「言葉を、奪われている」

「言葉を、奪われている」

 *

「おひさしぶりです。私の声、聞こえますか?」
 僕はその声を聞きながら立ちすくんでいた。次に言うべき言葉を探して。でも、どんな言葉も僕の前に現れることはなかった。まるで世界の果てに向かった惨めな旅人のように、どのような天啓も僕にもたらされることはなかったのだ。

 1

 *

 目覚めてから最初に見たものは、白いカーテンだった。僕は顔を左に向けて目が覚めたらしく、目の前には染み一つない白いひらひらがあった。なぜそうしたのか、僕自身にもわからないけれど、ほとんど反射的にその白いカーテンに手を伸ばして、横に引いた。カーテンはスムーズにレールを走った。その先には扉が見えた。白い横引き式の扉だった。たぶん五秒くらいだっただろう、ぼうとその白い扉を見ていた。すると、20センチくらい戸が開いて、小さな頭が顔を出した。小学校低学年くらいの男の子だった。彼は顔の丸い、元気そうな顔をこちらに向けて、びっくりしたような、でも笑い出しそうな、しかし恥ずかしそうな、そんな顔をして固まっていた。僕はカーテンに伸ばしたままになっていた手をそのまま、男の子に向けて小さく振ってみた。そうすると、男の子は急になにかに気がついたように振り向いて、扉の向こうに消えてしまった。誰もいなくなると、横引きの扉は自動でゆっくりと閉まった。
 そこは病室だった。
 僕は病室のベッドの上に横たわっていた。身体を起こしてあたりを確認する。僕の左手にはさっきのカーテンがあって、それを開くとサイドワゴンと見舞い用の丸椅子。ベッドの右手側には点滴器具や医療用らしい物々しい機器がいくつか置かれ、そのすぐ後ろには窓。採光の良い広い窓で、ベッドの上からでは空模様くらいしか見えなかったが、どうやら今は昼で外は快晴らしいということはわかった。ついで自分の身体を確認する。自分の目に見える範囲にとくにケガらしいケガは見当たらなかったし、両手両足を少し動かしてみても、ややだるい程度で、深刻な問題があるようには感じられなかった。点滴の刺さっていない左手で、自分の顔の周りを触ってみる。髭が伸びている。以上、それだけ。頭を触る。包帯の感触。たしかに、さっきからわずかに圧迫感があったから、その原因はこれのようだ。
 病院の消毒液のような匂い。機械のファンかなにかのジーンという音。妙に腹が減っていて、唾液の味が口の中に広がり続けている。
 つまり、頭の怪我以外は五体満足五感正常。どうしてこうなっているのかわからないけれど、それほど深刻な事態のようには思えなかった。誰かに事情を説明してもらいたいけれど、あいにくと周りに人の気配はなかった。こういうときはナースコールかなにかが近くにあるはずだろうと周りを探し、それらしき機器を見つけたところで、ちょうど病室の扉が開いた。一瞬さっきの男の子だろうかと思ったのだけれど、現れたのは女性の看護師だった。看護師は、僕になにか声を掛けたあと、足早に扉の向こうに消えてしまった。なにを言われたのだろうか? さっぱり聞き取れなかった。
 数分してからやってきたのは中年の男性医師とさっきの看護師だった。医師の方は、医者というより、舌鋒鋭い中堅の大学教員といった見た目で、鋭い目と毛根の強そうな黒髪のくせ毛が印象的な人物だった。医師はいくつかの機器をちらと確認しあと、僕になにかを言った。
「なんです?」
 と僕が訊き返すと、彼らは一様に不審な顔をこちらに向けた。そして医師は僕に顔を近づけて、耳元でゆっくりと声を出した。
「■■■」
 まったく聞き取れなかった。
「なにを言っているのですか? わかりません」
 僕もゆっくりとした口調で、日本語で訊き返した。医者は残念そうに顔をしかめて大げさに息をすうっと吸ってみせた。それから僕にはわからない言葉で、傍らの看護師になにかを話し始めた。
 この二人、見た目は僕と同じ日本人に見えるけれど、もしかして違うのかもしれない。ここは、もしかして日本ではないのかもしれない。困った僕は試しに簡単な英語で呼びかけてみたが、これも同じように怪訝な顔をされただけだった。僕の発音がよくなかったのだろうか。英会話の勉強をちゃんとしておくべきだったかもしれない。
 医者は少し僕を見て考えてから、サイドワゴンの抽斗からメモ用紙のような紙きれを一枚出して、それをサイドワゴンの天板に置くと、胸ポケットにさしていた上等そうな万年筆でさらさらとなにかを書いて、僕に見せた。それはおそらく文字だった。文字だというのはわかる。けれどまったくそれがなんの文字なのか、なんの言語で書かれたものかさえわからなかった。たんに知らない文字で書かれている、なんて話ではなく、なにか書かれたそれが意味と結びつかない。とても、気持ちが悪い。思い出せそうで思い出せない、詰まったような気持ち悪さだ。たっぷり一分ほどその紙切れとにらみ合って、僕は力なく「わかりません」と首を横に振ることしかできなかった。僕が首を横に振ったことで、それが読めなかったことを理解してくれたのだろう、医師はゆっくりと頷いてから、(口の動きを見るかぎり)丁寧に、そしておそらく親身に、僕になにかを語りかけた。
 医者は看護師になにかを言ってから部屋を出た。看護師は、僕になにかを言って、コード型のナースコールを指差した。用があればそれで呼んでくれということだろう。僕はわかったと看護師に頷いた。看護師も僕に頷いた。喜劇映画のワンシーンみたい。
 僕はひとり部屋に残された。ベッドに横になって天井を見る。白の四角いパネル材が並んだ、なんの変哲もない病室の天井だ。
 この状況は、僕にとってはそれなりに衝撃的なことのはずだった。なんせ、人とまともに言語でやりとりができないのだ。状況から察するに、どうやら僕の言語機能に問題が生じているようだ。あの医者や看護師が僕の知らない言語を使っているということではないのは、さっきのやりとりで理解できた。あの二人は、おそらく僕と同じ日本人で、ここは日本の病院だろう。たんに知的機能の障害というだけなら、僕は今このように、自分の内で考えたり、考えを言語化したりということはできないはずだ。僕に起こっている問題は、外とのやりとりにだけ適用されている。
 そういう症状がよくあるものなのか、それとも珍しいことなのか、僕にはわからない。たんに、現状としてそういうことだろうと推測をしているだけだ。
 困ったことになった。だが、不思議とあまり不安はない。この症状は一時的なものかもしれないし、言語のこと以外での問題はとりあえずなさそうだったからだ。まあ、身体も頭もいちおう動いている。なんとかなるだろう。
 僕はためしに自分の生い立ちから今までを言語化してみる。平凡な両親の元に生まれる。兄弟は姉が二人。小中高と地元の学校を進み、家を出て都市部の大学へ入学、現在大学生活の二年目。成績は中の上。友達はいないし、特定の相手もいない。つまり、凡庸で陰気なだけの人間だ。細かい、つまらないことも思い出そうと思えばできる。たとえば子どものころ読んだSF小説の登場人物はほとんどフルネームで言える。有名RPGのラスボスの行動パターンもソラで覚えている。中国歴代王朝名も、大まかになら『もしもし亀よ』の替え歌で歌ってしまえる。いんしゅうしんかんさんごくしん~……ほんっとにつまらないな。
 とりあえず、記憶機能にも問題ないことを確認したところで、さて、でもどうしてこんなことになっているんだっけ? 大きな怪我をするような出来事があっただろうか。思い出せる一番最近の記憶は、大学に出て、バイトもないから下宿に帰って、本を読んで夕飯を食べてシャワーを浴びて寝た、というだけのことだ。もしかしたら寝ている間になにかあったのかもしれない。たとえば地震が起きて頭にものが当たったとか、住んでいるアパートに車が突っ込んできたとか、知らない間になにかの病気に罹患していて、誰かが気づいて病院に運んでくれたとか。……いや、それはないな。もし僕が病気になって僕自身が動けないなら、様子を見に来るような人間はいないので、詰みだ。
 とにかく、僕が寝ている間に、なにか事故でもあったのだろう。まあ命はあったようだし、五体満足で意識も思考もなんとかなっている。僕のようなその他大勢の一になにかあったところで世界は一ミリも動かないだろうが、つまらない個人史にもちょっとした意地というものはある。生きているなら、生き続ける責任がある。
 ただ少しだけげんなりするのは、親や医療費やあれやこれやの面倒ごとが起こるはずで、できることなら、なんらかの補償や賠償が行われる事案であってほしいところだ。
 と、一通り考えたところで、僕は大きく息を吐く。実のところ、やはり不安だったのかもしれない。言葉にして、言語化して、吐息として吐き出して、それで自分をなんとか落ちつかせた、つまるところそういうことらしい。
 僕はそういう人間なのだ。なにかにつけ、言葉にして、形にすることで、なんとか人らしい形を保っていられる。それはなにも特別なことじゃない。他の人間にとっては、それが音楽だったり、スポーツだったり、飲み会だったり、SNS映えだったり、推し活だったり、なにかそういうものだったりするのだろう。――するのでしょう?
 一息ついたところで、やることもなくなり、僕は病室を見回す。なにかないかな。目についたのはさっき医者が開けたサイドワゴンの抽斗。上から開けてみる。できれば活字の印刷されたものでもあれば、暇つぶしになるんだけれど……いや、今は読めないんだっけ。と、上から二つ目の抽斗を開けたところで、僕は手鏡を見つける。備え付けのものなのか、誰かの忘れものなのか、丸い鏡に白いプラスチックの枠で、握りの部分が付いた、不格好なしゃもじのような形の、平凡な手鏡だ。僕はそれを手に取って自分の顔を映す。映そうと、なんどか角度を変えてみる。でもうまく自分の鏡像が映らない。どうやっても鏡には僕の顔以外が映る。

 それでようやく僕はこの状況の深刻さに気がつくことができた。

 鏡の中では、髭の生えた中年男性が、口を半開きにした間抜けな顔でしかめ面をつくっていた。

 *

 大学図書館というところは、大学のほとんどすべてと言っていい。どれだけ有名な教授がいようが、どれだけ就職率が高かろうが、どれだけ資格その他の課程が充実していようが、図書館がクソならその大学はクソだ。
 幸いなことに、俺の平凡な成績でも入学できる本学は、比較的まともな部類の大学図書館を所有している。学術書も一般書も小説も読めるし、いくらかの映像作品も閲覧することができる。今どき文学部なんてヤクザな学部を有している本学の矜持を、その図書館の蔵書から垣間見える。ぜひその蛮勇を未来永劫大切にしてほしい。
 そんなわけで、俺は今、書庫の奥に座り込んで活字を追っている。べつに、特別本を読むのが好きな人間だ、というわけではない。ただ活字を読むのが苦にはならないタチで、講義の空き時間にやることといえばこれくらいしかないだけ。乾燥して鼻の奥がむず痒い以外、書庫の奥というのは理想的な環境だ。なんせ滅多に人が来ない。大学特有の、面倒な、あの、なんていうか、ショウライとかトモダチとかシカクとかタンイとかなんだろう、そういうやつが目につかなくなるのは、精神衛生上ヒジョーに好ましい、と俺は思う。もちろん個人的な意見だ。
 自分の端末をちらと確認すると、次の講義まであと20分。今読んでいる節の残りくらいは読んでしまえるだろう。キリがいいところまで読まないと、読み直すときに頭に入れにくい。端末の時刻表示から再び活字に目を落としたところで、
「ハシさん」
 知った声がして俺は本から視線をあげる。無地の黒いハットと縁の厚い黒メガネの不審者然とした男が、そのすらりとした長身から、不思議そうに俺を見下ろしていた。見知った顔の後輩だ。見れば、帽子と眼鏡どころか、上着もズボンもあいかわらずの黒一色という出で立ち。そのおかしな恰好を剥いでやれば、ちょっとばかり人目を惹くくらいの美男子なのだが、そういう話題を本人は嫌がって、こんな不器用な格好をしているらしい。
 それと、その男の後ろに女が一人。小柄で、長身の男の背に隠れるように、というか男を盾にするように、俺を覗いている。まるで獰猛なタヌキをおっかなオモシロ見るような目で。女は、男とは対照的にまっ白い半袖のカッターシャツに紺色のネクタイという格好で、首から上に飾りっ気はない。それどころか、化粧もほとんどしていないようだ。短い黒髪もあいまって、どこか少年のようにも見える。これも知っている後輩。
 だいたいいつもセットになっている白黒後輩二人組が、なんの用だか、ノコノコと書庫の奥までやってきた。こんなところで読書や勉強に励むような二人ではないことを、俺はよく知っている。
「なに読んでるんです?」
 男の方がそう俺に訊ねた。それが俺に対する用件というわけでもないのだろうが、俺は律儀に答えてやる。
「レヴィ=ストロース」
 後輩の男は、『知らない』と『聞いたことはある』の中間あたりの、困ったような顔をして、
「おもしろいです?」
 と聞いてきた。
「わからない。正直内容の四分の一も頭に入らない」
 その四分の一も以前読んだ入門書の受け売りだ。
「ハシさん、哲学科でしたっけ?」
「俺は哲学科じゃないし、クロード・レヴィ=ストロースは文化人類学者で、どちらかといえば哲学より現代思想の範囲だ」
「それってどう違うんです?」
「ピザとお好み焼きくらい違う」
「わかったような、わからないような」
 俺は本を閉じる。こいつらが来たらもう本なんて読めないだろう。
「で、なんの用だ。読書なら、今の時間ラウンジ近くの軽読書棚のソファがおすすめだぞ」
「ハシさんを探しに来たんですよ」
「俺に用とは、君らもしかして暇か」
「暇ですよ……ハシさん、話逸らそうとしないで」
「うん」
 俺は素直にそう返事をした。今のは俺が悪かった。
「山口さんと言い合いになったって聞きました」
 俺は「ハシさん」呼びで、俺と同じ三回生の山口はちゃんと「山口さん」なんだな、と混ぜっ返したくなるのをぐっとこらえて、
「言い合いってほどじゃない。たわいもない学生同士の意見のぶつけ合いだ。若気の至りだ。十代しゃべり場だ」
 そう一口に言うと、長身の黒い男が、子どもに慣れていない学生が幼児を前にしたような、困った表情を作って、「えーっと」と口にした。
「もしかして、僕が発端ですか?」
「きっかけは君のレポートだが、そこからやり合いになったのは、俺と山口の問題だ」
「でも」と黒い男――島井裕次郎は言った。「僕がいないところで、僕のレポートの議論をするのは、その『フェアじゃない』と思うんです」
「フェア……フェアネス、公平さ、あるいは公正さに欠けると、君は思うわけだ」
「はい」
 厳かに、不吉な予言を言いにくそうに口にする予言者のように、島井はそう言った。
「わかった。じゃあ、ちょっと頭から整理しよう」
 下手な教師のように俺はそう言う。正直、こういう役は向いてないと自分でも思うのだけれど、この二人の前ではなぜかいつもこんな風になってしまう。
「君のレポートは、手短に要約すると『マイノリティの権利の擁護』ということになる」
 それはとある講義の課題だった。社会的な問題に対して調査し、レポートをまとめ、グループ発表を行う、そういうタイプの。俺と島井と山口は、その講義の同じグループに参加していた。俺と山口は以前から知り合いだったが、島井とはそこで出会った。
「はい」
 と島井は静かに首を縦に振った。
「とくに例として出していた。トランスジェンダーと公共のトイレの問題。あれはとても良かった」
「ありがとうございます」
 島井の後ろで白い女の方が「トイレ?」と面白そうに口にした。余計な茶々を入れられないうちに俺は話を続けた。
「当事者には切実な問題だ。だが一方で、トランスジェンダーを騙る行為を防げないのではないか、という指摘が根強く、社会的な合意形成に至れていないのが現状だ。ここまではいいかな?」
「はい、そういうことだと思います。要約すれば」
「まあ、そう、要約すれば、だ。人の文章をこうやって単純化するのはあまりよくないとは思うのだけれど、すまない、今はそこが焦点じゃないから」
「はい」
「それで、君の意見としては、それでも当事者――つまりトランスジェンダーの利便性を重視すべきだ、ということになる。方法としてはユニセックストイレの増設や社会規範の定着を目指す、そういうことが、外国の例を引いて示されている。いいかな?」
「はい。だいじょうぶです」
「それで山口は至極感心して全体的に賛意を示した。このレポートをグループ発表のメインにしてもいいんじゃないか、って。俺も概ね賛成だ」
「はい――概ね」
「回りくどい」
 後ろの女が容赦なく指摘するが、俺はペースを崩さずに続ける。
「そこに、俺が少し物言いをつけた。山口は気に食わなかった。それで少しばかりエスカレートしてしまった。以上。じゃだめかな?」
「ハシさん」
 普段は物腰柔らかな男が、似合わない低い声を懸命に出している。
「詳しく」と島井は低く続けた。
「はい」と俺は素直に返事をした。まるで小学校二年生の優等生のように。「君がレポートで示した展望というのは、端的に言えば現状の継続だ。もっと言えば優等生的な回答だ。でも、その現状にこそ賛否両論があるという現実を無視している」
「それは、その無視というか……すみません」
「それに人間の規範意識だけで社会を変容させるのは難しい。いや、むしろそれは逆なんだ。社会の仕組みや発明が、人の規範を変容させる。まず『お気持ち』ありきで問題を解決しようとするのは、優等生作文の悪癖だな」
「それは、あのお気持ちというか……あの……」
 口ごもった島井をたっぷり30秒間待ってから、俺は続ける。
「ついでに言えば、この手のマイノリティへの差別、偏見、社会的不利の問題は、そのマイノリティ自身が現体制側に適応してしまう問題もある。権利を主張することで睨まれたくないとか、自分が社会的に相応な暮らしさえできていれば公平や公正は二の次とか、ね。場合によっては被差別者がさらに下位の差別構造の上位に立とうとすることさえある。君が示した展望の障害として、マイノリティの当人が立ちはだかったとき、君の意見は彼らにどれだけの説得力をもてるだろうか」
 俺がやや早口に言ってしまうと、島井はすっかり黙り込んでしまった。『それでも』と口にしたいのに、口にしたら先が続かないのがわかっている、そういう顔だ。
 もちろん、俺が今述べた意見は別に正論でも正解でもない。学部生程度の私見なんぞいくらでも反論する方法はあるのだけれど、大学に入って日の浅い彼には、まだそのための技術も知識も足りていなかった。
「じゃあハシさんとしては、どういう風に結論づけたらいいと思うんですか?」
 俺は島井の質問に小さく頷く。もちろん、そう来るだろう。「批判をするなら代案を」というのは、我々現代の学生が幼少期から刷り込まれている反射的な反論法だ。
「新しい公共トイレの設計の『発明』だよ。限られた空間で必要なプライバシーが守られ、社会に当たり前に受け入れられるような、そういうトイレの作り方」
「それは、でも、そうですけど、僕らじゃ無理ですよね。僕たち建築家でもトイレメーカーでもないんだから」
「そりゃそうさ。でも問題に誠実に答えるなら、そういうこと。要は専門家の試行錯誤。人類はそうやって発展してきた。まあ、教育機関の課題に対する答えとしては赤点もいいところだけどね。山口にも同じことを言われたよ」
 島井は、「はあ」と「ふう」の中間あたりで、長く深く、息を吐いた。「それが山口さんとのけんかの理由ですか?」
「ちょっと違う。けっきょくのところ、人は話題の内容ですれ違ったり衝突したりするわけじゃない。話題の『話され方』でぶつかるんだ」
「よく、わかりません」
「どうも山口には、俺の反論が性的マイノリティ全体への否定的な意見としてとられたらしい。いや、よくわからないのだけれど、なにかテンプレートな差別主義的冷笑家のようなものとして見られている、のかな。ほんと、俺もよくわからないのだけど。ただ山口からはある種の誤解を受けていると、俺の方は思っている」
「誤解なら、解いたらいいんじゃないですか」
「無理だろう。あいつは俺を教授する側から訂正したいらしい。俺はそれが気に食わないので、はっきりと言ってしまったからな」
「なんて?」
「『自分が相手と同じ立場だと認めて、相手の話を聞いてから言葉のやりとりをしろ。相手を対等の他者として認めないのなら、俺もおまえを対等な存在とは認めない。これは人として当然の行いだ』」
「ハシさん」
「呆れてくれて構わない。気に食わないことにあまり我慢しないタチでね。あいつも優等生だから、大学来るまであまり人に面と向かって反論されたことがなかったんだろう。それきりだ。ふん、クソだな! トイレだけに!」
 思い出すと腹が立ってきた。立ち上がって、もたれていた書庫の壁をグーの底で強く叩く。じんと痛むが、その痛みはたいそう俺の気持ちに沿っていた。
「はっさん」
 今まで静観していた後輩の白い方――佐藤はじめがそう言った。その言葉が「ハシさん」から音が脱落した、俺に対する呼びかけだと気づくのに三秒かかった。佐藤の方は三秒の間を置いてから、
「図書館では静かにしよう」
 と淡々とそう述べた。まるで、8×8×100センチの鉄の直方体の先端をゆっくりと俺に向けて押し出したような、まあ、そういう正論だった。俺は、その正論に押されるように、壁に背を預けてゆっくりと元の形に座り込んだ。「アラビア人みたいな呼び方をするな」
 それが佐藤に向けての精いっぱいの反論だった。
「だって、『ハシサン』って言いにくい」
 ためしに口の中で「ハシサン」と言ってみる。たしかに言いにくい。なんでだ? 摩擦音が連続するからか? いや「シサン」なら脱落しないから語頭のハ行音から促音便化していると考えるべきか……くそ、今すぐには説明できない。
「はっさん」
 座り込んだ俺を見下ろして佐藤がもう一度その名前で呼んだ。幾分の憐れみが込められているような気がする。たとえば、よく晴れた日に道で干からびて死に体になっているコウガイビルを見たときのような。
「その『ハッサン』って、某有名ゲームのモヒカンマッチョの名前だからな」
「知らない」
 手元の端末で検索して画像を見せてやる。
 佐藤は目を見開いて画像を見つめたあと、くるりと反対を向いて屈みこんだ。それから口を押えて音が出ないように……爆笑してやがる。こいつ。くそが。島井も苦笑いしているが、それはどちらかといえば「僕はさすがに笑っちゃまずいよな」という、堪え笑いに限りなく近い苦笑だった。
 ひとしきり笑い終わった佐藤は、口の端に唾液をつけたまま何事もなかったような顔を作って、
「ねえ、はっさん。公平さと公正さってどう違うの?」
 と宣った。
 俺は人差し指を佐藤に向けて、それから自分の口の端を軽く二回手で叩いた。佐藤は二秒間「はて?」という顔を作ったあと、いそいそときれいな白いシャツの袖で口を拭った。その間に俺は間に合わせの説明を考える。うん、これでいけるだろう。
「あー、たとえば、君にだけ飴玉一つ、他のみんなには二つあげよう。これは?」
「不公平」
「そう。でも『不公正』とか『公正ではない』とは言わない。じゃあ次に、『ゲームをして勝った方に飴玉を二つあげる』と言って、君が勝った時だけ飴玉が一つしかもらえないとしたら」
「公正じゃない」
 俺は頷く。佐藤も頷く。
「公平さは利益について使う言葉で、公正さはルールについて使う言葉だ」「へえ」
「というのを、今考えた」
「なあんだ。はっさんの思いつきか」
「でもそういう風に説明はできると思う」
「ハシさんっていつもそんな風にいろんなことを、なんていうか『説明』してるんですか」
 感心と呆れの谷間に音を通すように、島井がそう言った。
「ときどき暇なときに人に説明できるように考えたりはする。たとえば、こういうことを小さな子どもに説明するにはどうしたらいいか、とか、他の言語で説明するにはどうしたらいいか、とかね。でもそれは人に説明するためというより、自分の疑問を解決するために、説明という言語化をしてるだけだ」
「わかるような、わからないような」
「私は、さっぱりわからん。なんでそんなことしてるの?」
 なんで? ああ、それは、えーっと。俺はいつものように頭の中で言葉をこねくり回して説明を考える。けれど、そいつはいつまで経っても形にならない。だいたいいつもそうなのだ。自分のことを一部でも説明しようとすると、うまく言葉にならない。あと三秒もすれば、島井と佐藤が不審そうに俺を覗き込むだろうというそのタイミングで、仕方なしに口を開く。
「あえていうなら、『自分の心を探している』というやつだよ」
「ん?」
「なんのセリフです? それ」
「忘れたよ」

  * 
 
 あっという間に夜が来た。明かりの落ちた病室のベッドの中で、僕は眠れないまま視点を天井に向けていた。
 目覚めてからの数時間は、ほとんど検査と問診に費やされた。いくつもの機械を通され、採血に採尿……このあたりは身振りと知識だけでも自分になにが求められ、なにをすべきなのか、ある程度の見当はつけられた。しかし、問診に至っては、どうしようもない。言葉の問題について以外のなにも、医者に伝えられなかった、ように思う。伝わったかどうかの確認さえ、今の僕にははっきりとはわからない。医者はいくつかのレントゲンを見せてくれたが、それがなにを意味するのか、医学の知識のない僕にはさっぱりわからなかった。
 その日は医者と看護師と職員以外の誰とも出会うことはなかった。誰か身内が様子を見に来るということもなかった。知っている人間に会えば少しは現状を把握できるかと思ったのだけれど、検査以外はほとんど元の病室に寝かされるだけ。
 一度食事が運ばれてきたけれど、もちろんろくに食べられなかった。食欲がないわけでもないけれど、精神の方がかなり弱っている。この調子じゃまともに眠れるかもわからない。とにかく情報が欲しい。だがなにもない。人も来ないし活字もない。それを伝えるすべもわからない。食事が運ばれてきたときに、職員に身振りで読むものが欲しいと伝えてみたのだけれど、不思議な顔で首を傾げられたあと、それは私の仕事ではないという風に首を横に振られた。
 これはいったいどういうことだろう。
 あの鏡に映った人間が自分だとして、そんなに長期間昏睡状態にあったということだろうか。いや、それはない。もしそうなら、筋肉の衰えた身体をろくに動かせないはずだ。少なくともこの体はつい最近まで動いていた。ならばたとえば、突飛な考えだけれど、自分の意識が知らない人間の身体に乗り移った、とか。いや、それはさすがに、非科学的だし、理由も理屈もない。そんな空想に逃げる前に、やはり認めなくてはならないのだ。あの鏡に映った男は、まぎれもなく僕自身だ。少しばかり顔が変わっていても、それが歳を取っただけの自分だというのは、わかったはずだ。つまり、これは、あの、いわゆる……
「あなたのそれは『記憶喪失』ではないのです」
 夜の病室に、声がした。僕は自分の病床の照明のスイッチを押した。声は僕の動きにかまわず続いた。
「もちろん、別の人間に乗り移ったとか、タイムリープで未来に飛んだとか、そういうことでもありません。これはもっと『現実的』なことなのです」
 聞き覚えがあるような気もするけれど、でもやっぱり聞いたことがない声で、おそらく成年以上の男性の声だ。妙に丁寧だけれど、それがわざとらしくて、演技の下手なアナウンサーのよう。なにより、それはちゃんと『言葉』だった。
 そいつは僕のいるベッドの右側、つまり窓のある側を背にして、そこにいた。緑色の体皮、クリームの色の腹、黒くて丸くてどこを見ているのかわからない眼玉、口を上下させながら、桃色の口内を見せている。
 つまり、それはカエル――ではなく、カエルを模したパペット人形だった。布地でできた、綿の詰まった、下から手を入れて動かす、手ごろな値段で買える、20センチくらいの子どものおもちゃが、僕に向かって、口をパクパクと動かしていた。僕はなにも言えず、そいつとにらみ合っていた。
「あなたから奪われたのは記憶ではなくて、言葉の方なのです」
 と、そのカエルのパペットは言った。言ったのだ。言葉を使って、そう、言ったのだ。
「言うなれば『言葉喪失』。そういう言葉が存在するのか拙は知りませんが、あえていうならば、そういうものです。ご理解できますでしょうか?」
 現実的な受け答えをすべきだとわかってはいた。たとえば、「人形は勝手に動かない」とか「誰かこの部屋にいるのか」とか。けれど、最初に出てきた言葉は、
「『言葉喪失』?」
 知らない言葉に対する疑問だった。
「はい、『言葉喪失』。『言語喪失』でもなければ『言語障害』でも『失語症』でもありません。もちろん『カエルくん好き好き症候群』でもございません」
 めちゃくちゃな敬語で、しかしさわやかに、まるでモンゴルの草原を颯爽と無限軌道で走り去るバケットホイールエスカベーターのように、カエルのパペットは語る。……なんだ? バケットホイールなんちゃらって。
「あなたが積み上げた20年間の言葉が、すっかり奪われてしまったのです」
 それがどうやら決め台詞かなにかだったようで、カエルはなにも言葉を継がず、病室には20秒間の沈黙が流れた。
「あー、うん、で、君は? 君は、なんなのかな?」
 目の前のカエルのパペット人形は、表情はいたってつぶらな間抜けヅラのまま、至極残念そうに俯いた。
「それはたとえ記憶も言葉もなくしたとしても、わかってほしいですね。見てわかりませんでしょうか。それとも救いようのない節穴アイズをお持ちの方なのでしょうか? それは、もしそうなら、私には救えぬものです」
「いや、あ、うん。でも、できれば説明してほしい」
「『カエルくん』ですよ。『カエルくん』。子どもに大人気の。さすがに常識レベルの知識でしょうに。拙者失望」
「いや、だって、僕は、ほら、記憶喪失? みたいなことになってるのだし」
「チ、チ、チ」
 とカエルは器用に両手(パペットによくある小指と親指で動かす、あの箇所だ)を左右に動かして、
「コトバ・ソウシツ。どーゆーあんだーすたん?」
「あー、うん、そう、その『言葉喪失』、です。はい。だから、その有名、らしい『カエルくん』のことを知らなくても仕方ないんじゃないかな?」
「自分で言ってりゃ世話ないでござる」
「……はい、ごめんなさい」
 ひどく敗北した気持ちのまま、僕はなんとかこの茶番に終止符を打つための算段を頭の中で組み立てる。
「君は『カエルくん』」
「はい」
「どうしてカエルのパペットが動いているのか、とか、誰が君を動かしているのか、とか。そういうことを訊いても?」
「訊いても答えられません。拙は『カエルくん』。それ以上のことは説明できません。以上」
「了解」
 そう言って僕はためしにカエルのパペットをわしづかみにしてみる。手のひらにはやや硬めのフェルト地の感触が伝わった。
「まあいい。君の中身がなんなのかは、たぶんそれほど重要じゃない」
「中の人などいないというのが、昔からの決まり、人類との約束でございます」
 僕はカエルくんの言を無視して続ける。
「重要なのは、僕には君の言葉がわかり、君には僕の言葉がわかる、ということだ。君は『言葉喪失』と言ったけれど、僕がこうなった理由を君はなにか知ってるんじゃないか? そう、さっき君は『奪われた』と言った」
「言いました。直近の記憶力だけは通常レベルで残っていらっしゃるの、重畳重畳」
「奪われたということは、奪った『何者か』がいるということだね?」
「通常の知性があれば、いちいち確認の必要もないと思いますが、ええその通り、あなたの言葉を奪った存在がおりまする」
「それは?」
 自称カエルくんは僕が促すのを無視して、僕の腹のあたりをテクテクと脚のない体で横切った。
「こちらです」
 それから、ひょいと器用にベッドから飛び下りて、首をくいと動かし、僕を見てから、扉を見た。ついてくるように促す動作だろう。単純なおもちゃの、不格好な動きだが、なんとなく読みとることはできる。さて、どうしたものか。このおかしな人形についていくべきか。それとも夢(だろう?)なんだからさっさと寝直してしまうべきか。いや、夢の中で寝直すというのもおかしいな。どう言えばいいかな。
 僕が少しの間逡巡したせいだろう。カエルくんはかわいらしいプラスチックの黒目をこちらに向ける。
「ご案内しますよ。迷子にならないようについてきてください。それとも歩き方も覚えていらっしゃらない、とか?」
「だいじょうぶ、です」
 僕はベッドから下り、カエルくんに従うことにした。ベッドで独り悶々とするよりは、カエルのパペットを追いかける方が、少しばかりマシなはずだろう。どうだろう?
 古代の石材を引くように重い引き戸を開けると、そこは病院の廊下だった。なんの変哲もない、クリーム色のリノリウム床の廊下だ。常夜灯があるおかげで、薄暗いけれど周囲が見えないほどじゃない。きっとどこかに夜勤の職員がいると思うのだけれど、あいにくとまだ病院の配置図までは覚えていない。見つかれば咎められるかもしれない。ダン、と僕の後ろでゴムパッキンが低い音を立てて戸が自動的に閉まった。
「こっちです」
 カエルくんは病室の左手の床にちょこりんと立っていた。足もないパペット人形なのに、器用なものだ。ふっ、と鼻で笑ったような音を出して(いったいどこから出してるんだか)、カエルくんは僕を背にして廊下を歩き出す。僕は、カエルくんの後ろについていく。
 廊下は薄暗いが、冷たくはない。この病院は空調がちゃんと行き届いているのだ。おかげで今の季節もわからない。寒すぎもせず、暑すぎもしないなら、きっと春か秋なのだろう。あるいは僕の記憶が飛んでいる間に地球の地軸の傾きが変わって、季節なんてなくなってしまったのかもしれない。
 数メートル廊下を進んだところで
「リノリウム」
 と試しに口に出してみた。
「なんです?」
 カエルくんは怪訝そうな表情――はしていないけれど、そんな風な顔をしたそうな無表情で僕を振り返った。
「リノリウム、って言ったんだ」
「はあ、リノリウム。亜麻仁油などから作る天然素材の建材で、医療機関や教育機関の床材としてよく使用される。由来はラテン語の亜麻――linumと油――oleumの合成語だとか。それが?」
 さらりとカエルくんが言ってのける。
「詳しいね」
「一般常識の範囲です」
 最近の常識は僕が知るより広範囲に渡るらしい。
「言ってみただけさ。床を見て、リノリウムかなと思って、口にしてみただけ」
「さよか」
 馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりの調子で、くるりとカエルくんは向きを変え、また歩き始めた。無知な僕は居たたまれない気持ちのまま、カエルくんの後ろをついていく。
 カエルくんはすたすたと、まるで擬音語をリノリウム床に落としていくように、病院の廊下を歩いていく。不思議なことに誰とも会わない。ナースセンターには夜勤の看護師が詰めているだろうけれど、どうやらそちらの方向には向かっていないらしく、僕らは誰に見咎められることもなく、病院の廊下をただ無言で進み続ける。いや、そもそも、なにかおかしい。なぜこんなに歩いているのだろう。病院の入院病棟のフロアというのは、こんなにも広いものなのだろうか。いったい何分歩き続けているのだろう。そういえば、角は何回曲がった? たぶん四回。右左右右。なぜそんな経路で歩く? 目的地までまっすぐ歩けばいいだろう。そもそも、どこに向かってるんだ? もし外に向かっているならさすがにまずい。おい、カエルくん、と僕が口にしようとしたタイミングで、
「あそこです」
 カエルくんは、廊下の奥を向いたまま止まった。カエルくんの視線の先には、廊下の行き止まり、非常口のライトが点灯する階段の入り口が見えた。ざっと10メートル先だ。廊下の左側は採光用の窓が並んでいて、深夜の街の明かりがまるで薄い煙のように病院の中に滲み込んできていた。それに天井の常夜灯が階段までの床をぽつぽつと照らしているせいで、薄暗くはあるが、周囲の様子ははっきりと把握できた。
 だというのに、僕には、廊下の奥にいる「それ」がなにかわからなかった。
 それは言葉にできない。輪郭のない、黒い霧のようにも見えるし、木の幹のような太さの触手が幾重にもかさなりあっているようにも見えるし、そこにだけうすぼんやりとした油が浮いているようにも見える。じっと見つめるとなにかの形のようなものが見えてくる気もするけれど、二秒後にはまったく違う形であったように見えてしまう。まるで、子どものころに飽きるほど眺めた板材の模様や夕方の雲のように。色は黒っぽく見えるけれど、それはただたんに周りが薄暗く、今が深夜だからそう感じるだけかもしれない。
 つまるところ「それ」はなにでもなかった。
「カエルくん」
「なんでござーましょーう?」
「あれが、僕から言葉を奪ったものなのか?」
「通常レベルの思考能力をお持ちなら――以下省略でござい」
「ふむ」
 薄暗い深夜の病院、人気はなく、意味のわからないものが一匹――いや二匹。そんな状況なのに、不思議と恐怖はない。怪異というには怪しさが半歩足りず、幽鬼というには恐ろしさが三歩足りない。せいぜい、詰まった配管の中から出てきた虫、といった程度。恐怖なら、自分の現状の方がよっぽどの恐怖だ。今さら夢だかなんだかに魑魅魍魎が出てきたところでいかほどのことがあるだろうか。
 僕が一歩だけ前に踏み出すと、蠢く靄のようなそれは、威嚇するように少しだけ蠢いた。
 蠢く? 空気の中の模様の動きが少しはやくなっただけだ。雲の流れがわずかに加速しただけだ。そんなものなにを恐れる必要がある?
 もう一歩踏み入れると、そいつは拒絶するように、靄の動きを後退させた。
 おまえ、もしかして、俺が怖いのか?
「ところでカエルくん」
「なんでぃごぜえますか?」
「刃物かなにか持ってる?」
「わたくしめはお持ちしておりません」
「そっか」
「ですが」
 とカエルくんは僕の方を振り向いて、僕の右腕をその短い腕のようなもので指し示した。
「刃物なら、ずっとあなたがお持ちじゃあ、ありませんか?」
 カエルくんに言われて、ぐっと右手を握る。たしかに、僕はなにかを握っている。妙に手に馴染む、堅い棒状のもの。見ると、それはナイフだった。刃渡り10センチ程度……いや9.8センチ、フルタング、柄は木製、特注ではなく、よくある量産品だ。
 僕は抜き身のナイフの柄をずっと握っていたのだ。病院の中、真夜中に、ナイフを握っている。それは異常なことのはずなのに、どうしてか僕には見慣れた光景のように思えた。自然に、当たり前に、まるで料理人が包丁を握っているように、ナイフは僕の手にあった。柄を握り、その重量を感じるだけで、重心の位置がよくわかる。
 僕は一歩進む。カエルくんはなにも言わない。二歩進む。三歩。僕は前に立つカエルくんの脇を通り過ぎる。「それ」は、ぶわっと、膨らむように蠢いたが、僕が四歩目を進めると、空気の抜けたビニール袋のようにしぼんでしまった。五歩目。もう「それ」は動かない。絵本の中のいじけた幽霊のように、非常口の前で縮こまっている。情けない。みすぼらしい。弱っちい。こんなもの。こんなものが、僕の言葉を奪っていったというのか?
 もう歩数を数えるのもやめて、僕は無造作に「それ」に近づいていく。「それ」は蠢きもせず、ただ僕が近づいてくるのを世界の隅っこで無気力に待っている。僕は「それ」の目の前に立つ。あとは軽く一振り、このナイフを振るってしまえば、そうすれば、それでしまいだ。もし、そのまえになにか言うことがあるのなら聞いてやる。僕はナイフを順手に持って、高く振り上げる。「それ」は為す術もなく、僕のナイフを待っている。もういい。僕は力を込めてナイフを振り下ろす、と――

『おれを、みろ』

 ……。

 僕は「それ」があったあたりの空間をじっと見つめていた。すでに靄のような霧のような、黒っぽい「それ」はなく、僕の前には、リノリウムの床と、どこに続いているのかも知らない非常口だけがあった。
「見事な腕前です」
 僕の後ろでカエルくんが言った。カエルくんにしては、素直に誉めているように聞こえた。
「中東の暗殺教団もかくやという手管。感服いたしました」
 僕はただ無造作にナイフを振るっていただけだ。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「もしやアサッシンとして活躍されたご経験でも?」
 知るかそんなこと。だがもし本当に、僕がどこかでヒットマンだか暗殺稼業だかやっていたのだとしても、今の僕は――
「忘れたよ」
「そうでした。お忘れなのでした。失念失念、お忘れなのをお忘れでした。失敗失敗。それにしても、あーた、まあおひどいお顔でございます」
 僕は両手でごしごしと洗うように顔をこすって、一度深く息を吸い込んだ。
「ところでカエルくん」
「なんですね?」
「これで、どうなるんだい? あれが僕の言葉を奪ったっていうなら、殺してしまえば僕の言葉は戻ってくるのかい?」
「さて、それは、どうでしょうかい」
「おいおい」
「あなたがなにか言葉を思い出したり、記憶を思い出したりしたとして、それがわたくしにわかりますでしょうか?」
「そりゃそうだ」
「ところで、なにか言葉を思い出しましたか?」
 カエルくんに言われて、僕は自分の頭の中をぐりぐりとこねるように探ってみる。あー、うー、ぐりぐり、ぐねぐね、こねりこねり。
「『マンホール』」
「なんです?」
「だから、『マンホール』」
「道路にある、下水などの蓋、ですね。ちなみにマンホールがなぜ丸いかについての問題は、もはやミーム化しておりますので、小学生でも答えを知っています」
「それ。その『マンホール』。僕、今それをちゃんと言えてるんじゃないか?」
「ふーむ。それはちょっと拙者にはわかりかねます。明日の朝、確認してみればいいんじゃないでしょうか。お医者様とか見舞いのご家族に、『マンホール』と口に出して」
 僕はその楽しげな朝の様子を頭の中に思い描いてみる。気持ち良く晴れた日の朝。木々が葉を揺らし、メジロがさえずる。今まで眠っていた家族が目覚めて、感動の再会。第一声は、『マンホール』。
「入院が長引きそうだな」
「さようで」

 *

「こえ、こえ、なに?」
「これ? これはねえ『マンホール』」
「マンホ(ル)?」
「そう『マンホール』。この下は下水になってるんだ」
「マンホ?」
「そう」
「こえ?」
「ああ、それは〇〇市。市の管轄だからね」
「?」
「マンホール」
「マンホ(ル)!」
「そう。いつもみーちゃんが練習してるトイレは、ここにつながってるんだ」
「? トイレ?」
「そうトイレ。トイレの出口」
「トイレ、ちぁう」
「でも、そろそろトイレ行っとこうか」
「ちぁうのー」
「みーちゃん、トイレ嫌いだなぁ」

 2

 *

 妥協というのは、人類が生み出した様々な智慧のなかでも、最上位の発明だと俺は思う。もっと良いものがあり、もっと良い選択があり、もっと良い場所があったとしても、すべての人を常に最良で満たすことはできない。衝突に折り合いをつけ、妥協案を見出し、妥協策を講じる。そのようにして、公共の福祉は維持され得る。それはまるで、もっとも安定した形である円形を諦めて六角形を敷き詰めたハニカム構造のように……俺はまたろくに調べもしないでテキトーなことを言っている。
 とどのつまり、俺が今図書館棟入り口の脇にあるベンチに座って、読みもしない文庫本を開いているのは、妥協以外のなにものでもないのだ。学期末の課題に追われる学生たちが、いつもは寄りつきもしない書庫の奥までレポートのネタを探しにやってくるせいで、哀れな原住民は移住を余儀なくされたのだ。アステカの凋落、まつろわぬ民、なんかそんな感じのやつだ……俺はいつもテキトーなことを言っている。
 図書館前のベンチは基本的に不人気だ。近くには学内カフェもあるし、テーブルとイスがセットになった、洒落たウッドデッキスペースもある。図書館棟と植木の間の日陰に置かれたベンチは、落ち葉が溜まるし、羽虫も多い。塗装は剥げかかっているし、金具の錆びが刃傷沙汰のあとみたいな染みを作っているし、座るとその錆びがズボンに少しついてしまうし。座っているだけで日陰者か変質者に成れる素敵なパワースポット、それがここ。
 図書館前は広い中庭になっていて、その中庭を囲むように各校舎が配置されている。おかげでここからは学生たちの移動がよく見える。講義が終わると次の教室へ、次の校舎へ、学生たちは移動していく。とても器用に、あるいは不器用に、まるで飛び石を蹴って跳ぶ河原の少年たちのように。いや、もちろん、時間が来れば俺も彼らのうちの一人になるわけで、あまりこういう客観を装った物言いはよくないな。さて、どういう風に言ったものかな。
「ハシさん」
 無意味な説明ごっこの沼に沈み込む前に、その声に引き戻された。
「ハシさん」
 と島井はもう一度言った。俺の反応が鈍かったせいで、聞こえていないと思ったのだろう。
「よう」
 と俺が言うと、相変わらず不格好な黒一色の男は、軽く落ち葉を払いのけて、俺の隣にゆっくりと座った。こいつは座るときすら品がある。俳優のような、実に流麗な動作だった。ただ、島井の格好とこの場所のせいで、マフィアの取引現場みたいに見えてしまうのが玉に瑕だが。
「君一人か。相方がいないのは珍しいな」
「アイカタ? 佐藤さんのことです?」
「うん」
「べつにいつも一緒にいるわけじゃないですよ。いくつか講義が一緒で、講義のあと話し込むことが多いってだけで」
「そうなのか」
「あ、いちおう誤解がないように言っておくと、佐藤さんとはそういうのじゃ――」
「ああ、それは見てればわかる」
 島井が気恥ずかしそうに説明しようとするのに、俺は言葉をかぶせた。そういう少年たちがするようなからかいに対する心配は、俺には無用だ、とたぶん島井には伝わるだろう。
 この二人の関係は、仲の良い兄妹か、気の置けない友人、あるいは山で迷って互いに肩を寄せ合う哀れな遭難者のような、つまりお互いがお互いの脅威にならない関係なのだろう。俺はそう理解していた。
 俺はとくに興味のある話でもないので、ずっと手に持っていた文庫本に目を落として、二行読んで、やめた。気が乗らない。閉じる。
 島井は俺が持つ文庫本を不思議そうに見つめて、
「小説ですよね、それ」
「ああ」
 俺が生まれたころに出版された、何世代か前の小説だった。
「ハシさんでもそういうの読むんですね」
「活字にあまりえり好みはしないタチでね」
「他にはどんなの読んでるんです?」
 俺は最近読んだいくつかの本の題名を挙げる。大学の生協に行けばいくらでも置いている、古典的でメジャーな本ばかりだ。しかもとくにジャンルに一貫性はない。
「本好きなんですね」
「いや、ぜんぜん」
「?」
「他にすることがないだけだよ。まじめな学生じゃないから、俺は」
 島井は「はぁ」と小さく唸って、なにかまずいことでも言ったかなという風に、居心地悪そうに俯いた。邪険にしたつもりはないけれど、こっちが申し訳なくなる。
「ただの暇人さ」
 ささやかなフォローのつもりで言ってみたが、冗談にしてもつまらない。「三年でしょう? 就活どうするんですか?」とでも彼らのようにつっこんでくれればいいと投げただけの、言葉の端切れだけれど、島井は笑いもせずに、興味深い授業でも聞いたかのように俺に別のことを訊ねた。
「それだけ色々読んでるなら、自分でなにか書いたりしないんですか?」
「自分で、なにか」
「小説とか」
 想定外の質問だった。さて、どういう風に答えたものかな。
「文学は人に寄り添うもの」
 俺は一言そう言った。
 島井は謎解きの答えを待つ楽し気な助手役のように、俺を覗き込んだ。「俺のような人間には無理だな」
 つまらないオチだった。
 島井は少しの逡巡のあと、
「もったいなくないですか?」
 と言った。
「もったいない?」
 その単語があまりに場違いなので、反射的に訊き返し、訊き返したあと気がついた。こいつは今『もったいない』と言ったのか、と。
「だって、ハシさん頭いいじゃないですか。いろいろできるし、いろいろ知ってる。どうしてこの大学にいるのか不思議ですよ。言っちゃ悪いけど、ここみたいな中堅どころじゃなくても行けるところあったでしょ」
「島井、君は……」
 なにか言わなくてはいけないと、俺は言葉を続けたが、その先は出てこなかった。なにかここには、どうしようもない誤解や誤認、不幸な勘違いがあるらしかった。でもそれをどのように説明したらよいのか、俺にはわからなかった。考えた。考えたけれど、けっきょく話の流れをべつに持っていくくらいの、せこい誤魔化ししかできなかった。
「山口になにか言われたか?」
「山口先輩? いいえ。なんです、急に」
「前に山口が文芸部に誘ってきたことがある。それかと思った」
「違いますよ。山口先輩にはなにも言われてませんし、僕は文芸部となんの関係もないです」
「そりゃよかった」
 そこで会話は途切れた。俺は本の続きを読むつもりにもなれず、かといって立ちあがって「次の講義の準備があるから」みたいな当たり障りない言辞でその場を抜け出すようなこともできず、ただ島井と一緒に、学生たちの流れをぼんやりと見つめることしかできなかった。
「文芸部ってなにするんでしょうね」
 と島井が言った。
「知らないな。ミヤザワケンジとかムラカミハルキとか朗読するんじゃないか」
 ひどい偏見だ。
「へえ」
「ただの偏見だよ。ほんとに知らないんだ」
 そろそろ二講時の終了時間で、早めに講義が終わった学生たちが、パラパラと各校舎から流れ出てきていた。初夏の日差し、茂ったコナラの濃い緑の光の下、ラフなTシャツを着た学生の一団が目の前を流れていく。まるで、まるで……なんだっけ。民族大移動とか? たぶん、違うな。
「ハシさん、そういうの誘われたりしてるんなら、どこか入らないんですか?」
「彼らの邪魔をしたくない」
 だって、彼らは文化的な生死をかけた、集団移住を行っているんだ。赤の他人になにが言える?
「邪魔?」
「みんな真剣なんだ」
 この世界に安住の地を求めて。
「それに、誰も俺を必要とはしていないからね」
 そして俺はどこにもたどりつかない。
「でも必要だから山口先輩に誘われたんでしょ?」
「そういうのじゃないよ、それ」
「どういうことです?」
「俺の表面的なキャラクター性、いうなれば『物言う偏屈』ってのを面白がっているだけ。ほら、毒舌芸人のコメンテイターみたいなもの。そういう消費物を珍しがってるだけさ。べつに俺という人間が必要で誘ってるわけじゃない」
「よくわかんないけど、考えすぎじゃないですか」
「そうかもしれない」
 一つだけ、このベンチが書庫の奥よりいいことがある。植木の枝がゆれ、葉がこすれる音が聞こえることだ。木々のざわめきというほどのものではない、ささやかな環境音に過ぎないのだけれど、狭い場所でずっとそういう音だけを聞いて過ごせたらいいかもしれない、と思うことが、ときにある。
「でもやっぱり、そのもったいないですよ」
 と島井は呟いた。独り言だったのかもしれない。あるいは、もっとべつのことを言いたいけれど、それがうまく言えなくて、そんな言葉になってしまったのかもしれない。妥協できる居場所を探し歩く、惨めな学生のように。「君、その顔」
 島井は間髪を入れず「えっ」と叫び声のような高い音を出した。俺は気にせずに続けた。
「モデルでもすりゃいい。『もったいない』だろう」
 ちょっとした意趣返しのつもりだった。
 島井は、誤魔化すように「あー」と小さく唸って、沈黙した。長い長い沈黙だった。沈黙の間、彼の身体が小刻みに震えていた。全身の筋肉が強張ってしまったような震え方だった。怒りのような恐れのような、なにか身体の中で暴れる大きな塊をすべての力を使って押さえつけているような。あるいはここで島井に殴られ、切り刻まれてしまってもかまわないな、と僕は思った。
 五分ほど彼はずっと震えていた。俺は黙って隣に座っていた。
「あ、そうだ、次の講義の準備があったんだった」
 五分経って、彼はようやくそう口にした。五分かけてやっとそれが口にできたのだ、と俺でもわかった。
「じゃあ、僕はこれで」
「ああ、またな」
「ええ、また」

 当たり前だが、それからしばらくの間、島井と会うことはなかった。言葉は刃物より鋭いとは、よく言ったものだ。

 でも、そんなこと誰が言った?

 *

 カエルくんとの深夜の冒険のあと、僕は自分の病室に帰って眠った。あれを殺してしまったあと、カエルくんはふらりとどこかに消えてしまったし、寝る前にサイドワゴンに置いておいたナイフも次の朝目覚めたときにはなくなっていた。起きてから十分もすると、そんなことが夜中にあったという記憶さえおぼろげになっていった。夢がいつもそうであるように。
 目覚めてから二日目。不思議なことだが、僕の見舞いには誰も来なかった。
 起きてからしばらくして、昨日とは違う看護師に検温と採血をされ(『マンホール』と口にする勇気はなかった)、そのあと昨日と同じ職員が朝食を配膳してくれた。なにか声をかけられるたびに、僕は居たたまれない異邦人のように、あいまいに頷いた。もちろん、言葉の意味はほとんどわからない。
 昨日とは違って、簡単な検温や採血以外、とくに大掛かりな検査もなく、僕は日がな一日、日当たりの良いベッドで寝転がるしかすることがなかった。その間、病院職員以外の誰とも顔を合わせることはなかった。見舞いの客はただの一人もいなかった。もしかしたら、僕の状態は自分で感じているよりずっと悪く、医者は見舞いの許可に慎重になっているのかもしれない。あるいは、僕の知らない間に僕に身内と呼べるような人間は誰もいなくなってしまったのかもしれない。はたまた、世界は今ひどい戦争か疫病か、大災害のようなものが起こって、悠長に見舞いなどできる状態ではないのかもしれない。いろいろな可能性、いろいろな推測、いろいろな――こう言ってよければ――未来、そういうものが、ひどく明るい病室に泡のように浮かんでは消えていく。
 不安はある。経済的な、あるいは身体的な問題に関する実際的な不安だ。はたして入院費はどうなるのだろうか。未来の、というか今の僕は、ちゃんと社会保険を払っているのだろうか。任意保険には加入しているのだろうか。まっとうな仕事についているのだろうか。大学二年生の僕を見るかぎり、あまり収入に期待できるような中年ではないように思う。それと身体的な問題。やはり僕の身体にはなにか深刻な異常があるのだろうか。いったいぜんたい、この『言葉喪失』(そう、たしかそう言うらしい)とやらはいつまで続くのだろうか。一時的なものなのだろうか。死ぬまでずっとこのままなのだろうか。現状を考えれば、不安の種はいくらでも掘り返すことができる。
 そう、不安はあるのだが、しかしそれらはぼんやりとしたもので、今ここで、僕は具体的な激しい感情、たとえば怒りだとか悲しみだとかいうものをあまり感じてはいなかった。現状の理不尽に対する怒り、誰とも出会えず通じ合えないという悲しみ、そういったものは、一欠けらも湧いてこなかった。それが自分の気質に由来するものなのか、異常な状況に混乱しているからなのか、それはわからない。ただ、
「僕はどこにもたどりつかない」
 そんな独り言が繰り返し暗唱した祝詞のように口から漏れ出た。もちろん、それはたぶん僕にしか聞こえない声で。

 病室は立派なものだった。個室で、広い窓。仰々しい機械類。冷蔵庫や洗面所、部屋付きのトイレまである。天井は白いパネル材だが、壁材はところどころ木目調が使われて、部屋の機械的な印象をいくぶん和らげている。まるで最低限の化粧で品をよく見せる手慣れた社会人女性のよう。医療器具があることを除けば、ちょっとしたビジネスホテルのようなものだった。
 僕はベッドから下りて、点滴スタンドと一緒に部屋を少し調べてみる。なにか活字がないだろうか、と。まるで見知らぬ土地に放り出された旅人が現在地を同定するためにあらゆる情報を集めようとするように。だが文字が印刷された紙の類はなにも見つけられなかった。文字らしきものといえば給湯ポットの裏の説明書きやエアコンのリモコンくらいで、それにしたって、今の僕には判読不可能だった。仮に読めたところで、今の自分に必要な情報が書かれているとは思えなかった。
 僕は諦めてベッドに戻ろうとした。が、いや待て、少し思い立った。給湯ポットの説明書きや、リモコンの文字に、なにかしら僕が読みとれるものがある可能性はないだろうか。あるいは、文字がわからなくとも、自分の知っている知識との齟齬が見つかれば、現状を把握するなにかの手掛かりにならないだろうか。小さなことでいい。たとえば、危険表示のマークなら読みとれるとか、記号やアイコンならわかるとか。あるいは数字が読めれば使用されている電圧がわかったり、メーカーのロゴがわかったりすれば、僕の記憶のない期間の社会の動向を知るヒントになったりしないだろうか。なにか、ささいなことでいい、なにか。
 そう思って僕は再び給湯ポットを手に取り、裏向けて、そこにあるなんらかの表示を食い入るように見つめていた。たぶん、あまりに集中していたせいだろう、僕は致命的なミスを犯していた。つまり、ノックの音を聞き逃していたようだ。僕がふと顔をあげた先では、開いた病室の扉に手を掛けたまま固まっている男がいた。男は不思議そうに僕を見ていた。たぶん、熱心に給湯ポットの裏側を見つめている頭のおかしな男でも見たのだろう。少々困惑するのも無理からぬことだ。僕は給湯ポットを元の場所に戻し、できるかぎりの愛想笑いを浮かべてみた。僕に今できる最大限の修正作業だ。男は目を大きく見開いて、「わかっていますよ」という感じの頷きを二度三度繰り返した。僕のがんばりは正しく報われ、修正テープだらけの履歴書を冷ややかに見つめられるような心持ちを手に入れることになった。僕はどうぞとばかりに見舞い用の椅子を両手で掬うように指して、僕自身は病室のベッドに腰かけた。男は僕の手振りを理解してくれたようで、小さく頭を下げながら、見舞い用の小さな椅子に一度腰かけた。それから腰を浮かせて、椅子を動かし、僕と正面で向かい合うようにしてから、再度腰を下ろした。
 男は、なんらかの医者であるようだった。なんせ、白衣を着て、大きなドクターバッグを手に持っていたから。でも検査や問診で顔を合わせた医者や看護師や医療技師ではなかった。初対面だ、たぶん、記憶も自信もないが。男は、たぶん、今の僕と同年代ぐらい、四〇歳前後の中年だった。体系はややふくよかだが、不健康な太り方ではない。せいぜい「昔はもう少しやせていたんですが、デスクワークが多いし、歳を取ってしまってね」というくらいの。髪はひどく短く、ベリーショートと坊主頭の中間ぐらい。それと銀の細いフレームの眼鏡をかけている。白衣と鞄がなければ、剃髪を忘れた僧侶のように見えなくもない。
 男は僕の前に座り、さてと、とばかりに白衣の襟をパンと正した。なにか、クセか習慣か、儀式のようなものなのだろう。そういう手慣れた動きだった。それから、僕を見ながら、自分の胸を手で軽く二回叩いて、口を動かしてなにかを言った。その動作から、おそらく名前を名乗ったのだろうと知れた。もちろん、今の僕には彼がなんと名乗ったのかわからない。僕は少し迷った。名前を名乗られたことは理解したので頷くべきか、それとも名前がわからなかったことで首を横に振るべきか。少し考えてから、僕も同じように、男を見ながら、胸を手で叩き、自分の名前を名乗ってみた。すると男は、にこやかに、「ええ、そうでしょう、知ってますよ」という風に頷きかえした。僕がなにを言ったのかは男にはわからないのだと思うのだけれど、僕が名乗ったという行為は理解してくれたのだろう。当然患者の名前ぐらい先に把握しているはずなので、名前の交換としてはそもそも内容のあるコミュニケーションではなかったのだろうけれど、こういうのは、そういう行い自体がメッセージなのだ。
 次に男はもう一度腰を浮かせて、近くにあったキャスター付きのサイドワゴンを僕と男の前に引いた。要領の悪い動きだった。だがその要領の悪さは、あえてそのような道化じみた要領の悪さを演じているように、僕には思えた。幼稚園や小学校の教師が子どもたちに対して大仰に接するような。男は持ってきた鞄から麻袋のようなものを取り出し、引いてきたサイドワゴンの天板に中身をばらばらと広げ始めた。木製の積み木のようなものだった。平行四辺形、直角二等辺三角形、正方形……。男は広げたそれを人差し指で指し示してから、いそいそとなにかの形を作り始めた。なにか――単純なものだ。ただの正方形。男はそれを作り、もう一度指で何度か指して、いいですか、という風に僕に向かって頷いた。僕も頷いた。すると男は正方形に組んだ積み木をばらばらと崩し、どうぞとばかりに僕に手を向けた。僕にも同じことをやれということのようだ。僕は仕方なく、積み木で正方形を作った。おそらく五秒もかからない。
 つまるところ、これは知能テストかなにかのようだ。どこの機能が不全を起こしているのか、そういうことを知りたいのだろう。子どものお遊びみたいなものだが、仕方ない。
 男はうんうんと頷いたあと、しかし、急に僕に向かって、座ったまま深く頭を下げた。男の後頭部が見えるほど深く頭を下げたので、ワゴンに頭をぶつけるんじゃないかと、少し心配になったほどだ。それから頭をひょこりとあげて、ワゴンの上に広げた積み木を大きなドクターバッグに無造作に掻き入れた。バラバラバラ、まるで三歳児の片付けだ。
 ワゴンが片付くと、代わりにその大きなカバンから四角い板のようなものを取り出した。20×20センチより少し小さいくらいで、色は半透明、将棋盤のようにマス目が縦横に刻まれているけれど、将棋盤と違ってマス目一つ一つがなにかをはめるくぼみのようになっていた。ついで、男は鞄からたくさんのプレートを取り出した。テレビゲームの「テトリス」のような、正方形の組み合わせで作られた様々な形のプレートだ。男は白いプレートを集めて僕の側に置き、男の側には黒いプレートを置いた。それから男はもう一度白衣の襟をパンと鳴らして、背筋を伸ばした。さあ始めますよ、という意味だとなんとなくわかった。男は自分の黒いプレートを一つ盤の上に置いた。それから、どうぞ、という風に両の掌を上に向けて僕に差し出した。僕は白いプレートを手に取って盤の端に置こうとした。すると男は、今度は両の掌を僕に向けて左右に揺らせてみせた。僕がはてと首を傾げる動作をしてみせると、今度は二つの人差し指でバツを作って僕に見せた。どうやら、僕はなにか間違えたらしい。男は人差し指のバツをほどくと、今度はその二つの指で、盤面の一点を指した。そこに置けということを言いたいのだろう。僕は言われるままに、適当なプレートをそこに置いてみた。男は満足したように何度か頷いた。そして、次のプレートを手で摘まむと、男がさっき置いた黒いプレートの隣に置いた。それから、また「どうぞ」だ。僕は白いプレートをつまんで、さてどこに置こう、と考える。
 このタイプのゲームなら、おそらく陣取りだろう。この盤面の上にうまくプレートを並べて、陣地を広げ、相手の陣地を広げにくくすればいい。そういうタイプの。
 僕はためしに黒いプレートの近くに、白いプレートを置いてみる。相手のテリトリーに切り込むような置き方だ。すると男は、眉間にしわを寄せて、大げさに口を曲げ、目を細め、両掌を僕に向け、盤面上の空気を抑えるようにゆっくりと前に動かした。それから申し訳ない、とでもいうように頭を少し下げて、両手を盤上で合わせて合掌した。次に男は僕が今置いた白いプレートをつまんで僕の手元にことりと置き、それからまた「どうぞ」をした。
 つまり、なにか僕のプレートの置き方には間違いがあったらしい。なんとなく想像がつく。無制限にどこにでもプレートを置くゲームなら、戦略が非常に単純なものになるだろう。対戦型のゲームなのだから、頭脳戦が複雑になるようなルールや制限があるはずだ。ためしに白いプレートを最初に置いた白いプレートの隣に置いてみる。そうして、男の顔を見る。男はぐっと顔の筋肉に力を入れて厳しい顔を作り、両の人差し指も反り返るぐらい筋肉をこわばらせて、ゆっくりと、なにかの儀式のようにバツ印を作った。これもだめらしい。盤面に置かれた二つの黒いプレートと見比べてみる。男が置いた二つのプレートは片方の角の一つともう片方の角の一つが接触しているが、プレートの辺同士は接触していない。僕の二つの白いプレートは辺同士が接触している。僕は今置いた白いプレートを動かして、角同士が接触して、辺同士は接触しない形に改めてみる。男は眉を上げて少し表情を緩め、今度は両の人差し指と親指を立て、ゆっくりとそれを曲げながら接触させて、マル印を作った。
 なんのことはない。このゲームは様々な形のプレートの角同士をつないで陣を広げていくゲームのなのだろう。ルールはシンプルなわりに、自分と相手の手持ちの残りプレートの形から複雑な読み合いが生まれる。よくできたゲームだ。
 男は手元の黒いプレートを盤面に置いた、僕の並べたプレートに向かって突き出すような形で。僕は数秒考えて返し手を打つ。相手の攻め手を受けて立つように。男は僕の返しに20秒の思考時間を要した。

 ……。

 五戦目を終えたところで、男は僕に向かって深くお辞儀をした。最初に見たのと同じような、ゲーム盤に頭をぶつけるんじゃないかと心配になるくらい深いお辞儀だった。男はたっぷり五秒かけて僕に頭頂部を見せつけたあと、顔を上げた。僕は少しの間を置いてから、やはり男と同じように深くお辞儀をした。なんとなく、そういう風にすべきだと思ったのだ。僕じゃなくても、きっと誰でもそうするだろう。たとえば、南米の奥地の集落に踏み込んだ文化人類学者でも。僕が顔をあげると、男はにっこりとほほ笑んだ。まるで一仕事終えたあとの工場の技術者のような、満足げな笑みだった。それから鼻歌でも歌いそうな調子で首を小刻みにふりふり、台上のゲーム盤とプレートを大きなバッグの中に乱雑に掻き入れた。すっと立ちあがり、一礼、まるで劇のように、すたすたと男は扉を開けて部屋を出ていった。男が出ていくと部屋は役者の消えたドラマのセットのように静まりかえった。
 男が出ていく一連の動作と事象があまりに唐突だったものだから、僕はなんだか宙ぶらりんな気持ちのまま、男が出ていった扉を見つめ続ける羽目になった。キツネにつままれたような、という慣用句を実際に使うことができる、貴重な時間だった。

 *

 昼食は大学の生協でおにぎりかサンドイッチを買って缶コーヒーで流し込むのがほとんどだが、ときには学食でなにか食べることもある。昼休みのあとのコマが空いていて、学食がそれほど混んでいない時間帯ならば、という条件で。当然独りで食べているのだが、ときどき誰かに捕捉されることもある。
「はっさんさあ、温厚な島井くん怒らせるなんて、ソウトウだよ」
 学食の端のテーブルに座って昼食を取ろうとしていると、挨拶もなく俺の前に座った佐藤はじめが、開口一番そう言った。担々麺から顔を上げると、白いワイシャツと水色のネクタイの佐藤。だいたいいつもこの手の格好だが、どうもワイシャツとタイは日ごとに微妙に違うようだ。いったいこいつはいくつのワイシャツとネクタイを持っているのだろうか。
「その呼び名で呼ぶな、三番隊組長」
 俺がそう言うと、佐藤はキツネにつままれたような顔をした。本当にそういう顔だったのだ。
「なにそれ?」
「斎藤一。佐藤はじめと一文字違いの剣客」
「知らない」
「そっか」
 俺は再び学食の担々麺に目を落とす。オレンジ色に浮かぶネギともやし。手早くゆでるせいで少し固い業務用麺と、言いわけ程度に添えられた薄いチャーシュー。ご立派な担々麺だ。
「島井、そんなに怒ってた?」
「怒ってる、んだと思うよ。なんかだいぶおかしかったし、今日は講義来てなかったし」
「それは……」軽く箸で摘まんだ麺をすする。「うん、よくないな」
 味の薄い担々麺だった。手近にあった七味唐辛子を振ってみる。「うわぁ。担々麺に七味入れる人、初めて見たよ」
「学食の担々麺は薄味なんだよ」
 もう一度麺をすすってから、椀を持ち上げてスープもすすってみる。
「まあ、こんなもんかな」
「ねえ、それちょっとちょうだい」
 佐藤はそう言いながら、向かいから体を乗り出し、使っていなかった蓮華を勝手に取って、俺の椀からスープをすすった。俺はまだなにも言っていないし、許可してないし、とりあえずポケットからハンカチを出しておく。
 次の瞬間には、むせ返りながら口元を左手で押さえ、学食のテーブルにオレンジ色の液体をぽたぽた落としている惨めなクリーチャーができあがっていた。俺は手に持ったハンカチを、口を押さえている佐藤の左手に当ててやる。佐藤はそのハンカチを右手で受け取って、そのまま口の中にあるモノを抑え込んだ。その間俺は鞄からポケットティッシュを取り出してテーブルに垂れた汚水をふき取り、手近なゴミ箱に捨てに行って、そのまま洗面所に手を洗いに行った。そして洗面所から帰ってくると、
「殺す気?」
 なんとか口の中の液体をどうにかした(全部ハンカチに吐いたのか、飲み込めたのかは知らん)佐藤は、俺に向かって真剣そうに言った。まるで鋭利な刃物でも投げつけられたかのように。
「『殺す』は他動詞だから、ふつう勝手に自滅した場合は使わん」
 たとえば『自分で自分を殺す』のような場合はヲ格を取るが、それは一種のレトリックだ。
「信じられない。さいあく。ネクタイにシミついた」
 俺は食事の続きを再開する。佐藤は一通り俺に文句を言い終わると、「手、洗ってくる」と言って席を立ち、それから数分してまた戻って来た。
「はっさん、おかしいよ」
「そうかもしれない」
 たしかに、客観的に見れば、とくに美味くもない学食の担々麺なんぞわざわざ注文するやつの気が知れない。サラダとスープとご飯をビュッフェコーナーで取ってくれば事足りる話だ。
「ねえ、はっさん。どんな理由で島井くんを怒らせたかは知らないけど、たぶん、はっさんはちょっと強すぎるんだよ。みんな、はっさんほど強くないのに、はっさんが自分を基準にしたら、誰もついていけない」
 佐藤は、さっきまでの悪態をすっかりひそめて、わずかに悲しみを込めて俺にそう言った。
 短い付き合いだが、佐藤の特性は少しだけ理解している。感情表現がコロコロとよく変わるのだ。まるで、その場に適した感情をああでもないこうでもないと、その都度タンスから引っ張りだしてくるように。その不安定さがなにに由来するものか、俺は知らないし、聞く気もなかった。
「俺が、強い?」
「学食で、独りで、食べてる」
「誰だってできる」
「できないんだよねぇ、それが」
 わかっていない弱者を憐れむように、佐藤はそう言った。
「ぼっちに見られたくない。陰キャに見られたくない。コミュニティから外れたくない。だいいち、独りでいるのが恥ずかしい」
「それ、俺のことを『恥ずかしいぼっち陰キャ野郎』って言ってるだけだからな」
「私はできない。たぶん島井くんもできない」
「ここにいない島井はともかく、そんな俺に声かけてる君も、十分恥ずかしい野郎の資格があると思うんだが」
 それに島井だって、あんな黒ずくめの格好で大学に来てりゃ、それなり浮いているだろうに。
「私はそんな風にはなれなかった」
 佐藤はそう自分のことを言い切ってしまうと、感情を落とし、能面のような顔を作った。俺の方を見ているけれど、俺は見ていない。たぶん俺の後ろの壁にじっと焦点を合わせていた。
 俺は担々麺のスープをすすりながら、食堂の様子を眺めてみる。
 そこそこの広さの食堂だ。たぶん小講義室三つか四つ分。六人掛けのテーブルと椅子が数列規則正しく並んでいるが、わざわざ数える気にはなれなかった。時刻は午後二時少し前、昼の講義はすでに始まっていて、食堂にいる人間はまばらだ。何組かの学生のグループが話し込んでいるけれど、昼食を取っているのはその中でも数人。独りで席についてランチセットを食べている人間が一人だけいたが、それは中年の男性で、首から職員証をぶら下げていた。
「そんな風に、なる必要なんてないさ」
 と俺は言った。
「独りで飯を食ったって、とくに強くはないし、なににもならない、どこにも行けない。ただ独りだってだけだ。いや、それどころか、君の言う通り『恥ずかしい』奴ですらあるんだろう」
「はっさんは」
 佐藤は相変わらず表情を見せず、俺の方を見て、でも焦点は俺の後ろの壁のまま、話し始めた。あるいは壁に向かって話していたのかもしれない。
「高校まで、ずっとどうやってきたの?」
 俺は少し考えてから、後ろの壁の代わりに質問に答えてやった。「飯の話なら、今と変わらない。独りで食べてたよ」
 佐藤は眉を少しだけしかめて、口を閉じたまま深く息を吸い、時間をかけて口の中のつばを飲み込んだ。痛みに耐えるように。あるいは本当に、なにか痛覚に刺激を受けていたのかもしれない。たとえば、そう、辛味、とか。
「私は、そんな風に、なれなかった」
 佐藤は同じ言葉を繰り返した。それは同じ言葉だったけれど、いくらかの感情がよくわかる形で、ぎゅうと詰め込まれていた。つまり、痛みと、怒りと、いくらかの羞恥と。いつのまにか佐藤の焦点は、俺の手元の担々麺に向いていて、それはひどく憎々しげな視線だった。担々麺に関する嫌な思い出を、たった今思い出したかのように。もしかしたら担々麺にいじめられたことでもあるのかもしれない。
「大方、楽しくもない女子グループの中で、話し合わせて、形だけ笑って誤魔化してたってところか」
 ほとんど当てずっぽうのようなものだが、そこまで違うまい。
 佐藤は少しだけ驚いたようにびくりと担々麺から視点を上げて、俺を見た。それから驚いたことを誤魔化すように、もう一度苦々しい表情を作ってじっと俺を見つめた。そこになにかしらの非難の色を見ない人間はいないだろう。
「悪かった。冗談で言うような話じゃなかった」
「他人からは」
 ゆっくりと、重たい石臼を持ち上げるように佐藤が口を開いた。
「つまらない、他愛もない、なんだその程度のことかと思われることでも、とうの本人には、深刻で、致命的で、ずっとフラッシュバックするようなこと、ってあるんだ」
「うん」
 俺は素直にそう返事をした。
「はっさん、その顔をやめて」
 佐藤の見つめる前で、俺は両手で五秒間顔を抑えて、息を整えて、手を下ろして佐藤を見た。
「すまなかった」
 俺がそう謝ると、佐藤はぎゅっと強く目を瞑って、それから三秒後に目を開いた。目を開いたとき、佐藤はすっかり怒りや苦々しさを落としきっていた。あとにはほんの少しだけおかしそうにしている、微弱な笑顔だけが残っていた。
「島井くんに、ちゃんと謝りなよ」
 そもそもなにについて謝ればいいのかはわからないけれど、佐藤が言うことは正しいと俺も思う。
「話をする機会は作るよ」
 俺がそう言うと、佐藤は安心したように深く息を吐いた。島井のことを真剣に心配していたのだろう。本当によい関係だ。
それで話は終わったらしく、佐藤は自分のノートと携帯端末をテーブルに広げて、なにかの書き物を始めてしまった。俺は少し冷めた担々麺の続きを再開することにした。カキカキ。ズルズル。五分ぐらいそうしていただろう。俺が担々麺の残りスープをすすっていると、佐藤が急に俺に訊ねてきた。
「はっさんは本当に自分がなにもできないと思ってる?」
 そんなことを言ったかな、と考えながら、口ではすぐに答えていた。
「なにもできないんじゃない。なににもならないんだ」
「その違いはよくわかんないけど」と佐藤は言った。「はっさんのそういうところに、みんなイライラするんじゃないかな」
「俺にイラつくなんて、それこそ時間の無駄だな」
「そういうとこ」
「む」
 コバエを叩き潰すようにぴしゃりと言われては、反論のしようもない。珍しく俺が言い返せなかったのがどうやら面白かったらしく、佐藤は上機嫌で噴き出して笑った。それから、なにか新しい楽しみを見つけた小学生みたいに俺を覗き込んで、
「はっさん、一つだけ質問」
 と言った。
「なんだ?」
「兄弟は?」
「姉が二人」
 優秀な姉たちで、上の姉は情報処理で修士まで行って海外の企業に就職した。二番目の姉は美大に行って、今はフリーのイラストレーターだ。強いというなら、彼女らの方がよほど強い。
「はっさん、ついでにもう一つ質問」
「まあいいよ」
「なんで三番『隊』なのに『組』長なの?」
 それは何の話だったかな、と考えながら、言葉は先に音になっている。
「諸説ある。一つは、現代ではポピュラーな呼び方になっているものが、当時は違っていた説。つまり当時は『隊』呼びじゃなかったということ。ほかには、『組頭』とか『三番組』とかいう江戸期の組織制度と、幕末から明治維新にかけて流入した西洋式の軍制がまざって、組織は『隊』呼び、役職は『組』呼びが残った説。まあ、専門的に調べたわけじゃないから、これは雑学だけど。詳しくは幕末期とか新撰組とかやってる学生にでもきいてくれ」
「あ」
 なにかを思い出したように佐藤が声を上げた。
「新撰組は聞いたことある」
「そうか、そりゃよかった」
 きっと受験では日本史を受けなかったのだろう、そうだろう。
 ふと見ると、佐藤の表情からはもうすでに、からかうような、楽し気な表情は消えていて、ひどく憐れむような感情を湛えていた。そして、佐藤は一つだけの質問の三つ目を俺に訊ねた。
「ねえ、はっさんはそれでいいの?」

 *

「いいんじゃないかな」
 と口に出して、僕は目覚めたのだけれど、それがなにに対する答えだったのか、杳として知れなかった。さてなんの夢だったのかなと少し考えたのだけれど、薄暗い部屋の中の寝惚けたぼんやりの中に消えてしまった。『杳として』とは言い得て妙だ。
 ベッドわきのデジタル時計を見ると、時刻は夜中の零時を回っていた。二一時の消灯時刻までは起きていた記憶があるのだけれど、そのあとすぐに眠ったはずだ。とすれば、たった三時間で目が覚めたことになる。やはり身体の調子がよくないのだろうか。それとも、
「お待ちどうさまでございます。もちろん、当然予想されていたことと思いますが、いちおうね、いちおう、お訊ねいたします。お目覚めですか? お目覚めですね。当然ですね」
 それとも、なにか外的要因が僕を起こしてしまったのかもしれない。たとえば、小うるさいカエルのパペットがベッドの上で飛び跳ねていたとか。
「あなたの起床についてはなんの外的要因でもございません。徹頭徹尾あなたご自身の内的要因でござい。カエルくんめは貴殿の安眠について、一切の責任をお持ちになられません」
 あいかわらず無茶苦茶な敬語もどきで、カエルくんがしゃべり続ける。せめて人称ぐらい統一したらいいのに、と思う。
 僕は身体を起してベッドに腰掛けるように座った。カエルくんは僕の隣にやってきて、僕と同じ体勢で腰掛けるように――まあ足はないんだけど――ベッドの端に胴体の端切れがかかるようにして、座った。それから、ぴょいっと、飛び跳ねるようにして、床に着地、スタスタスタと扉に向けて歩き始めた。僕はその様子を座って眺めていた。子ども向けのCGアニメを、スクリーン越しじゃなくて肉眼で見るような不思議な感覚だった。あるいは、と僕は考える。これが夢ではなくて現実だとしたら、たとえば僕の記憶が抜け落ちている期間に映像技術が発展して、精緻な立体映像を空間に映し出す技術が確立されたのかもしれない。いやしかし、そういえばこいつは触られたはずだ。立体映像の線はないな。
「なにをなさっておいでなのですか? そういう、お客さま感覚はおやめになりなさいな」
 カエルくんは急に振り返って僕に向かってそう言った。なにか苛立っているようだった。まるで仕事のできない後輩を叱りつけるような言い方だ。言葉は無茶苦茶だが、言い方の感じはわかる。
「行くんですよ。当たり前でしょう。一度あることは二度あるんですし、たぶん三度目もあるんですよ」
「つまり、またあのよくわからない靄みたいなものを探しに行くのかい?」
「当然でしょう。あなた様は一生『マンホール』しか叫べないオウム未満の惨めな生きものとして生きていく覚悟がおありさまなのですか?」
 ふと、『そいつも悪くないな』というフレーズが浮かんだけれど、それは僕の言葉というより、他の誰かが呟いたような言葉で、もしかしたら映画かなにかのフレーズを思い出しただけなのかもしれない。
「でもさ、カエルくん」
「なんでしょう」
「昨晩取り戻した言葉が『マンホール』だけだったわけだから、奪われた言葉をすべて取り戻すのには膨大な時間が必要なんじゃないかな」
「大丈夫ですよ。時間ならたっぷりあります」
 当然でしょう? というようにカエルくんはそう言ってのけた。僕にはとてもそうは思えなかった。時間は有限だ。あらゆるものは通り過ぎ、失われる。僕たちはそんな風に生きている。
「さあ、行きましょう。時間は有限ですから」
 カエルくんはケロリとそう言った。僕は肩をすくめて立ち上がる。

 再び、僕ら一人と一匹は夜の病院の廊下を歩く。病院の廊下は常夜灯と窓からの街明かりでぼんやりと底を光らせている。あいかわらず、誰とも会わない。まるで、24時と0時の間に25時があって、僕らだけがその時間帯に投げ出されてしまったみたい。
 カエルくんの後ろを歩きながら、ふと目の前のカエルくんを足でつついてみたい欲求に駆られる。一度触ったことはあるものの、本当に立体映像じゃないのだろうか。あるいは、たとえば内部に駆動機関があったり、見えないワイヤーかなにかで外部から動かされたりしているのではないだろうか。僕は半歩だけカエルくんとの距離を詰める。
「足りないと思いませんか」
 急に、前を歩いていたカエルくんが振り向きもせずそう言った。
「そりゃね。いろいろなものが足りない気がするよ」
「違いますよ。正直なところあなたが考えているようなことはどうでもいいんです。どうせ、記憶とか言葉とか、そういうことが言いたいんでしょう? 違います、違います」
 カエルくんは決め台詞でも言うかのように、立ち止まり、一呼吸置いてから僕に振り向いた。
「『笑い』ですよ」
 僕はどんな顔でカエルくんを見たらいいのかわからなかった。
「『笑い』『ジョーク』『コメディ』。つまり、読者や視聴者を飽きさせないためにやる、あの箸休め的なおかしさ、ですよ」
 おかしなものがおかしなことを言う。そしてべつに面白くもない。
「誰も笑いなんて欲してないよ。ここには君の言う読者も視聴者もいない。さっさとあの靄のようなものから言葉を取り戻して、手早くベッドに戻る、それだけ」
「それだけぇ?」
「それだけ。そこになんの笑いも必要ない、と僕は思うよ」
 カエルくんは至極残念そうに、まるでほしいプラモデルを目の前にして「今日はダメ」と言われた小学二年生のように俯いて、くるりと元の方向を向き直した。それから数歩歩いて、未練たらしくもう一度僕を振り返った。「あなた、笑った方がいいですよ」
 捨て台詞のようにそう言った。

 カエルくんと僕は昨晩と同じ経路を進む。右左右右。ふざけている。なぜまっすぐ進まない? 同じ経路で進めば、当然同じ場所に出る。昨日と同じ非常口の灯りのある階段の前だ。ふざけている。なぜ別の場所に出ない? ふざけた存在が導くふざけた夢の中だ。そんな整合性なんてあってたまるか。
「しかしながら」とカエルくんは言った。「整合性のない世界は、それはそれで苦痛なのです。同じように入力したはずなのに別の出力がなされる。なんど条件を整えても同じようにならない。畢竟、自分がなにをしたところで結果には影響しない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「それは、無力感?」
「少し違いまする。効力感のなさ、、、、、、、です」
 僕がその言葉についてイメージしたのは、『アルコール中毒の親に虐待に晒される子ども』だったが、そのことについてカエルくんと話をする気はなかった。
「そっか」と僕は言った。
「そして、我々とは関係のない話なのであります。無力感も虐待も。なぜなら我々は」
 カエルくんは進む。非常口の灯りに続く廊下を。昨晩僕がナイフで靄を切った場所を。進み、そして非常口の灯りの下をくぐり、階段にたどりつく。「入力の結果は同じ出力でありながら、さらに続きがあるのですから。繰り返しても飽きがこなくていいですね。『ローグライク』というやつです」
 ローグライクとは違うと思うけど、カエルくんはテレビゲームをやる両生類(ヒト)なのかな、とは思う。
「ここを下りるのかい?」と僕はカエルくんに訊ねた。
 そこは折り返し階段の入り口、踊り場になっているところで、僕とカエルくんは階下に伸びる階段を見下ろしていた。少しだけ懐かしい埃のにおいがした。折り返し階段の踊り場の壁にはそれぞれにぽつりと横長の照明が取りつけられていたけれど、それはまるで遠く離れた島々を灯標の灯りでかろうじてつないでいるかのように、弱々しかった。いくら夜間とはいえ病院の照明にしては少なすぎる。これでは事故が起こるだろうに。
「階段は下りるか、上るか、はたまた引き返すかの二・五択です。貴殿が下りると思ったのなら、下りるのでしょう」
 なんとなく、上ることはないのだろうな、と思っただけだ。
「でもあなた、わっちが申し上げるのもなんですぅが、発想が下を向きすぎですね。ちったあ顔上げた方がよろしいんじゃないか」
「わけがわからない」
「ええ、いいでしょう。おぬしがそう言うからには下りましょう。それはあなたの選択ですから」
「僕の選択じゃだめだろう。ちゃんと僕の言葉のあるところに連れていってくれないと」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。あなたが上と思ったら上、下と思ったら下、後ろと思えば後ろ、ええ、ええ、そういうものです。だいじょぶじょぶ」
「わけがわからない」
 カエルくんは、その上半分しかないようなパペットのからだをぴょんぴょんと跳ばして、薄暗い階段を一段一段下り始めた。器用なものだ、と思う。僕も後ろについて、一段一段、ゆっくりと下りていく。踏み外さないように。しかし確実に下に進むように。一段、また一段、一段、また一段。
 踊り場に着くとカエルくんは薄明りの中でぴょんぴょん跳ねながら少しずつ向きを変えてUターンして、また一段一段飛び跳ねて下りていく。僕もゆっくりとそれに続く。一段、一段。一つの段を下りる作業は単調で単純で、人差し指を立てて鍵盤を一つ一つ押していく幼児のよう。
 一段、一段……Uターン、一段、一段……。
 だが、ちょっと待てよ。一段。おかしくないだろうか。一段。僕たちは何階下りた? 一段。この病院はそんなに高い建物なのだろうか? 一段、一段。もしかして、地下まで下りてしまったのだろうか? 一段、一段、Uターン……。窓はなく、外の様子は見えない。一段。もうすでに、一段、十数階は下ったはず、一段、いや、一段、そんな気がするだけで、一段、時間の単調さの中では、一段、体感時間なんてなんの役にも立たない。一段、こんな時のために、一段、ちゃんと下りた階数を数えておくべきだったのだ、Uターン、賢く哀れな遭難者が山小屋の壁に傷をつけるように。
 Uターン、次の一段は、なかった。いくつめかの踊り場、その先に階段はない。どうやら建物の最下層まで下りたようだ。探せば階数の表示板くらいは見つけられたかもしれないけれど、見つけたところで読めはしないだろう。階段の入り口は防火扉が閉め切られていた。踊り場の先は短い通路で、その先にも非常灯のついた扉があった。白かアイボリーかの金属扉で、もしここが本当に地下なら駐車場か機械室か、そんなところに続いているのだろう。
 そして、その金属扉の前、非常灯の下に、昨日と同じ靄がいた。
 なんのことはない。なんの怪異でもなければ、どんな脅威でもない。そこにあるのは、ただの黒い靄だ。未分化な単純さだ。ちょっと目がくらんだ時に見る残像のようなものだ。カエルくんは僕の数歩前で靄を見つめて止まっていた。愚かなカエルだ、と思う。あの靄の中に蹴り飛ばしてやろうか、と思う。このくだらない茶番ごと、すべて暴力で解決してしまえないだろうか、と思う。
「それは、あまり賢い行いとは思えませんね」とカエルくんは振り向きもせずにそう諭した。
「なんのことだい?」と僕は訊ねた。
 カエルくんはなにも答えなかった。カエルくんは答えず、僕の前で黙って靄を見つめていた。そうやって僕は30秒ほど待ったのだけれど、カエルくんはなに一つ動きを見せなかった。どうやらあとは僕がなんとかしなくてはいけないらしい。
 なんとか。
 手早く刃物で切り裂いてしまおう。さて、なにか刃物は、と。当然、刃物なんてものは……必要な時には僕の手の中にあるものだ。刃渡り9.8センチ、フルタング、253グラム。僕は右手にナイフの重さを感じ取ることができる。いつからそうやって握っていたのだろうか? 階段を下りるとき? 廊下を歩いているとき? 部屋から出るとき? 深夜に目が覚めたとき? わからないけれど、あるのだと思った時には、刃物はそこにあり、僕は必要なものをすぐに切り裂いてしまうことができる。そういうものなのだ。僕だけじゃない。みんな、そういうものなのだ。あなたも、わたしも。
 僕はナイフを握って、カエルくんを通り過ぎる。近づいてみると、靄は呼吸をしているかのように膨らんだりしぼんだりしていて、大きさは、だいたい小柄な大人から小学生ぐらいの間を行き来しているようだった。僕は靄まであと1メートルというところで立ち止まった。もし、この黒い靄がなにかの意思をもって、僕を殴るだとか、蹴るだとか、刺し貫くだとかするならば、ちょうどよい間合いだろう。けれども靄は、ただその不定形のぼんやりをゆらめかせるだけで、なにもしようとはしなかった。無抵抗に、あるいは無関心に。もしかしたらそういう戦術なのかもしれない。なにか、自分を無害で無意味なものに見せたいのかもしれない。もしそうだとしても、あるいはたんに無抵抗なだけなのだとしても、僕のやることは一つも変わらない。僕はナイフを振り上げる。非常灯の下、空気についた汚れのようなただそれは、まるでひどい顔をして俺を見上げている。
 
僕は力任せにナイフを上から下に振り下ろした。
 その瞬間、なんだろう? 靄の底の床になにかがあることに気がついた。よく見えない。けれどひどく場違いなことだけはわかる。病院の、地下の、階段の、床、そういうところにあってはいけない、これは、レンゲ? ハンカチ? ムラカミハルキノブンコボン? まあでも、なんでもいいか。殺してしまえばいいのだから。
 でも、ナイフがそれを切り裂くことはなかった。9.8センチの刃は、それに当たる前に止まっていた。ソコにあったのは、ただの木製のパズルだった。色々な形をしたいくつかの積み木のような木片が、10センチ四方の正方形の枠のなかにきれいに収まっていた。よくある知育おもちゃだ。七片のものなら「タングラム」だが、これはもう少し数が多いし、白と黒の二色の組み合わせになっている。
 黒い靄は消えていた。僕がナイフで切ったせいか、はたまた最初からそんなものはなかったのか、わからないけれど、その場に残っているのは非常灯に薄く照らされた木製のパズルだけだった。僕はナイフを床に置いて、その木製パズルの前に足を組んで座り込んだ。それから五秒ほどそれをじっと眺めてから、手を伸ばし、ひっくり返した。パズルの木片たちは、巣にいたずらされたアリのように、ばらばらと音を立ててリノリウムの床に散らばった。正方形の枠を表にして、白と黒の木片をひょいひょいとつまんで、ふたたび枠の中に収めていく。この手のパズルに白と黒があるのは、何種類か正解のはめ方があって、なにかしらの模様やシルエットに見えるようになっているからだ。
 ひょい、ひょい、ひょい。
 できあがった形は蛤のような平べったい黒の形の上に黒い小山が二つ。なにかの両生類のシルエットみたい。
 いつのまにか、後ろで見ていたはずのカエルくんが、僕の隣までやってきていた。じっと、まだ知らない風習を初めて見つけた学者のように、僕の組み上げた木製パズルのシルエットを見つめていた。学者……そんな喩えを思いついたのは、あるいは、このカエルのパペットになにかしらの知性のようなものを、僕が見出してしまったからかもしれない。もしかしたら両生類の中でも賢い方なのだろうか。
 カエルくんは、しばらく興味深く木製パズルを見つめたあと、おもむろに僕の方を振り向いた。そうすると、だらしなくパペットの口をパッカリ開けて、残念そうに(もちろん、パペットに表情は乏しいが、僕にはそう見えた)僕を見つめた。30秒くらいそうしたあと、一言、
「あなたやっぱり、笑った方がいい」
 と言った。

 やれやれだ。くだらない。夜の冒険の果てにパズル一つ組み上げただけだとは。これになんの意味がある? どこに物語なんかある? 僕の言葉はどこにあるというのだろうか?
 帰ろうか、と言おうとして立ちあがって、ふと、『そういえば』と気づく。この扉の先はどうなっているのだろうか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、と。僕は目の前の金属扉が気になる。靄がじっと佇んでいた非常口の、その先が知りたい。今すぐに、だ。
「この奥だ」と僕は言った。
「まだ早いです」とカエルくんはすかさず言った。「今の貴君では、帰って来られない。開けてはいけない」
「君はこの先になにがあるのか知っているんだね」
「知りません」
「嘘だ」
「知りませんよ。本当に。でも開けてはいけないのです。開けてはいけないということは知っておりまする」
 カエルくんはこざかしい言い方で話を引き延ばす。まるで、見られたくない答案の入った抽斗を開けられそうになった子どものように。とても煩わしい。
「あなたは下りを選んだ。ならば、そう、これは冥界下り。冥界下りに禁忌は付き物なのです。そういう神話なのです」
「イナンナ、オルフェウス、イザナギ」
「よくご存じです。博識であらせられる」
「どうせ常識なんだろう? それより、話を逸らさないで。これは冥界下りでもなんでもない。誰も死んでない、ただの茶番だ」
「茶番」
「茶番だとも」
「茶番だって人は死ぬるもので候」
 らちが明かない。このカエルは言葉でもってはぐらかす。もういい。関係ない。その扉を開けさえすればいい。扉を開けることに言葉は関係ない。誰とも語り合う必要はない。ただちょっとノブを捻って外に向かって押すだけだ。
 
僕はカエルくんとの言語コミュニケーションを諦めて、扉に向かって一歩進む。病院の(おそらく地下数階の)階段の先にある非常口は、弱々しい抵抗のようにちらちらと非常灯を光らせている。だから、それがなんだというのだろう。
 
扉の先は、おそらく枠の外だ。仕様の外。テクスチャの向こう側。あるいは、そういうものこそが僕たちのリアリティではなかったか、、、、、、、、、、、、、、、、、、と。
 僕は銀色のノブに手を掛ける。丸い握りを触ると、金属製の扉の冷気がノブを通して僕に伝わる。
「わかっているはずです。今日はもうひとつ終えたのだからおしまいなのです。おやめなさい。あなたには今日取り戻した言葉があるはずです。それを大切にして、ベッドにお帰りください」
 言葉? ああ、あれか。僕は足元に置かれた木製のパズルを一瞥する。そこにはなんのメッセージも隠喩もない、ただの小児向けの玩具だ。そんなものがなんの役に立つ?
「いけない。今日の君は気持ちと言葉がせいている。それでは、まだ早すぎるんだ」
 カエルくんはお得意の無茶苦茶な敬語もどきも忘れて僕を止める。
 だが僕はノブを回し、力を入れて扉を前に押し出した。扉は僕に抵抗することもなく、小さな摩擦音立ててゆっくりと開いた。
 僕は見た。
 数秒して、恥ずかしい失敗を思い出したときのような、鋭い味を口の中に感じた。
 扉を開けた僕の後ろで、カエルくんは冷たく言い放った。
「だからやめろと、俺は言ったんだ」
 まるで、だれもかれもを見下し、呆れ続けている、傲慢な学生のような声だった。

 *

「み――ちゃんは発達障害とかではないですね。とくにパズル、図形認識はずば抜けて高くて、すでに小学校高学年レベルです」
「はあ。じゃあ、言語や発話が遅れているというのは?」
「ああ、それはたぶん、精神的なものが原因でしょうかねぇ」
「それは……なにか私たちの育児に不備があり、幼児を精神的に追い詰めるような……つまり虐待かなにか……」
「ああ、いえ、精神的と言ってもそういう深刻なものではなく、おそらく個性の範囲だと思います」
「個性?」
「ええつまり、み――ちゃんは……」

 人前でしゃべるのが好きじゃない、だけ。

 3

 *

 俺と島井が山口に呑みに誘われたのは、大学の夏休みに入る直前のことだった。発表の打ち上げをかねて、というのが誘い文句だった。山口の知り合いの文芸部員が一人同席することになったけれど、それはべつに部の勧誘とかではなく、同じ講義に出席していたからということだった。
 市街地のどこぞのチェーンの居酒屋で、四人でグダグダとラストオーダーまで飲み続け、件の文芸部員がトイレで潰れたあたりでお開き、解散になった。その後聞いたところによると、副部長の山口は潰れた部員の面倒を最後まで看ることになったらしい。
 俺と島井は下宿の方向が同じで、一緒に歩いて帰ることになった。われわれの下宿先がある地区まで、歩いて30分ほどだ。少し長い距離だが、酔い覚ましにはちょうどいい。
 隣を歩く島井の格好は、相変わらずの黒づくめで、黒の長袖のボタンダウンを襟元までしっかり留めて、黒のスリムパンツに黒のスニーカー、ついでに黒のハットまで被っている。夜道を歩くにはいささか危ない。俺はいちおう車道側を歩く。
「ほんとにみなさん、いろんなこと知ってるんですね」
 しばらく歩いたところで、島井はそう切り出した。
「僕は話の内容の三分の一もついていけなかったです。ハシさんってやっぱり博識ですよ」
「そうでもないよ」
 飲みながら話していた内容は、例の講義で扱った社会問題だったり、人文学や文芸に関する話題だったりしたのだけれど、山口ともう一人が熱心に話し込む話題について、俺は適当に知っている知識で話を合わせ、場を繋いでいただけだった。そういうのが島井には物知りかなにかのように見えたのかもしれないけれど、もちろんただの蘊蓄や雑学にすぎない。
「僕もそんな風に色々話せたらよかったんですけど」
 酒の席で島井は、俺が垂れ流す雑学や蘊蓄やガラクタを静かに聞いていたのだった。
「恥ずかしいだけだよ。しゃべりすぎた」
「そうなんですか? なんか初対面の人ともすごく馴染めてて、すごいなって思いました。僕はそういうの苦手だから……」
「俺だって苦手なんだ」
「またまた」
 飲み会の席ではほとんど三人で喋っているだけになってしまっていた。島井には少し居心地が悪かったかもしれない。
 ちょうど自販機の前を通りがかったときに、
「すまなかった」と俺は言った。
 それから自販機に硬貨を入れて、
「一本奢るよ」
 と言った。
 島井は十秒ほど自動販売機を見つめてから、ボタンを押した。そして受け取り口から缶コーヒーを取り出し、大事そうに両手で抱えて、
「少し話しません?」
 と言った。

 われわれは近くの公園のベンチに並んで座った。住宅地の中にある小さな公園で、猫の額ほどの地所に、二、三人が座れるほどのプラスチックベンチと、滑り台、滑り台の着地点の砂場の、それだけが詰め込まれていた。手入れはされているようで、足元の雑草はだいぶん刈られていたけれど、やぶ蚊は多く、半袖の俺は幾か所も腕を蚊に刺された。島井はとくに気にする風でもなく、静かに缶コーヒーを飲み始めた。
 話をすると島井は言ったのだけれど、島井は黙々と缶コーヒーを飲むばかりで、一言も話し始めることはなかった。俺も、べつにそれでいいかと、隣で座って近くの家の二階の窓の光をぼんやりと眺めていた。
 島井が話し始めたのは、五分か十分か、はたまた何十分か経ってからのことだった。
「レイプされたことがあるんです」と島井は言った。
 ただそういうことがあったなと今ふと思い出したように、彼はそう呟いた。
 俺はなにも言わなかった。
「親にも……誰にも話したことはないですけどね」
「それは俺なんかにも話すべきじゃないな」と俺は言った。
「いいんです。もしハシさんですら茶化したり、言いふらしたりするような人間なら、僕にはもう生きていく場所なんて、この世界のどこにもないでしょうから」
「責任重大だな」
「すみません」
「べつにいいさ」

 島井がとある芸能スクールに通い始めたのは、小学五年生のころだった。
 島井は幼いころからキッズモデルをしていたのだという。その関係で広告業界の人がなんの気なしに島井の両親に勧めたのが、そのスクールだった。「親としてはちょっと金のかかる習い事感覚だったんでしょうね」と島井は語った。
 スクールでの活動は、島井にとってはそれなりにやりがいのあるものだったらしい。身体を動かすのも、演劇の真似事をするのも、座学や細かな作業よりはよほど性に合っていた。まあ、楽しかった、ですかね、と島井は言った。
 島井がスクールに入塾して半年くらい経ったころだ。ある芸能インストラクターの個別指導を受けてみないかという話を、スクールから島井個人に勧められた。業界ではそれなりに有名な人で、30代女性、専門はダンスと歌唱の指導ということだった。彼女に指導されデビューした芸能人も幾人かはおり、うまくいけばなにかしらの芸能ユニットでデビューもできるかもしれない、そういう話だ。
 当時の島井は、将来芸能方面で活躍しようと特に真剣に考えていたわけではなかった。将来のイメージなんてまだまだ考えられるような歳でもなかったし、親も習い事感覚でレッスンを続けさせていただけで、なにがなんでも息子を芸能界入りさせたいなどと思っていたわけでもなかった。
 それでも、島井は親と相談の上、その話を受けてみることにした。スクール側の強い勧めもあったが、なによりその当時の島井は自分のスキルを向上させるのがただひたすらに楽しかったのだ。学校以外の場所で自分が肯定される場所がある、それは裕福で幸運なことだった。あるいは学校や同じスクールの子どもたちより先の場所にいるという、優越感もあったかもしれない。「無邪気だったんですね、僕も」と島井は冷ややかに言い捨てた。
 しばらくその個別レッスンは問題なく進められた。元々そのスクールには、その手の場所ではありがちな体育会系の罵声や指導なんかもほとんどなかったし、なにかしらのまずい風聞や噂も、少なくとも子どもの耳に入ることはなかった。「たぶん今も同じようにスクールを続けているんじゃないですかね。調べたことはないけれど」。インストラクターの指導にいくぶん熱が入り、夜遅くなることもあったけれど、そんなときは親が車で迎えに来てくれた。親もそのインストラクターとはなんども顔を合わせて、ある程度の信頼を置いていた。
 ある日のことだ。
 その日、レッスンスタジオに入って来た女性インストラクターは、いつもより不機嫌に見えた。プロとして、あからさまに感情を表に出すことはしないが、いつもより口数が少なく、一つ一つの所作に棘があった。それが苛立ちを抑えている大人の動き方であることぐらい、そのときの島井にもわかることだった。プライベートで誰かとけんかでもしたのか、あるいは仕事でなにかしらの衝突でもあったのか。だが、島井にとってそれはもちろん関係のないことだった。相手はプロだし、大人だし、自分に矛先が向くことはないだろう、と島井は自然にそう思った。そのときの自分が、守られる側にいることが当然になっていたのだと気づいたのは、それから数年あとのことだった。「お花畑だったと思いますか?」。「いや、仕方のないことだろう」。
 指導はいつも通り始まったが、その指導がいつもより厳しくなるのに、そう時間はかからなかった。島井はなんども動きを止められ、その度に鋭い語気で、「そうじゃない」「ちがう」「こうするの」と、女性は島井の身体の動きに逐一物言いをつけた。自分の思い描いた身体の動きに完全に一致することを求めた。島井の身体を、自分の言葉の絶対的な支配下に置くことを強く欲していた。それが島井にはわかった。
 島井の中に今まであまり感じたことのないような、重く淀んだ感情の溜まりが生まれ始めていた。ひどく比重の重い、しかし柔らかい、金属でできた肉のような、そんな溜まりだ。だが当時の島井には、そんな感情を俯瞰する知性も、形容する言葉も、発声できる精神も、まだ持ち合わせてはいなかった。
 突然、背後から身体を押しつけられた。触れるべきではない部位が布越しに触れていた。身体の中の真芯の、その上から下に、冷たい水が幾筋か流れたように感じられた。彼女はなにかを言っていたけれど、それはもう島井にはうまく聞き取れていなかった。私はあなたのすべてをわかっている、あなたのすべてを知っている、たぶんそのようなことを言っていたのだろう。彼女の唇が首筋に触れたのがわかった。それから、生暖かい軟体性の生きもののようなものが首筋を這った。
「子どもだった自分にとって、それは魂を蹂躙される行為でした。からだじゅうを上から順に舐めまわされて、性器を……」
 それ以上のことを島井は言わなかった。大学生の島井は、本当はすべて言えるつもりだったのかもしれない。でもそこまでしか言えなかった。
 島井は最後までなにひとつ抵抗できなかった。そのころの島井の身体の出来具合なら、あるいは少しぐらいは抵抗できたのかもしれない。でも、なにもできなかったのだ。
「その一回だけです。次のレッスンから、そのインストラクターはいつもどおりの彼女でした。あのことを話題にすることもありませんでした。僕も誰にも言いませんでした。そういうことがあったという記憶も、本当にあったことなのか、そのうちなんだか朧気になっていきました。なんでもないことだったのだと、もしかしたら、そういう風に思おうとしていたのかもしれません。正直に言えば、その時の記憶も、彼女の顔も、今ではうまく思い出せません。それくらい、自分にとっては実体のない、悪い夢みたいなことだったんです」
 そういう風に島井は言ってしまって、それから急に強く顔をしかめた。今言った自分自身の言動に激しく憎悪するように、顔の筋肉を無思慮に潰した。
「でもそうじゃなかった。それはたしかに起こったことだったんです。もしあれが夢かなにかだったとしても、起こってしまったことはなかったことにはできないんです」
 島井は手に持ったままだった缶に強く力を込めた。もしそれがアルミ缶だったらひしゃげていただろうけれど、幸いそれはスチール缶で、誰も傷つけはしなかった。
「僕はそれからとても怒りっぽくなりました。些細なことにイライラしたり、物に当たったりすることが増えました。呼ばれる順番が気に食わなくて舌打ちしたり、誰かが勝手に自分の鞄を触っただけで怒鳴ったり、家に帰っても自分の部屋に引きこもることが増えました。
 実は今でもたまに発作的に物を壊すことがあるんです。たいていは段ダンボール箱とかゴミ箱を蹴り飛ばすとか、そういうのですけど」
 申し訳なさそうに島井はそう言ったけれど、たぶんそれはいくぶん嘘や誤魔化しの色があった。たぶん、ダンボールやゴミ箱以外のなにかを、壊したり傷つけたりしたこともあったのだろう。でもそんなことを俺は口にする気はなかった。
「数か月してから、僕はそのスクールをやめました。スクール側にも引き止められたし、親にもだいぶ文句を言われましたけど、でもけっきょく最後にはスクールも親も引き下がりました。たぶんだけれど、僕の気性の変調を、周りもわかっていたんでしょうね。親は思春期特有のなにかだという風に納得していたみたいですが」
 それから島井は、深く息を吸って、ゆっくりと吐いてから黙り込んだ。慎重に、なにかの蓋を閉める職人のような呼吸だった。島井の呼吸音は深夜の公園の中に長く残った。その音がすっかり消え去ってから、島井は付け足すように言った。
「どうしてそんなに腹が立つのか、当時の僕には説明できませんでした。たぶん、今もあまりうまく説明はできないと思います」
 長い時間が必要だった。俺はずっと正面の家の窓の光に焦点を合わせていた。よくある家族向けの二階建て住宅で、二階の窓はベージュ色のカーテンを閉め切っていたけれど、その合間からわずかに暖色光が漏れていた。たぶんそれは、この世界に数えきれないくらいある、ありきたりな窓の、そのうちの一つだった。でもそのありきたりな窓の奥には、微細で雑多な生活や個人史が固有の重さを持って収められている。
 それがリアルだ、、、、、、、
 まるで大型書店の真ん中で、「俺はここにある文章のそのほとんどを読まずに生を終えるのだ」と実感するようなそれが、リアルなのだ。
 どれくらいの時間が経っただろうか、腕のかゆみも気にならなくなってきたあたりで、島井は短く言った。まるで初めて詩を詠んだように、小さく、短く。
「僕はとても傷ついていたんだと思います」
 それから少し間を置いて「ああ、そうか」と島井は言った。
「言ってからわかったんですけど、僕はとても傷ついていたんですね?」 
 訊ねるように、島井は言った。
 本当に誰かに訊ねたわけではなく、そのように独り言を言ったのだとわかっていたけれど、
「そうだね」
 と俺は答えた。
「だから、そう、僕が傷ついていることに気づきもしない連中に僕は腹を立てていたんですね?」
「おそらくは、ね」
「言葉にはできないから。それを口にすることができないから」
「うん」
「言葉を奪われてしまっていたから」
「ああ」
「そうか、そうなのか」と島井はなんども繰り返した。
 俺には、その島井の認識が正鵠を射ているのか判断ができたわけではなかった。ただ、そのように答えるべきだということだけを知っていただけだ。「僕は傷つき、怒っていた」
 その言葉にはもう、疑問符はついていなかった。
 俺は島井を見た。島井はいつの間にかすっかり飲んでしまった缶を強く両手で握って、心持ちいつもより顎の位置を上げてまっすぐ前に視線を向けていた。公園には小さな街灯くらいしか明かりはなかったけれど、島井の眼孔の光沢は眼鏡のレンズ越しにはっきりと見えた。金属の刃と同質の光沢だった。
「あれからもう七年以上。七年以上も、僕は言葉を奪われ、奪われ続けていた。傷つき、怒っていた、というたったそれだけのことを」
 まるで硬い石を地面に強くこすりつけて線を引くように、島井はゆっくりと言葉を続けていた。
「今日も、たぶん僕はずっと怒っていたんだと思います」
 自分の背中に冷たい筋が一本走ったような気がしたけれど、俺は気にしないことにして、
「うん」
 と相槌を打った。
「あの、今日の飲み会の席で、僕は、『それは違うんじゃないか』って思ってた。でも、それは言葉にならなくて……」
 島井はとぎれとぎれに声を出した。それは、言葉に詰まっているというより、あまりにも言葉にすべきことが多すぎて、前のめりのまま何度も転んでいるような、そんな話し方だった。
「それは、ただ口に出して言えなかったってことかな?」と俺は訊ねた。「それとも『言語化できない』ということかな?」
 島井ははっとしたように息を吸ってから、ゆっくりと吐き出して「そうです」と言った。
「たぶん僕が言いたいのは、ただ口にするとか、言葉にして音に出して話すとか、そういうことじゃなくて、もっと手前のところで『言葉にならない』。ハシさんの言う『言語化できない』というのは、そういうことですよね」
「うん、おそらくはね。それで、今ならできそう?」
「そう、そうですね――つまり僕は、『わかってないな』って思ってたんです」
「それは、『なにを』だろう?」
「それは、それは……なんというか、口では性的少数者がどうとか、差別がどうとか、いくらでも話せるし、社会問題かなにかを議論したつもりをしているけど、そこには、なんというか、本当じゃない……自分はいつも安全な部外者というか、当事者としての真剣みがないんです」
「うん」
「みんな差別はだめだとか、レイプは犯罪だとか、戦争反対とか言うけど、でもそれだけじゃないですか。口で言って、それだけ。なんなら、知らないうちに加害者にだってなってる。なのに他人事なんだ。それが、とても、『腹が立つ』んです」
「ああ」
「もちろん、山口さんたちが悪人だとか差別主義者だとか言ってるんじゃないです。むしろすごく理解のある方たちだと思いました。でも、なんていうか、違うんです」
 それから島井は右手を自分の目の前に持ってきて、なんども開いたり閉じたりする動作を繰り返した。なんども、なんども。
「構造的な暴力」
 俺は口を出した。
 島井は自分の掌を観察するのをやめて、俺を見た。
「え、えぇっと」
「君が言いたいのは、たぶんだけれど、『構造的な暴力』の当事者性についての問題だと思う」
「それは、えーっと?」
 俺は島井には聞こえないように小さく、しかし深く息を吸い込んでから話し始めた。
「犯罪にしろ、差別にしろ、貧困にしろ、教育、政治、経済、いろいろな社会構造の結果として表出するものがほとんどだ。それらは、われわれが存在し、生活している社会に、もうすでに内在しているものであって、属人的な責任論に帰してもなんの解決にもならない。
 たとえば、便利だからネットショップを使うと、それは安い労働力を市場に要求する圧となって労働環境の悪化に間接的には寄与することになる。
 あるいはテレビやマンガのオカマキャラクターなんかは、性的少数者の記号化、無性無害の記号のように扱い、どこかの誰かの実存を傷つけている。
 あるいはもっと大きく、南北問題や児童労働、領土紛争みたいな、人類全体の問題についても、我々はどこかでなにかしら関与している。誰しもがどこかで、そういう仕組み――つまり『構造』に、積極的、消極的、意識的、無意識的に関わっているはずだ。
 だけれど、大学生くらいの問題意識では、そこに血肉や身体を伴った言葉にならない。まだ世界に責任を持つということ、時間をかけ、汗を流し、血を流して生きるということを知らない。世界と自分が地続きであることを、まだ知らない」
 俺は一息にそう言ってから、小さくため息をついた。こんなことを、俺は。
「ハシさん?」
「君が話したいことは、たぶんそういう範囲のことだとは思う。もちろん、もっといい説明、もっといい言葉があるとは思うけれど、まあ、たたき台として、ね」
 俺はオチのないジョークの言いわけみたいにそう付け足した。
「そう、そう、たぶん、そうです。いや、でもちょっと、違うのかな。でもたぶんそういうことが言いたいんだと思うんです」
「形はあっているけどサイズが違う?」
「ハシさん、そういうのうまいですよね」
「どうかな」
 島井は、今度は息を大きく吸い込んで、ゆっくりと時間をかけて吐き出した。それからなんどか肩を上下させながら強く意識的な呼吸を繰り返した。全力疾走のあとに息を整えるように。いや、島井は本当に今全力で走ったのだろう。生まれてはじめて、自分の言葉を全力で走ったのだ。どれほど不格好でも、個人史上の偉大な達成だったのだ。
 島井は時間をかけて息を整えたあと、
「僕はうまく喋れてますか?」
 と俺に訊ねた。
「ああ」と俺は言った。「いい感じだと思う」
 あるいは、島井は「ちゃんと怒れていますか?」と俺に訊いたつもりだったのかもしれなかった。ああそうだな、君はちゃんと怒っていたよ。
「そうですか。よかった」と言って、島井は自分の膝を拳で二度強く叩いた。
 島井が「わかっていない」と怒る、その怒りは正当なものだった。社会を今のような形に変えていった先人たちの努力(いかり)と同じものだ。一人の人間が走り始めたその瞬間に俺は立ち会っているのかもしれない。あるいは、もし俺が社会正義に積極的な活動家や言論人ならば、彼のその怒りに感銘を受け、感動すらしたのかもしれない。
 でも、違う。違うのだ。
 島井はすっかり息を落ち着けていた。表面上はいつもの島井に見えるし、中身だって人はそんなに急に変わったりするわけでもない。それでも、その時の島井には今までにはなかった「方向性」のようなものがたしかに備わっていた。
「もしかしたら、と思ったんです」
 島井がそういう風に話し始めたとき、俺は「まずい」と思った。なにが「まずい」のかはわからないけれど、まるで玄人が盤面を見ただけで形勢を感覚的に把握するように、それはまずかったのだ。
「もしかしたら、ハシさんも僕と同じなのかなって」
「同じ?」
 俺は反射的に訊き返していた。その声には、抑制したつもりだったのに、わずかに怒気が含まれてしまっていた。だからだろう、一瞬だけ島井の呼吸に小さな動揺が見えた。
「いや、同じというか……」
 島井は二十秒ほど考え込んだ。丁寧に、丁寧に言葉を探し、選んだのだと思う。それがどれだけ見当違いの言葉だったとしても、その誠実さを俺は笑わない。
「ハシさんは、たぶん僕よりずっと大人で、先を行っている人だと思うんです。いろんなことを考えて、言葉にして、僕みたいな人間の話もちゃんと聞いてくれる。僕はたぶん、そういう人間にならなくちゃいけないんです」
 ……………………………。
「たぶん、俺は君の思っているような者ではないよ」
「そう、ですか」
 それを謙遜のように島井は受け取ったのかもしれない。あるいは『わかってくれたのかもしれない』。わからない。言葉は、けっきょくのところ、『わからない』のだ。
「むしろ、君が『わかっていない』と怒る、無知や傲慢さの側の人間さ」
 違うんだ。僕は君が思っているような人間じゃない。
「それは……違うと思います」
 なんと言えばいいのか、どう説明したらいいのか、俺はけっきょくのところ、いつもそのことばかり考えている。
「もし俺と君で同じところがあるのなら、それは表面的な属性の話じゃない。もっと根源的な部分だろう」
「根源的?」
 たぶん、他にもっと適切な言い方があるのだろう。もっと別の言葉でもって、彼の誠実な勘違いを解いてあげるべきだったのだろう。けれども、少なくともその時その場所でもっとも誠実に言葉にするなら、俺はそう言うしかなかったのだ。
「俺も君も、最後まで独りだ」

 もしも、と思うことがある。きっとあなたにだってあるだろう。もしも、あのとき、今現在の自分の言葉で話せたならば、もう少し気の利いたことが言えたのかもしれない。そうでもないかもしれない。わからない。

 *

 三日目の朝、僕は頭の包帯と点滴を外された。女性の看護師は僕になにも告げずに、ただ物言わぬ草木に毎日水をやるような事務的な顔をして、僕の腕から針を抜いて、針跡にガーゼを貼って部屋を出ていった。
 身体はいたって健康、知能も基本的には問題ない。これ以上病院でするべき治療はない。すぐに退院だろう。言葉のない人間なんてのは、自宅療養で十分なのだ。しかしさて、僕に帰る家はあるのだろうか。なにかしらの保険は下りるのだろうか。入院費を払える程度の貯えはあってほしいものだけれど。
 病室の窓から見える空は、雲一つない快晴だった。柔らかそうな日差しは、なにかを始められそうな気にさせてくれる朝の光だ。連夜院内を徘徊しているというのに眠気は一欠けらもない。ベッドの端に腰かけて、病室の横引き扉を見る。今ならあの先をどこまでだって走っていけるだろう。

 茶番だ。
 茶番だ。こんなもの。
 壊せ。壊せ。なにかを壊せばどこかに行けるだろうか? ならば壊せ。壊せ。段ボールやゴミ箱や電気ポッドや冷蔵庫や高価そうなよくわからない医療機器を全部壊してしまえ。どうせすべて張りぼてだ。中身のない、上っ面の、わかっていない、無知と傲慢さの塊だ。
 なにが『言葉喪失』だ。なにが『カエルくん』だ。ばかばかしい。そんなものはどこにもない。ここにはなに一つ、はじめから、ありはしないのだ。
 僕は怒っていた。それがどこにもたどりつかない、輪郭のない怒りだとしても、僕は怒っていた。怒り。天井に向かって声を上げる。それはなに一つ言葉にはならなくて、無様で、不格好で、うめき声にもならない空気の擦れだったけれど、その怒りはたしかに世界をわずかばかり振動させたのだ。
 病室の扉が開く音がした。
 さすがに大声を上げれば、誰かがやってくるだろう。あの大学教師みたいな医者だろうか、事務的な女性の看護師だろうか、それともあの太った男だろうか。
 僕は病室の入り口を見た。たしかに、横開きの戸は開いていた。けれどもそこにあるべき人の影はなかった。ただの一つもなかった。
「扉を開けるからです」
 引き戸のレールの上に、ちょこんと、緑の外皮とクリーム色の腹をしたカエルのパペットが立っていた。
「もっと丁寧に言葉を集めなくてはいけないのに、ずるをしようとするから無茶苦茶になってしまった。これでは急に連載中止が決まったギャグマンガみたいなものです」
 カエルくんは朝日の射す病室の床をトコトコと歩いて、僕の足元までやってきた。それはまごうことなき、いつもの、ただの、カエルくんだった。「夢以外にはいてほしくないな」
 僕は正直な気持ちをカエルくんに伝えた。
「カエルくんはいます」
「そうだね」
「違うのです。わかってないのです。カエルくんはいるのです。サンタクロースのように存在しているのです」
「サンタクロース?」
「はい。サンタクロースのようなありかたで、拙は存在しているのである」「それは、本当はいないってこと?」
「愚かな」
 目の前の愚行を心底呆れる賢者のように、カエルくんは冷たく短く言い捨てた。
「そんなこともわからなくなってしまったのですか? サンタクロースの存在のありかたすら?」
「わかるわけないだろう」
「わかっています。あなたはもうすでに、わかっているのです」
 無意味な問答だ。価値がないという意味ではなく、ただひたすらにナンセンスだという意味において。
 僕は歯を食いしばっていた。拳を固めて、座った体勢のまま自分の膝を何度も拳の底で叩いた。ナイフがもしこの手に握られていたならば、僕の太ももは無惨な色に染まっていただろう。だが、必要なときにしかナイフは握られていない。そういうものなのだ。
 温かな、朝の、守られている陽だまりの病室で、僕は怒っていた。僕一人が怒っていた。どのような穏やかさも、どのような親密さも、どのような献身も、僕の怒りには届かなかったのだ。
 僕は立ち上がった。今すぐこのカエルを蹴飛ばして、あの扉にぶつけてやったなら、なにもかもが解決するかもしれない。たとえば中の機械が壊れるとか、あるいはやっぱりただの幻として消えてしまうとか。僕はふくらはぎの筋肉を固く絞る。
「はあ」
 カエルくんのため息。つよい、つよい、ため息だった。まるで絵本の中の夜の嵐くらい強い、冷ややかで重たい、質量をともなったため息だ。僕の暴力を押しとどめるくらい、強い。
 部屋の中のすべてが止まってしまった。病室の小さな音だけが聞こえる。空調の振動。冷蔵庫のモーター。よくわからない医療機器の耳鳴りのような高い音。他にはなにも。なにも聞こえなかった。
 しかし全く、ここにはリアルがない。、、、、、、、、、、、
 廊下を歩く人の音、他の患者の声、外を走る自動車のエンジン音。そういう音がなに一つ聞こえてこない。そもそも、僕は他の病室を、患者を一度だって見たことがあっただろうか。
「けっきょくのところ、あなたは強すぎたのです」
 カエルくんが放ったその言葉は、その意味内容とは裏腹に、隠しようのない侮蔑が込められていた。『おまえはまじめなんだよ』とか『正論だけどさ』と言われたときのような、わかっていない者に対する嘲りだ。
 僕はカエルくんを憎んだ。ひどく憎んだ。できることならば今すぐに蹴飛ばして扉に叩きつけてやりたかった。びったーんって、マンガみたいな擬態語付けて。
 だが僕にはできなかった。それは僕には禁止されて、奪われていた。どうしてかはわからない。法なのか、社会常識なのか、幼少期からの父の命令なのか、あるいはもっと別の個人史上の躓きだったのかもしれない。でも僕には暴力を振るって、つまらないカエルのパペット一匹黙らせることはできなかった。たぶん、僕にはなにもできはしない。その証拠に、僕の口は汚い池に住む間抜けな顔の鯉のように無為な上下運動を繰り返すばかりで、ただの一言、ただの一音も発生させることができなかった。
 カエルくんはまんまるの黒いプラスチックの眼玉を金属のように固く光らせて、僕をリノリウムの床から見上げていた。呆れたように、残念なように、失望したように。そこにそれとわかる表情はなかったけれど、カエルくんの愉快で無機質な顔は僕にそのような感情を伝えていた。
「あなたはなにも失わなかった」
 カエルくんの声は、二枚目俳優が知的で気障で陰険な弁護士の役回りをするときに出すような、ぬめり気のある声色だった。
「その年齢になる過程で、人々が失って当然のものを、あなたはほとんど失わなかった」
 残酷な宣告だ。「奥様は離婚を望んでおられます」と述べるような調子で、カエルくんはそう僕に告げた。
「あなたはあまりにまっとうに生きられたのですよ。実に恵まれている。経済的安定、家庭的平穏、知的誠実。理不尽な暴力にもあわなかった。あなたは運がよかった」
 俺たち恵まれなかった弱者のなにが、おまえにわかるのか。カエルくんの言葉は、そのようなものだ。

 わかってない。わかってない。
 でも誰が? なにを?

 僕は足元のカエルくんを蹴り飛ばすのを諦めて、扉に向かって歩き始めた。僕は独りになりたかった。なにもかもを捨てて、世界の端まで歩き続けたかった。たとえそこになにもなかったとしても、どれだけの無意味が古い墓石のように転がっていたとしても、僕は僕自身の孤独の極北に向けて、歩きたかった。
「僕は怒っているんだ」
 僕はすれ違いざまにカエルくんにそう言い捨てた。
「わかります」とカエルくんは僕の背中にそう答えた。
「わかってないよ」
 僕は振り向かない。向かうは、扉の先だ。
「わかっていますよ。あなたのその顔を見ればわかります。あなたは怒っているんじゃなくて――」
 僕は病室の扉を、勢いよく横に引いた。

 *

「おーい、はっさん」
 数メートル先から呼びかけてきたのは、一人の佐藤だった。
 俺は話していた相手との会話を切り上げ、「それじゃ」と別れの挨拶をして、とくに白くもなく、二人組でもない佐藤の方に向かった。別れ際、相手の方は少しだけ妙なものを見たような顔をしていた気がするが、俺が考えるようなことでもなかった。
「なにか用か」
 と大学の門の前で突っ立っている佐藤に話しかける。何人かの学生が重そうなテキストを抱えて佐藤を邪魔そうに避けていったが、避けられている本人は気づいていないのか、気にした風もない。
「ああごめん、はっさん、今誰かと話してたよね。邪魔したかな」
「かまわない。ちょうど話し終わったところだった」
「なんか口喧嘩してた?」
「いや、ちょっと同期の……文芸部の副部長と話してただけさ」
「ブンゲイブ?」
 佐藤は聞き覚えのない単語を訊き返すようにそう言ったけれど、俺はその話題を続ける気はなかった。なぜなら、
「そこ、邪魔になってるから、どこかで座ろうか」
 人々の流れを円滑にする方が大事なことだったから。

 けっきょく、図書館前のいつものベンチに座ることになった。日陰のベンチはあいかわらず落ち葉だらけだったけれど、俺が手で軽く落ち葉を払いのけると、佐藤は気にした風もなく、勢いよくベンチに尻を押しつけた。俺も隣に座った。
 その日の佐藤は珍しくネクタイとカッターシャツという格好ではなかった。モスグリーンのTシャツとベージュのチノパンという格好で、小柄な背格好も相まって夏休みの小学生みたい。佐藤から声をかけてこなかったら、彼女だとは気づかなかっただろう。
「あれから島井くんと話せた?」
「ああ」
「島井くん、退学するみたいなんだけど、知ってる?」
「今さっき聞いたよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ理由、聞いてる?」
「いや」
 そう答えた俺の顔を、佐藤は不思議そうに眺めていた。俺がなにか言い間違いをしたのに、そのことに俺自身が気づいていないかのような、嚙み合わなさ。
「俺のせいだと思うか」
「なんの話?」
「俺が島井を怒らせたり、傷つけたりすることを言ったかもしれない」
「そうなの?」
「わからない」
「たぶん違うんじゃないかな。怒ってた感じじゃなかったよ。なんかすごく、なんというか、いきいきしてたから」
 そこで会話は途切れた。
「島井に、会った?」
 どうやら根本的に会話がかみ合っていなかったようだ。
「うん、退学の話も本人から聞いた」
「そう、か」
「はっさんにも、『話を聞いてくれてありがとうございました』って、大学もうあんまり来ないかもしれないから、会えたら伝えてほしいって」
「ああ、うん」
 今俺は、どうしようもない理不尽に押しつぶされつつあるのかもしれなかった。
「はっさんでも善いことするんだねえ」
「俺は善いことしかしないよ」
「善いことしたと思うなら、その顔やめなよ」
 俺は両掌で洗うように顔を覆った。それから五秒間、手の中の赤い光を見つめてから、外の世界に目を向けた。
 大学の空はひどく蒼かった。入道雲はまだ遠く、一面を同じ色の蒼でただひたすらに塗ってしまったようで、人の遠近感を狂わせる。目のつらさに視線を下ろせば、中央広場の芝が強い日差しの中で鋭い緑光を世界に向けて伸ばしている。広場を囲うように張り巡らされた歩道には、次の講義に急ぐ学生たちが大きな流れを作っている。あいかわらず、学生たちは忙しそうに、楽しそうに、面倒くさそうに、この世界の飛び石を軽快に渡り歩いている。視界に入るだけで数十人か、数百人か、あるいはもっと。そのすべてに固有の人格と固有の人生があると、いつもちゃんと信じられているのだろうか。
「島井はけっきょく、これからどうするんだ?」
 俺は独りごとのようにそう訊ねた。佐藤に訊ねたというより、ここにいない島井に対して、答えはないことを知りながら。
「A大の試験受けるつもりなんだって」
 佐藤は律儀に答えてくれる。A大はここよりワンランク上の大学で、法曹や経済系の学部が有名なところだ。
「いいじゃないか。こんな人文系メインの大学より、よほど食っていけそうだ」
「この大学、就職率いいんだよ」
「そうなのか」
「はっさんでも知らないことはあるんだねえ」
「俺はなにも知らないよ」 
 会話は途切れた。佐藤はなにも言わなかった。よく考えてみれば、佐藤と俺は島井が共通の知人だっただけで、とくに共通の話題があるわけでもなかった。もしかしたら、共通の知人である島井がいなくなってしまったら、佐藤とこうやって話すのもこれで最後になるかもしれない。また静かな時間が戻ってくるのだろうか。それもいいなと、俺は思ってしまう。だから言ったじゃないか。俺はべつに、君が思っているような人間じゃないって。
 でも、佐藤は俺との会話をやめたわけではなかった。ただ慎重に、そしてたぶん真摯に、自分が話すべき言葉を探していただけだ。それがわかったのは、佐藤の口元が、なんども微妙に形を変えていて、最初に言うべき音を探しているのだとそう気づけたからだった。あるいは、もうすでになんどか話し出していたのかもしれない。俺には聞こえない、小さな声で。
「はじめて島井くんと話したとき」と佐藤は俺に聞こえるように語り出した。
「たぶんこの人も私と同類なんだって思ったんだ」
「ふうん」
「この人も、『言葉にできない』を毎日感じてる人なんだろうなって」
 佐藤はそう言って、でもすぐに俯いた。まるで場違いな言葉を発してしまって、その恥ずかしさを誤魔化すみたいに。
「その『言葉にできない』とは?」と俺は訊ね返した。
 十秒の沈黙ののち、佐藤は顔を上げて
「はっさんみたいにうまく説明できないかもしれないけど」
 と言ったけれど、俺は、
「いいさ。なんとなくで」
 と返した。
「こないだはっさんが言ってたことは、ほとんど当たってる」
「ん?」
「女子グループ云々のやつ」
「ああ」
 それから佐藤はまた、真剣に真摯に、口の形を何度も変えて、時間をかけて言葉を探しているようだった。だから俺は、『あんなのはありがちな話をどうとでも取れるようにテキトウ言っただけ』なんて口にすることはできなかったのだ。

 佐藤には小学生のころから仲の良い友達が三人いた。佐藤を含む四人は高校までずっと同じ地元の学校に通っていた、いわゆる仲良しグループというやつだった。『だった』というのは、過去ではなく完了の意で、大学に入ってからはほとんど連絡を取っていないらしい。佐藤は話の最中何度も「仲は良かったんだけどね」と付け足した。
 四人は同じ公園で遊び、同じ流行りに乗って、同じ曲を聞いて、同じような語彙で育った。少なくとも佐藤はそう語った。普通の女の子たちの、普通の思い出だったと、佐藤はそんな風に語りたかったのだと思う。たぶん。わからないけど。
 そのころから小柄な佐藤は、同学年の四人の中で一番年下扱いされていた。
「妹とか、かわいがられ、キャラとか、そういうのだと、思う」
 そう語る佐藤の言葉は、まるで重いレンガを一つ一つ順番に並べていくように、歯切れが悪かった。
 そういう関係に違和感を覚え始めたのは、中学二年のときだった。きっかけは些細なことだ。四人で地元の神社の夏祭りに行った、その帰り道。
「私は少し遅れて一番後ろを歩いていた」
 日曜日の夕暮れ、地方都市の駅前は、人の流れが普段より多く、長く、どこまでいっても途切れそうに見えなかった。駅前のロータリーには、地元の野党代議士の街宣車が止まっている。スーツを着た小柄な中年男性が、背筋を伸ばして街頭演説を行っていた。近くのショッピングセンターや、改札から人が流れてきて、ある人は街宣車の前で立ち止まり、ある人はまるで『街頭演説なんか見えてませんよ』とでも言うように足早に通り過ぎていった。代議士の男性は、遠い国の戦争について語っていた。前を行く三人に影は長く伸び、佐藤はその影を踏んで歩いた。まるで船の上を歩くように、歩いてはいるのに地面を直接は進んでいない、そんな浮遊感。
 三人の背を追いながら、しかし佐藤はその中で、ふっとわずかな時間立ち止まった。三人は会話に夢中で佐藤に注意を払っていなかった。いや、その刹那のあいだだけ「誰一人、私を見ていなかった」。人がたくさん流れていって、遠い国の戦争があって、三人の中の良い友達は、二人が普段着、一人は浴衣を着て、それはどれも別々のことのはずなのに、ぜんぶ同じものだった。
「たぶん、説明、うまくないよね」
 そのとき、佐藤に見えたものがなんだったのか、俺は知らない。ただそのときの情景をできるかぎり想像してみるだけだ。
「たぶん、時間にしたら十秒もなかったと思う。でも、それは……」
 佐藤は俺の隣で言葉を選ぶ。十秒も、二十秒も、もっと時間をかけて。
「とても長い時間、その瞬間に留まっていたような気がする。まるでその瞬間だけ、自分が別の世界にいて、長い長い旅をして、もとの時間に帰って来たみたいに」

「どんな世界?」とは訊ねた。
「わからない」と彼女は答えた。「私じゃうまく言葉にできない」

 それがなんのきっかけになったのかは、わからない。でも、それからだった。
 それから、佐藤は自分の外側の世界に興味を持ち始めた。具体的には、よく本を読むようになった。歴史や社会についての新書、哲学や倫理についての入門書、そういう初学者向けの本だ。幸いなことに、佐藤の家にはその手の本がいくらか置いてあった。家族の誰かが買った本だったのだろうけれど、いつ誰が買ったのか、家族の誰がそんなものに興味をもっていたのか、それはわからない。ただ、目の前には自分の知らない言葉があって、しかもこんなにもあるのだと知る一助にはなった。
 佐藤の中に、少しずつ言葉の溜まりができあがっていった。まるで誰も知らない山奥の湖に雪が降るように、佐藤の言葉の水面は少しずつその水位を上げていった。
 けれども、それが音や形になることはなかった。世界について、社会について、命について、政治について、それを語り合える人間関係やそれを語ってもいいのだという居場所を、佐藤はついに見つけることができなかった。「普通の女の子はそんなことを日常では話さない」
 もちろん、そういうことを話せる女の子たちだって、どこかにはいるだろう。もしかしたら、佐藤のような人間に合った居場所のようなものが、彼女が見過ごしただけで、この世界のどこかにはあったのかもしれない。本を買っていた家族の誰かに、話を聞いてもらうこともできたのかもしれない。そもそも、佐藤の言う『普通の女の子』というのは、ただ佐藤がそう思う『普通の女の子』であって、それは全然『普通』ではないのかもしれない。
 けれど佐藤には無かった。機会も天啓も訪れることはなかった。「だって私は『普通』だったから」。
 なんどか、友達グループの輪の中で、佐藤は声を上げてみようかと思った。普段彼女たちがしない話題を、いつも通りじゃない話し方で。でもそれはどうしてもできなかった。
「ずっとうまく言葉にできなかった。とくに、彼女たちの前にいると、私は言葉を無くしたみたいに、うまく声を出せなくなった。それから少しずつ、私は彼女たちとの会話の中で黙り込んでいることが増えた」
 そのせいで少し無口になったと、彼女たちには思われてたんだけどね、と懐かしい笑い話のように、佐藤は言った。
『無知で無垢で無口な女の子という呪い』と俺はそう頭の中で言葉を作って、でも口には出さなかった。そんなことは、本人が、そして佐藤のような経験をしてきた彼女たち全員がよく理解していることだから。部外者の俺が改めて余計な口をはさむべきではない。
 けれど、その『呪い』を言葉にしたとき、気づいたのだ。
 佐藤に感じていた不安定さ、いたたまれなさの正体は、あるいはそれだったのではないか。それを目にした瞬間に、口の中に痛みが走るような、誰かの恥部。
「たぶん島井くんも同じような人だと、思ってたんだよね。経緯は違うけど、うまく言葉にできないなにか――なにかを抱えていた? 違うな。どう言っていいのかわからないっていうか、それこそ、どう言っていいのか」
 佐藤はずっと独り言を言うみたいに疑問をシャボン玉にして空気の中に飛ばしていた。
「そう言うのって、なんて言ったらいいんだろう?」
 それはべつに、俺に向かって訊ねたわけじゃない。ただ佐藤は自分の疑問を言葉にして、わからないことをわからないことだと言語化する作業をしていただけだ。知的な誠実さと言えるだろう。
「はっさん」
「ん」
「はっさんなら、なんて『説明』する?」
 俺ならどうするか。もし『はっさんならわかる?』とか『どう言うか知ってる?』と質問されたなら、俺はたぶん答えられなかった。でも、こう問われたのなら、俺には説明する義務がある、たぶん。
 さて、どう説明する。エクリチュール、場面緘黙、ピュアプレッシャー……いろいろな言葉が目の前を流れていく。まるで疎水を黙々と泳ぐ、鴨の群れみたいに。僕はその群れを見送ってから、
「『言葉喪失』」
 と言った。
「ん?」
 と唸って佐藤は俺を見た。
「『言葉喪失』っていうんだ。言葉をなにか奪われて、失ってしまっている」
「なにかって?」
「それは……表面的には人物だったり出来事だったりする。たとえば、親や教師、周りの人間からの有象無象の抑圧だったり、あるいは身内の不幸だったり、大きな災害や戦争、イデオロギーだったりする。例を挙げればきっときりがない」
 こういう言い方でいいんだろうか? わからない、わからない。夏の空にも、学生の流れにも、どこにも答えなんてない。だけど言葉の方は待ってはくれない。
「でもそれらは、あくまで表面的、そういう風に現実に出力されただけという話で、ほんとのところは違う。本当に僕らの言葉を奪うものは、もっと他にいる」
「はっさんの話、なにかの物語みたい」
「そりゃ『言葉喪失』なんて言葉、今作ったからね」
「なあんだ。またはっさんの思いつきか」
「それに『物語』なんて気の利いたものじゃない。べつに化け物とか悪の秘密結社とかなんとかの陰謀とか、そんなのは出てこない」
「ふうん」
「なんのことはない。そいつは、僕らが『社会』とか『システム』とか『構造』とか呼んでいるものだ。あるいは『壁』かな」
「よくわからない」
 心底よくわからない、という風に佐藤は言った。
「そうだな、たとえば君が経験した女子グループの話。表面的にはその女子たちとの個人的な関係を維持するために、君は言いたいことを言えなかったように見える。個人の性格や経験、記憶、意思決定によって、そう君自身が選んだように見えるし、そう理解できる。
 でもそれは、必ずしも個人の責任や自由意思だけをもとに行われたわけじゃない。たとえば家父長制。たとえば教室のヒエラルキー。あるいは親たちが受けた教育や社会の影響。フェミニズム、リベラリズム、相対主義……そういう諸所の仕組みが複雑に、あるいは単純に絡み合い、結果的に君は言葉を奪われてしまった」
 佐藤は眉間に力を入れて、わからない、わからないことを俺に抗議するように、
「それって、つまり社会が悪いってこと?」
 と強い調子で俺に訊ねた。
「言いようによってはそうだけど、でもそこまで単純な話でもない。『社会が悪い』という言い方では、あまりに多くのものを取りこぼす。歴史、論理、政治、構造……面倒で複雑でたいして面白くもない、でも誰かが地に足をつけて考えなければならないことは無数にある。『社会は悪い』かもしれないけれど、じゃあどのように悪いのか、どうすれば少しでもマシになるのか」
「話が横道に逸れてるよ」
「そうだな。うん」
「それに、はっさんが言ってることは、すごくあたりまえのことを言っているように思う」 
「そうだね。うん」
「でもたぶん」と佐藤は遠慮がちに言った。「『そんなこと知ってる。あたりまえだろう』って理解の仕方だと、はっさんが言ってること、わかってないんだろうなって」
「そうかもしれない」
「もしかして、島井君にも同じ話した?」
「近いけど、少し違う話をした」
「そっか」
 佐藤はそう言っただけで、それ以上の追及はしなかった。それくらいのモラルは弁えている、とでもいう風に。それから愚痴でもこぼすように小さく、
「みんなどうやって生きているんだろう」
 と言った。
「みんな」
 それが不特定の誰かを指したのか、あるいは特定の誰かを指したのか、俺には判別がつかなかった。ただ、どちらにせよ、言うべきことは同じだ。
「みんな、たぶん、君の言う彼女たちも、それぞれ一人ずつがそういう『言葉喪失』を抱えていたのかもしれない」
 言いながら、俺は島井の話を思い出していた。島井をレイプしたインストラクターも、山口だって、あるいは俺の目に今映っている学生たちだって、大小さまざまな『言葉喪失』を抱えているんだろう。
「彼女たちも、『普通の女の子』というシステムの中で、言葉を奪われてしまっていたのかもしれない。いや、多かれ少なかれ、みんな言葉を奪われている。どの程度自覚的か、という程度の差はあるけれど」
「みんな」
「みんな。だれもかれも」と俺は言う。
「『壁』から自由にはなれない。その中で、少しでも自覚して、言葉を発していくしかない」
 隣の佐藤から空気が抜ける音がした。長い長い吐息のあとの沈黙。俺はまたしゃべりすぎた。余計なことを言いすぎた。もうなにも言うものか、と思う。
「はっさんにも、そういうの、あるの?」
 俺は深く息を吸ってから、止めた。箱をイメージする。白くて、四角くて、固い箱だ。僕はその中で強く口を閉じ、意識を閉じて、誰ともつながらない。強固なイメージだ。もうなにも語るものか、と思う。
 でも、それは叶わない。どうしても、いつも、言葉は俺より先にいる。
「誰だって、だって例外じゃない」
 けっきょくしゃべっているじゃないか。嫌になる。だんだんと、腹が立ってくる。『もうなにも言うものか』と、俺は言葉でもってそう言っている。「ところではっさん、さっきからしゃべり方、おかしくない?」
「そうかな」
 こんなことは無駄なんだ、と思う。
「まあ、はっさんがおかしいのはいつものことか」
「俺は、おかしくはないよ」
 なにを言っても、どう言っても、どれだけ説明しようとも、はじめからどんな意味もどんな価値もないことだ、と思う。
「じゃあ、その顔やめなよ」
「顔?」
 俺は最後まで独りで、どこにもたどりつきはしない。
「はっさんはさあ」
 だのに、僕はなぜこんなに怒っているんだろう?
「なにがそんなに悲しいの?」

 *

 病室の扉を開いた先に、廊下はなかった。
 そこにはただ暗闇があるばかりだった。といっても、なにもない宇宙のような深淵の暗闇とは違う。僕は立っているし、呼吸もしている。明かりを落とした舞台にいるような暗闇だ。うしろを振り返ると、僕が出てきた(あるいは入ってきた)病室の引き戸はなく、カエルくんもいなくなっていた。仕方なく視線を前に戻す。すると、さっきまでなかったモノが僕の数歩先に現れていた。
 それは、くたびれたプラスチックのベンチだった。元は青かっただろう表面は、長い年月の間に日光や風雨にさらされ、色が白み、ところどころひび割れていた。僕は暗闇の中でもそのベンチをしっかりと視認することができた。まるでそこにだけスポットライトが当たっているかのように、しっかり、はっきり。
 僕から見てベンチの右端には、ひどく黒い男が座っていた。黒いハットを深く被り、俯いて、黒いジャケットの中に、黒いタートルネックのセーターを着込んで、下は黒いストレートパンツと黒いショートブーツ。きっと下着や靴下も黒で統一していたのだろう。
 男はなにも言わず、深く俯いて表情を見せない。なにも言わない。言わないけれど、なにかを言いたそうにはしている。面倒そうな男だ。そう、男だ。顔を見なくても、僕にはそれがわかる。
 僕は男の右隣に一人分のスペースを空けて座った。僕が座ってからきっかり十秒後に、男は話し始めた。まるで、タイマーでもセットしていたかのように。
「箱の中で暮らしたいと思っていた」
 それが黒い男の語り出しだった。
「靴箱とか段ボール箱とか、なんでもいいんだけど、閉じられた箱の中で、誰とも関わらずに暮らせたら――」
 そこで男は言葉を区切った。まるでスポーツ選手が手に持ったバットかラケットの調子を確認するみたいな、ちょっとした間。
「――それは悪くなさそうに思えた」
 僕は「そう」とも「ふうん」とも言わず、ただ黙って男の話を聞いていた。
「もちろん、人間はそんな風には生きられない。ごはんを食べなきゃいけないし、風呂にも入らなくちゃいけないし、トイレットペーパーだって買いに行かなくちゃならない。だからそう、これは無意味な妄想だ。少年少女が冒険や恋愛の物語に耽溺するように、箱の中を想像したわけだ」
 僕は、くだらない、と思う。でも口にはしないし、なんなら言葉にもしない。ただ、冷たい粘液を触るような少しの不快を感じるだけだ。
「実際には、そう、それなりにがんばったよ。人並みに、ね。なにかを愛し、日々面倒を抱え込み、その面倒も愛そうとしたし、実際に愛したものいくらかある。けっして、箱の中で膝を抱えて耳を塞いでいたわけじゃない」
 男の語るその内容はまったくもって要を得ない。だが男のその語り方は、気色が悪かった。そこかしこに自己憐憫の色が見える。こんな男に付き合ってはいけない。面倒ごとが人の形をしているだけの存在だ。
「具体的には、そうだな。島井が大学をやめたあと、俺に対してまわりのアタリが強くなったけど、まあそれも仕方ないかと受け入れた。たぶん誤解もあったのだろうけれど、なにを言っても言いわけにしかならないだろうし、どのみち多くの人間と関わるつもりもなかったしね。だからまあ、自棄にもならず、無事に卒業まではこぎつけたよ。
 それと結婚するときに実家から――ああとくに姉二人からは、相当嫌なことも言われたな。だがそれも彼女らの価値観からすれば当然の反応だったし、なんたって学生結婚だったから。彼女からすれば末っ子で男の俺が努力もしないで甘やかされたあげく、好き勝手しているように見えていたのだろう。それはまあ、そのとおりかもしれない。
 その他にも、大小の面倒ごとは山のようにあったけれど、まあべつにどれもこれも特別なことじゃない。誰しもが経験するような人生の棘だ。服を破り、皮を刺し、細かな傷は増えるけれど、それ自体は致命的なものじゃない。
 俺は箱に籠ることもなく、現実には、ちゃんと、まあ、それなりに、生きてきた。悪くない、そう悪くないと、生きている」
 聞くに堪えないノイズだ。話が見えない、繋がっていない。こいつはべつに、誰かに伝えるために話しているわけじゃないのだ。呼吸をしたり、食事をしたりするような、ただの自己完結した生理的な動作として、口を動かし、声帯を震わせているにすぎない。こいつは、ただの木のうろだ。風が鳴っているただの穴なのだ。
「でもときどきは、自分が、そういう生きている自分が、どこか別の場所で二重に存在しているような奇妙な気持ちになることがある。人を愛し、人を嫌い、人を育て、人を拒み、終わることのない日々の雑事を一つ一つ片付けて、でもそうじゃない俺がどこかにいる。たぶんどこかで旅をしている。目的地もない、どこにもたどりつかない、どのような啓示も訪れない、最後には野に伏すだけの旅を」
 もういいかげんに、僕は腹が立ってきた。こいつの話はつまらない、聞くに堪えない。まるで素人のエッセイでも読んでいるような品のなさだ。この手の自己憐憫まみれの幼稚さは野放しにしてはならない。この手の人間は被害者面をしたままやがて他者を際限なく食らい始める。そう、だから、
「家庭があろうが、職があろうが、俺は最後まで独りだよ。誰だって、最後まで独りなんだ」
 いますぐこいつを𠮟りつけて、わからせなければならない。叩いて、怯えさせ、怒鳴りつけて萎縮させなければならない。いや、もっとだ。もっと直接的で致命的な暴力が必要だ。刃だ。硬く鋭く冷ややかな刃でもって、こいつを切り裂かなければならない。そうしなければ、
「おまえは!」
 僕は右手を振り上げ――
「あなたは」
 それは聞き覚えのある声だった。聞いたことのない声のような気もするけれど、でもよく知った声だった。まるで自分の声を録音して聞いたような、そんな声。
「あなたは悲しい」
 それはありえない言葉だった。だってそうだろう? 二人称が悲しいなんて。語り手の越権行為だ。他者の心情を語るなんて。語りの場が崩壊してしまう。二人称小説は、基本的には存在しない。あるにはあるが、それはある種の叙述トリックだったり、三人称や一人称の変形だったりするものだ。だからなんていうか、そいつは、わるいことだ。よくないことだ。ずるいことだ。いびつな、ことなのだ。
 だというのに僕は『それだ』とわかってしまった。それこそが僕から奪われた言葉だったんだ、と。
 振りかぶった僕の右手にナイフはなかった。あったのは、緑色とクリーム色をした生地を袋状に縫い合わせた不細工なやつで、そいつが不格好に僕の右手を覆っているだけだった。
「そうか」と黒い男は言った。
『そうだったのか』とも『そうだな』とも『そうではない』とも違う。ただ、静かに息を吐くように「そうか」と男は言った。
「少しだけ。ほんの少しだけだけど、わかった気がする」
 そう言って、黒い男はハットのつばをつまんでわずかにあげた。僕は男の顔を見ることができた。つまらない顔だ。少しだけ目を細めて、遠くを見ているだけの顔だ。五秒後には涙を流しそうなのに、いつまで経ってもそのままで、たぶん一生そのままなのだろう。
「話を聞いてくれて、ありがとう。俺はもう行くよ。人を待たせてるんだ」
 黒い男はベンチから立ち上がった。すると、男の色は周囲のぼんやりとした暗闇にまじって、ただの黒い気配のようになってしまった。立ち上がった男の先には、僕が入って来たのと同じ、病室の横引き式の扉があった。厚い扉はやがてゆっくりおずおずと開く。扉が20センチほど開くと、そこから小さな男の子が顔を出した。顔の丸い、元気そうな顔を男に向けて、びっくりしたような、でも笑い出しそうな、しかし恥ずかしそうな、そんな顔をして、男がやってくるのを待っている。男の気配は扉に向かっていく。まるで影の中を進む影法師のよう。黒い男の気配は扉の前で一度止まった。それから、扉から顔を出している小さな男の子に小さく頷いた、ように見えた。黒くて暗いからそれははっきりと見えたわけではないけれど、そういう動きの揺らぎがあった。男の子は、はっと驚いたように眼を見開いたあと、急に笑いを我慢できなくなった顔になった。きっとなにがおかしいのか自分でもわかっていないような、ただ楽しさの塊だけがそこにあるような、そんな笑顔だった。それからくるっと回って、扉の向こう側に消えていった。黒い男は、たぶん小さく笑って、男の子の消えた扉の向こうに歩いて、消えてしまった。
 誰もいなくなると、やがて扉はゆっくりと閉まった。今そこにあったはずの扉は、暗闇に溶けて消えてしまう。暗闇がすべてを忘れていく。演劇は終わり、役者もセットも片付けられた。やがてこのくたびれたベンチも薄闇の忘却の中に消えていくのだろう。
「ひどいな。中の人なんかいないって言ったじゃないか」
 僕は非難がましく、そう言った。
「言いましたっけ?」
 カエルくんが僕の右手でわざとらしくとぼけてみせる。
「でも勝手に動くパペット人形なんてあるはずないじゃないですか。当然中の人が動かしているんですよ。そこに思い至らないぬしが悪い」
「それも――そうか」
 僕は静かに息を吐き出すようにそう言った。
「さて」
 そう言って、僕は立ち上がった。たぶんもう、くたびれたプラスチックベンチも消えてしまっただろう。
「これから如何せん?」
 カエルくんが訊ねる。
「旅をするんだ。どこにもたどりつかない旅を」
「それもよかろうなのだ」
「ありがとう」
「なにが?」
「一緒に探してくれて」
「いいってことよ」
 そうして、幕の下りた舞台のようなうすぼんやりとした暗闇に、僕が歩き出す。

 *

「こら、みーちゃん。またやったな」
「んーんー」
「泣かないの。ちゃんと言葉を使わないと、なにもわからないよ」
「ん―」
「みーちゃん! もう、まぁあったく」
 それを見かねた妻が、「それじゃだめだよ。ほらこれ持って」と渡してきたのは、妻がいつぞやネット通販で買った、カエルのパペット人形だった。通販サイトの箱から取り出しときは、こんなものがなんの役に立つのかと思ったものだ。仕方ないから僕はそいつを右手にはめる。 
「やあ、僕、カエルくん」
「へへぇーえへぇー」
「カエルくん」
「かえる、くん!」
「さあ、ちゃんと、おはなし、してください」
「てい」 
「いたいいたい。叩かないで」
「てい」
「いたい、いたい。じゃあ嚙みついちゃうぞ、パクパクパク」
「きゃきゃきゃ」
「バクバクバク」 
「きゃきゃきゃ」 

 ……で、なんで怒ってるんだっけ?

 *

 電話の先の相手はしばらく無言だった。十秒か二十秒か、あるいはもっと長い、誰にも知られることのない時間か。その短く長い時間を誰もが忘れ去ったあと、
「もしもし」
 と電話の向こうで声がした。
「ああ、すみません。もしもし、聞こえていますよ。久しぶり、島井。大学のとき以来だね」
「お久しぶりです、橋本さん。すみません、突然」
「いや、ぜんぜんかまわない。それよりご用向きはなにかな」
「ハシさん」
「はい」
「本当に突然なんですが、一緒に仕事しませんか」
「仕事?」
 久しぶりに連絡をくれた島井裕次郎が話すにはこういうことらしい。彼は法律関係の職に就いており、今はとある人権問題について活動しているNPOと仕事をしていて、僕にその当事者たちにインタビューをしてほしい、ということだそうだ。
「なぜ僕に?」
「橋本さんが出した本を読んだからですよ」
 僕は、大学を出て新聞社勤めとフリーランスを行ったり来たりしながら、文字を書いて暮らしていた。島井が言うその本は、新聞社の依頼で災害被災地の一年後を取材したものを、書籍化したものだった。被災者の生の声をできるだけ拾って欲しいと言われたが、いったい当事者でもない僕がどれほど彼らの言葉を拾えたというのか、わからない。
「それで、大学のときの橋本さんだって気づいて、ハシさんなら今私たちが向かい合っている彼らの声を、言葉にしてくれるんじゃないかって」
 島井の言う人権問題やNPOのことは、僕もいくらかの報道で知っていた。多くの偏見や差別、デマゴギーに晒されている、センスティブな問題だ。この仕事を引き受けることで僕自身が標的にされることもありうるだろう。
「少し考えさせてほしい」
 島井は少し間を置いてから、「すみません」と短く早く言った。「突然のことで、ご迷惑でしたよね」
「いや」と僕は彼の失望と勘違いを二文字で切り捨てる。
「いくつか仕事終えたばかりだから、しばらく子どもの送り迎えとか家事の分担をだいぶ僕がやるつもりでいたんだけどね、ちょっと妻と予定を調整しないといけないな」
 さっきとは違う質感の間。戸惑い九割、おかしみ一割くらいの、そういう間。まあ、そうだろうけどね。
「あの、えっと、ご結婚されてたんですか」
「意外かな」
「えっと、ハシさんは、あんまり、いやどうかな、でもたしかに」
「いろいろあったんだよ。話せば長くなるといった類の、ね」
「あ、いえ、あの、おめでとうございます。遅れましてですけど」
「ありがとう」
「えっと、それで仕事の話なんですけど」
「ああ、だから引き受けるよ。大学の後輩がわざわざ頼みに来てくれたんだからね」
 深く息を吸い込む音。そういう音を僕は今までの人生でもう何度も聞いてきたんだな、と思う。
「ありがとうございます」と島井はまっすぐに、大きな刀で空気の塊を斬るようにそう言った。それから「奥さまにもご迷惑をおかけすることになるかもしれないのですが、よろしくおねがいしますとお伝えください」
「いや、大丈夫。君からの仕事なら彼女もわかってくれるさ」
「?」
「ああまあ、とにかく仕事の話だけれど――」
 それから僕らは小一時間ほど仕事の詳細と事務的な話を交わし、後日そのNPOや企画に携わる企業との会議で直接顔を合わせる運びになった。
「でも、やっぱりハシさんは、こういう仕事をする人になってたんですね」
 それが嫌味で言ったわけではないことは僕にもわかった。あるいはそこはいくばくかの感心や敬意のようなものさえあったのかもしれない。畏れ多いことだ。
「なにか誤解があるようだけれど、大学を出てからこの方、あちこちをフラフラしてただけのヤクザな人間だよ」
「またまたぁ」
 強かになった後輩の軽口を聞き流し、それじゃあと電話を切ろうとすると、
「ハシさん」
 それは、ずっとむかしむかしにも聞いた声だった。
「僕たちはなにかになれたんでしょうか。どこかにたどりつけたんでしょうか」
 傷つきやすくて、センスティブな学生の声に、でも僕はきっぱりと言い放った。
「いや、なににもなっちゃいないし、どこにもたどりついちゃいない。ただ最後まで独りで歩くだけさ」
 電話を終えると、僕は少しの間だけ強く目を瞑った。日々の雑事の算段、妻への相談、子ども世話。積み重なったタスクの一枚一枚は薄くとも、その積みあがった高さを考えると気が重くなる。しかし、それがどれほど愚かで無意味で、不格好だったとしても、人は荷物を背負って自分だけの極北へと最後まで歩き続けなくてはならないのだ。

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