「架空都市マイカタの探訪」

「架空都市マイカタの探訪」

 なんとなく思い出したのは、ショッピングセンターの階段の踊り場の記憶だった。
 一つは、ガラスブロックの向こうに川の土手が見える踊り場。
 もう一つは、光の射し込みが悪くて、薄暗い踊り場。

 僕はかつて、南北を大都市圏に挟まれた衛星都市「マイカタ市」に住んでいた。3歳から15歳の多感な時期を、僕はずっとその街で過ごした。田園だった土地を宅地開発した地域に住み、昭和の建設ラッシュ時に建てられた近所の学校に通い、週末は姉の習い事のついでに家族で郊外型のショッピングセンターに車で買い物に行く、そんな90年代中流層の生活が僕の日常だった。
 思い出した二つの記憶は、その当時の週末の一場面だ。

 ガラスブロックの踊り場は、市街地からわずかに外れたショッピングセンターの、正面入り口からずっと奥の階段の記憶だ。時刻は夕方、川沿いの土手に射す夕日が、その踊り場にもきれいに射し込む。設計者はそれを加味して踊り場を設計したのだと、今ならわかる。なにぶんショッピングセンターの奥、人の通りの少ない踊り場だったから、僕の記憶の中では、そこに人はいない。人の多い食品コーナーとは逆の方向で、一階は書店やスポーツ用品、スーツ売り場のコーナー(だったかな?)に続き、二階はたしか手芸屋の隣に出るはずだ。メインの売り場とはほど遠いその階段を、20年以上経った今、急に思い出した。

 もう一つ、薄暗い踊り場の記憶は、僕の住んでいた場所から南、市境を超えたK市に建っていた(そして今もテナントを変えて稼働しているらしい)郊外型のショッピングセンターだ。前述の、姉の習い事のついでに寄るのがそのショッピングセンターだった。市名を冠した駅ビルの前に建っていたから、郊外型なんて言ってしまうといささかK市民に失礼かもしれない。でも、周りの田園風景とか、発展具合(I山地に近い街で、市内のショッピングセンターは当時そこだけだった)を考慮すると、郊外型といっても差支えはないと思う。K市民の皆様にはわるいけれど。
 とにもかくにも、そのショッピングセンターの階段の踊り場のことだ。
 それはなんの変哲もない、ただの踊り場だった。駐車場の入り口から入ってすぐ右手の階段を上った先にその踊り場はあるのだけれど、やっぱりその記憶にも誰もいない。だって、入り口正面にはご立派なエスカレーターがあって、地下の食品売り場(下りたすぐ先は寿司屋で、いつも父が鉄火巻を買った)にも、二階のレストラン街(ほとんどそこでご飯を食べた記憶はない)にもアクセスできるのだから、わざわざ面倒な階段を上り下りする必要はない。そこには小さな窓一つしかないものだから、いつも薄暗くて、だからといって真っ暗というほどでもなく、夕方のあの野暮ったくて中途半端なオレンジの陽光が、砂と埃のまざった味のする空気と一緒に、わずかな陽だまりを作っている。そんな場所。

 そう、そういえば、夕方なのだ。

 どちらの記憶も夕方で、それは当時の我が家の生活サイクルを考えれば当たり前のことだ。休日、朝はいつもどおり起床して、昼食が済んだら車で出発、姉を習い事に送ったら、一週間分に必要なものをできるだけ買い込んでおく。それだけの流れだ。昔僕はその定型の中を、つまらない白色の流しそうめんのように周回していた。
 そんな定型が終わったのは、僕が高校に上がったのを機に、母念願の一戸建てを市内に購入し、引っ越して生活圏が変わってからだ。そのころにはもう時代は2000年代で、週末は郊外型のショッピングセンターへ、なんて、老人たちの体力ではできなくなっていた。そして市内にほどほどの量販店が立ち並び、郊外に出なくてもだいたいが近場で完結するようになってもいた。姉はもう習い事に行く歳でもなかったし、僕は……僕は、近未来には片が付いていなくなる家庭の備品だった(そして両親の希望とはいささか異なる形で色々なことが片付くことになるが、それは別の話だ)。

 なにはともあれ、僕が語ったのは90年代特有の小さな記憶。この質感は2000年代以降の子どもにも、80年代以前の子どもにも、たぶんわかりにくいかもしれない。もちろん今でも、そして80年代以前にも、週末には車に乗って家族で買い物に出かける、そんな生活スタイルはあるし、あったのだろう。だけど僕らの90年代は、上っていく希望も、落ちていく失望もない、飛んでいくボールが放物線の頂点で感じる無重力のような、日本の繁栄の限界点が生んだ小さな映像記録なのだ。

 ところで最近マイカタ市の地図を見直す機会があって、僕はいつかの記憶に訂正や注釈をつける作業を強いられた。思ったほどもあの場所とあの場所は近くない。地図で見るとちょうど裏手なだけなのに、全然ちがう地域として記憶していた。自転車を漕いで走ったあの距離は、記憶ほども遠くはなかった。子どものころの記憶地図は、偉大なるグーグル先生により、いまや大きく形を変えてしまっていた。ビバ、テクノロジー。
 
 * 

 そんなわけで(どんなわけだか)、僕は平日朝8時からマイカタ市に向かうことになる。現住所から自転車(26インチ買い物用シティサイクル)で片道3時間弱。ちょっとした小旅行だ。
 まず僕の住むK市から国道一号線に沿って南下していく。そのまま大きな橋を二つ渡って、田園風景溢れるY市とKT市を突っ切り、郊外の山沿いに急に現れる某ネット通販の巨大物流センターを躱して、光輝く新築の郊外型マンション団地を抜ければ、そこはもうマイカタ市。一般住宅と公営団地と駅前低ビルといまだ宅地転用の予定もない農耕地がまだらに入り乱れる、ただの地方都市だ。
 普段都市部で暮らしていると忘れそうになるけれど、世界のほとんどは、人のいない過疎地域だ。世界のうちのほんの僅か、人が住むのに好条件の場所を、僕らは集落や街、都市に発展させて使っている。それを交通手段でつないで、人間の世界は形作られている。点と線、ノードとリンク、あるいは神経細胞か銀河の泡構造のように。たまにこうやって長距離を移動するたびに、僕はそんなことを考える。
 マイカタ市に入るとまずは腹ごしらえ、コンビニでおにぎりと水を買って適当に食す。腹が軽く膨れたら、さて出発。最初の目的地はマイカタ……ではなくその南、K市駅前のショッピングセンターだ。僕はさらに自転車で南下していく。宅地造成中の土地、昔からの工業団地、木造の旧家、各駅前の低ビルには塾やら不動産会社やら音楽教室やら。そういうごった煮の中を、僕はさっさと軽快車で抜けていく。ベビーカーの中の赤ん坊、ゆっくりと歩く老夫婦、小学校の中で輝く子どもたち、そのどれもに、膨大な固有の時間、固有の思い出、固有の重みがあるのだとしても、それをすべて掬い取るには、人一人の時間は少なすぎる。

 目的のショッピングセンターに辿り着いたのは、ちょうど11時。ペース的には悪くない。お昼前、さすがにいちおうは市街地で、あたりの人通りはそこそこ。といっても乳幼児を連れた母親と老人たちがほとんどで、あとは近辺勤務のスーツ姿が外回りに歩いているくらいだけど。
 建物自体は昔と変わっていなかったけれど、話に聞いた通り、メインのテナントは別の会社に変わっていた。一階は衣料品や生活用品のコーナーがあって、ドラッグストアや物産展なんかも入っていた。地下は相変わらず食料品店で、二階は文具やこれまた衣料品、三階までは見なかったけれど、書店やら美容室やらがぽつぽつと営業しているようだった。衣料品も生活用品もシニアが普段使いにするような品ばかりで、若者向けの洒落たテナントは見なかった。電気店や玩具店がこういう場所から消えたのはここに限った話ではないけれど、何店舗あったはずの二階の飲食店もすっかり撤退してしまっていた。店舗の構造も少し変わっていて、駐車場から入ったところにあったエスカレーターは撤去されてしまっていた。エスカレーターは店舗の中央にあるのが残っているだけで、そこも昔は吹き抜けの広場になっていたはずだけれど、今は塞いでしまって、上階の売り場面積を増やしたようだ。
 平日の昼間というのを差し引いても、僕の記憶のころより活気があるようには見えなかった。地域の中心的なショッピングセンターというよりは、近所のスーパーにその他のテナントが併設されている、くらいのものだ。たしか近年このさらに南に別資本の新しいショッピングセンターができていたはずだから、「ちょっとした遠出の買い物」客はそっちに流れていくのかもしれない。
 そして本題の踊り場だ。これはほとんど記憶の通りで、構造的になにかが変わっているようには見えなかった。おそらくいつかのリニューアル時に塗装は新しくしたのだろうけれど、白とピンクで彩られていたはずの壁は、死病に侵された獣のようにすでに黒いしみだらけになっていた。小さい窓が一つで、僕がそこを訪れたのは昼前だったけれど、やはりあまり採光が良いようには見えなかった。昼前の光のはっきりしないスリットは、映画かなにかのシーンで棺桶を照らすにはちょうどよさそうに思えた。
 これで目的は一つ達成した。手持ちの端末で写真を一枚撮っておいて、僕は長居せずにその場を離れた。

 次の目的地は、最初のショッピングセンターを北上した先、マイカタ市の市街地から少し離れた川向こうにある。K市から次の目的地までの道のりは簡単だ。K市中心部を流れる一級河川A川がそのままマイカタ市市街地まで続き、さらにそこでこの地方の主要河川Y川に流れこんでいる。だからA川沿いの道を走れば、自然と目的のショッピングセンターの近くまで辿り着く。川も道も、同じように場所をつないでいるわけだ。
 僕は幼少期のほとんどをこのA川近辺で過ごした。だから僕が北上するのに使った道も、よく知った道のりだ。というか、そいつはほとんどかつての僕の生活道路だった。通学路であったり、地域のゲームショップや本屋、模型店をめぐる道のりであったり。かつての記憶通りに走ってみたけれど、道も建物もほとんど変わっていなかった。川沿いの団地、同じ形をした建売住宅、いまだ多く残る田んぼ、学校。ただ母校の小中学校に至っては、僕らの世代を最後に廃校になってしまったので、今では市の別の公共施設として使われている。学校の建設ラッシュ時に乱造された校舎だったから、僕らの在校時には避難場所にすら指定できないくらい傷んでいたが、今ではすっかり補修・改修がなされたようで、現役時代よりよほど小ぎれいに屋根や壁を輝かせていた。遠目から見たらオープンしたての商業施設にでも見えそうなくらい。なんだかな。

 さて、先述の通り、目的のショッピングセンターはマイカタ市街地から川向こうの商店街の中にある。マイカタ市駅周辺の市街地は、昔は電鉄系の百貨店やM社のショッピングセンターが、いまではTなんたらやM社と統合したI系列なんかの有名大資本が幅を利かせている地域だが、川向こうの商店街は、それより小ぶりな中程度の資本か個人経営店が建ち並んでいる地域だ。その商店街の中で一番大きな建物が、目的のショッピングセンターである。こちらは昔から変わらず、同じチェーン店がやっていて、奇しくもさきほどのショッピングセンターに新しく参入した会社である。この20年近くの間にいろんな資本がいろんなところで繋がったり死んだりしたらしい。
 こちらもリニューアルだかが行われたらしく、僕の記憶の中の店舗配置とはところどころ違っていた。食品売り場と書店の位置は変わっていなかったけど、売り場面積が違う気がする。二階は大型の電気店が入っていて、記憶の中の手芸店はなくなっていた。
 件の踊り場は、変わっていなかった。僕は踊り場から少し階段を上がって、窓の外を眺める。窓の外の良く育った街路樹のせいで、記憶の中の風景ほどはっきりとは、土手の姿は見えなかったけれど、それでも街路樹の合間からたしかに、正午10分前の陽光がA川の土手に降り注いでいるのが確認できた。
 ただ一つ、記憶と大きく違っているところがあった。いや、これは僕の記憶違いだったのだろう。窓ガラスはブロック状のものではなく、縦にワイヤーの入ったガラス板だった。僕が記憶した後にガラスを変えた可能性も考えられるけれど、その窓のくたびれようや、周りの構造物の変化の無さを考えると、僕の記憶違いの可能性が高そうだった。なにより、かつてもガラスブロックの窓だったなら、はっきりと外の土手の景色が見えていたのはいささかおかしい。
 一つ記憶の間違いを見つけると、他の記憶のつながりも根拠を失ってくる。本当に二階に手芸店なんてあっただろうか? 一階の書店は昔から本当にあの位置にあったのだろうか? 他の場所と混同しているのではないだろうか? 像は翳み、線は途切れ、僕は夕方の景色を見失う……。
 土手の見える窓ガラスの下では、ベンチに腰掛けた老人がパンを食べている。二人の歳を召されたご婦人がやってきて、ベンチに腰掛け、低い声で噂話を始めた。人はそれだけ。上階に上っていく人も、下階に下りる人もいない。別世界への中継地点のようなそこで、老人は体を休め、静かに時を過ごす。
 僕は二階に上りその踊り場を写真に収める。ベンチが写らないように端末を少しだけ上に向けて(そうしないと、そこにいる人々の邪魔をしてしまいそうな気がしたのだ)。それで用事は終わった。この場にいるべきではない僕は、階段を下りてその場から逃げるように去る。

 踊り場を確認するという目的を終えた僕は、マイカタ市駅の駅下に向かう。これが最後の、そして一番大事な目的だ。
 駅下の和菓子店で大判焼きを家族5人分買う。マイカタ市民はこれを今川焼きとか大判焼きとか言わずに、たいてい商品名で呼ぶ、らしい。もはや市民ではない僕では確認しようがないことだ。これをママチャリの前かごに放り込んで、任務完了。さてまた三時間弱、自転車を漕いで我が家に帰ろう。この分なら、子どもたちの下校前に家に帰れるかもしれない。そうだ、帰りは違う道を通ろうかな。今度はY川沿いを北上して……。
 迷わないだろうか? 
 大丈夫。立ち止まらなければ、道はどこへでもつながっている。

 もちろんマイカタ市なんて都市は存在しない。僕が諧謔と皮肉を込めてそう呼んでいる、記憶の中の架空の都市だ。現実に存在するH市とは、はっきり言ってなんの関係もない。ないんだ。
 とにもかくにも僕のマイカタ市は、なぜだか踊り場の記憶と結びつく。いや、記憶と記憶の間の結節点に、マイカタ市はあるのかもしれない。階段の踊り場のような衛星都市、マイカタ。記憶と記憶をつなぐ幻の街。もしかしたら、あなたにはあなたにとってのマイカタ市があるかもしれない。ないかもしれない。

 ああ、だが、
 友よ、
 友よ、記憶の中のマイカタは、あまりに遠い。

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