「誰もいないポートレート」 2

2 いま、あなた、泣いていますよ

 もう一枚。これは実際に撮った写真だ。でも誰にも公表はしていない。僕しか知らない写真。偶然撮れたもので、僕も撮ろうと思ったわけではないし、被写体も撮らせようとしたわけではない。
 老年の男性の写真だ。そう、僕は写真に写るその男を老人と規定するのだけれど、被写体の実年齢は六十代で、現代の基準で言えば老人というにはやや若い。また、顔立ちは平凡で、年齢相応に皴が刻まれ、それこそ目を引くような美男子ではないのだけれど、失いきれなかった十代の幼さの欠片をその瞳の光に認める人は、彼を実年齢より若く誤認するだろう。
 それでも僕がその男を老人と言うのは、彼が西町博であるからに違いない。
 彼は書斎の窓際に立っている。体幹はカメラの正面を向いているのだけれど、顔はやや右斜め前、窓の外を向いている。この写真を撮る半瞬前に正面からのポートレートを撮ったのだけれど、そのポートレートを撮り終わった直後、彼が窓の外に目を遣った瞬間を、この写真は捉えてしまっていた。本当はシャッターを切るつもりなんてなく、なぜだか指が動いていて撮れてしまった、事故のような写真だ。実際シャッター音に気づいた彼は、少し驚いたように僕を見た。僕はなんでもないことのように、次の写真撮影の指示に動いて誤魔化してしまったのだけれど。
 その写真の中の彼は、夕方の淡い色をしたあの光を浴びている。カーテンのスリットから漏れる、あのオレンジ色を。彼の若い瞳がその中でいっそうに輝きを放って、まるでジュブナイル小説の主人公みたい。彼は夕方の光になにを見ているのだろうか。失ったものを見出すには彼は幼すぎる。であれば、彼が見ているのはきっと憧れなのだろう。どうやっても自分には手に入らない/手に入らなかったのに、それでも諦めることなく世界に自分を問い続けていく姿勢。
 僕はその姿勢を、善とも悪とも可とも不可とも断じることはないのだけれど、ただその写真を見ると、なにか言わなくてはいけない衝動に、いや、言わなければならなかった後悔に似た感情に駆られる。「先生、失礼、あの」と、今はもういなくなってしまった老人に話しかけるべき義務感を覚える。たとえ言えたとしても、そのさきに言葉が続いたのかどうかは、ついぞわからないのだけれど。

 そのとき僕は、彼の目尻に涙が滲んできたのを、気づかないふりをしたのだ。

 *

 先生からの依頼を受けたのは、もう夏も終わろうとしているころだった。
「いやね、自分の写真ってほとんどないことに気づいてね。所帯も持たなかったから、ついぞプライベートで写真なんて撮る機会がなかったみたいなんだ」
 電話口で用件を伝えたあと、なんでもない笑い話のように彼はそう話した。僕は自室のPCの前で作業の手を止めて、彼の軽口に付き合った。
「でも、先生の本に顔写真があるじゃないですか。あれじゃダメなんですか」
 よく本のカバーの袖に来歴と一緒に載せてあるモノクロ写真のことだ。出版社が撮ったもので、なかなか男前に映っている。
「ああいう、いかにもな、かっこうつけたやつじゃないのが欲しいんだ」
「なるほど。じゃあ、任せてください。そこそこダサい写真を撮るのはわりと得意ですよ」
 端末のスピーカーから楽しそうな笑い声が聞こえたあと、「期待してるよ」と彼は答えた。
「でも、なんだって急に?」
「この歳になるといろいろあるものさ」
「はあ」
 特に詮索する気もなかったので、軽口は切り上げ、事務的な話を二つ三つしてから、僕は電話を切った。

 撮影のために久しぶりにすじかい塾を訪れたのは、それから二週間ほどあとのことだった。撮影場所は塾の先生の書斎で、時間は塾生の少ない平日の午前中だった。いつもの助手は連れて来ておらず、僕一人。
 町家を改装したすじかい塾は、商店街の中にある。かつては旧街道としてにぎわい、一昔前までは活気のあった通りだが、昨今の商店街のご多分に漏れず、往時のにぎわいは失われている。きれいに塗装し直した引き戸を開けると、土間を改造した八帖ほどのエントランス。入って左手は土間が続いて炊事場兼食堂になっているけれど、今は誰もいないようだった。右手には勉強部屋の和室が奥に向かって三つ並んでいる。催し物があるときは襖を外して大部屋にすることもあるけれど、今は小さく仕切られ、開けっ放しの襖の間から、見知らぬ学生が一人、座卓にノートを広げているのが見えた。平日朝の塾はとても静かだった。「こんにちは」と声をかけると、波紋が広がるように声が響いて、少ししてから勉強部屋の学生が少し驚いたように僕を見た。男性で、やせ気味で眼鏡をかけていて、眼鏡の奥に伏し目がちな眼が見えた。高校三年生くらいに見えた。「撮影の依頼を受けて来ました。西町博先生はいらっしゃいますか?」と僕が言うと、「先生は、奥の書斎に、いらっしゃいます」と小さく区切りをつけて丁寧に教えてくれた。まるで、大事な使命を緊張しながらこなそうとする新兵のようなしゃべり方だった。僕は彼に礼を言い、靴を脱いで畳に上がり、三つの勉強部屋を抜け、中庭の廊下に出た。白砂利を敷いた中庭には物干し台が一台備え付けられていて、誰かの白シャツが一枚、夏日の合間に揺れていた。廊下を渡り、離れを通り過ぎて最奥の書斎の前に辿り着く。先生の書斎は、元は土蔵だったものを洋間に改築してしまったものだ。本人は気に入っているけれど、先生が土蔵に引きこもったと塾内では笑い話のタネになったものだった。最後にここに入ったのは退塾のとき以来だな、と少しだけ思って、書斎の戸を開けた。

 撮影はスムーズに進んだ。なにも難しい写真を撮るわけじゃない。一人で持ち運べる程度の機材で、僕は先生の写真をいくらか撮り続けた。デスクの前やソファに座っている様子、顔写真やバストアップが多め、ためしに「ろくろ回し」なんかも撮ってみたけれど、先生も僕も苦笑いしてボツになった。こうやって仕事の撮影だと思えば、僕はまだいくらでも写真を撮ることができた。
「どう? うまくとれた?」
 一通り撮影を終えると、僕は食堂を勝手に使わせてもらって、インスタントコーヒーを二杯淹れた。書斎で二人、向かい合っての一服。昔もこんなことがあった気がするけれど、さて、いつのなんだったか。
「ええ、いかにもかっこよくないのが」
 僕は先生にカメラを渡す。デジタルカメラのディスプレイを眺めながら、彼は「いいね」と言った。
「これなんか、いかにも引退して暇を持て余したボケ老人という感じがしていい」
 彼は楽しそうに僕に開いた画像を見せた。僕がなにか冗談を言って先生がウケたときに撮ったものだ。先生の笑い顔は、たしかに緊張感がなく少し呆けた感じがしなくもない。
「葬式にはこいつを使ってもらおう」
「縁起でもないことを言わないでくださいよ」
「この歳になるとそんな冗談ばかりになってしまうんだな、これが」
「じゃあ、これは印刷して郵送で送りますね。あといくつか、必要なものはこちらで印刷しますよ。画像データもメールかなにかで送ります。好きに使ってください」
「助かるよ」
 少しだけ世間話をして、二人コーヒーを飲み終えたところで、
「じゃあ、僕はこれで」
 僕は二人分のコーヒーカップを乗せた盆を持って席を立つ。食堂で洗ってから帰ろう。
「なんだい、もう帰るのか。しばらく見て行ったらいい。なんなら後輩たちに顔を見せてやってくれ。そろそろ何人か来るころだと思うんだ」
「でしゃばるOBなんてのは嫌われるだけですよ。顔見知りに会わないうちにさっさと帰ります」
「そうか、そりゃ残念」
「では」
「またね」
 
 一度エントランスまで戻って靴を履き、土間の食堂で、使ったコーヒーカップと盆を洗う。ついでに流しに溜まっていた洗い物も洗って乾燥棚にかけておく。それが終わって帰ろうとすると、ちょうどエントランスの掲示板に張ってあった塾のポスターが目についた。なかなか気合いの入ったポスターで、画面はプロの手が入った構成だと一目で知れるし、用紙も上質な耐水の光沢紙だった。手も金もかかっている。手書きのポスターを町内会の掲示板に貼ってもらっていたころとは大違いだ。
 と、そこで、
「田村!」
 息を切らして僕を呼び止めたのは、勉強部屋から出てきた喜多川良樹だった。
「先生から今帰ったって聞いて、すれ違わなかったから、もう帰ったのかと思って……いたのか」
 どうやら僕が食堂で洗い物をしている間に塾に来たらしい。
「カップを洗ってたんだ」
「あ、ああ、そうか。あいかわらず、よくわからないやつだな」
「片づけくらいで変人あつかいしないでくれ」
 僕がそう指摘すると、喜多川はなにかを言おうとして、口を閉じた。まるで、歯の間に肉の筋でも挟まったような不快な顔をして。それから、
「戻って来いよ」
 と喜多川は言った。たぶん、言い淀んだなにかとは違う言葉だったのだろう。
「今のところその気はないよ」
「先生が失望してたぞ」喜多川らしい、芝居がかったわざとらしい声だった。「田村はもっと売れると思ってたって」
 反応を見るように、喜多川はセリフのあとに間を置いた。
 僕は、
「そうか」
 と短く答えた。
「悔しくないのか」
「そういう風に思われるのも仕方のないことだし、人に失望されるのには慣れてる」
「はあ」とあからさまなため息をつく。彼の希望には応えられなかったようだ。あるいは、予想していた通りに失望させた、というところだろう。
「今のは俺の嘘だよ。先生はそんなこと言ってない」
「それが嘘なんじゃないか。先生はそういうこと言うよ。彼は本の中のイメージほど聖人君子じゃないから」
 じっと僕をにらみつけるように見てから、
「半分正解。まあ似たようなことは言ったのを俺が脚色した」
「五〇点じゃ単位は不認定だな」
「あいかわらずだな」
「諦めてくれ。そういう性分なんだ」
「でも俺は諦めてないからな。いつでも戻ってこい」
「覚えてはおくよ」
「じゃあこれを渡しておく」
 喜多川が差し出してきたのは、講演会のチケットだった。紙面の右半分くらいが窓際で腕を組んだ西町博のモノクロ写真で埋まっている。
「講演会? サクラがいるなら言ってくれれば、ちゃんとチケット買って行くぞ」
 西町先生の人気を考えれば、もちろんサクラなんて必要ない。
「先生からだ。さっき渡すのを忘れていたから、まだ塾にいたら渡してくれって」
 先生から、と言われて、僕は軽口をやめて黙って紙を受け取る。
「二枚?」
「おまえのカノジョだか内弟子だか、秘蔵っ子だかの分だろ」
「知ってるのか」
「塾生はみんな知ってる。おまえのような朴念仁が女の子連れてたら、そりゃ噂になるだろう」
「彼女とは今のところそういうのではないし、僕は朴念仁ではない」
「はいはい」
 軽口を叩き合ってじゃあと帰ろうとした間際、勉強部屋の襖のすきまからこちらを覗く人影が見えた。さっき見た眼鏡の学生だ。僕らのやり取りを見ていたのか、不思議な表情をしていた。笑いそうな、緊張したような、恐れているような、でもやっぱりおかしそうな。なにか自分の知らない奇妙を初めて発見したように僕らを見ていた。僕は彼に軽く会釈をしてから塾を出た。

 *

 彼女が「愛されなかった子ども」であることに、僕は早くに気がついていた。それは彼女のいろいろな動作、言葉、目線や感情の起伏を見ていれば、容易に察しが付くことだった。その能力の割に自尊心が低く、その多感さに比して自制心が強い。人に対しては善良に接するのに、その実、人に対する信頼は低い。畢竟、親愛というものを受け渡しする経験や素養が絶望的に不足していた。

 ここで今まで断片的に聞いた彼女の生い立ちを、少しだけまとめてみようと思う。
 彼女は一人っ子だった。彼女の両親は男の子を望んでいたけれど、夫婦が授かったのは彼女一人だけだった。
 家庭や子どもというものに、なんらかの理想像を求める人の多くがそうであるように、彼女の両親もまた、自身が思い描く理想『像』のために努力を惜しまなかった。つまり、社会的に不利な属性を背負う(そして彼らにしても不利な属性であることが当然と思っていた)『女性』に生まれた彼女を、たとえその『女性』であっても不利益にならないように、十分な教育を施そうとした。その情熱は、しかし、傍から見れば少しばかり苛烈に過ぎた。
成績は常に上位を求められたし、習い事は二つ三つを掛け持ちするのは当たり前だった。礼儀や社会常識にも厳しく、好き嫌いは許されなかったし、幼いころから鉛筆の持ち方すら事細かに注意されたと彼女は語った。
 非常に残念なことに(僕はそう思うのだけれど)、彼女はとても優秀だった。ある時期まで両親のエゴイスティックな欲望を満たせてしまえるほどには、優秀だった。
 彼女は小学校から高校まで、常になんらかのリーダーシップをとる役についていた。それが彼女にとっての当たり前だった。高校二年で生徒会長に選ばれたのも、自他ともに当然のことだった。
 そこで彼女はようやく躓くことになる。
 彼女が生徒会長として活動していた期間に、生徒会の役員の一人が異性と関係を持って妊娠し、その後中絶した。上品な進学校にとって、それは醜聞だった。妊娠した生徒は外形的には病欠という扱いで、学校を長期欠席していた。彼女は、それを理由に件の生徒を生徒会から除名した。除名制度は昔からあったが、一度も使われたことはなく、彼女が初めて生徒会長の権限で提議し、可決された。
 生徒会や教職員の同意の上での除名だったが、件の生徒がなんとか学校に復帰してみると自分の居場所はなくなっていた。もちろん、外形的にどう繕おうと、噂はすでに学校中に広がっていた。そんな状況で孤立した生徒がいじめ被害に遭うまで、そう時間はかからなかった。
 彼女は被害に遭った生徒に、なにもしなかった。自分は立場上当然のことをしたまでで、彼女の個人的な問題はもとより、いじめに対してもなんの責任もない、と。
 ある意味でそれは正しい。だがその当時の彼女は根本的に心得違いをしていた。正しいということは、ただ正しいというだけで、それによってなにかが免除されるわけではない、ということだ。たとえば、交通ルールを守っていても、人は事故に遭うことがある。どれだけ自分に責任がなかろうと、補償がどれだけなされようと、失った身体は戻ってこない。そういうことだ。
いじめが発覚し、学内で大きな問題として扱われるようになって、今度は生徒会長である彼女が孤立した。除名するべきではなかったという意見が生徒会の中で大きくなり、いじめの指示は生徒会長である彼女がけしかけたなどと風聞が立った。批判の矢面に立った彼女は、彼女にとっての正論を通した。長期欠席で生徒会の任を果たせないのは明白だったし、また私はいじめの件とは無関係云々。正しいことをすれば正しく認められ、褒められる。それが彼女のその時までの世界観だったのだから。
 
 ……

 もう一つ、彼女自身に問題があった。これは彼女自身が僕に語ったことだ。
「私は、あの子が許せなかったんです。どうしても、なんらかの処罰をしなければ気が済まなかった。もちろん、罰を与えるべきだ、なんて、大っぴらに言ってはいません。ただそのとき私にできる権限を使って、どうしても彼女に罰を与えたかった。異性と性的な関係をもった彼女を」
 彼女には珍しく、ひどく攻撃的な言い方だった。攻撃的であればあるほど、自身が痛め付けられる、そういう類いの言いぐさを彼女はわざと選んでいた。
そんな彼女に僕は一つだけ質問をした。
「君の家庭では、性的な話題というのはなかったのかな。たとえば食卓で少しばかり下品なジョークが出たり、とか」
 彼女はなぜそう質問されるのか理解できないようだったけれど、僕の質問には丁寧に答えた。
「性の話題は知識として学ぶべきことでしたけど、日常の話題になるようなことは、なかったと思います」
「そうか」
 僕は小さくそう言ってから、彼女の髪を何度か撫でた。僕はそれを明け方のベッドの中で彼女から聞いたのだ。

……

いじめ被害に遭った生徒が退学に追い込まれたあと、彼女もまた不登校に陥り、そののち退学の道を選んだことで、この問題は終息した。だれも幸福にならない、さびしい結末だ。
 もちろん学校内での問題が一つ終わったところで、彼女の個人史はそこで終わりではなかった。むしろそこからようやく彼女の人生は始まった。
 両親は不登校になった彼女に失望と怒りと不安をぶつけた。とても直接的に。彼女の家では毎晩父親の怒号が響き、母親の泣き声が響いた。こんなはずではなかった。我々はなにも間違えてなどいない。悪いのは娘だ、と。そんな両親の幼稚なエゴイズムは、ときに暴力の形を取ることもあった。
 彼女はただ無表情に自室に引きこもり続けた。彼女は両親のエゴに相対できるほど強くはなかった。その弱さは、実に両親の教育の賜物だった。彼女は嵐の内側で毛布をかぶってじっと耐え続け、考え続けた。どうしてこんなことになったのか。どうして自分はこんなにも弱く、なにもできないのか。自身の今までの環境が管理されたペットゲージだったことに気づくのに、それほど時間はかからなかった。
 幸運なことに、転機はすぐに訪れた。彼女の家庭の惨状を見かねた伯母が、実家を離れて伯母宅へ下宿して、フリースクールかどこかに通ってみないかと声をかけてくれたのだ。独身の伯母は自治体の教育委員会で働いており、地域のNPOや教育団体にも顔の効く人物だった。話を聞く限り聡明で進歩的な人だったようで、学校に復学する以外にもいくつかの選択肢を彼女に示した。伯母は以前から姪を気にかけており、いずれこういう破綻が来ることをある程度予想していたようだった、と彼女は語った。それくらいに、傍から見れば、彼女が育った家庭というものは分かりやすく脆弱だった。
 彼女は親元から離れ伯母宅へ移り住み、少しずつだが、外に出るようになった。不登校児のグループワークに顔を出したり、フリースクールのようなところに短期だけ通ってみたり。だが、彼女が一番時間を費やしたのは、自分の時間を持つことだった。誰かに言われたり、実益や見返りを求めたりせず、ただ自分のその時の興味や関心で動く――あるいは動かないこと。伯母は彼女の両親には「時間はかかるが復学させるので心配ない」と言っていたようだが、焦りを感じている彼女本人には「復学するより、まず少し、自分の時間を持ってみなさい」と指導していたようだ。
 その当時彼女がなにをしていたのか、具体的に僕は知らない。フリースクールのようなところに行ったり、独学で学校の勉強の続きをしたり、本を読んだり、そういうことはしていたみたいだけれど、実際のところ「伯伯母の家でなにもしていない時間が一番多かったんです」ということらしかった。ただ、彼女が再び学びに向かうきっかけになった本のことは、僕は何度か彼女から聞いた。彼女はその本の中に語られる、大学教授と学生の交流の内容を、とても楽しそう何度か話してくれた。まるで、本で語られていたまさにその場に、自分もいたかのように。
 僕はその話を聞きながら、いつも想像していた。親元を離れ、静かな、自分の部屋で、小さく丸くなって、本を読む少女のことを。暗い夜、見知らぬ家具に囲まれて、小さなベッドの上で毛布に包まって。少女は、小さな明かりを抱えるように、ハードカバーの少し重たい本を開いている。その中で語られる世界を、少女は強く欲している。学生たちの馬鹿馬鹿しい悪戦苦闘に、それをあたたかな苦笑いで見守る教師に、彼女は憧れを抱いている。いつか自分もそんな風になりたいと、自分もそんな風になれるのかもしれないと、誰に知られることもない、そんな思いを大事に育てている。
 僕は、そんな少女のことをこそ、少しだけうらやましいと思う。

 *

「それ西町先生ですか⁉」と彼女は僕の部屋に入って来るなり声を上げた。どこかのアイドルファンの奇声のようだな、と僕は思った。
 すじかい塾へ撮影に行ってから数日後のことだ。僕の部屋に来た彼女が、目ざとく作業中のディスプレイに映る西町博(御年六十幾)を見つけてしまったのだ。
「この間、写真がいるとかで撮影に行って来たんだ」
 僕は事実を端的に述べた。
「行きたかった」
 という彼女の言葉が、端的に自身の感情を述べているわけではないこと明らかだった。
「午前中だったから、君は大学が」
 彼女の非難に僕は正論を述べた。
「言ってくれれば一コマくらい空けました。これでも成績優秀なんで、一コマくらい大丈夫です」
「ダメ。学業優先」
 僕の正論は、彼女の非難と未練の入り混じった視線で居心地の悪い立場に立たされた。かわいそうな正論。だが、人生においては往々にして、正論というのは気まずい立場に立たされるものだ。がんばれ正論。この場においてだけ言えば、僕は君の味方だ。
 五秒間だけ僕と彼女のにらめっこ。本気で怒ってるわけじゃないと思うけど、まあ拗ねられてはいるよな。
「次は言ってくださいね」
 その一言で、僕らは停戦した。ありがたい。譲歩というやつはなんと素敵な人の営みなんだろう。なにより、彼女の成長が僕にはうれしい。出会ったころと比べて、なんともたくましくなってくれたものだ。いやまったく。
「ああ、その詫びと言ってはなんだけど、講演会のチケットがある」
 僕は聖書を取り出す神父のように厳かに(あるいはそれをマネする道化じみた教師のように)、二枚のチケットを出した。
「あげよう」
 できるだけ慇懃に、卒園証書を手渡す園長のように、僕は彼女に紙切れを二枚手渡す。
「はあ」
 彼女はよくわからないといった風に受け取ったが、チケットの紙面の写真を見て、目を少しだけ輝かせた。
「二枚あるから、誘いたい人を誘うといい」
 一応そう言って渡したものの、
「じゃあ、はい、田村さんの分」
 だよね。
「困った」
「嫌、ですか?」
「そうでもない」
 彼女の少し拗ねた表情がなぜだか少し心地よくて、僕はもう少しだけ言い訳をしたい誘惑に駆られてしまう。
「ただ、たぶん会場には塾生もいると思うんだよね。退塾してきっぱり離れた身で、あんまり旧知に会うのもどうかな、と」
「もしかして、K君とかMさんとかに会えるんですか、あの本の」
 彼女がイニシャルで指した本の登場人物の、そのモデルになったやつらを、僕は頭に思い浮かべる。
「会える、かもしれない」
 殊あの本の話になると、彼女はひどくミーハーになる。「あれは、あくまで活字の中で再編したものだからね、その人そのものとはだいぶ違うところもあるよ」と僕はなんども彼女に伝えたのだけれど、それでも。
「行きましょう。そして紹介してください」
 それはほとんど命令なのではないかな、と僕は思ったのだけれど、当然口には出さない。彼女の個人史を考えれば、あるいは最初出会ったころのたどたどしい感じより、こんな風に我の強いパーソナリティーの方が、彼女の核のようなところに近いのかもしれない。そうだとすればやはり、僕がすべきことは――。
 いっそ、彼らに彼女を引き合わせて、おかしな誤解を解いたうえで彼女の入塾の件を頼んでみるというのも、一つの手かもしれない。僕は彼女からチケットを受け取りながら、そんなことを考えてみていた。

 *

 僕の両親は、とくべつ厳格な人たちでも、とくべつ放埒な人たちでもなかった。平凡な人たちだった。父は会社に勤め、母は家事の傍らときどきパートに働きに出た。息子一人を大学まで通わせるには十分な、あるいは十二分な暮らしだった。ある時期まで当然僕自身もそのように生きるものだと、僕は思っていた。家庭をもつイメージはわかなかったけれど、どこかで勤め人をして、世間の目に特段触れることもなく、平々凡々と日々を過ごす。上手く行けば、数十年からそこいらの人生を大過なく終えることができるだろう、と。だから自分がフリーランスの、しかも写真撮影を生業にして日々を生きているなんて、少年のころの僕が聞けば眉間に皺を寄せて困った顔をするだろう。
 でも、とある時期に僕はそういう生き方を欲した。あまりなにかを欲することのない自分が、どうしてか手に入れたかった、ささやかな願いだった。
 両親は僕の選択を認めなかった。激しい言葉を浴びせられることも何度かあった。
 もちろん彼らがなにを認め、なにに賛否を述べようが、それによって僕という人間を実質的に制限できるものではない。僕は独りで暮らし、独りで写真を撮ることができる。だから僕には彼らの癇癪がうまく呑み込めてはいない。理解はできるけれど、無意味なことだな、と思う。彼らには根本的な認識の齟齬があった。僕がそれを指摘したところで、理解もできないだろうし、感情的な反発を生むだけだろうから、僕は口にしなかったけれど。
 僕が生まれてからこの方、彼らが僕に見ていたのは、僕という個人ではなく、息子の田村某という役割だった。息子というものは成長するし、そうすれば家庭内での役割を終える、それはとても当たり前のことだった。役割のなくなった僕を、両親はうまく認識できなくなった。もしかしたら、灰色の肌で大きな瞳の四等身にでも見えていたのかもしれない。
 もちろん言うまでもないことだけれど、それは世間にありふれたイザコザの一つにすぎない。僕はこの件で傷ついたり悲しんだりしなかった。ただそういうものだったのだと認めて、終わった。今ではほとんど連絡も取っていない。
 彼女の歪さに気づいたのも、結局のところ同じ穴の貉だったからなのかもしれない。幼少期に当然経験しておくべき人の営み、感情の受け渡しを、上手くこなせないままに、一定の年齢まで辿り着いてしまった、そういうもの同士だったのかもしれない。僕らは地図もコンパスも持たずに遭難した愚かな登山者のように、不器用に互いに寄り添っていただけなのかもしれない。
 
 ただし彼女と僕にも決定的に違うところがある。彼女は西町博とその世界に憧れていたけれど、僕はけっきょくのところ誰にも憧れてはいなかった、ということだ。

 *

 秋が深まり、冬の始まりの微かな冷気が頬に触るころ、僕ら二人は郊外にある大学のキャンパスに向かっていた。先生からもらった、例のチケットの講演会があったのだ。僕らの住む街から私鉄に乗って北上し、終点で山裾のローカル線に乗り換えて、緑ばかりの風景の中を数駅行くと目的の大学の最寄りの駅だ。
 僕の部屋から二人一緒に出たのだけれど、道中ずっと、彼女はいつものように僕の後ろをついて歩いた。ハンチングを深くかぶって、うつむき加減に。
 部屋から駅までの道すがら、僕は興味本位で彼女にどうして僕の後ろを歩くのか訊ねた。彼女は恥ずかしそうに
「方向音痴なんです」
と言った。 
 ほうこうおんち? 音と意味を一致させるのに、僕には五秒ほどの間が必要になった。
「ちょっと知らない場所を歩くと、すぐに迷うんです。だから、その、人の後ろを歩くのが習慣というか、はい」
 僕も方向音痴というものの存在は聞き及んでいる。けれどどうして彼ら彼女らがそれほど複雑な道でもないのに迷うのか、僕には仔細がわからない。そんな話をすると、彼女はまたぽつりと、
「自分の現在地がわからない、から」
 と言った。
 僕は、そんなものかな、と思ってそれ以上の追及はしなかったのだけれど、彼女の特殊技能はそのあとすぐに披露されることになった。

 私鉄の終点の地下駅で降り改札を出たところで、彼女が「ちょっとお手洗いに」というものだから、僕は改札の前でしばらく待つことになった。そして、五分が過ぎ十分が過ぎ、十五分が過ぎて、そろそろローカル線への乗り換え時間がまずくなってきたところで、僕の端末が鳴った。着信を表示するディスプレイには彼女の名前。彼女とのやり取りはたいていメールやSNSを使っていたから、直接電話がかかってくるのは珍しいことだ。なにか不測か緊急の事態でも起こったのかもしれない。
「すみません」と心底申し訳なさそうな声が聞こえた。
「どうした?」と僕はできうる限り柔らかく訊ねた。
「駅の中で迷ってしまって、その、今、地上の出口に、います」
 不測かつ緊急の事態だった。なぜに? という言葉を飲み込んで、僕は訊ねた。
「自分が今どこにいるかわかる?」
「えーっと、たぶん。北側、かな、改札から左側の出口です」
「この駅で改札から左に出たら、西側だな」
「え」
「近くに何番出口か書いてあるものがないかな。駅の案内板とかでもいいんだけど」
 同時に僕も改札前の駅構内図を見る。
「あ、えっと、ありました。たぶん、四番出口です」
 四番出口は乗り換え予定のローカル線と反対側だ。
「案内板を見ながらこっちまで戻れそう?」
 六秒間の沈黙。
「悪かった」と僕は言った。「そっちに行くから、ぜったいにその場から動かないように」
「はい!」と彼女は力強く言った。自分の方向音痴に対する絶対の信頼がそこにはあった。
 
 四番出口で無事に合流したあと、僕らは地上を歩いて目的のローカル線の駅を目指すことにした。僕が北に向かって歩きはじめようとすると、
「あれ、乗り換えってこっち方向でしたっけ」
 まるで僕が方向を間違えたかのように、彼女が自然にそう言った。
「うん」
「え、でも、電車はずっと北に走ってて、電車の右側から降りてすぐ改札があって、だから改札を出て左だから北側に出たんですよね。乗り換えの路線はこの駅の北、地図の上側だから、あっちかなって」
 彼女が指さしたのは、残念ながら西だ。
「この線路は終点近くで緩やかに西に向かってカーブしてるから、終点に着いたときは列車の進行方向が西になるんだよ。つまり君の説明は全部九〇度ずれてる」
「あれ?」
「それに君の出た四番出口は駅の南の端。乗り換えとは反対方向だね」
「あれ、なんで?」
「それは僕が知りたい」
 駅のトイレに辿り着く前に、たぶん何度か角を曲がったはずで、それで方向を間違えたのだろう。でも、そもそも来た道を戻ればいいのに、なぜ地上に出たのか、それはさっぱりわからない。
「なんで迷わない人って迷わないんですか」
 僕としては、逆になぜ迷う人間は迷うのかと問いたいが、それはそれ、僕はできうる限り端的に、正確に、回答した。
「地図情報と現実の状況を相対させて、現在地と目的地までの道のりを空間的に把握する、から」
 至極まっとうな回答だと思う。
「私だって、やってます! でも迷うんです!」
 どうやら僕は怒られてしまったようだ。僕は肩をすくめて前を歩く。彼女は少し機嫌を悪くして僕の後ろを歩く。いつものハンチングを深くかぶって、初めて見る薄手の深緑のジャンパーを羽織って。
 諸般のトラブルにより少し遠回りになったので、私鉄の四番出口とやらから次のローカル線の駅まで、小さな商店街の通りを抜けることになった。昨今のどこの商店街もそうであるように活気にはいささか欠けていたけれど、それでもいくつかの商魂たくましい店のウィンドウには、気の早い赤と緑の飾り付けがされていた。プラ製のツリー、サンタクロースのウォールステッカー、使い古された電飾はLEDではなくて古い豆電球。カメラを向ける興味も時間もない。あのステッカー、昔使っていた暗記用のカラーシートと同じ色調だな、などと思って通りを抜けようとすると、
「田村さんって、サンタクロースをいつまで信じてましたか?」
 後ろから、少しだけ不満の色を残した低い声色で、彼女が唐突にそんなことを訊ねた。その声の調子と質問の内容があまりにすれ違っていたせいで、なにを訊ねられたのか半瞬ほどの間が必要だった。
「サンタクロース」
 難しい質問だなと思って、僕はその人類史上もっとも有名な高齢者の一人のことを考える。白ひげで赤と白の服装。もっと前は茶色だった。日本への本格的な流入は明治期で、以後子供雑誌やコマーシャリズムの影響で広く受け入れられる。由来はオランダのシンタクラース、さらにさかのぼって聖ニコラスと言われるけれど、僕は学術的な著述を確かめたことはないから、これはただの雑学だ。
「その質問には答えられないな」
 そう答えて、僕は後ろを向いた。彼女は不思議そうに僕を、少しだけ顔を持ち上げて、見つめていた。
「今も信じているからね」
 笑いもしない。ただきょとんという効果音つきの表情が、ハンチング帽の隙間から覗くだけだ。僕は再び歩きはじめる。
「もちろん、時速三万キロで飛び回る髭のおじいさんの実在を信じてるわけじゃないさ。ただ……」
 僕は少しだけ考える。これを言うのはちょっと恥ずかしいことなんだろうな、と。そして僕がこれを言うのは、白々しいような、おこがましいような、そういうことなんだろうな、と。
「サンタクロースという営みのことは、そうだな、信じている。親が子にプレゼントを渡すのだとか、そういう類の物語を、ね」
 すじかい塾では寺小屋塾のようなこともしていて、参加してくれている地域の子どもたちに毎年塾から小さなプレゼントを渡したものだった。おやつとか文房具とか、その程度のものだったけれど、意外と好評だったのだ。今年もやるのだろうか? と、今僕が考えるべきではないことが気になってしまう。
 僕が黙り込んでから数メートル歩いてから、
「田村さんはきっと」
 そう小さく聞こえて、それからまた数メートルの沈黙。そして、
「先生に、向いてると思うんです」
 先生、と彼女は言ったけれど、それはなにか別のことを言おうとして、やっぱりやめて言い直したような、そんな声だった。
「そうかもしれない。塾で子どもに勉強を教えていたけど、今思えば、ウケはよかったな」
 笑い話。あの喜多川ですら意外そうにして僕をからかってきたのだった。 
――サンタクロースって、道に迷わないのかな。
 そう彼女が言ったのか、僕が思ったのか。

 無事に乗換駅でローカル線に乗ることができた僕らは、開演の十分前には目的のキャンパスに到着することができた。そこは有名な私立大学で、山裾に敷地を広げるその威容を地域の受験生は城とか王国とか揶揄する――こともある。一般にはリベラルな校風で知られているが、内実は肥大化した組織にありがちな怠惰と退廃と不合理の侵食が進んでいる……などと、出身者が塾でうそぶいていたが、さて実のところどうなのだろう? あれはよくあるこじらせた母校愛なのではなかったか。レンガ組みの校門から白タイルの歩道が続く学府の威容は、たしかにこじらせた感がないでもない。僕らは校門に立てかけられた講演会の案内板を頼りに、会が催される講堂に向かった。同じ方向に向かう人の量を見るに、どうやら講演会にサクラが必要ということはなさそうだった。人の流れは学生風の青年や大学教員や関係者が多いようだけれど、ちらほらと一般の参加者らしき人たちも見かける。会場前に受付が設けられていたけれど、事務に当たっているのは開催大学の関係者で、ありがたいことに知人と顔を合わせることはなかった。知った顔を見かける前にさっさと会場に入って席に着く。講演会が行われる会場は一階二階の二層分を使った大講義室で、収容人数は500人を超えるということだったけれど、空席はほとんど見かけなかった。
「大きいところですね」
「売れっ子だからね」
 やがてアナウンスが響き、会場が静まる。定型通りの挨拶がいくつか行われたあと、西町博が演台に立つ。知った顔なのに、知らない人だ。よそ行きの顔をした知人、あるいはよく知る他人。舞台上の白色光の当たり方が、彼の顔に能面のような膜を作った。
 まるで知人の知人に招かれた知らない家の中にいるようで、妙に落ち着かない。もしかしたら椅子の硬さがよくないのかもしれないなどと、腰の位置を何度か変えてみたけど無駄な所作だった。隣の彼女を見やると、真剣に演台の人物を見つめている。いつもは見せない興奮と崇敬がないまぜになったような、上気した表情だ。まぜっかえしの冗談でも言って気を紛らわせたかったが、どうやら僕は黙っていた方がよさそうだ。そう思って、座りの悪い尻を無理やり座面に押し付けた。

 *
 
「『凡庸な悪』という言葉を知っていますか」
と言って西町先生が話し始めたのは、勉強会の誰か、たぶん喜多川だかの発表の後だった。僕らは当時人気だった映画の批評を勉強会でやっていて、順にその映画の感想やらコメントやら批評やらを発言していったのだった。まだまだ小さな勉強会で、大学の空き教室や地域の会議ブース、はては喫茶店や居酒屋に集まって、僕らは活動を続けていた。そのときは、たしか小さな居酒屋の二階を借りたのだった。
「ハンナ・アーレント?」
 そう言ったのは、僕だったか喜多川だったか。
「そうですね。ドイツ系ユダヤ人哲学者で、ナチズムの難を逃れてアメリカに亡命した人です。『凡庸な悪』というのは彼女の著作『Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil』の邦訳からです。『the Banality of Evil』というのが『凡庸な悪』ですね」
 なぜその話を今するのだろう? その言葉を知る者も、知らない者も、先生の意図を図りかねていた。
「あーそうだな。まずこの『凡庸な悪』というのがなんのことを指しているのかを説明した方がいいですね。これは具体的にはアドルフ・アイヒマンのことを指します。ナチスの絶滅収容所にユダヤ人を送った実質的な指揮監督者です。アーレントは戦後に行われたこのアイヒマンの裁判を傍聴して、本を書きました。凡庸な悪についての報告をね」
 勉強会のメンバーはみな学生で、先生もまだ全国的には無名だった。僕らは静かに先生の話を聞いていた。聞き逃さないように。自分たちになにが必要かわからないけれど、ただなにかが必要なことだけはわかっている、みんなそんな人間ばかりだったのだ。
「アイヒマンはその裁判でカントの哲学について語りました。カントは知っていますか? イマヌエル・カント。近代哲学の始祖の一人ですね。アイヒマンも当時のドイツもその影響を強く受けていました。まあ、もちろん現代の我々の考え方も、カントの地続きにあるのですけどね」
 先生はそこで言葉を区切った。そして内側の痛みに堪えるように親指で右のこめかみを強く押した。
「彼、アイヒマンは裁判で、自分の行いはカントの哲学に、カントの義務の定義にのっとったものだったと語りました。アーレントはこれに激しい嫌悪感を示します。カントが語った道徳は、自分自身の理性によって普遍的な原理を見つけ、自分自身で従う、それこそが自由である、とまあ簡単に言ってしまいましたが、徹底的な『自律』の思想ですね。アイヒマンがやったことは、ただのナチズムへの盲目的な服従であって、普遍的な原理であるわけがない、哲学者であったアーレントには、アイヒマンが語るカントなんて認められるわけがなかったのです」
 映画の批評というお題からまったく離れてしまった、遠い昔のアイヒマンの話から、みな離れられなくなっていた。先生には珍しく、わずかに情の入った話しぶりだった。まるでアーレントやカントの視点から、激しくアイヒマンを非難しているように、当時の僕らには見えていたのだけれど、それは今思えば違っていたのかもしれない。先生は、自分自身の後悔に対して静かに嫌悪の情を燃やしていたのかもしれない。
「アイヒマンは、ある意味ではカントの哲学の正しい実行者でした。彼はただ盲目的に法に従うのではなく、法の精神、その法が定められるにいたった要因に深い理解とコミットメントをもって、ホロコーストの実行者になったのでした。ただその法というのが、総統であり、ナチズムであったのですが……」
 先生はそこで調子を変えて話を区切った。
「すみません。少し話が逸れていますね」
 それは後悔を後悔のまま抱えたうえで、視点の次数を一段上げて、物事を対象として見つめ直す作業の所作なのだ――と知ったのは、それから何年後のことだっただろう。
「ただ私が君たちに話しておきたかったのは、『物語』に自分を売り渡してはいけないということです」
『物語』という言葉を先生はよく使った。それが単純に、映画や小説なんかの『物語』を指すのではなく、もっと広く、人間による意味の構造的な把握の仕方なのだと、先生は繰り返し何度も説明してくれたものだった。
「権威への依存、パターナリズム、ナショナリズム、排外主義、そういったものは、いろいろな『物語』の皮を被ってあなたたちの前に現れます。そしてそれに従っている間は、まるでそれが普遍的な原理であるかのように思ってしまうのです」
 先生のその唐突な警句に、僕らはなんの茶々も入れなかったし、冷めた態度も取らなかった。ただ、この人はきっと今の自分たちに必要ななにかを語っているのだと、たとえそれがなにかわからなくても、先生の言葉を信じることができた。
「こんな馬鹿な話に自分がまきこまれるわけがない、荒唐無稽な陰謀論を自分が信じ込むわけがない。みんなそう思っているのだけれど、人はいつのまにか当事者になってしまうのです」
 あるいは僕らは肉に飢えた獣の子だったのかもしれない。老人の悔恨すら食い漁るほどの貪欲で、言葉をかき集めていただけなのかもしれない。つまるところ、僕らはただあまりに馬鹿だったのかもしれない、と今ならそう思える。
「少し今日のお題から話が逸れているかもしれません。ただ、私が言ったことを少しだけ念頭において物事に当たってほしいのです。では、勉強会の続きをしましょう」
 そう促して、先生は自分の話をやめたのだけれど、
「先生?」
 そう、これは確実に喜多川だった。僕はそれをよく覚えている。
「アイヒマンの凡庸さは、情熱や狂信とは無縁の、想像力の欠如した熱心さです。では、想像力をもち、自分の信じるものに情熱と愛を注ぐことができれば、我々は凡庸な悪にはならないのですか?」
 先生は目を閉じた。なにかを思い出そうとしているように見えるし、思い出すのを堪えようとしているようにも見える。
「ミルグラム実験」
 と先生は言った。
「あるいはスタンフォード監獄実験でもいいのですが、我々は誰も特別じゃない、という想像力をこそ持つべきなのかもしれません」
 その言葉の意味を、当時僕らはどれだけ理解していただろうか。

 *

 講演が終わっても、彼女はしばらく席を立たたなかった。興奮しているようにも見えるし、なにかを悲しんでいるようにも見える。それがなんとなく、僕が触れてはならない彼女の一部なんだろうかと思ってしまって、二時間ほどで凝り固まってしまった自分の尻をまだ固い座面に預けておいた。壇上にはもう誰もいなくなっていて、講演会のスタッフたちが少しずつ備品の撤収を始めていた。手際よく片付けられていくその様子が、なんだか一つの世界が終わって行く様子を描いた劇みたいに見えて、僕は西町博の講演よりもよほど心を動かされてしまった。中年の女性がマイクを片付け、若い男性二人が演台を持ち上げる。白髪交じりの男性が若い二人に違う違うと手を顔の前で横に振って合図を送る。世界の終わりなんていうのは、こういうコメディだかコントだかこそふさわしいのかもしれない。
 彼女がようやく僕に話しかけたのは、世界がだいぶん片付けられてしまったあとのことだった。
「あ、すみません」
 唐突な謝罪で、いったい誰になにを謝っているのかもたしかではなかったけれど、僕はできるかぎりゆっくりと彼女の謝罪に答えた。
「いいよ。少しぐらいのんびりしても、誰も叱りやしないさ。そんなにおもしろかった?」
「はい!」
 少し前に聞いたことがあるような「はい!」だった。
「よかった」
 よかった、と僕は思った、二時間耐えた甲斐があったな、と。
「ありがとうございます」
「なんで?」
「一人じゃ、たぶんここまで来られなかったから」
 そうだなあ、あのレベルの方向音痴じゃ難しいよなあ、と叩きそうになった軽口をのどの奥で止めておいて、僕は立ち上がった。
「だいじょうぶ」
 と僕は言った。
「君は自分の力でどこにだって行ける」
 僕は彼女の顔を見ずに「行こう」と言って、会場の出口に歩き始めた。

 さっさと帰ってしまうつもりでいたのに、こういう講演会ではありがちな「出口で講演者が立ってお見送り」というやつがあって、まあ、捕まった。先生は笑って「やあ」と言ったきりで、参加者の見送りに戻ったのだけれど、知った顔の数人が先生の後ろに固まっていて、とても楽しそうに僕(ともう一人)を手招きしていた。大学の大講義室前のホールで、それなりの歳になった怪しい男女の一団。僕はきっぱり無視して通り過ぎようとしたのだけれど、喜多川良樹が僕の肩をつかんで輪の中に引き込んだせいと、童心に返ったように目を輝かせた彼女のせいで、いろいろと諦めた。
「ほう」
「ははん」
「へえ、噂の」
 とかなんとか、彼女と僕を見比べて、喜多川をはじめとした塾の創始メンバーがにやにやと笑う。非常に居心地が悪い。
「この子が……」
 喜多川がなにか言い出そうとしたので、
「助手の橋本アミさん。撮影の仕事を手伝ってくれている。先生とおまえたちのファンだよ」
「ということらしいけど、そうなの?」
 そう彼女に訊いたのは村山香だった。出会ったときから変わらず黒の長髪と切れ長の目がトレードマークで、その様相は平安美人というより女武者というのがふさわしいタイプだ。この中では紅一点だけれど、ここにいる連中と浮ついた話はなかった。どこか別の場所で知り合った男または女となんどか同棲していたようだけれど長続きはしないタチらしく、相手は短いスパンで変わっていった。たしか大手の出版社を辞め、今は司書採用の道をさがしてフリーターをしているはずだ。同い年なのに年上ぶるのでT君はやや苦手にしているらしいと、ものの本には書いてあった。
「はい! 田村さんのお仕事を手伝わせていただいてます!」
 とても調子よく彼女は答えた。村山女史は少しつまらなそうに「そうなんだー」とわざとらしい棒読み。僕に視線を送ってきたが、僕はなにも答えない。村山は彼女にとみに興味があるらしく、歳だとか学部だとかを彼女から愉しそうに聞き取り始めた。彼女の方も、舞い上がっているらしく元気よく色々答えてしまっている。僕に関して余計なことを口にしないか、正直気が気でない。
「田村先輩がねえ、女の子をねえ、いやいやいやいや」
 一年後輩の砂森俊介がおどけた(僕からすれば面倒くさい)声を出す。髪を金と茶のメッシュで染めて、ブランドの上等なベージュのコートを自然と着こなす洒落た男だが、中身が純朴実直を絵にしたような男だと身内はみな知っている。高校時代はスポーツ系の部活をしていて、大学に入ってもそのノリが抜けず、一年でも上なら律儀に先輩扱いしてくれていた。僕はなんどかそういうのはやめてくれと言ったのだけれど、自分のポリシーなんでと返されるばかりなので、そのうちに僕の方がなにも言わなくなったのだった。
「お歴々が集まって、今日はなんの集会なんですかね? みな社会人でお忙しいでしょうに」
 僕は皮肉と冗談のつもりで言ってやるが、
「ん? そりゃ久々におまえも来るからこのあと飲みに行こうって」
 こともなげに喜多川が言い放ち、他のメンバーもうんうんと頷く。
「僕は聞いてないぞ」
「そりゃな。言ったら逃げそうだし」
「いいじゃないっすか、田村さん」と言ったのは宇和島正司だった。居心地が悪そうにして悪童たちの悪ノリから一歩下がっていた彼は、少しほっとしたように僕に声をかけた。「喜多川さんがおごってくれるそうですよ」
「おいこら宇和島」
「なら仕方ないか」
 ここで逃げたら、こいつらはともかく彼女には一生恨まれそうだ。それに、宇和島が喜多川に小突かれながら、僕になにか言いたそうな表情をして頷いた。僕もわかったと軽く頷く。この間の話の続きでもあるのだろうか。あるいは、現状を部外者になった僕に直接見てほしいのかもしれない。
「田村、この子20歳じゃない。9歳下に手出したの?」
 突然村山がわざとらしくオーバーに声を上げる。
「人聞きが悪いことを公衆の場で言わないでくれ」
 だから村山は苦手なんだと、心の中のT君が毒づく。
「先輩は年下好みだとは思ってましたけど、いやあ、さすがっすね」
「彼女とはそういうのではないし、あくまで一般論としてだけど、一定の年齢を過ぎていればそういうのに年齢差なんてたいして意味はないだろう」
「おまえからそういう話が聞けるとは、長生きはするものだな」
 と皮肉なのかなんなのか、喜多川が言い放つ。ちょっと疲れてきた。
「老成したふりをするんじゃない。ダラダラ生きるより若くして死にたいとかほざいてたのは、何年前の話だ」
「最近は気が変わったんだ。このように面白いものが見れるしな」
 そう言って、あごで彼女の方を指す。僕はたまらず彼女に助けを求める。
「なあ、君からもちゃんと言っておいた方がいいよ。こいつら本当に際限なく悪ノリしかしないから」
「ほんとにこんな感じなんですね。ちょっと感動します」
 まったく話を聞いてくれない。
「あのさ、橋本さんはさ、あの本を読んで僕らのことを知ってるんだよね」
 砂森がフレンドリーに声をかける。見た目チャラい系男子が女の子に声をかけているように見えるが、内心奥手な彼が女の子に話しかけるのはなかなかに勇気がいることのはずで、よほど彼女が気にかかったのだろうか。
「はい。あの本は、高校のころから読んで、ずっと持ち歩いてます」
「持ち歩いてるって、今も?」
「はい!」
 彼女が元気に返事をすると、次の瞬間には小ぶりな手提げかばんの奥からハードカバーのエッセイが出てきた。子ども向けのアニメなら効果音を鳴らすところだ。
「へえ、すごいな。自分たちの話がそんなに熱心に読まれてるの、なんか不思議」
「私も不思議です。みなさんがほんとに本の中から出てきてみたい」
「いつも言ってるけど、あれはエッセイにされた時点であくまでフィクションだよ」
 僕は一般論を唱える。
「だとしても、今ここにいる俺たちがフィクションでないその人そのものであるともいえないな。あくまでペルソナみたいなもんだ」
 と喜多川が僕の一般論に反論してくる。いつもの流れだ。
「それに田村に関してはけっこう本のまんまだろ」
「私もそれは同感。あ、田村のことね」
「ですね。先生は田村先輩のことよくわかってると思います」
 だいたい人数差で分が悪くなるものいつものとおりだ。かわりゃしない。
「君たちはほんとすごいね。すっと、そのノリに戻れるんだから」
 そう言って、感心したように先生が輪の中に入ってくる。どうやら見送りの仕事は終わったらしい。大講義室前の人どおりもだいぶん減ってきた。
「僕のは、ただこいつらに合わせやってるだけですよ」
「そういうところ、君も変わらないね」
 先生にまで反論する気はない。そうですかね、と僕は小さく言っただけだ。
「私も懇親会が終わったら、君たちに合流するつもりなんだ。まあそれまで穏便にやってくれよ」
「はあ」
 先生まで来るのなら、なおさら逃げるわけにはいかなくなった。この人に対しての義理というものを、僕は粗末にするつもりはない。
 先生は僕の様子に満足だか納得だかをして、ゆっくりと深く頷いた。それから彼女に向き直って、
「はじめまして。君が、田村君の助手さん?」
 先生に話しかけられたら彼女はさぞ緊張するのだろうと、僕は内心予想していたのだけれど、僕の陳腐な予想に反して、彼女は穏やかに、まるで古い友人に出会ったときのように、先生に相対していた。
「はい。橋本アミといいます」
「橋本さん、写真は好き?」
「はい、田村さんに出会って自分で写真を撮り始めて、それで好きになりました」
「そう、いい出会いだったんだね」
「はい」
「田村君の写真、どう思う」
 なぜ今ここでそんなことを訊くのだろう。
「好きです」
「私も好きなんだ。いいよね。彼の」
「はい」
 僕はそのやりとりを、すぐ近くにいるというのに、とても遠くで見ていた。まるで開いた本の中の物語を見るように、僕は別の世界からその世界を見ていた。
「今度塾に遊びにおいで。君みたいに若い学生はいつでも歓迎さ」
「はい必ず」
「そのことなんですが、先生」
 ちょうどいい、思い切って聞いてしまおう。
「彼女を正式に塾生として参加させてあげてほしいんです。もちろん、そちらの都合がよければということですけど」
「君の推薦、ということか。なるほど」
 先生は右の人差し指で軽く自分のあごを叩いた。
「聞いてあげたいのは山々なんだけど、私が決めることではないからね」
 先生はそう告げて、
「喜多川君、入塾希望者だよ」
 と喜多川を呼んだ。
「聞いてましたよ」
 村山たちと掛け合い漫才もどきに興じていた喜多川が、僕に向き直って少しバツが悪そうに説明する。
「田村。おまえが抜けてから、少し変えたんだ」
「変えた?」
「入塾希望者が多くてな、さすがにすべてうちで面倒をみることなんてできないから、入塾に少しめんどくさいハードルを増やして、ルールを作ってしてしまったんだ」
 喜多川の説明するところでは、年に数回程度希望者を募り、面接と簡単な試験を課した上で、先生とメインスタッフで選考するということらしい。
「だからいくらおまえの推薦でも一足飛びに入塾というのはできない。まあ、組織のコンプライアンスというやつだ。ばかみたいだろ?」
「ばかにはしないさ」
 たしかに僕がいたころの塾の雰囲気からすれば、だいぶん堅苦しくなったのだろうけれど、これは仕方のないことだ。そういう苦心や必要を、僕はお気楽な外野の立場から茶化したり批判したりする気はない。
「ただなあ、せっかくのおまえの頼みだし、考えないことはないんだぜ?」
「気持ち悪いことを言うな。無理を言うつもりはない」
 彼女には悪いが、気持ちの悪い喜多川にまともに取り合う道理はない。おかしなことを言い出す前にきっぱりと断っておく。
「あの、すみません。私のことで。それで、あの、私はいいんです。塾には入ってみたいけど、それはちゃんとした機会があればということだから」
 黙って経緯を見守っていた彼女が意を決したように声を上げる。彼女は申し訳なさそうに小さくなってしまったが、よほどそんなにかしこまる必要はないのだと言ってやろうかと思う。こいつらは、ただからかって遊んでいるだけだ、と。
「橋本さん」僕が声を出す前に村山が先に彼女に話しかけた。「喜多川は田村に貸しを作りたいだけよ。しかも値段を吹っかけて」
「そりゃそうだろ、田村からの頼み事なんて、こんなおもしろたのし珍しいことなんて見逃せるか」
 いつものおふざけに入った喜多川は、しかし急に真面目くさった道化の顔をして彼女に向き直った。
「とはいえ、俺も今やまじめな組織人だからな。アミちゃん」
 まじめな組織人が初対面の女性をちゃん付で呼ぶ。
「一般参加できる勉強会ならいくつかあるから、まずはそこに参加してみてくれ。塾の雰囲気がどんなもんか、少しはわかると思う。それでよかったら、入塾の面接を受けたらいい。時期はたぶん半年か一年近く後くらいになると思うけど」
 自称真面目な組織人の落としどころは、たいてい穏当なところに落ち着く。一線を超えることはしないあたりが、この男の美点であり、矛盾点だ。
「ありがとうございます。必ず、行きます」
 彼女が感謝と尊崇が混ざった目を喜多川に向けると、喜多川は少しだけ柔らかく笑った。僕のあまり見たことのない、子どもや生徒に向けるような笑いだった。あるいはこいつは西町先生になりたかったのだろうか、ふとそんなイメージがわずかにかすめた。
 話はまとまったようで、西町博とその愉快な仲間たちは、このあと行く居酒屋の話に話題を変えた。先生は懇親会の方に顔を出して来るよと、大学の関係者に連れられて行った。去り際に「またあとで」と言っただけれど、それはおそらく彼女に向けてだった。彼女は小さく頷いた。とてもがんばって、頷いた。
 移動の段になって、僕らは大学を出て、十五分ばかりの道のりを歩く。辺りは田園の多く残る郊外地区で、この大学から少し南に下ったところに、近隣の学生向けの居酒屋があるらしい。村山と喜多川が先導し、後輩格の砂森と宇和島があとに続く。僕はその後ろで、僕の後ろには彼女がいる。
「みんなと話して来たら?」と僕は彼女に勧めたのだけれど、彼女は恥ずかしそうに首を振った。代わりに僕にさっきのできごとを話してくれる。みな本の中のまんまだとか、先生の前でとても緊張していたのだとか、自分がなにをしゃべったのかまるで覚えていないだとか。
「田村さん、いつもと違ってまるでT君みたいでした」
 僕はその彼女の感想にどう答えていいのかわからない。T君のようなさっきの僕に失望したのか、それともT君の人物像こそが彼女が僕に求めていたものだったのか。
「このメンツが集まると、こんなコントじみたバカばっかりさ」
あの本にまつわる面倒な話。僕を知っている誰もが、エッセイに出て来るT君が僕の特徴をよく捉えていると感心すること。この手のことは本人が否定すれば否定するほど面倒なことになるので、僕はもうこの件について「やれやれ」以外の言葉を失ってしまった。
「田村さん」
 彼女の瞳の色が変わる。まるで親に暴力を振るわれる一歩手前で子どもが様子見をするような目だ。
「怒ってます?」
「いや、だいじょうぶだよ」
 僕は自分の表情を作り直す。人にそんな顔をさせてはいけないのだ。ただ……
「ただ――」
「?」
「物語に自分を売り渡してはいけない、というだけさ」

 連れられて辿り着いた居酒屋は、郊外の国道から住宅地の細い路地に入ったところにある、古い木造の商家だった。店先の手書きのボードと軒につるした店名の看板がなければ、居酒屋だとは誰も思うまい。引き戸を開けて中に入ると、傷だらけのカウンターに愛想の悪い中年店員が一人。奥には狭い座敷が三つほど。レトロ趣味のトリスのポスターの隣で不釣り合いな液晶テレビがニュースショーを流していた。店員(と最初は思ったのだけれど、彼一人しか従業員が見当たらなかったのでおそらく店主なのだろう)に案内されて、僕らは予約されていた座敷に案内される。障子で区切られた四畳半に座卓が一つ。六人でぎりぎり、七人ならぎゅうぎゅう詰めだろう。宇和島の隣に僕が座り、僕の隣に彼女が座った。向かいには砂森、喜多川、村山が座る。上座は先生というのは暗黙の了解のようなものだった。目の前の座卓は落書きだらけで、なんとか部だのなんとかサークルだの、近隣の学生グループが名前を残していた。どこにでも、こういうものはあるものなのだ。
「いつものあそこに似てるだろ?」
 と喜多川が言ったのは、塾の近く、僕らが学生のころからずっと行きつけにしていた地域の居酒屋のことなのだろうけれど、僕には同意も否定もできなかった。
 ビールにつまみにだし巻きに、喜多川と村山が手早く仕切って店主に注文を告げていく。軽い乾杯のあとに始まったのは、見慣れたグダグダで、僕への冷やかしもそこそこに、話題は今自分たちの生きる社会に広がっていく。流行、政治、エンタメや文学。自分一人では飲み込めきれないそのエネルギーをなんとか飲み込もうとして、塾という出力装置に押し込んでいくわけだ。
「今塾でメインでやってる勉強会があるんだ」
 そう切り出して喜多川が話してくれたのは、塾の新しい企画のことだった。塾での対面もオンラインもすべて使って、中学生や高校生に世相や政治の座談会をさせるという体のものらしかった。事前にお題を決めて、準備してきた中高生に発表させ、さらにそこから議論をつなげる。喜多川たち塾のスタッフが司会やサポートをしながら体裁を整えて、それなりのコンテンツとしてこさえるらしい。オンラインで配信もしているらしく、なかなか評判で、有料のアーカイブや一部書籍化したものも、それなりに利益を出しているということだった。すっかり塾の情報から離れていた僕は、浦島太郎のような風でその喜多川たちの熱っぽい話しぶりを聞いていた。
「この世代はすごいぜ。政治が他人事じゃない。ちゃんと生活の一部になっている。俺たちは世代交代して世の中が変わっていく境目にいるかもしれない。そういう実感がちゃんとあるんだ」
 塾に在籍しているメンバーたちも、その話題にはかなり熱を帯びて食いついてきた。村山も砂森も、この新しい企画にかなり入れ込んでいるようで、いくつかの苦労話や企画に参加してくれた中高生のエピソードなんかを教えてくれた。「ほらこれ、知ってる?」と村山は配信サイトを自分の端末で見せてくれた。有名なニュースサイトや動画配信プロジェクトにも取り上げられたらしいけれど、あいにく僕はそんな企画が塾からされているなんてまったく知らなかった。喜多川が「山籠もりでもしてたのか?」と冗談めかして言ってきたが、あながち間違いでもなかったかもしれない。塾から離れてこの方、そういう類のニュースや世相の情報をあまり触らなくなってしまっていた。そのことを喜多川に茶化されてはじめて気がついた。
 彼女の方は知っていたらしく、すっかり場に打ち解けて、熱心にその企画の裏話について聞き入っていた。なにそれの発表をしていた彼はどこ高校の生徒会長なのだとか、あれそれの中学生は有名な作家の娘なのだとか。そういう話が、情熱と才能と少しばかりの虚栄心がないまぜになって耳に入ってくる。なにかこう、大きな世界の中に自分たちが自由に動かせる場所を見つけてしまって、その効力感に酔っているような……いや、こういうのはうがった見方だ。彼らは彼らなりに、たしかな努力と情熱を注ぎ、塾やそこから生まれ出るものを、――オーバーな言い方だけれど――愛していた。彼女もその熱気に目を輝かせていて、僕はいつものように常識論を唱えたり冷や水を浴びせるのをためらっていた。
「田村さん」
 僕の隣で控えめに話に相槌を打ったり、説明を補足したりしていた宇和島が、急に僕の名を呼んだ。
「田村さんから見て、どう、思います?」
「どう、とは?」
「塾の外から見て、俺たちの活動はどう映るのかなって」
 宇和島がそう促したせいで、一斉に僕に向かって視線が向く。
「いい企画なんじゃないか」
 そう言ったのは嘘ではなかった。
「田村が褒めるなんて珍しいな」
 そう言った喜多川の口調は、意外さとつまらなさが半々といったところだった。
「今の時代、政治的な話題が色付きとして忌避され、かわりに冷笑や大喜利やまぜっかえしが無難な振舞いとして消費されるようになった。けれど、冷笑や大喜利やまぜっかえしやスラングや……なにか言った風なマウンティングの取り合いには、実際的になにかを生み出す力はほとんどない。どこかで、論理的な議論や現実に手を動かす実務というのは必要になる。もしかしたら今がその臨界点みたいなもの、なのかもしれない」
 それはまあ、僕なりの今現在の世相に対する漠然とした意識だ。僕が社会に対してなにか言うのが珍しかったのか、隣の彼女が不思議そうに僕を見ているのが視界の端に映った。
「ただ」と僕は言った。
「ただ?」とその場の誰かが言った。
「社会とか世界とかいうものは、そんなに急に変わるものなのだろうか」
 僕はただ、あたりまえの常識論としてそれを言っただけだった。大気の中に呼気の塊を送り出すくらい、ごく自然に。
 だというのに、その場にいた誰もが急に黙り込んでしまった。驚いているようにも見えるし、気まずそうにしているように見える。なにか、僕が常識ではあり得ないほどの失敗をしているのに、でもそのことに気づいていなくて、誰もがいたたまれない気持ちで、そうと指摘できずにいる、そういう時間だ。居酒屋の中にはニュースの音とさっき頼んだだし巻き卵の焼ける音だけが響いている。フライパンの底で、だし巻きの水気が気泡になって弾けている。僕はよほど、その気泡のはじける音一つ一つを数えようかと思ったくらい、鮮明に聞こえた。
「というと?」
 だいぶん時間が経ってから(少なくとも僕にはそう感じた)、喜多川がそう僕に促した。腫れ物に触る覚悟を、今この場で決めたように。他の塾生たちが少し肩で息をしたのがわかった。僕は促されるまま、いつものように常識論を述べた。
「急進的な変化は歴史上なんどか起こったけれど、それは人の血が流れるようなリスクを伴う。変えていくのは大事だけど、自分たちの周りだけで変わっていくような雰囲気に呑まれると、もっと長いスパンで見た変化を見逃してしまうんじゃないか」
「それは俺たちもわかってるよ」
 喜多川の言葉には、いつものような情熱と闘志と自己陶酔の色はなく、親が子になにかを諭すような、諦めと穏やかさがあるだけだった。少しだけ、先生に似ているかもしれない、と僕は思った。
「ならいいさ。僕が言ったのはただの一般論、常識論にすぎない。僕も今度その配信とやらをじっくり見て見るよ」
「おう。それでおもしろそうならいつでも戻って来いよ」
 僕はその誘いにイエスともノーとも言わなかった。
 けっきょくその話題はそれまでだった。ちょうどだし巻きとビールのおかわりがやってきて、僕らの話題は、行きつけの居酒屋とこの店のだし巻きの比較品評に移っていった。しばらくすると店内の客も増え、喧騒のせいで近くにいる人間の声も聞き取りにくくなっていた。彼女と喜多川、村山、砂森の四人は、塾の話題で盛り上がっていた。僕は彼らの冗談と早口と真剣さをBGMに、ビールを飲みつつ、大皿に少しずつ残っている料理を箸で摘まみ空き皿を作っていった。それは見慣れた光景だった。だというのにそこに彼女が混ざっているせいで、僕の現実感のピントは少しばかりずれてしまっていた。まるで現実の風景をそっくりそのまま模型に置き換えた、ミニチュア写真を見ているような、そんな違和感。彼女が言った「本の中から出てきたみたい」というのを、たぶん僕は現実の画として見ていた。
「田村さん、変わりませんね」
 四人の会話に、たまにまじりつ、酒を飲みつつ、控えめに場に参加していた宇和島が、急に僕に話しかける。
「なにが?」
「皿、片付けてるんでしょ」
「ああ、べつに片付けてるわけじゃないよ。ただ、自分が話すより、人が話してるのを聞きながら飯を食う方が好きなだけさ。で、なんだ。さっきからなにか僕に言いたそうだけど」
 皿云々は僕に話しかけるきっかけだろう。僕が促すと、宇和島は声量を落とし僕だけに聞こえるように話し始めた。
「さっき田村さんが言ったこと」
「ん?」
「先生も同じことを言ったんですよ」
「社会は急に変わらないって?」
「『社会とか世界とかいうものは、そんなに急に変わるものなのだろうか』って一字一句同じでした。だからみんな驚いたんだと思います」
「そりゃ僕も先生とは長い付き合いだからな。似たような言い方で、同じようなことを言ってしまうこともあるだろうさ」
 知らない間に考え方どころか口調まで影響されてしまっていたのかもしれない。あまりよくない傾向だろう。
「その、先生がそれを言ったの、例の企画の最中で、タイミングがタイミングだったから、場が凍りついちゃったんです。配信用の動画ではカットした箇所なんですけどね」
「その、タイミングというのは?」
「司会をやっていた喜多川さんの、締めの演説のあと」
「なるほど」
 僕はだいたいの状況を察した。若人の発表を受けて、感情的になった喜多川がお得意の弁舌でなにか大きなことを言ってしまったんだろう。さっきみたいに、社会の転換点云々のようなことを。そのあと先生が、たぶん悪気はないのだろうけれど、冷や水を浴びせるようなことを言ってしまった。そこにあってはならない言葉、似合わない、不適切な言葉を、僕たちは日常的に無意識に排除している。先生がそのとき言ったのは、そういう言葉だ。
 僕と宇和島の会話は喜多川には聞こえていなかったようで、まだ彼女を含む四人で、今までのこととこれからのことを強い熱を帯びて語っていた。彼には強い意志とそれを生み出す憧れのようなものが、たしかにあるようだった。あるいは、と僕は思う。喜多川は、やはり西町博になりたいのかもしれない、と。

 先生が合流したのは、僕らのグダグダが始まって一時間ほどしてからだった。
「いやー、面倒になっちゃって。懇親会、用があるって言ったら、早めに抜けさせてもらえちゃった」
 と、先生は悪びれながら僕らの上座(というかただのテーブルの端の席)に座った。狭い座敷席はさらに狭くなったけど、この狭さも懐かしいような、いつもどおりのような。先生が座に着くと、話題は自然と今日の講演会の話に流れていった。いくつか今日の講演の内容について先生に質問が飛び、そこから少し議論が発展して、ぐだぐだが煮詰まったところで、先生が笑いながら交通整理、悪くないところで着地。話は講演会の内幕や前日譚なんかの俗な話題に移っていく。彼女も、もうすっかり馴染んだもので、他の塾生と一緒になってあーだこーだのぐだりように積極的に参加していた。先生も塾生たちもごく自然に、というか以前からこの場に参加していたかのように彼女に接していた。だんだんと、僕も彼女の混ざった風景の方がホンモノだったんじゃないかという気がしてくる。
 話題はいつの間にか彼女の話になっていた。なにがきっかけだったんだろうか。講演会で少し先生が書いた昔の本のことに触れていて、それを砂森が拾ったのだった。彼女が熱心な読者であること、ずっとあの本を持ち歩いていることを。それをきっかけに彼女はぽつりと自分の話を語り始めた。一時期学校に行っていなかったこと、本を読んだこと、大学に入ったこと、僕と出会って写真を撮り始めたこと。センスティブな部分は省いて、彼女は自分のことを話した。先生はそれを楽しそうに頷いて聞いていた。僕は横であまり話さずに、ときどき適当に補足や相槌を打ちながら、話を聞いていた。
彼女がそれを先生に話す様子は、なにかに似ていた。なんだろう? 本当に生徒が親しい先生になにか打ち明け話をするような……そうじゃなければ、告解する罪人のような。いや、幼児が親に秘密の話を……なんだろう、この感じは。僕はその画を語る適切な言葉を持たない。塾生たちも、彼女の話を冷やかしたりせずに、理解し、神妙に聞き入っているようだった。僕だけがこの場をうまく理解できていないのだ――僕だけが。
「そうか、私の書いたものが君の役に立ったなら、そりゃすごいことだなあ」
 どこか他人事のように、先生はぼやくようにそう言った。
「すごいことですよ」と喜多川が言った。「人一人を変えるってのはすごいことなんですよ」
「すごい、んだなあ」
「知りませんでしたか? 先生って、すごい人なんですよ。もしかして本でも書いたら売れっ子になれるんじゃありませんか?」
 少し呆れた調子で宇和島が言った冗談に、先生が照れくさそうに「ははは」と笑った。
「でも本当にすごいのは橋本さんだね。なかなかできることじゃないよ。君みたいな生き方は」
 彼女も照れくさそうに赤くなって、慌てて首を横に振った。
 僕はその間中ずっと、寒々しいむずがゆさを感じていた。嫌悪感に近いものだ。悪寒すら感じていた。
 僕はひどく場違いだった。この場にいてはいけない人間だった。僕さえいなければこの場は完成されるだろうに。先生、彼女、喜多川、村山、砂森、宇和島、彼ら全員がその場にあるものを、理解し、それこそが我々が到達すべきものだったという風に、その場の理想の一部になっていた。でも僕には、それがひどく歪で、不確かで、なんなら誤解や勘違いのようなものにしかみえなかった。
 僕は白けてもいいし、冷やかしてもいい。ああ、よほど、この場に異議を唱えてなにか発言しようかと思ったくらいだ。だが、違う。常識論や冷や水でどうにかなるようなものじゃない、根本的な間違いがここにはある。それが僕のせいなのか皆のせいなのかはわからない。ただ僕の身体中の神経系は霜だらけの冷蔵庫のように冷え切っていた。
「田村?」
 村山が僕の名を呼んだ。様子を訊くような、あるいは僕の失礼をたしなめるような、低く響く声だった。傍から見ても僕の様子はおかしかったようだ。
「なんでもないさ」
 僕はそう答えるしかなかった。
 僕にとって僥倖だったのだけれど、ちょうどそのとき不愛想な店長がラストオーダーの知らせを告げに来た。行き詰った冒険活劇に現れる、安易な助力者のように。
「と、いい時間になってしまったね。今日は久々に君たちと濃い話ができて楽しかったよ」
「そうだ田村、せっかくだしみんなの写真撮ってよ。どうせカメラ持ち歩いてんでしょ」
 自分の携帯端末かなにかで撮ればいいのに、村山が僕に話を振ってくる。それが本質的には気遣い屋である村山の、真からの親切だとは理解しながら、僕は崩れ落ちそうになる自分のことで精いっぱいだった。
「いいね。いいかい、田村君?」
 と先生も話に乗ってくる。先生から言われては、僕に断る道理はない。アルコールの入った頭を架空のハンマーで無理やり叩きつけ、僕はレールの接続を切り替える。持ち歩いているデジタル一眼をキャリーボックスから出せば、もう大丈夫、仕事用の僕だ。
「じゃあみんな先生の周りに集まって」
 園児たちをうまく乗せるのと同じ調子で僕はそう言った。
「アミちゃん真ん中にしようぜ」
 そう言ったのは喜多川で、彼女は戸惑いながらも、嬉しそうに先生の左隣に入った。それを囲むように右手に村山と喜多川、左手に宇和島と砂森が座った。みんなうまく前後にばらけ、狭い座敷で寄り添うように人の塊を作る。
「田村も入れよ。タイマーあるだろ」
「この狭いスペースで七人並びは無茶がある」
「なんだ、無理やりすべり来みゃいいだろ」
「こっちもいちおうプロだからな。下手なものを撮ると信用にかかわる」
「言うじゃねえか。いいぜ、ちゃんとしたの撮ってくれよ、田村先生」
「酔ってるな。喜多川はちょっと口を大人しくしてろ。それとみんな、狭いけどもうちょっとだけ先生に寄って。オーケー。視線少し低めで、あごを気持ち引く感じで。いいです。はいじゃあ三二一で行きます。三……二……一」
 僕はその写真をごく自然に撮った。それほど凝った写真を撮るような状況ではなかったけれど、依頼された仕事として、悪くない写真を撮ったつもりだった。それはいつもの、仕事用のつもりで。
 でも僕はその写真を撮った瞬間に気づいてしまった。これは僕が撮った完璧な写真だ。
 写真の中央には先生と彼女が座って並んでいて、それを囲むように他の四人が寄り添っている。狭い室内だったが、照明の位置が幸運にも丁度いい順光だったので、みんなの位置を少し調整するだけで、生きた顔の表情が容易に撮れた。みなとても楽しそうで、まるで昔からの親友が旧交を温め合ったかのようだ――それは単純な比喩ではない。
 喜多川たち四人と先生は昔からの馴染みで、今でも塾でよく顔を合わせていたはずだ。旧交を温めるなんて言い方は、一見比喩としては不適切だ。しかし、とはいえ、こうやってみんなで集まって酒を飲む機会は、塾生たちが社会人になってからはそれほど多くはなかったはずだ。ならば旧交を温めると言ってもあながち間違いではないだろう。
 そしてなにより、彼女もその輪の中に入っていたのだ。ごく自然に。当たり前のように。初対面のはずの彼女は遠慮や照れもなく、その写真の中央やや左にきれいに収まっていた。昔からの友人の、その一人のように。
いやむしろ、彼女こそがすべての始まりだったのかもしれない。彼女がいたからこそ、ここにいる人たちのつながりができあがった、そういう関係なのかもしれない。なにも知らずにこの写真を見た人間なら、きっとそんな印象を受けるだろう。これは、そういう可能性の世界を写し撮った写真だった。彼女が西町博と出会い、少しずつ人が集まり、それはいつのまにか有志の勉強会になって、とうとう私塾を開くまでになった。みな塾で学んだことを糧に成長し、各々の場所で世界を少しずつ広げていったのだ。
 そして、そこに僕はいない。僕がその画に写っていないこともまた、とても自然だった。おかしな言い方だけれど、僕がいないことの説得力が、その写真にはあった。
 そう、だから僕は気づいたのだ。
 僕はそこにいるべきではなかった。そこには彼女こそがいるべきだったのだ。彼女こそが西町博と出会い、勉強会を立ち上げて、同じ学生たちと四苦八苦しながら、才能を認められるべきだったのだ。だがあろうことか、通りすがりの誰かがその場所に先に収まってしまっていた。
なにかの間違いで、不当に彼女から居場所と可能性を奪っていた、ただの部外者。それこそが僕の正体ではなかったか。

 居酒屋から最寄りのローカル線まではみな一緒だった。ローカル線の途中駅で僕と彼女以外の五人は地下鉄線に乗り換えるために降りて行った。みんなが降りるときに型通りの挨拶をしたような記憶はあるが、実感はない。その日の帰り道は、あとから見た他人の記憶のようだった。
 ローカル線から降りたあと、僕と彼女は私鉄の駅に向かった。行きに彼女が迷ったせいで遠回りをしたときの道だ。いつものように、僕が前を、彼女が後ろを歩く。日はもう暮れて、辺りはつまらない映画のエンドロールのようなしらけた暗闇に覆われていたけれど、彼女の気配だけは、なにもない夜の海を照らす孤独な灯台のように、温かな光を放っていた。
「今日はどうだった?」
 と僕は後ろを振り返らずにそう彼女に訊ねた。
「すっごく楽しかった……です」
「そいつはよかった」
 ああ、じゃあ、今日は良い日だったのだな、と僕は思った。今日は良い日だった、そういうことにしよう、と。
「ありがとうございます」
 彼女は僕に礼を言ったけれど、僕はそれにはうまく答えられず、なんとなく頭を掻いただけだった。
「勉強会も行ってみるといい。あんな感じの馬鹿も多いけど、きっと歓迎される。君には、たぶんあそこが合ってる」
 そう僕が言ってから、僕らは何メートルか会話もないまま無言で歩き、そして、
「田村さん?」
「なんでもないよ」
 僕は彼女がいぶかしんだのを秒を置かずに否定した。
「でも、田村さん」
 彼女は重ねて僕に声をかけた。
「なんでもないんだ」
「でも、でもね」
 彼女は慌てていた。不測の事態に混乱する幼稚園児のように、今にも泣きそうな声。
「ちょっとした――ああ、ちょっとした勘違いに気づいただけだよ」
 僕はできるだけゆっくりと、柔らかく、ひびの入ったグラスを手に取るように、そう言った。
「でも……田村さんが」
「うん」
「泣いてます」
「うん」
 彼女の声は、どうしようもなくなった子どもが最後の最後にしがみつく小さな理性のような声だった。あと一つなにかが崩れれば彼女は泣きだしてしまうだろう。彼女の理性は、わずかな細い縁でなんと立ち止まり、それから、彼女は僕の背中から抜け出して僕の隣に並んだ。僕は顔を伏せていた。彼女も僕の顔を見なかった。ただ彼女は、なにを思ったのか、僕の手を握った。
 帰り道、彼女はずっと僕の手を握ってくれていた。切符を買うときも、改札を通るときも電車の中でも、ずっと。そして彼女は一度も迷うことなく、僕を部屋まで送り届けた。その間、僕はずっと彼女の手の指の震える感触だけを感じていた。それ以外の、人の声も周りの風景も他のなにもかも、僕は世界から読み取ることができなかった。まるで世界から彼女の手の感触以外すべて消え去ってしまったかのようだった。
 彼女はなんどか僕に謝った。きっとなにかを勘違いしているのだろう。そうじゃない、そうじゃないんだ、と僕は小さく言った。彼女はそれでも僕に謝り続けた。僕は彼女のその思い違いを訂正するための言葉を言わなければならなかったのだ。そして大丈夫だと安心させなければならなかった。それは僕にしかできなくて、僕がしなければならないことだった。でも僕は、彼女の勘違いを訂正するための気力も論理もどんな力も、ひねり出すことができなかった。

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