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誰かのための名探偵図鑑No.1「S夫人」

S夫人は推理作家・大倉燁子おおくらてるこの創造した名探偵。1934年デビュー作「踊る影絵」(元タイトルは「妖影」)にて登場し、翌年刊行された同名の単著では複数の短編で活躍する。

名探偵の特徴

外交官の妻であったが、夫の没後探偵趣味が高じて探偵事務所を開く。夫とともに世界を回っていたため世界情勢に詳しく、また変装の達人でもある。本名は不明で助手の台詞の鍵括弧のなかでも「S夫人」と呼ばれている。モデルは著者(大倉燁子)本人か。

普段は語り手であり、そして事務所の助手でもある「私」(女性)と共に依頼を受けて事件の解決に乗り出す。ひと事件終えると人が変わったように朗らかになり、書斎の安楽椅子で酒や煙草を嗜むシーンも印象的である。こういうときのS夫人は機嫌がよく、「私」がねだると過去に関わった事件の話をしてくれることも。

S夫人はその超人的な頭脳で不可解な事件の謎を解決する名探偵というより、足で稼ぐタイプの名探偵に近い。ただ非常に直感に優れており、事件の依頼を受けたときにはおおよその真相に気づいている。

シリーズの特徴として本格度(本格ミステリらしさ)は低め。作者自身が外交官夫人だったこともあり、話の舞台は日本国外が、事件もいわゆる上流階級の人物が絡むものが多い。そして事件の動機にはどれも愛憎に絡む情念が渦巻く。ここが一番のセールスポイントと言えるだろうか。恋愛とミステリというと連城三紀彦の花葬シリーズを思い浮かべるが、本作は探偵という第三者として事件に関わるため比較的(心理面で)あっさりしている。ただ犯人が動機を語るシーンはいずれも胸を打つ。

S夫人シリーズの作品

S夫人の登場作品はいずれも短編であるが、著者の大倉燁子は1960年に没しており、多くの作品は入手困難で正式な登場作品数は不明。現在筆者も調査中であるが、おそらく個人ページ「夢現半球」様の記録のとおり、8(9?)編と思われる。

このうち7編は1935年刊行の単著『踊る影絵』に収録されているため、本シリーズの舞台は1930年代を想定すると良さそうである。

なお本シリーズの作品はタイトルの変更が非常に多い。一応すべてのタイトルを併記するが、話を繁雑にしないため、基本的に現在最も入手しやすくかつシリーズほぼすべてが収録されている『大倉燁子探偵小説選』(論創社)の収録タイトルを用いる。

各作品紹介

※括弧内は別タイトル

「消えた霊媒女ミヂアム」(消えたミヂアム、泰国の鰐寺、消えた霊媒)
10年近く前に失踪して話題になった霊媒師・小宮山麗子の名前を挙げたS夫人。世間では謎のままだが、S夫人はその真相を知っているという。
夫の仕事でタイに滞在していたころのエピソード。妻を失った日本人の男性の慰みのためにと日々の会話の相手に抜擢されるS夫人。しかし彼は今にも死んでしまいそうで、時折不思議な行動を取ることも気になっていた。
謎解き要素はあまりなく、結末も取り方次第。ろくでもない犯人だが、一部には同情したくなるところもある。

なお本作は「妖影」(踊る影絵)より先に完成していた可能性がある。ただし雑誌掲載の順番は2番目である。『大倉燁子探偵小説選』の掲載順でも2番目だが、単著『踊る影絵』では「妖影」より前の1番目である。本作はS夫人が探偵の仕事に興味を持つきっかけとなった事件であり、シリーズ第1作と呼ぶに相応しい。

「妖影」(踊る影絵、踊るスパイ)
「私」はS夫人に1冊のノートを渡された。そこに書かれていたのは任務のために暗号を服の下に隠して旅をする男性の旅の記録だった。

言わば探偵作家・大倉燁子のデビュー作。解題され、作者初の単著『踊る影絵』の表題作となった作品でもある。江戸川乱歩もシリーズで1番の佳作と評しており、平成の終わりには超訳ながらコミカライズも果たす人気作である。『大倉燁子探偵小説選』でも第1作目に収録されているが、S夫人は初登場ながらほとんど姿を見せず、彼女の素性がほぼ不明のままなのが気になる。主役についてほとんど語られないために続編があるのかと勘違いしてしまうが、これはおそらく「消えた霊媒女」を読んだ前提で書かれているからなのだろう。

諜報機関という諜報機関が存在しないためか、日本において、諜報をテーマにした推理小説は数が少ない。それが本作を際立たせる理由のひとつだが、最後に残されたメモの余韻がまたよい。船の上が舞台で、かつ諜報ものとなると似たような作品の「アルセーヌ・ルパンの逮捕」を連想するが、中国親子の父親が語るエピソードが本作の見どころとなっているため、雰囲気はずいぶん違う。

なお斜め読みしていると冒頭でS夫人と話している助手の「私」と、作中の暗号を守る「私」が同一人物だと思い違いしやすいので注意。

また本作は一般(?)に「妖影」と「踊る影絵」の表記が混在しているため気をつけてほしい。

・「情鬼」(女秘書)
舞台は東京。小田切という外交官の自殺が報道された。亡き妻の写真を抱いて亡くなっていたため、これは自殺に違いないと「私」は主張する。しかしS夫人は「外交官には秘密が多いから簡単には片付けられない」という。多忙を極めていた「私」は、数日後に墓参りに向かうが、まだ小田切には墓はなく、納骨堂に通されることになる。
それからひと月、小田切の妹がS夫人の事務所を訪ねてきた。その依頼とは、兄の遺骨のすり替え事件の調査であった。

S夫人の直感が冴えるエピソード。小田切の女性関係がややこしくて混乱しやすいが、最後にはきちんと謎が解けるため安心である。「私」が最も話に関わってくる上、タイトルどおり一際エモーショナルな話なのでおすすめできる。

・「蛇性の執念」(南洋の蛇)
「私」に過去の話(事件)を聞かせてほしいとせがまれ、S夫人はある夫婦の結婚記念写真を取り出した。新郎・御木井武雄27歳、新婦・綾子22歳。綾子の父はS夫人の夫と仲が良く、その縁からS夫人は綾子の家庭教師として1年間ともに暮らしたことがあった。このふたりの結婚の噂を聞くとS夫人は不愉快に思ったという。なぜなら綾子の結婚相手の武雄は、彼女の元夫の弟だったからだ。武雄の兄であり、綾子の元夫である文夫は披露宴の日に自殺。この結婚はそれから1年と経過していなかった。
S夫人は綾子が武雄との結婚を嫌がっていると知り、不審な文夫の自殺事件の真相を探り始める。

数年前の出来事であり、S夫人はすでに探偵事務所を開設していた。推理要素は少ないが、上流階級の家柄に隠された秘密が探偵業とマッチしていて面白い。
この手のトリックは誰が使ってもそうなるだろうがちょっと無理筋。

・「鉄の処女」(ジヨホールから帰つた男)
依頼を受け、サーカス団で人探しをしていたS夫人。サーカス団の帰り、ある伯爵夫人の死亡を報せる夕刊が入ってきた。その伯爵夫人とは今回の人探しの依頼主だった。
伯爵夫人の事件は自殺か他殺かすらもわからないまま迷宮入りしそうになる。ついに痺れを切らした伯爵は、妻の事件を解明してほしいとS夫人の事務所を来訪する。

これまたS夫人の予想どおりの事件。手がかりが少ないのもあるが、複雑で動機にはなかなか思い至らないのではないか。

・「機密の魅惑」
2年前、旧友からS夫人に送られてきた任地での苦痛を知らせる手紙の数々。旧友は子供の学校の都合で1年遅れて夫のいるハルピンに向かった。しかしその頃には夫は有喜子という美女に夢中となっていた。有喜子は平気な顔で彼女に近づいてくる。そして「私とあなたの夫との関係を気にしているんでしょう?」と尋ねるのだった。だが有喜子は「あの人は私の許嫁を自殺に追い込んだ敵であり、そんな関係ではない」と言い切るのだった。有喜子の言うことは本当なのか? 引き続いて起こった一連の事件についてS夫人はその真相を語り出した。

多くの事件が起こることもあり、途中から推理の方向性が変わっていくのが面白い。誰とは言わないが、犠牲者の浮かばれない事件である。

・「耳香水」(上海の夜)
5、6人の有閑マダムが集まった「猟奇と戦慄を求むるの会」。S夫人は探偵として中国で出会った事件の話を始めた。
当時、中国では鼠色の男という平気で人を殺す強盗が流行っていた。K夫人という女性が惨殺された事件は日本にも伝わっており、これも鼠色の男の犯行と思われていた。
S夫人はK夫人とは一度も面識がなかったのだが、偶然にも事件の2週間ほど前、何度か彼女を目撃していた。彼女の奇行を不審に思ったS夫人は、助手の連絡で向かったホテルの事件とともに真相を探り始めた。

単著『踊る影絵』におけるSシリーズ最終作。実質的にも本作が最終作と言っていい。どことなく「火曜クラブ」や「赤い部屋」を連想する作品。結末には賛否ありそうだが、内容が個性的過ぎてそちらの方が印象に残ってしまう。

・「宝石夫人」1948(S夫人シリーズ?)
友人の紹介で箱根仙石原にやってきた探偵S氏は、昇天齋天花一座の奇術を堪能していた。奇術師・天花は話に違わぬ美人だが、友人によればもう1人、非常な美人がいるという。その美人とは通称・宝石婦人。仙石荘と呼ばれるアパート兼旅館に住む外交官未亡人である。真珠色の肌が美しく、愛犬のスピッツを片時も離さないという。
そしてこの地には最近強盗が流行っていた。S氏が滞在して2日目にもそれら強盗のものと思われる犯行が発覚した。

探偵S氏は作中で「旦那」と呼ばれているとおり男性である。しかしS夫人は探偵で男装も得意としており、同一人物である可能性は捨てきれない。これだけなら別人と結論づけるのだが、翌年S夫人の新作が久しぶりに発表されているのを見ると何とも言えない。
もし同一人物だとしても、10数年後の作品となるとまるで別の作品である。天花はこれまでに書かれたS夫人シリーズのキャラクターと比較してやけに色っぽい。その後に執筆した作品群を思えばそうもなるだろうか。

事件は殺人ものだがページ数は少ない。冒頭の一文が少しお洒落。

入手困難な作品。詳しくは次の「花婿候補者」ともに「夢現半球」様を参照。

・「花婿候補者」1949
現在わかっている範囲でS夫人シリーズ最後の作品。単著『踊る影絵』から10年以上経過し、作品世界も戦後となった。
未亡人に娘2人。松谷家は残された大きな屋敷で貸部屋を始めた。居住者のなかで唯一の男性・松山正行は物静かで親切。松谷夫人は彼をとても気に入り、娘の婿にできないか画策する。
そして松谷夫人は親しい友人であり探偵のS夫人に松山の身辺調査を依頼した。親切な上に金回りもよい。こんな申し分のない婿候補になにか裏はないのだろうか?

闇市という言葉に時代を感じる。また本作はS夫人の一人称で話が進行するなどデビュー作品当時とは趣向が大きく異なっている。推理要素はほぼないが、内容は実に探偵っぽい。

・「妖影」(コミカライズ)
※作者の関与しない超訳作品だが参考までに。
2019年、『文豪ストレイドッグス』作者の朝霧カフカ監修『超訳マンガ×オチがすごい文豪ミステリー』にてS夫人シリーズの本作も登場している。冒頭のS夫人と助手の会話はカットされ、ストーリーは船上のやりとりに限局されている。少し駆け足展開なのが気になるが、企画を思えば仕方ない気もする。

そう言えば「大倉燁子」は『文豪ストレイドッグス』にもキャラクターとして登場しているらしい。今作者名を検索すると「大倉燁子 文スト」とサジェストが出るほどである。詳しく知らないのであまり触れないが、異能力名は「魂の喘ぎ」。

作品を読むには

作品を探すためにネットで「大倉燁子」を検索する場合は「大倉てる子」も同時に検索するとよい(「燁」という漢字がなかなか出ないとき、いつも「イスンヨプ」で変換してしまう 笑)。少なくともAmazonでは両方検索しないと出ない作品がある。言うまでもないが「S夫人」だけではほとんど情報を得ることはできない。探偵役に個性的な名前がいるかどうかは判断しかねるが、イニシャル表記というのはデジタル社会において不利かもしれない。

S夫人シリーズの作品を読む場合は青空文庫か、前掲の『大倉燁子探偵小説選』がおすすめ。これで7作は読むことができる。後者は一般的な小説と比べて少し値が張るものの、解題として大倉燁子、そしてそれぞれの作品の解説が読める。



それ以外の作品を読む場合は(個人のページでありながら非常に情報の揃った「奈落の井戸」、「夢現半球」)を参考に探す他ない。S夫人ものに限らなければ国立国会図書館や日本の古本屋、Amazon(電子出版)を活用すれば入手可能。ただし現物の購入を検討する場合は結構なお金がかかる。

主要登場人物


たった2人だが、参考までに。

・S夫人
「消えた霊媒女」の事件にて探偵の仕事に関心を持つ。書斎の安楽椅子に腰掛け、チェリー・ブランデーを嗜む。シリーズ開始時点で夫は故人(写真にのみ登場)。その後1年間家庭教師をしていたが、数年前から私立探偵事務所を開設してさまざまな依頼に対応している。しかしシリーズ開始から10年以上経過して発表された「花婿候補者」では「私立探偵事務所を開いているうちに取り扱ったもの」として事件が語られている。夫人もご高齢になり、戦後まもなく引退したのだろうか。
年齢や外見については不詳だが、モデルが著者ということを考えるとシリーズ開始時点で40代後半ぐらいではなかろうか。「妖影」のコミカライズイラストでは銀髪と思しき姿が確認できる(ただし非公式)。
時系列で見るとシリーズ開始当初は探偵事務所を開いてまだ10年も経過していない。当時は助手の「私」は在籍していなかった模様。

・「私」
S夫人シリーズのワトソン役を務める女性。いずれの作品にも名前が出てこないため同一人物とは限らないが、その多くはS夫人の助手として働いていることがわかる。
助手ということで勝手に若者をイメージしていたが、「情鬼」にて20年前の外交官夫婦のことを鮮明に記憶しているあたりそこまで若いキャラクターでもない様子。助手とはいえ若い女には向かない職業というわけか。事件解決直後のごきげんな夫人に過去の話を聞くのを楽しみにしている。

参考サイト・資料

本記事の執筆において参考としたもの。これらを何度参照したかわからない。
・奈落の井戸

探偵作家・小酒井不木の研究サイトだが、大倉燁子についても書かれている。専門に研究されているらしく、その情報の細かさ、コレクションの豊富さに驚きを隠せない。私の記事などニワカもいいところである。
余談だが小酒井不木も面白い作品を数多く残している。出生地・蟹江町のショートムービーシリーズにも期待したい。

・夢現半球


さまざまな探偵作家の情報が掲載されている骨太なサイト。各作品のコメントが残されているのが嬉しい。この記事よりむしろこちらを参照してほしいほど。

・『大倉燁子探偵小説選』(論創社 2011)

S夫人シリーズほか、大倉燁子の探偵作品を集めた短編集。電子書籍が苦手な人はこちらをどうぞ。

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