外にはなかっただろう。
 厚手のジャンパーを着込んでいても、冬の京都の夜風は、寒がりの僕には大分堪えたのだけれど、もう一人の方は僕なんかよりよほど寒さに強いデキらしくて、でもまあ、いろいろあって帰るわけにも行かなくて、なによりもう一人が帰るまでは帰らないつもりでいたので、やっぱり帰れなかった。もう一人が帰らない理由を、あのころの僕は訊いたのだったっけ? 思い出せない。知っていたか、察していたか、あるいはただ何も考えずにむきになって我慢比べをしていただけなのか、それとも――。
 
 あのとき、僕らはどんな話をしていたのだっけ? それも思い出せない。大学のこと? 家のことは話していなかったと思うのだけれど、どうだったかな。もしかしたらとくになにか話をしていたわけではなかったのかもしれない。ただじっと黙って、冬ごもりをするヤマネかなにかのように、まどろんでいただけなのかもしれない。
 もう一人にそのことを訊いてみる勇気は、今のところない。

「F駅」は、2016年の建て替え工事で、旧駅舎より南側にしっかりしたコンクリ造りの橋上駅舎が建てられて、旧駅舎の方はいつのまにか撤去されてしまった。スーパーで買い物をした帰りにたまに新駅舎を通ることもあるけれど、そのころのことを思い出すことはほとんどない。今となっては、旧駅舎がどんな造りをしていたのか、詳細には思い出せなくなっている。思い出せるのはただ、なんとなく寒かったこと、それから最低限の屋根があったこと。もちろん、新駅舎の通路を歩いても、どこにも帰れなくなった二人の影を見たことはない。

 ……

 僕は家に帰るように言ったのだけれど、彼女はまったく帰る気がなくて、彼女が帰らないのだから僕も帰ることはしなくて、仕方ないから天井を見上げる。四角いパネル状の建材がはめ込まれた天井は、薄汚れているとまでは言わないけれど、白というにはあと二歩足りない。通学用に使っている茶色い手提げかばんから、なんとなく手持ちのゲーム機だとか文庫本だとかを取り出してみるのだけれど、寒くて、手が痛くて、十秒もしないうちに両手はジャンパーのポケットに突っ込まれてしまう。そのうちに二人でウトウトしてきて、どっちもがどっちもに寄りかかって、でもそれで眠れるわけじゃない。僕はただ目を瞑るだけだ。僕らはいつまでこうしているのだろう、いつまでこんなところに留まっているのだろう。焦燥も無力感も憎悪も劣等感も、冬の夜に降る土砂降りみたいに降り注いでいた時代、僕は傘もささずにバケツを持ってせっせとそいつらを集めていた。とても一人で抱えられる量じゃないのに、そのすべてを抱えなくちゃいけないという義務感を、なぜだか信じていた。
 深夜に目を開けると、隣にあった二つの瞳孔が僕を向いていた。僕はその孔からなんらかの意味を読みとれないかと、わずかに残った熱量を頼りに頭を働かせてみるのだけれど――憐憫? 諦観? 呆れ? 覗いてみても、なにも見えはしない。そこにあるのは比喩でもなんでもなく、ただの人体に空いた孔だった。頭に灯ったはずのわずかな熱量は、通路を通る冬の空気の流れの中で、いつの間にか消えてしまった。
 彼女だって寒いはずなのに、諦めて帰る様子はなく、こいつは意地でも帰れないなと、いったいどこに向けての意地なのかもわからないような意地の張り方で、僕らは京都の寒い夜を明け方まで過ごした。

 ……

 そんなことを、ほとんど毎晩繰り返していた気がする。いったい何度そんな時間を過ごしたのだろう? あれだけ時間があったのだから、回数ぐらい数えておくべきだったのかもしれない。遭難者が正気を保つために日付を数え続けるように、そのくらいの努力はすべきだったのかもしれない。
 だけれどまあ、そんなに勤勉な人間なら、そもそも京都の冬の駅で遭難なんてしなかったのだろうし、あまり詮無い後知恵を言うものでもない。
 ただあの冷たさの中で、
(でもその冷たさはほとんど思い出せなくて、)
 本当にしなくてはならなかったことがあったような気がして、
(でも当時の彼女の表情すらあやふやになってしまって、)
 結果的にはだいたいなんとかなって、
(でも部分的にはそのままで、)
 記憶というやつは信用ならないのだけれど、
(なにより僕の語りも信頼できないのだけれど、)
 僕はときどき、古い内臓を手に取るように、その記憶を思い出す(あるいは、記憶だったものを)。

 それは今より少し前、僕らが屋根と壁のあるおうちで毎日子どもたちとにぎやかに暮らすことになるそれより、ずっと遠く昔の話。

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