「緘黙――今日もどこかで……」

「緘黙――今日もどこかで……」


 言うべき言葉はすべて頭の中にある。なんだったらそれを教科書みたいに黙読することもできる。だけれど、いざそれを発話しようとすると、まったく声帯が震えない。のどの奥はただ力むだけで、空気は薄く開いた唇から間が抜けた音を立てて抜けていく。都会の中のみすぼらしい小川に住む汚いコイのように、あなたは口唇をわずかに上げ下げする。

 そのうち相手はあなたの挙動のおかしいことに気づく。わざとやっているのか? ふざけているのか? と問い詰めてくる。驚き、呆れ、やれやれとため息をつく。しまいに相手の目は諦めの色に変わる。ああ、こいつはもうダメだな、という風に誰に向けるでもない哀しみを顔に浮かべて、あなたの前から去っていく。あなたは言葉なく相手を見送りながら、あるはずのない雨音を聞いている。


 僕が久しぶりに言葉を失ったのは、彼女の前でのことだった。彼女は福祉系の専門学校に通う学生で、僕はその学校で英語の講師を引き受けていた。そして僕と彼女はどうやら致命的なまでに相性の悪い関係だったようだ。もし教員と学生という関係でなかったら、互いの人生に接点を持ち、言葉を交わすこともなかったかもしれない。

 どこがどう、僕と彼女の折り合いが悪かったのか、説明するのは難しい。僕の側からできるのは、僕から見た彼女と、僕から見た僕自身とを並べてみることくらいだろう。

 彼女は同期生の中でも比較的優秀で、人前ではっきり自分の意見を言えるタイプの学生だった。仲の良いグループの中では頼りにされ、そうでない学生たちからも、わずかな畏怖の香りはあるものの、一目置かれていた。容姿に目を引く要素があったわけではないが、彼女は自身の外見に対する認識を客観的に持つことができる人間のようで、過度にもならず地味にもならない程度の、抑制のきいた身なりをいつも選んでいた。知識に対する意欲は強く、教員からの評判ではどんな授業でも真面目に取り組んでいる様子がうかがい知れた。やや優等生気味なところはあるものの、基本骨子は安定した人格とあたりまえの善良さを持っている人間、それがある時期までの、僕の彼女に対する所感だった。


 一方僕は翻訳の仕事の傍ら、いくつかの教育機関で語学の講師を兼任して生活の糧にしている人間だ。家族は会社員の妻と保育園に通う五歳の一人娘。小さな借家の小さな家庭が、今のところの僕の生存圏である。残念ながらというべきなのだろうけれど、僕には取り立てて他人に提示できるものはない。社会的地位、経済的余裕、あるいは目を見張るような才能だとかその筋の第一人者的な技能だとか、そういうものはなにもない。どちらかといえば不安定な職に就く、うだつの上がらない人間で、見た目も凡庸だ。だからだろう、将来のある若い才能は、時々僕を二世代前の中古冷蔵庫でも見るような目で見ることがある。「翻訳関係の仕事や講師の仕事なんていうのは自分たちからすれば通過点に過ぎない。そんなところで朽ち果てたくはない」。そういう克己的な意思は、そうあってはならない悪しき未来予想図として、僕をなにかのシンボルかキャラクターのように思ってしまうようだった。僕も特に否定はしない。そういうところがさらに誤解を生むのだと妻には言われてしまうのだけれど、この手のものぐさは僕の性分でなかなか直すことできないでいる。そもそもそれは誤解なのかな? 妻に訊いてみても笑われるばかりだ。


 つまるところこの話を要約すれば、つまらない教員と将来ある若人のささいな諍いにすぎない。


 彼女が僕に攻撃的になり始めたのは、彼女が数日間専門学校を欠席してからのことだ。僕が彼女のいる英語のクラスを受け持つのは週に一コマだったから、僕は同僚に聞くまで彼女が長期に欠席していることは知らなかった。その話を聞いたとき、僕は「なにか事情があるのだろうけれど、それはわざわざ他人が詮索すべきことではないのだろうな」と小さくありきたりな感想を持っただけだった。ただ同僚の教員たちはなにか知っているらしく、その話をしたときに少し困ったような表情をしていたのを覚えている。訊ねるなら答えるが、こちらから言うことはしない、というようなとき、人はこんな顔をする。僕が訊ねないという選択をすると、人は安心と残念を百均のボウルで混ぜ合わせたような顔をする。そういうものだ。

 僕からすれば二週間ぶりだっただろうか、ある日彼女は普段通り学校に来ていた。なにか変わった様子があるようには見えなかった。親しいわけでもないから、特別に声をかけるようなこともせず、普段通りに英語の授業を始めた。

 そこは大規模な学校法人が運営している専門学校で、校舎は広く、教室の数にはいくぶん余裕があった。僕が使っている教室も、つめれば50名程度は入れそうな広さだったけれど、限度よりずっと少ない20名弱がクラスに振り分けられていた。教える側としては、こんな風に人数や空間に余裕がある状態で教えられるのは非常にありがたいことだ。空間的な余裕があるおかげで、学生も勉学に殺気立つ様子もなく、みなリラックスして授業についてきてくれていた。また、高い専門性よりも一般教養レベルの語学力を定着させるカリキュラムだったこともあり、どちらかというと英語の授業は息抜きのように思ってくれている学生が多いようだった。授業はいつもそういう緩い雰囲気の中で行っていたものだから、僕もときに翻訳関係の雑談を交えながら、気楽に授業をすることができた。

 その日もいつものように、授業中に軽く翻訳に関する小話を始めたのだった。授業時間の中盤くらいになると、学生たちも集中力に翳りが出始める。だいたいそのタイミングに合わせて、息抜きがてらカリキュラムの内容からは少し外れた語学に関する話をするようにしている。授業のスピードについて来られていない者は、時間的な猶予を得られるようになるし、また語学に興味がある者には、カリキュラムの内容に追加して教養の幅を広げてもらうきっかけになる、だいたいそんな風に考えてのことだ。大抵の学生は僕の横道に逸れた小話もよく聞いてくれていて、授業のあとにその小話についての雑談を学生とすることもあるくらいだった。こういった雑談の類は、なにげないようで、あとに言葉としてからだに残ることがあるものだ。僕自身の経験から、僕はそういう小さな時間を大切にしていた。

 その日話したのは、なんだったかな、語り手の時制についての話だったと思う。たとえば、過去形で書かれている英語の小説をそのまま日本語に訳すと、「~した」「~した」「~だった」のように続いて、日本語としては単調でやや稚拙な文面になってしまう。ある訳者は現在時制も混ぜてリズムや文章の流れ、日本語としての自然さを重視するし、でもそのまますべて過去形の方がいいという人もいる。あるいは文脈を見ながら適した文体を一から作り上げる職人芸みたいなのものあるし、もう完全に自己流の意訳調の文体を押し通す人もいる。時制一つとっても、他の言葉から他の言葉に移すときには、いろんなフィルターを通すし、通さざるを得ない、そういう話だ。福祉系の学生には専門外の小話のようなことだったと思う。

 学生たちの進捗を見ながら、さて、もう少し雑談を広げようか、切り上げようか思案していると、

「先生」

 と彼女は事務的な文句を告げるようにそう言った。顔にはなんの表情も浮かべていないのに、内心の侮蔑と怒りを、絞り込んだ視線と言葉のわずかな震えから推し量ることができた。席を立ってはいなかったが、両肩に纏う剣呑さから着席しているのが不自然に感じられるくらいだった。

 なんだろう? 軽口のつもりで話していた内容に、なにか彼女の気に障る、失礼なことがあったのかもしれない。もしそうならば、ここは誠実に謝罪せざるを得ないだろう。あるいは彼女なりの確固とした文章観があり、さっきの小話を聞いて、僕になにか物申したいことでもあるのだろうか?

 だが彼女が口にした言葉は僕が予想していなかったものだった。

「授業を進めてください。時間の無駄なので」

 時間の無駄、と彼女ははっきりと言った。たいへん聞き取りやすい声だった。どうやら僕が失礼なことを言ったわけではなさそうだった。

「そうですか、ならテキストを進めますが……」

 僕は反射的にそう答えていた。大方の学生たちも授業のペースに追いついたようだったし、深く考えずに僕は雑談を切り上げた。あとは授業の残り時間をテキストの読み進めに当て、平常通りの授業を終えてしまった。

 授業を終えたあとの彼女は、僕に意見したときのようなあからさまな感情は見せず、いつもどおりにきちんと教科書を揃えて片付け、次の授業に向かった。他の学生たちも、わずかに戸惑いの色を見せながらも、普段と同じように各々の次の授業に向かっていった。なにか事情を知っているのか、二、三の学生がひそひそと彼女の話をしていたようだけれど、わざわざ訊ねてみる気にはなれなかった。その日は、僕も学生たちと授業後の雑談に興じることはなく、控室に戻って気持ちを切り替え、次の仕事に向かうことにした。

 その日のように授業中に話を遮られるというのは、僕にはあまり経験のないことだった。それに直接的に敵意を向けられたことで、緊張や不快感を人並みに感じないこともなかった。だが、彼女がそういう態度を取るのは初めてのことだったから、たんになにか「間が悪かった」だけのことだろうと、その日は思うようにした。小さなトラブルを引きずらない。一つの仕事場を離れたらその仕事のことは忘れて、別の仕事か、家庭のことに頭を切り替える。僕は基本的にそのように日々を過ごすよう努めている。言ってしまえば処世のためのつまらない技だ。


 だがけっきょく、僕の予想に反して以後も彼女との小さな衝突は続くことになる。

 授業中に僕が本筋から外れようとすると、彼女はあからさまに憎々し気な視線を向けてきたし、ともすればまた話を遮られることもあった。僕の小さなミスにも彼女は厳しくなった。スペルミスはともかく、ページ数の間違えにすら、舌打ち交じりに「先生」と唸るような声を上げた。廊下ですれ違えば(そうとわかるように)顔をしかめられたし、休み時間に歓談に興じる彼女の傍を偶然通りがかると、急に声を潜められた。挙句の果てには、授業中これ見よがしに別の授業のテキストを目の前で開かれてしまった。それでも、授業中にこちらがなにか質問をすると、彼女はまっさきに自発的に挙手をして完璧な回答をしてくるのだから、どうやらこの授業の内容は先んじて終わらせているのだろう。そこまでするならば、授業態度に僕は特に文句はつけない。が、それが僕に対する当てつけだということは、教室にいる誰もが理解していたことだろう。

 あるいは僕の気にしすぎだろうかと、他の授業での彼女の様子をそれとなく同僚に聞いたり、彼女の同級生何人かに声をかけてみたりもした。それでわかったことは、彼女の攻撃的な態度はどうやら僕に対してだけらしいということだった。他の授業では、彼女は以前と変わらず模範的な学生としてふるまっているようだった。

「先生は、その、Aさんと、なにかちょっと相性が悪いだけだと思うんです。だから、先生が悪いとか彼女が悪いとかでは、ぜんぜんないと、思うんです」

 気休めなのだろうけれど、学生の一人は僕にそう言った。

 僕が彼女に対して人倫にもとるような扱いをしたことは、少なくとも僕の記憶にはない。もしかしたら、僕が気づかないうちに彼女を酷く傷つけるようなことをしていた可能性は考えなくもないが、そもそもあまり親交がなかったのだから、その可能性はだいぶん低くいように思えた。

 実のところ、特定の人間に脈絡なく嫌われるという経験を、僕は今までなんどか経験している。ここまで直接的に敵意を向けられることはなかったかもしれないが、学生時代から今までの人生の中で、僕と折り合いの悪い人物というのは一定数いた。そしてそれは決まって、学業優秀で、まじめで、自立心の強い、女性だった。そのような傾向をもつ女性にとって、僕は存在するだけで感情を害するような人物であるらしかった。

 僕の中に、そういう、自立的な女性をイライラさせるようなパーツが内在しているのだろうか、と僕はその手の女性に出会うたびに自分なりに内省してみる。

 たとえば、女性を抑圧するような、マチズモや父権のようなものを、彼女たちの前で無意識にちらつかせているのではないだろうか。――なるほど、そういうところがあるのかもしれない。

 あるいはその逆に、彼女たちから見て、強い男性でないことが彼女たちをイライラさせるのかもしれない。男性という(残念ながら、社会的にはいまだ)特権的な立場でありながら、その特権を無為にしている様が不快なのかもしれない。――それもまた可能性としてはありえるだろう。

 とにもかくにも彼女たちは、僕と相対すると、なぜだか感情を苛立たせる。まるで注文を何度も聞き直すウエイターでも相手しているかのように。彼女たちの優秀さを、僕がただ存在しているだけで毀損するのだと言いたげな眼をして。彼女たちの聡明さをもってしても隠しきれない、音声の棘をこちらに向けて。しまいに彼女たちは僕に対してこう言うのだ。「あなたにはわからないのだ」と。

――いや、いろいろ考えてみても、彼女たちの内面は、彼女たちが言うように、僕にはわからない。理解する努力はできても、理解すること自体は究極的にはできないのかもしれない。僕にできることは、理解する努力をしてみせることだけで、でももしかしたら、そういう態度こそが、彼女たちを苛立たせる原因なのかもしれない。わからないけど。

 学生の時分ならば、その手の人間に出会ってもできるかぎり関わり合いにならないようにすることもできたのだが、今の僕は教師だった。一定の社会的責任があり、一定の道義的責任を負う。僕にも彼女にも、残念なことであろうが。


 彼女との衝突の日々が続く中、どうやら彼女から直接学校の方に、僕の教員としての資質や態度の悪さを報告したことがあったらしい。とうとう学校の事務方から僕や同僚に事情説明を求められる段に至ってしまい、僕は彼女と直接決着をつけざるを得なくなった。

「少し話せますか」

 授業終わりに退室しようとしている彼女を、僕は呼び止めた。内心に逡巡がないわけではなかったが、そう呼びかける行為に躊躇はなかった。

「なんでしょうか?」

 学生にしては慇懃な口調。そんな態度も僕に対してだけだということを、僕はすでに他から聞き及んでいた。僕は彼女に着席を促し、声が届く程度の距離の席に座って、向かい合った。空気を読んでくれた親切な学生たちのおかげで、教室には僕たち二人だけが残った。広く薄く四角い空気の中で、僕はあらかじめ用意していた文言を口にする。

「授業の内容のことです」

「はあ」

「私が授業中に余談を話すのを、あなたは時間の無駄だとおっしゃいましたね」

「はい」

「私としては、少々の余談や雑談というのは許容していただきたいのです」

 彼女は肯定も否定もせず、僕の言葉の続きを待った。やむを得ず、僕は先を続けた。

「私がテキスト以外のことも授業で話すのは、その方がより語学について理解してもらえると考えているからです。語学を扱うと言うのは、テキストや資格試験よりもう少し幅の広いことなのです」

 彼女は表情を可能な限り落としていた。人前で感情的になるまいとする積極的な意志が感じられる、そんな無表情だった。彼女の右手の中指の先が、机の天板を削るように縦に動いているのがちらりと見えた。

「それに一見無駄に思えるようなことでも、後々に役に立つこともあります。役に立つ、というのは本当に色々な意味を含みます。そういう将来の種のようなものを、若い人たちにはたくさん持っていて欲しいのです」

 彼女はようやく口を開いた。

「私は――私たちは翻訳や語学の講師を目指しているわけじゃないです。私たちにはそういう余分にかまけている暇はないんです。無駄だし、無意味です」

 でもたぶん彼女が言いたかったことは、もっと別のことだった。彼女が本当に言いたかったのは「この時間そのものが無駄だ」ということなのだろうと、僕にはわかった。たぶんその場に他の誰が居ても、彼女からそういう言外のメッセージを受け取っただろう。

「あの、ですね。私が言っているのは、あなたが今使っている、無駄とか無意味とかいう物差しそのものに対しての疑義なんです。あなたが、そうやってなにかを無駄とか無意味とか断じてしまうのは、まだ早いんじゃないかと、私は思うのです」

 僕が最後に発音した「す」の音が消えるより早く、彼女の顔には今まで堪えてきた感情がすべて噴き出していた。しまった、と僕が思ったのは、しまったと思ってしまった時点よりわずかに早かった。

「そういうの、キモいんでやめてください。あなたは私の親じゃない。私たちからお金をもらって授業をする人です。それ以外のことは誰もあなたに求めていません」

 実に立派な理屈だった。

 さてどうしたものだろうか。おそらく僕の価値観や僕から見た合理性をこの場で説いても、彼女には届かないだろう。理屈より前、対話の基盤になる最低限の信頼関係がここには存在していない。どのように話したところで、すべて、無駄だ。

 だがそれでも、今の僕は彼女より年上であり、教育をする側であり、なにより授業の内容を一任されているプロでもある。僕は彼女の言葉に対して誠実な、少なくとも誠実であろうとする言葉を返さなくてはならない。僕は口を開く。

――ア……

 言葉は出なかった。出たのはただ上あごを空気がこすっただけの音だ。言うべき理屈も、諭すための言葉も、頭の中には全部ある。彼女がこれ以上攻撃的にならないよう、婉曲的な言い回しを使うこともやぶさかではない。なんだったら、彼女よりも言葉を使う能力は遥かに上だという自負さえある。だけれど、僕はなにも言えなかった。僕の身体はブレーキとアクセルを同時に踏んだまま動かない。

 彼女は不審そうに僕を見る。空気の漏れる音がする中年男を、気味悪そうに観察している。急に攻撃してこないか、まだ息があるのか。警戒はやがて確信に変わる。僕がこれ以上言葉を続けられなくなったことを確認してから、彼女は「失礼します」とはっきりと通る声で告げて、立ちあがった。彼女は勝ち誇ったように僕を鼻で笑った、ように見えた。あるいはそうしたことを後悔するように、少し顔をしかめた、ように感じた。わからない。それから悠然と、あるいは消沈して、彼女は教室から去っていった。僕は彼女が削っていた天板の一か所を見つめていた。幸い、次の時間にこの教室で授業の予定はなかった。心と呼吸が落ち着くまで、僕は一人で耳を澄ませていた。

 不思議と怒りや憎しみといった感情はあまり湧かなかった。僕が考えていたのは別のこと――僕の中の古い記憶についてだった。


 僕と僕の父親は、ある時期を境に非常に険悪な関係になった。ならざるを、得なかった。それはまあ、誰にだってあるような父子の確執であり、原因を言葉にすれば「価値観の相違」というありきたりな文言にすぎない。だから、あれは、そう、僕が結婚することを告げた時だったと思う。父は自分の経験から息子を否定したし、息子は父を一昔前の時代の役に立たない愚物とみなした。たぶん、そういうことだった。具体的な話は忘れた。覚えていたとしても、忘れた。

 その諍いの中だったと思う、僕は父の前で言葉を失い、父は僕を諦めた。僕が失った言葉はただの擦過音として、今も世界のはざまのどこかを漂っていることだろう。

 

 ああ、しかし、もしかしたら逆だったのだろうか。僕が彼を問い詰めて、言葉を失わせてしまったのだろうか? もしそうなら――いや、いや、あまりに個人的すぎる。


 彼女の事情を知ったのは、彼女との対話によって関係が決定的になってから、しばらくしてのことだった。

 なんのことはない、よくある話の一つだ。つまり一家の稼ぎ手である父親が事故で亡くなった、ということ。退学することも考えていたようだが、奨学制度を利用して卒業、就職を目指している、そういうことらしい。

 といってもこれらの情報は同僚からの又聞きで、しかるべき筋にちゃんと確認したものではない。確認するつもりもない。それは僕が干渉してよい事柄ではないのだから。

 ただ、ときどき、不意に空いてしまった時間の中で、彼女の事情を想像してみることはある。

 もし又聞きした内容が事実であるなら、冗長な授業内容に対して苛立ちや焦りを覚えるというのはあるかもしれない。こんなことをしている場合じゃない、もっとやらなければならない課題はたくさんある、今すぐにでも卒業しなくてはならない。生活の切実は、ときに人を無意識に攻撃的に変えてしまう。

 あるいは彼女は僕に、行き場のなくなった父性への反抗をぶつけていたのかもしれない。本来どこかの時点で相対しなければならなかった感情の矛先を、彼女は永遠に失ってしまった。どこかでその感情のはけ口が必要だったのだとしたら、学校の講師というのは代用品としてはちょうどよいのかもしれない。

 あるいはもっと、固有で、複雑で、僕には察することのできない事情や感情があったのかもしれない。彼女なりに正当な理由があり、彼女のなりに切実な物語が、そこにはあるのかもしれない。

 色々な方向から考えてみても、結局のところすべては僕の想像にすぎない。僕が嫌われている理由の本当のところは、僕には確認のしようがない。彼女自身にだって分かっていないのかもしれない。ただそれでも、考え続けることを止めて、一方的に彼女を断罪することはすべきではないのだろう。それくらいの良識はわかる年齢になったのだ、こんな僕でも。


 夕食のあと、居間の畳の上で寝転んで本を読んでいると、風呂上がりの五歳の娘が僕に楽しそうに話しかけてきた。どうやら風呂場でなにかを思いついたらしい。

「***って、しってう?」

 僕は本を閉じて上機嫌の娘の質問に答える。

「なんだろう? 知らないな」

 言いながら、立ちあがって洗面所にタオルを取りに行く。最近では風呂上がりの後始末は自分でするようになったのだけれど、今日も前髪からぽたぽた雫を垂らしているものだから、もう一度タオルであたまをしっかり拭いてやるのだ。わーわー言いながら僕に髪の毛をぐちゃぐちゃにされたあと、ブラシをかけられ、落ち着いたところで、

「***なやつ」

 と娘は言った。話の続きらしい。

「テレビの話?」

「ちぃがぁうぅ」

「おもちゃ?」

「ちがうぅ、そおじゃなくて」

 僕の理解が進まないと、娘はいつも少し涙目になる。

「色はわかる?」

「あか」

「おうちにある?」

「ない」

「どこかで見た?」

「ほいくえん」

「ほいくえんの、どこ?」

「えほん」

 僕はそんな風に忍耐強くいくつもの言葉を重ねていく。いくつかの質問のあと、だいたいのところを把握して、とりあえずの言葉を返しておく。

「そうか、じゃあたぶんお父さんは知らないやつだな。保育園でその絵本を借りてきてくれたら、お父さんもわかるかもしれない」

 そう言って、僕はまた怠惰な読書の続きに勤しむため、畳の上に寝っ転がる。

「んー、じゃ、すいようびにかりてくる」

 水曜日が絵本を借りる日なのだ。まだ曜日の順序も覚えきれていない五歳児だけれど、水曜日が絵本の日だということはしっかり覚えている。さて、今日話したことを次の水曜日まで覚えていられるだろうか、僕も、娘も。

 娘は僕の答えに納得したようで、僕の隣で一緒に寝っ転がり始めた。そこになにか意味があるわけではないけれど、ただ一緒に畳に寝転んでいて、面白そうに天井を見上げている。また別のことでも思いついたのかもしれない。

 僕は読みかけの本を開く。生物学のエッセイには「動的平衡」という言葉が載っていた。身体を形作る物質的要素は、二年程度でほぼ入れ替わると言われている。身体は、そこに留まっているように見えて、激しい代謝の中でバランスを保っている。どれほど平凡でつまらない身体であったとしても、目に見えない、激しい、再生と喪失が、そうと知られることもなく……

「雨が降っている」

 と僕は呟いた。

 僕の呟きを聞いた娘が、立ちあがって、畳の上をペタペタと歩いて、居間の襖を少しだけ開き、ガラス戸越しに外を見る。

「ふってないよ」

「降ってるんだよ。いつもどこかで、遠く、誰一人いない草原や海の真ん中で、激しい雨が」

「んー」と娘は唸ってから、元気よく「わかんない!」と言った。

 僕はいつものように娘を見る父親のような心持ちに切り替える。

「うん、それでいい。わからなくていい」


 今日もどこかで激しい雨が降っている。誰にも聞かれることのないその雨音に、僕は耳を澄ませている。僕らは、今日もそんな風に生きている。

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