「英雄を、謳うまい――ポストコロナに向けての準備運動」
以下の文章は2020年7月に執筆したものです。
*
「英雄を、謳うまい――ポストコロナに向けての準備運動」
1 コロナ前史
……などと章題を打ってみたものの、もちろんアカデミックで客観的な通史など書けるはずもなく、ここに素描してみたのは、言ってしまえば、個人のイメージの、その簡易なモデルに過ぎない。それでも、いま、書かなくてはならない。
まず始まりを1995年1月、阪神淡路大震災および同年3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件に設定したい。
1990年にバブルは崩壊し経済大国日本の牙城は土台から少しずつ崩れはじめ、1991年ソ連崩壊とともに冷戦体制も大きく変化していた時代のことだ。阪神淡路大震災は、戦後の自然災害としては当時最大規模のもので、死者6434人、被害総額は約10兆円。阪神高速が崩れ落ちた神戸市の光景は、日本に住む人々の、リアリティの質感そのものを更新させた。「こんな光景が現実にあるのか」という嘆息が「こんな光景は現実に起こり得るのだ」という強固なリアリティに変わったのだ。
その二か月後の3月20日、地下鉄サリン事件が発生する。オウム真理教による、未曽有のテロ事件。アニメ制作やメディア露出、果ては選挙運動など、エンタメと政治と宗教のあいのこ的な活動をしていた教団は、当時テレビでもキワモノ的に面白がられていた。そんな、傍から見れば珍奇な集団が本物のテロを起こし2020年時点で14名(後年重度障害の末死亡した事例も含む)を殺害した。
この事件を境に、日本社会は宗教性に対して極端なまでに冷淡になっていく。「宗教=カルト」という単純な思い込みが蔓延し、小学生たちは「ポア」ごっこで笑い合っていた。
この二つの事件を機に、「大きな物語」は大きく後退した。一億総中流、安定した社会で安定した生活を続けられるというリアリティは、経済の後退と突発的な災害で簡単に崩壊するのだという現実を叩きつけた。震災後に受け皿になりえたかもしれない「宗教」性は、無知な人間がはまる麻薬みたいなものと、侮蔑の対象になった。吉本隆明をはじめ現代宗教に親和的で、オウム真理教に一定の擁護論に回った思想家たちの権威は失墜した。ハイカルチャーが後退し、ネットの掲示板の匿名レスがなにもかもを冷笑的に批評していく時代が始まった。
ゼロ年代のサブカルチャーの興隆はその地続きにある。宗教性は薄れ、チープな相対主義が好まれ、国家や宗教などの大きな物語より、個人と個人、手の届く範囲のミニマムな物語が興隆する。「ボク――キミ――セカイ」でおなじみのセカイ系はその極致だった。ケータイ小説は手のひらサイズの端末の中に等身大の物語を描き続けたし、三丁目の夕日は架空のミニマムなノスタルジーとナショナリズムの萌芽を映し出した。今は遠くなりしゼロ年代批評だが、当時の成果は山ほど書籍化され一時代の遺産として今も機能している。
携帯端末とインターネットの一般化もそこには大きく寄与している。新聞は凋落し、有象無象のネットの書き込みが情報の先鋭化、セクト化を推し進めた。
リーマンショックによる世界的な不況とそれに伴う日本経済の没落は、経済大国日本という「物語」の最期だった。経済不安の中、自民党保守派の麻生政権が倒れ、中道左派系の民主党政権が誕生した。
一方で有権者の政治への関心は低下し、1990年73.3%だった国政選挙の投票率は1996年には59.6%へ低下。民主党政権に沸いた2009年の衆議院選挙ですら69.2%で70%台に回復することはなかった。
次のターニングポイントは2011年3月の東日本大震災だった。それまで戦後最悪だった阪神淡路大震災を上回る死者15899人、被害額16兆円以上という被害を出した。9年経った今でも復興作業が続いている有様だ。
福島第一原子力発電所の事故は、エネルギー政策から災害時の安全対策、大企業の問題まで様々な議論を呼び、今でも国内を分断している。
一方で、「絆」が声高に叫ばれ、テレビは夜郎自大的なナショナリズムエンタメを流し続けた。アカデミズムからすれば噴飯物の歴史修正主義は大SNS時代を通して瞬く間に広がった。「日本を取り戻す」(いったい誰から? どこから? どのような日本を?)という空虚な言説を政治家は振り回す。
しかし、それらがどれだけむなしい空っぽなナニカだったとしても、社会は大きなメルマークを求めていた。とにかく、「今ここじゃないもの」を必死になってかき集めた。
リベラル政権さえちゃんとしていれば、震災の被害は抑えられた。あのとき政権党が保守党だったら、もしかしたら違う日本があり得たんじゃないか? そんな願望は、当時支持を得たエンターテイメント作品によく現れている。
象徴的な作品として『シン・ゴジラ』と『君の名は』を挙げておこう。
『シン・ゴジラ』は『不思議の海のナディア』や『エヴァンゲリオン』などのアニメ作品で有名な庵野秀明が監督を務めた特撮映画である。過去の「ゴジラ」作品の多くがそうであるように、世相の問題を怪獣ゴジラに反映させている。ゴジラによる放射能汚染は福島第一原発事故がモチーフであろうし、官邸の煮え切らない茶番劇は東日本大震災時の官邸をイメージしたものだとわかる(注1)。この映画が東日本大震災をモチーフにしたことは明瞭だが、しかし物語は現実とは異なる結末をたどる。いやもちろん怪獣映画が現実と同じではないのは当然だ。が、私の言っていることはそういうことではない。「物語構造が異なる」と言っているのだ。「われわれは頼りないリベラル政権の元被災し、グダグダな対処の中、大きな被害を受け、それはいまだ回復していない」という「物語」を今、現に抱えている。一方で映画の中の日本は、「保守政権が、最初のグダグダもありながらも、最終的には、作戦を考え、エキスパートたちを登用し、ゴジラという災害にいちおうは打ち勝った」というところで締められる(もちろんそれは最も表層的な読みではあるが、本文ではこれ以上の作品分析は行わない)。
政治的に庵野秀明らスタッフが保守派であるかどうかは知らないし、問題ではない。問題なのは、東日本大震災が下敷きにあるのに、政権党の名前をわざわざ「保守第一党」としたこと、そして災害に(不安要素はあるにせよ)打ち勝ったということである。
かりに作中の政権党が革新党のような名前なら、どうだっただろう? 現実の民主党政権をイメージさせるし、場合によっては当時の政権の美化ともとられかねない。保守党がいいというより、リベラル政権「ではない」方が好まれることを、映画製作者たちはよくわかっていたのだろう。
また作品中では中盤で政権の首脳部はほぼ全滅する。その後若手たちが中心となって映画は進んでいく。官僚的な旧弊が一掃され、バランスの取れたかじ取り役と癖のある才能たちが困難に打ち勝つ要素は、この映画のカタルシスの一つである。
理想主義的で無力なリベラルでもなく、旧態依然とした保守でもなく、新しく、合理的で、ドラスティックなリーダーの元での、結束、成功。映画のリアリスティックな政治描写とは裏腹に、(表層の)物語はこれでもかというほど甘い英雄譚と成功譚として受容できる。
もう一つ、アニメ映画作品『君の名は』について言及したい。
この作品は、「本来の災害が起き甚大な被害が出た世界」と「被害が軽微だったことになった世界」の入れ子構造に、性の問題や、名前=他者性の問題が絡み合う複雑な物語構造を有している。が、残念ながらこの場では作品論を論じることは目的ではない。
ここでこの作品の名前を挙げたのは、そういう複雑な物語よりもっと端的に、これがやり直しの構造を含む物語だったからこそ受け入れられたのではないか、という疑念からだ。もしこれが、「本来起こる災害がそのまま起きた世界とどのように向き合うか」という、いくぶんジュブナイル向けにはハードな作品であったら、ここまで受け入れられることはなかったのではないだろうか。
主人公たちがお互いの存在を忘れた(入れ替わりがなかったことになった)世界は、ある意味では「作中における現実の世界」である。入れ替わりというファンタジーもなく、運命の相手とも出会えていない、入れ子構造の外側の世界として描かれている。主人公たちは「リアルな他者性の世界」(好きな異性と同一化する幼児的な世界ではなく)で、名前(自己と他者を分け、規定する)を訊ね合う場面で物語は閉じる。
しかし、その「作中の他者性の世界」は、視聴している我々の現実から見れば「災害のなかった架空の世界」なのである。
われわれは『君の名は』の入れ子構造に、他者と同一化できないというリアルな他者性を突き付けられる一方で、「リアルでは災害が起こらなかった」という物語も同時に獲得することができる。これこそが、『君の名は』が大きく支持された理由ではなかったのか。
繰り返すが、新海誠や庵野秀明がそういう意図をもって作品を制作したということではない。結果的にそのように受容されたのではないか、ということだ。受容され得る物語構造を作品自体が一部に有し、人々はそれを欲したのではないか。つまりわれわれの社会の「それは本来あるべきものではなかったのだ」という欲望を満たしてしまったのではないか。
「否認」というのは東日本大震災後のキーワードだ。それはネットを中心に蔓延している歴史修正(改ざん)主義の害悪にも通じている。その手の言説は常に「間違った今」と「本来あるべき正しい世界」の二項対立で成り立ち、「間違った今」を作り上げた敵(中共だとか日教組だとか朝鮮総連だとか)がいることになっている。
だがその「本来あるべき正しい日本」などというもののほとんどは、現実に根を張り続いてきた文化や歴史そのものとは断絶しているのである。
現実の歴史・文化と現代のチープなナショナリズムが断絶している事例として、ロックバンド「RADWIMPS」の「HINOMARU」という楽曲を挙げる。「RADWIMPS」はさきの『君の名は』の主題歌「前前前世」が社会的なムーブメントになり、現在では高い知名度誇るグループである。
「HINOMARU」はその国民的知名度を誇るグループが作詞作曲した楽曲で、一時期「軍歌」か「愛国ソング」のようなものではないかと話題に上がっていた。たしかに歌詞には文語のような語彙や軍歌に使われそうな単語がちりばめられ一見してナショナリスティックな楽曲のように見えるのではあるが、しかし少し歌詞を引用しただけで、作詞者が古典語の教養に暗く、「なんとなく」「それっぽい」だけで言葉を選んでいることがわかる。たとえば「僕らの燃ゆる御霊」の、「御霊」というのは貴人の霊に対する尊称または神霊に対して使う言葉であって、「僕らの」ものではありえない。また「どれだけ強い風吹けど、遥か高き波くれど」は、「吹けど」「くれど」は古典語(已然形+逆接条件の助詞「ど」)で、「高き」は古典語形容詞の連体形、対句の「強い」は現代語形容詞の連体形、「遥か」は現代語副詞(古典用法なら「遥かなり」「はるなり」と形容動詞を使う)、「どれだけ」は現代語副詞的用法と、古典語と現代語がとくに意味もなく無節操に混在している。
でたらめな文語の用法は、作者なりの意図すらなく、ただなんとなく聞きかじった文語っぽいものを、自己流の作詞感覚のようなものと言いわけして、切り貼りしただけであろう。
このようなナショナリズムエンタメが、国を愛すると言いながら、その実、国の文化や歴史になんの敬意も払わず、架空の日本に自己投影する姿は滑稽かつ醜悪である。
以上が2020年コロナ禍までの、私流の現代日本史の流れだ。年表風にまとめるなら次のようになる。
1995年、阪神淡路大震災と続く地下鉄サリン事件により、宗教的権威は完全に終焉し、中流幻想も後退、大きな物語は喪失する。
続くゼロ年代は小さな物語の興隆の時代。
2011年、東日本大震災、否認の時代。そうでなかった日本、本当はそうであった日本を求める安直なナショナリズムの興隆。
なんとも雑な略史で、こんなものを史学科の学部生が提出したら一生の物笑いの種にしかならないだろう。言ってしまえば俗流日本史観にすぎないのだけれど、これからの話をするのに、たとえ大急ぎの仮組であったとしても足場は必要なのだ。
2 コロナ禍
そんな「物語」の彷徨を経た日本はさらなる危機に直面する。
2019年11月に中国武漢市で確認されたCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)は世界的に流行し、2020年7月現在でもいまだ各国は対応に追われている。日本でも緊急事態宣言やそれに準じる自粛要請が行政からなされ、それにともなう経済的損失の補填や補償、また今後の法改正が政治のホットトピックスに上がっている。日常生活レベルでも、行動の自粛や三密(密閉・密接・密集)の回避、マスク手洗いうがいの徹底が叫ばれ、コロナを意識しない生活はありえないという有様だ。
このような危機的状況において、日本社会は今後どのように進んでいくのか、それを簡単に、少しずつだけれど考えていこう、というのが今回の主旨である。
私は喫緊の状況をかなり「危うい」と考えている。「危うい」のはコロナ禍そのものではない。感染症自体は、被害規模はともかくいずれ収束に向かう。私が「危うい」と思っているのは、次の時代がどのような「物語」を選択するか、という点である。
2020年7月時点で大きな政治的トピックは東京都知事選である。
情勢報道では現職の小池百合子氏が圧倒的に有利とされ、選挙結果も彼女の圧勝で終わった。
しかし、私は彼女を政治家としてはまったく評価しない。
前都知事選での公約はまったく達成されておらず、コロナ問題での初動は遅く、オリンピックについて直接的な言及は延期決定まで避け、築地市場移転問題もスムーズな解決には至らなかった。選挙戦術は徹底的にひきこもり、他の候補者との討議をさけ、ほぼ唯一候補者同士の討論に参加したネットでの討論会(Choose Life Project主催)では主要候補で一人だけあからさまに議論を避ける態度を取り続けた。それもそのはずで、公約達成状況を見ればわかるとおり、彼女の政治家としての実務能力は低い。都庁職員に向けたアンケートでも彼女の評価は低調である(注2)。
その彼女は圧倒的得票数で再選を果たした。もちろん、他候補の知名度が低く、野党系候補も選挙前の急ごしらえで選挙運動を始めたという敵失も大きいだろう。しかし小池百合子氏の選挙戦術も実に鮮やかなものであった。
日本で感染が問題になり始めた2月当初、彼女はほとんどメディア露出を避けた。3月末にオリンピックの延期が決まり、4月に緊急事態宣言の発令と、社会のコロナに対する大勢が決したあと、彼女は唐突に不要不急の記者会見を開きメディアを集めた。それ以前に問題に首を突っ込んでいればオリンピック延期のマイナスイメージを背負って選挙を戦うことになっただろう。さらに先に述べたように選挙期間中は徹底して候補者としてのメディア露出を避け、メディアへの露出は公務のコロナ対策のために絞った。結果コロナ対策=小池百合子という図式がテレビにあふれることになる。「東京アラート」なる空疎なにかと一緒に、テーマカラーの緑がふんだんに盛られたフリップが画面の多くを占有した。
彼女個人にとくだん恨みはない。また私は都民ではないので選挙結果について都民にはまた別の意見もあろう。私がここで小池百合子氏を挙げたのは、ただの一例である。彼女は典型的な空虚なポピュリストにすぎない、と私は評価する。そんな自治体首長はこれからどんどん増え続けるだろう。コロナ対策をそっちのけで、非科学的な歴史修正主義者や右翼団体とともに政敵の愛知県知事のリコール運動に奔走する河村たかし名古屋市長。慰安婦問題で歴史修正主義やナショナリストをあおり、米サンフランシスコ市との姉妹都市提携を打ち切るという暴挙に及んだ吉村洋文前大阪市長・現大阪府知事。そんな政治家たちは枚挙にいとまがない。
こういった人物たちは、メディア露出によって多くの支持を集めているが、実務の上では本来なら厳しい評価の眼にさらされるべき人々である。
たとえば7月1日における大都市における人口100万人当たりのCOVID-19感染者数を見てみよう。(注3)
全国 145.8
東京 459.6
大阪 209.2
福岡 166.5
神奈川 163.9
埼玉 155.9
京都 147.5
兵庫 129.1
愛知 69.5
東京・大阪は大都市であることを考慮しても、周辺自治体や他地方大都市と比べコロナ対応は振るわなかったのだ。
また特別定額給付金の対応状況も、各自治体で大きく差が開いた。
6月27日の朝日新聞の記事(注4)によると、先に名を挙げた河村たかし氏の名古屋市(9%)や、松井一郎氏(日本維新の会の代表)が市長を務める大阪市(3%)などはすこぶる低調である。
6月26日に、名古屋市長河村たかし本人のツイッターアカウントは、事務に当たる職員を「当初の約25倍、約200人」(注5)に増員した旨を発言している。つまり当初は職員8人ほどで名古屋全市民230万人の給付金の事務作業を行おうとしていたわけである。これは実務家としては無能のそしりをまぬがれないし、自身の実務能力の低さをSNS上で開陳する政治家としてのセンスのなさも露呈している。
このような惨状は、大阪市や名古屋市が新自由主義的な政策を押し、公務員の削減を声高に叫び、公務員バッシングを煽って支持を高めていたことと無関係ではあるまい。
いまだコロナ禍のさなかであり、確定的な評価を下すには早計であるかもしれない。しかし現時点で確実に言えることは、「特別英雄視するほどの業績を残した政治家は誰もいない」ということだ。
が、小池百合子氏も吉村洋文氏もテレビでは英雄のようにもてはやされている。他の自治体首長と比較してもテレビ出演の頻度は明らかに高いし、「大阪モデル」「東京アラート」など中身のない空言がワイドショーで連呼されている。コロナ禍のさなか、日本維新の会の支持率は上昇傾向にあるし、先述のように小池百合子氏は高い支持率を得ている。
われわれは大きな物語を失って久しい。だがそれは、人々が大きな物語を求めなくなったということではない。むしろ新しい統合を、新しい物語を、われわれはずっと模索してきた。そして人々の要求に鋭敏な政治屋は、実務ではなく「物語」を人々に与え始めた。ナショナリズムであったり、仮想敵であったり、「取り戻す(アゲイン!)」であったり。
コロナ禍の最中もっとも求められたのは統合の象徴としての「英雄」だった。まるで特撮映画のように、遅鈍な旧弊を排し、空虚な理想主義をも消え、みんなが力を合わせて、知恵を出し合い、新しい指令塔の元、困難に打ち勝つ。それは実に気持ちのいい「物語」だ。
もちろん、まだ「英雄」というほどには、人々は熱狂してはいない。小池氏や吉村氏の持ち上げは、一時期の橋下徹氏のような短期的なスパンで終わるかもしれない。左派の一部に強い支持を持つ山田太郎氏も、発言の一貫性のなさから左派ポピュリストとして見られ支持に広がりを欠いている。人々はとても飽きやすい。
今はまだ「英雄」の席は空いている。誰が次のストーリーテラーになるのか、競い合っているような状況だ。人々は待っている。力強く、心地の良い物語を。
ポストコロナにあるものは、政治的に無関心だった人たちが、雪崩を打って空疎な「英雄」に熱狂する時代なのではないか、そういう危惧をずっと抱いている。
3 ポストコロナに向けて
じゃあ、どうすればいいのか?
さっぱりわからん。
いまだ人類は衆愚や偏狭なナショナリズムの害毒を超克できてはいない。特効薬は、ない。
最低限言えることは、地道にやっていくしかない、ということぐらいだ。社会に対する興味関心を高め、完ぺきではないにしろ自分なりの見識を鍛える。安易に中立ぶったものに逃げたり、どっちもどっち論で上からものを言ったりしない。次の世代を育てる。本を読む。対話する。めんどうくさいことを、できる範囲でいいから、忍耐強く、続ける。
そして自分にとって気持ちの良いもの、居心地の良いものに出会っても、心の一割は常に批判を忘れないこと。
……
だがそんな地道でミニマムな活動こそが、現代の安易なナショナリズムや批判者を冷笑するポピュリズムの芽を育ててしまったのではないかという疑念を、私は拭えずにいる。
実のところ、本を読むだとか、発言をするだとか、見識を鍛えるだとかいうことは、一定の文化資本がなければ難しいのだ。ある程度の教育を受けた経験があるだとか、家庭環境が安定していただとか、時間や金銭、気力体力といった資産が一定程度あるとか、そういう条件がなければ、人は生活に追われ、精神はすり減り、周囲1メートル以外の社会に関心を無くし、安易で手軽な娯楽を無批判に受け入れてしまう。そうなってしまえば、政治への関心や歴史の裏付けを訴えようが、もはや耳には入るまい。そんなものは、余裕のあるハイソサエティの上から目線の絵空事と、拒否されるだけだろう。
一方で、ある程度の文化資本を持ちえる層も分断を無自覚に担っているのかもしれない。勉強会を開き、道場やジョギングで心身を鍛え、サブカルから芸術まで幅広い文化にアクセスする。それはそれで素晴らしいことなのかもしれないけれど、そこにアクセスする手段をもたない人たちは、そういう居場所や生き方を認識すらしていない。結果的に、善意のつもりの模索が、もてる人たちだけのコミュニティとそれ以外の断絶を発生させているのではないか。あからさまではないにしろ、無自覚なゲーテッドコミュニティ化しているのではないか。もしそうではないのだとしても、対立と分断を煽る一部の人間にとっては分かりやすい格好の「敵」として標的にされてしまうものだ。そういった攻撃を取るに足らぬ些事と放置してきはしなかったのか。
自分の周りの生活を美しくすることは、最低限すべきことであって、おそらくそれだけでは全く足りないのだ、なにかが。
……このなにかが足りない感じこそ、しかし、「英雄」を待つわれわれ衆中の心持ちなのではないか。さらにそんな疑念も湧いてくる。どこかに、この混迷を打ち破る希望が、今の時代に適した物語構造が、あるのではないか。あるいは愚鈍なナショナリズムや権威主義、政治にはびこる縁故主義を、どうにかして一掃できないものだろうか。そういう強力な物語を、どこかで、他でもないこの私が、求めてしまっているのではないか?
……
しかし、英雄を謳うまい。
もはや英雄の時代ではない。安易な権威への依存や熱狂はポピュリズムや排外主義や少数者差別、さらには独裁を生むことを人類はすでに学んだ。過去をなかったことには誰にもできない。かつて死んだもの、そのあとに生まれたものを否定することは、私たちの足元を、ひいては私たちの今ここそのものを否定することだ。
ただ人が、無能で凡庸なわれわれが、過ちを犯しながらも積み上げていく営み以外の道を選ぶべきではないと私は思う。デマゴーグやポピュリストが散々に食い散らかした後の惨状を「我々は騙されたのだ!」と被害者ぶったところで、荒野に残された子どもたちにはなんの慰めにもならないのだから。
「物語」そのものを否定はしないし、できない。どのような社会にも「物語」という「意味化の構造」は存在するし、そもそも意味化なしに人間はなにかを認識したり想像したりはできない。われわれ人間は、いかに科学的、実証的であろうとしても、意味をずらした脱構築やシュルレアリスムを適用したとしても、意味化の作用からは逃れられない。
だから、けっきょくのところよりもっとマシな「物語」を、模索し選択せざるを得ない。でもそれが難しい。試行錯誤と失敗を忍耐強く繰り返す、凡夫の業を引き受けるのは、基本的に苦痛を伴う。大きなものに自分を投影した方が、気持ちもよいし、楽だ。だが、だが……
実のところ、ここ最近の私はこんな懐疑をずっと繰り返している。こうやって文字にしてわかったのは、けっきょくのところ、現状はすこぶる危うく、私はそれに対抗する処方箋を持っていない、それだけだ。テレビのコメンテーターのようにその場しのぎの結末を口にし、読者に多少なりともカタルシスを与えることは、市井の凡夫であるところの私にはできないし、しない。
だから最後に書くのはただの願いだ。
次の時代の「物語」があるというのなら、ただ人が語るただ人の物語であってほしい、と。
注
1 震災当時の官房長官枝野幸男氏が映画制作のために取材を受けている。
民進党ホームページ(https://www.minshin.or.jp/article/109829)
2 『都政新報』(https://www.toseishimpo.co.jp/)
3 札幌医科大付属附属フロンティア医学研究所ゲノム医科学部門
(https://web.sapmed.ac.jp/canmol/index.html)
4 (https://www.asahi.com/articles/ASN6W5V39N6VPTIL024.html)
5 (https://twitter.com/kawamura758/status/1276476302267047936)
そのほか、災害、事件の被害統計は各官公庁のHPに拠る。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?