「尾道・雨――古本屋『弐拾㏈』を訪ねる」

 その古書店を訪れようと思ったことに、特段の理由があるわけじゃない。店主と顔見知りというわけでもないし、とくべつ本が好きなわけでもない。たまたま暇ができたわけでもないし、旅をするのには良い天気だったわけでもない。
 ただまあ、いろいろあって(便利な言葉だ)、一度そこを訪れておかなければならないと、なぜだか思ってしまっただけだ。そいつは、たまに湧いてくる根拠のない義務感のようなもので、そんなもの日常生活の中で無視してしまえばいいのだろうけど、やれやれ、そういうの、捨て置けない人間なのだ、僕は。

6月13日15時 自宅

 仮眠から覚めて、髭を剃ってシャワーを浴びる。準備した手荷物を持って、妻に「行ってくる」と言うと、「いってらっしゃい」と言われて、ほらもう出発。とっても簡単。オーブンから出てくる完成品みたいに。

 でももちろん簡単じゃない。

 家を一晩空けるために、前日にカレー一鍋を作り置き。食器と洗濯はできるだけ終わらしておく。明日は燃えるゴミの日だが、一日くらい出さなくても大丈夫、だろう。
 妻には、入れ違いに帰ってくる子どもたちの宿題を見てもらわないといけないし、明日朝末っ子の健康観察票に水泳授業の可否のサインを書いてもらわなくてならないし、就寝前の歯磨きの仕上げもしてもわらないといけない。
 野宿は確定、雲行きは不安しかなく、なんなら腹の調子だってよくはない。
 なにより、こんなことができるようになるまで12年だ。簡単なものか。……12年前、長女は赤ん坊だったんだ。

16時 京都駅

 16時20分発の新幹線を待つ。
 ちょうど下校時間だったらしく、京都駅までのローカル線の車内は、学生たちの会話で満たされていた。単位、交友関係、直近の関心事たちが、まるで空気の中に書かれた落書きみたいに、あちこち。今座っているホームの待合室では、出張旅行らしい二人組や、旅行者らしい老人たち三人。ビジネスマンたちは買ってきたコーラの話をしているし、老人たちは出身大学の話で盛り上がっている。

 よくないな。

 なぜだかときどき、人の流れの中で脈絡もなく腹立たしくなることがある。それは社会的な怒りであることもあれば、個人的な怒りであることもあるし、もっといえば、ただ単なる怒り、輪郭線のない怒りであることもある。そういうのはもはやどうしようもないことなので、怒りは怒りのまま捨て置くのだけれど、いずれどうにかしないといけないだろうなと、片付けられない机周りを見るような先延ばしばかり、僕は続けている。

17時 新幹線車内

 とくにやることもなく、持ってきた本を読んだり、スマホをいじったり。
 持ってきたのは、少し前に古本市で拾った1985年の『現代詩手帖』。ロラン・バルト追悼号だ。執筆陣がなかなかに豪華で思わず手に取ったのだけれど、古本市場ではよく見る本なのだろう、500円で売られていた。現代思想流行り全盛期、執筆者たちは誰も、今からすればややペダンティックに「これくらいわかるだろう?」という風に飛ばしていくのだけれど、こっちは少し気が緩むと同じ行ばかり読んでしまう。だから文学とか詩とかは苦手なんだ。
 この手の文章も、今ではあまり見なくなったな、と思う。探せばどこかにはあるのだろうけれど、ネット時代の言論空間では、ばつの悪い常連客のように隅に追いやられてしまっているのだろう。

 いいかげん、文字を追うのにも飽きて顔をあげると、いくつか前の座席で、1、2歳くらいの幼児が頭を出して、ひっこめて、後ろの乗客に笑いかけている。後ろの乗客からは小さな笑い。父親が笑いながら軽く幼児を窘めて、後ろに小さく詫びる。
 それは知っている光景だ。あれは、何年前だろう。僕は僕の数年前を後ろから見ている。口元に手をやると、少し口を開けていたみたいで、なんだおまえ、笑っているのか。

19時35分 尾道駅前広場のベンチ

 新幹線で福山駅まで行き、そこで山陽本線に乗り換え、尾道に到着したのが18時前。京都から2時間ちょっと。意外と近いものだ。
 目的の店が開くまで、まだ5時間ある。尾道近辺で一か所だけ確認したい場所があったので、先にそっちを見に行くことにする。ついで、道すがら街の様子を見て回る。
 尾道という街は、不思議と観光と生活が混在しているらしく、駅前の整備されたロータリーのすぐ東に、昔ながらの商店街が一本通っていて、さらにそのまわりに小さな路地が碁盤の目のように張り巡らされて、生活圏を形作っている。
 月曜日のせいだろう定休日の店が多い。もちろんシャッターとか空き地とかもそこそこ。こんなご時世どこの商店街も死に体なのでそんなものだが、比較的観光地の尾道はまだだいぶん息がある方だろう。ラーメン屋が多い。尾道ラーメン。ふむ。あと広島風お好み焼き。ふむ。
 大通りから少し入れば、細い路地に、個人商店やスナック。焼けたトタンの庇に、雨だれの染みた壁、小さな祠。観光地でもあるせいだろう、どこも手入れはされていて、くたびれてはいるのに、朽ちてはいない。海沿いだけれど、臭みもなく、よく風が通る。まるで古い時計をなんども修理して使い続けているような、そんな街。

 確認したかった場所は、名勝でもなんでもない。尾道大橋の下あたりにある、小さな浜だ。浜とも言えないかもしれない。民家の並ぶ海岸通りの一角、空き地と駐車場の間の石段を下りた先にある、小さな砂場。グーグルのストリートビューでみつけて、そこが実際にどうなっているのか見ておきたかったのだ。私有地だとまずいので、浜には下りずに、石段の上から写真を一枚撮るだけにしておいた。この旅のなかで撮った唯一の写真だ。石段の中ほどでペットボトルが転がっていて、そのさきに猫の額というにもまだ貧しい小さな浜が、塗り残した下地のように写っている、ただそれだけの写真。もう少し潮が満ちれば、きっとこの小さな砂浜は海に沈んでしまうのだろう。
 
 歩きながらどこか店に入って食事でもしようかと考えもしたけれど、けっきょく最後まで店でなにか食べる気になれなかった。地域振興に資さなくて悪いけど、駅前まで戻って、コンビニでおにぎりとサンドイッチを買ってベンチで食べる。僕はそういうのでいい。ちゃんとした食事は、まじめに旅行する人間が食べればいい。

2時11分 尾道駅軒下のベンチ

 夕食を取ってからけっきょく3時間ほどベンチで時間を潰して(そういうの、実は得意なのだ)、23時から目的の古書店へ向かう。歩きながら、でもやっぱりやめようかという心持ちがちらと顔をのぞかせる。
 僕はふだんから古書店巡りをするような、熱心な本好きや文芸ファンではない。そもそもそれほど大量に本を読む人間ではない。読む本があればスマホからAmazonで手早く注文するような、文学的抒情性とは無縁の人間だ。だから、深夜営業を営む古書店などという風情あるところに立ち入るのは、少々勇気がいるのだ。あるいは野蛮さが。
 
 店は、ぼんやりと歩いていると見落としてしまいそうな、大通りを少し入った細い路地の一角にあった。ぼうと光る店の看板は一杯やるには良さそうな風情で、飲み屋に間違えられることもあるというのもさもありなん。
 店外の棚に積んである本に軽く目を通してから、半開きの戸を開けて店内へ。店内に入るとさっそく所狭しと本が並べられている。木造の古い建物で、もとは診療所かなにかなのだろう、細かく区切れた間取りはとても書店のそれではない。店主はカウンターの奥にいて電話かなにかで人と話している様子だった。邪魔をしないよう静かに本を見る。
 入り口の棚は、よくある文庫、郷土史、全集、古い大衆紙などなど。少し眺めて、気になったものをマークしておく。桑原武夫……大学で少し読んだきりだ。このあたりの文庫は……まあいいか。郷土史は、やはり尾道周辺が多いな。
 一通り入り口近くの棚を見終わって、カウンターの前を通り過ぎ、店の奥へ。奥の部屋には、なつかしのポプラ社江戸川乱歩全集(図書室にあっただろ?)。平積みにされているのは店で取り扱っている新本。靴を脱いで、さらに奥の間にあがると少し床が沈んで、踏み抜かないようにそろりそろり。絵本や児童書のコーナーでお土産にはなりそうな本を見て、近くの棚の人文本や詩集、写真集なんかの、気になったものを手に取ってみる。本を戻すときは、静かに、折らないように、ゆっくりと。僕のほかに一人二人の客が、熱心に、しかし静かに本を選んでいる。まるで宝石を目利きするプロの鑑定士のように。そこに僕のような門外漢が混ざっているのは、なんだか申し訳がない。

 一通り見て、思想家のエッセイと大阪万博の写真集、翻訳短編小説集に子ども向けの紙工作本の四冊を手に取る。まるで雑多な組み合わせだ。もし手に取る本で人の人間性をはかる占い師なんかがいたら、僕のことを「なんて一貫性のない人間なんだ」と評してくれるかもしれない。是非もない。でも、たいていみんなそんなもんだろう。

 手に取った本をカウンターの向こうの店主に渡して、代金を払う。ついでに手に持っていた買い物用のエコバッグから手土産も出してそいつも渡す。京都の酒と菓子をもってきたのだ。「そういうの、この店に必要そうだな」と思ったのが、この小旅行の身勝手な義務感の一つだった。空いたエコバッグに今買った本を入れて、ほら完璧。抜かりはない。
 手土産を受け取りながら店主が少し不思議そうに、
「あの、なにか……」
 と僕に訊ねる。なにか縁でもあるのか、ということだろう。
 まあそうなるよね。
「ご著書を読ませてもらったんですが」
 と僕は言った。この店の若店主はエッセイを出版している。なかなかにいい文章を書く。
「その中でKという人がこの店を訪れたことについて書かれていて」
「はい」
「彼は〇〇君ですね?」
 店主の反応をみるに、やはりそうらしい。
「あれの同期です」
 ちょっと芝居がかったかな、と思うものの、僕はなにかにつけこういう風にしてしまうものだからしかたない。若店主が噴き出すように笑ったから、まあよかったんだろう。
 店主とKの話を少しする。店主は僕とKが友人だと勘違いしていたみたいだけど、実のところそんないい関係ではなく、少々借りがあるくらいのものだ。本人のいないところであれこれ書くのは礼を失するのでやらないけれど、まあ、あいかわらずのようだ。
 それから大学の話を少し。店主に直接面識はなかったけれど、同じ大学の出で、若店主の方が僕の何年か後の後輩にあたる。あの先生はまだ在籍していたとか、あの先生は亡くなったのだとか、少しだけ話す。
 たぶん話そうと思えば、話し込める話題はたくさんあるのだろう。一緒に呑めば酒がうまくなりそうな、なかなかの好青年だった。でも、僕はあまり話さない。彼と今ここで話し込んでしまうのは、あまり巧くない気がした。それは、京都の手土産と違って、今ここでは余分なことのようだった。

 店主に断って、しばらく店に残り、もう少し本を見る。店主と客の話し声と、ラジオと、夜風のあわいで、僕は手に取った活字を追っていく。この匂いは知っている。古い夜の匂いだ。ずっと昔、まだ僕が父親でも夫でもなく、酒と文字だけを頼りに夜道を歩いていたころにかいだ、あの匂いだ。もしかしたら、と僕は思う。そういう時間があなたにもあったのかもしれないな。
 眠くなってきたところで、そろそろ切り上げだ。もう一冊だけ本を買って店を出ることにする。
 カウンターに本を持って行くと、常連らしいお客と話し込んでいた店主は、少し恥ずかしそうに、「すみません。くだらない話ばかり」と言う。
 僕は、「いえ、いい店です」と返す。
 いい店だ、本当に。

 店を出ると雨が降り始めていた。時刻は夜中の二時前で、ここはそういえば尾道だった。さて、始発まで雨宿りできそうなところは、と。たしか尾道駅の軒下にベンチがあったはずだ。そこで時間を潰して、始発で帰って、家でひと眠りしたら、いつもどおりの専業主夫。たったそれだけ、ほら簡単。まるでオーブンから出てきた完成品みたい。

……あるいはあなたは「そんなことのために?」と言うかもしれない。そんなことのために、わざわざ新幹線に乗り、手土産を持って、ろくに観光もせずに始発で帰るような、そんなくだらない小旅行を? と。
「そんなことのために」と僕は言う。そんなことでいいと思う。小さな営みが、善き営みがそこにあれば、僕はそれでよいと思う。

 誰もいない駅の軒下のベンチに座って、僕は雨の音を聞いている。こんなとき、僕はいつも誰も知らない海に降っているはずの、激しい雨のことを考える。誰に知られることもない、でもたしかにあるはずの、激しいそれを、今も僕は信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?