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文豪とアルケミストを知ってほしい

世間的にDMMの女性向けと言えば「刀剣乱舞」だろう。
無論私も大好きだ。
江戸の世界、彼ら刀は人を切る為ではなく、悪意、苦しみ、そして時代の歪みを斬り、我々審神者と共に歩むのだ。
しかし、刀剣乱舞に埋もれつつある名作の女性向けゲーム、「文豪とアルケミスト」を知ってもらいたい。
そう思い、私はやっている事を中断してこの文章を書くことにした。

生きたのは江戸末期~大正後期まで。
かつて日本を騒がせた文豪たちは、没後、その記憶をもってとある世界にある「図書館」に転生することになった。
転生先では、文学、本をこの世から抹消すべく動いている「浸食者」という存在があった。
浸食者は本に入り、その本を食らいつくしてしまう。
するとどうだろう。本を書いた作家にすら影響が出始めてしまう。
彼らが命を削って描いた本は、彼らの魂に等しい。
本が、文学が失われることにより、彼らの文士としての戦いも失われ、なかったことにされてしまうのだ。
伝えたかった言葉、描きたかった風景、そして挫折、苦しみ、痛み。
喜び、楽しさ、美味しさ、温かさ。
全てが失われてしまう。
古来より人に伝手の手段として用いられた文は、形を変え、文脈を変え、我々に語り継がれてきた。
そして今、彼らは自分たちの生きた証、魂の本を救うべく日々本に潜っている。
これを潜書という。

さて、文豪とアルケミストの大まかな設定は以上になる。
「違うじゃん!」と思う部分があるかもしれないがそれは立派な司書だ。
文豪とアルケミストの歴史は古く、なんと刀剣乱舞とほぼ同時期にそのサービスが始まっている。
現在7周年に向けて大きく足を運んでいる。
しかし、悲しいかなその知名度は刀剣乱舞とは天と地ほどの差だ。
「聞いたことあるかも」程度の存在という事だ。
やれ刀剣乱舞を知っている人で文豪とアルケミストを知る人はいないだろう。
というのも、現状で「文豪作品」と言えば「文豪ストレイドックス」で固定されてしまっているからだ。
私は文ストを1期から2期まで見たことあるが、厳密には「文豪の名前を借りた異能力者が文豪の書いた本の名前の付いた胃能力を使ってるんだなあ」という話だ。
正直言って面白い、キャラに魅力があり、話の舞台裏の話や小さなところは文豪に沿って行われている。
だが、文豪の話かと言われると少し首をかしげてしまう。
私は泉鏡花が女の子の時点で見るのをやめた。あれが別の子だったら本当に見ていたのに。
話が脱線したが、文ストのせいで文アルの影が薄くなっているのもある。
では、文アルには一体どんな魅力があるのか、共に解き明かしていこうではないか。

個性豊かな、実在の人物に沿ったキャラクター。

さて、皆さんは「無頼派」という言葉をご存じだろうか。
もちろんご存じだろう。
無頼派とは「太宰治」「織田作之助」「坂口安吾」の3人が結成するグループだ。
「無頼」とは「誰にも頼らない」「真面目に堕落する」などの様々な意味があり、色々な部分の由来がある。
中でも有名なのが太宰治の「パンドラの匣」の一説だろう。
「私はリベルタンです。無頼派です」
無頼とは今までの文豪たちのスタイルを捨てて新しく歩む姿の事を言う。
これは無頼派としての信念だ。
いわゆる新しいパリコレデザインなどのような物だろう。
彼らの信念は今になっても無頼派として受け継がれている。
しかし、この無頼派の3人を知っている人たちはまだ甘い。
「えー!無頼派なんてこの3人でしょ!」という人は恐らく文スト派の人間だろう。
無頼派には彼ら3人だけではなく、まだまだ人数がいるのだ。
その中でも一番頭が抜けていたのはあの檀一雄だ。
檀一雄は火宅の人を書いた作者であり、太宰治、坂口安吾とも交流があった人間だ。
彼のエピソードは様々あり、やれ中原中也たちに丸太を持って挑んだとかやれ投げ飛ばしたとか。
あの走れメロスのメロスのモデルにもなった人間だ。
いわゆる、「太宰と坂口を語るならこの人も入れねば!」と言う人物だ。
彼は文豪とアルケミストにも席を置いている。
事あるごとに「太宰は天才だ」「太宰は良い」と言っているいわゆる太宰オタクのところが本人そのままに出ている。
見た目はもちろん、女性受けがいいように好青年に描かれている。
一方の太宰は少し陰のあるやんちゃそうな青年で描かれている。
織田作之助は真面目そうで何処か幸が薄そうな青年、坂口安吾もこれまたやんちゃそうに描かれているのだ。

もちろん、芥川龍之介、菊池寛と言った新思潮も描かれている。
特に芥川に関しては太宰と「夢の競演」を果たすことが出来ている。
生前太宰は芥川に対して余りにも熱意があったのだが、彼らが生きていて出会う事はたったの1度で、それも遠方から見るだけだった。
それから恋焦がれるかのように太宰は芥川を慕い、憧れ、そして彼の真似をするまでになった。
生きている間には出来なかったが、文アルの世界では「ifの世界」として描かれており、芥川に出会い喚起する太宰も見ることができる。
菊池寛関連と言えば、当然忘れてはいけないのは新感覚の2人だろう。
川端康成と横光利一だ。
文アルの菊池は兄貴分として描かれており、彼らの面倒も時折見ることがある。本人のギャンブル要素も描かれている時もある。
川端は横光とほとんど一緒に描かれることが多い。
しかし、川端は余り多くを語らない。それは川端という人間の在り方だろう。
人の目をじっと見つめ、機嫌や様子を伺う見た目は「フクロウ」とまで呼ばれたほどだ。
川端は生前、2時間ほど菊池と見つめ合いやっと出た言葉が「お金を貸してください」という文言だったという。
そんな川端の無口をサポートするのは横光だ。
横光は川端の言葉の端を掬い取り、他の人に告げるメッセンジャーとしての役割も担っている。
それは川端が横光を、横光が川端を信頼している証だろう。
お互いがお互いを信頼している様は、文アルで是非確かめてほしい。

さて、先ほど泉鏡花の話をしたが、この世界では泉鏡花も当然男性だ。
尾崎紅葉の弟子である泉鏡花は有名だが、徳田秋声、幸田露伴ももちろん実装をされている。
幸田露伴は面倒見がよく、尾崎紅葉の体調を気遣うシーンが多い。
一方の徳田秋声は兄弟子かつライバルである泉鏡花と意見の食い違いが良く起きてしまう。
それがとても微笑ましい。
元々お互いがお互いを認め合っているはずなのに、徳田は少し言葉が真面目というか、そのままを言ってしまう。
泉は泉で尾崎にぞっこんであるからゆえに、徳田が尾崎の教えをちゃんと守っていないなどと言って怒ることが多々ある。
それでもお互いはお互いを信頼し合っている事が多い。
彼らの物語は、何処かぼんやりした浮世離れをした尾崎紅葉と、その尾崎を慕う泉。そんな泉を見て呆れる徳田。尾崎の行動をサポートする露伴で構成されている。

もちろん、中原中也、佐藤春夫、志賀直哉、武者小路実篤などのビックネームの文豪たちも存在する。
海外文豪も存在し、キャロル、ドイル、ポー、ラヴクラフト、ボードレール、ランボーなどなど。
その他にも「こんな文豪がいたんだ!」と改めて認識される文豪たちも多い。
二魂と言われる萩野朔太郎と室生犀星。
天性の天才小説家だがトリックだけ考えて投げてしまう江戸川乱歩。
横顔が有名な正岡子規、そしてその盟友である夏目漱石。
プロレタリアの英雄、小林多喜二をはじめ、徳田直、中野重治。
優しさの語り部である宮沢賢治、狐の物語を描く新見南吉など。
あれやこれやを上げていたらきりがないほど、たくさんの文豪たちがいる。
この物語はゲームだけではなく、その逸話を楽しむことが出来るのだ。

文豪の逸話

彼らの生きた証というのは、彼らが日記のように遺してくれた文学によるものだ。
多少誇張表現は有れど、彼らの生きざまを知るにはそれしかない。
文アルの楽しみ方は、ゲームの枠を超えた楽しみ方が出来ることだ。
様々な文学作品があり、彼等の物語、真髄はそこに詰まっている。
「彼らがどんな物語を書いたのか」
「彼らがどんな生き方をしたのか」
嬉しはずかし、面白エピソードから涙が流れてしまうようなエピソードまでさまざまであり、「人間」として描かれていることに当然なのだが、もっと身近な人間に感じることができるだろう。
刀剣乱舞にも物語の背景、キャラクターとしての背景、刀としての背景はあるが、掘れば掘るほど新しいエピソードが出てきて、これほど愉快なのは文豪故だろう。
1人を掘り下げると、その関係性が見えてくる。
芥川龍之介と夏目漱石、そして夏目漱石と正岡子規。など。
彼らと彼らの間には必ず誰かが入っている。
犬を抱きしめて嬉しそうにする川端や、カレーと称してご飯にカレー粉と塩をまぶした飯を食う田山花袋と国木田独歩など。
1つが10になるほどのエピソードが本当にごまんとある。
私は一度、趣味の一環で石川啄木のエピソードを調べたが、それはもうとんでもないエピソードから涙が出そうなほど切ないエピソードも見てきた。
そう言った新しい楽しみ方が出来るのが文豪だと私は思う。
これは刀剣乱舞にはない楽しみ方だ。
彼らの書いた文章は、今の文章と違い少し読みづらさはあれど、どれもこれも名作と言われるものばかりだ。
好きな文豪が出来たら、その文豪の本を手に取って読んでほしい。
そして、彼らの繋がりと生き方を調べてみてほしい。
これほど面白い楽しみ方は他にないだろう。

覚醒

5周年の記念に、彼らは今の殻を破り覚醒する姿が現れた。
それは単に強くなったのではなく、彼らが精神的にも成長した姿なのだ。
芥川と太宰は、生前「自死」を選ぶ。
その彼らが、覚醒によって「もしも彼らがそれを乗り越えた世界があったら」という前提で覚醒の物語は進んでいく。
私たちが見たかった、前を向いて歩く文豪たちの姿がそこにあった。
文豪というのは、少なからず自死する者が多く、彼らの苦悩の末にあるのは友人の死、師匠の死、憧れの死、そして不安と恐怖による死。
それらを乗り越えられなかったのが我々の知る文豪だ。
やれ「体たらく」だ、やれ「情けない」だ。そんな言葉も無常にかけられている者も多い。
覚醒はそんな彼らが「苦難を乗り越えた話」なのだ。
この話は、文アルだけではなく、実際の彼らを知ってこそ感動できる話だ。
また、この覚醒のイラストも刀剣乱舞の遠征同様に描きおろしなのだ。
それだけでもなかなか興味があると思う。

月に何回も書き下ろされる立ち絵

文アルと刀剣乱舞の大きな違いは文豪の衣装と装像、指輪のシステムだろう。
衣装というのは、文豪たちがそれぞれ様々な衣装を着こむ。
これが彼らにとっての武器になる。
レアリティの高いものは★3、低いものは初期からある★1だ。
まず★1はいつものニュートラルの立ち絵だ。
★2になると、ニュートラルの立ち絵に加え少し服を着こんでいる。
着物や和服、洋服やタキシード、中には着ぐるみを着ている者もいる。
★3はなんとイラストが描きおろしなのだ。
表情が変わるなどは無いのだが、★3の衣装は描きおろしであり、★1★2とは違う顔を見せてくれる。
芥川龍之介は去年の1月では大きな傘を持っていたし、太宰治は一昨年くらいの日には酒を飲んで酔っ払っていたか、「芥川賞」と書かれた書初めを堂々と抱えていた。
このイラストの多さというのは、月に凡そ9体用意される。
イベントごとにこの立ち絵は2つ3つほど増えていく。イベント期間はおよそ10日なので、その都度新しいイラストが増えていくのには驚きだ。

装像というのはいわゆる装備であり、これを付けることで相手の急所に当たりやすくなったり、命中率が上がったりする。
降臨というシステムがあるのだが、いわゆる必殺技のようなもので、2人の降臨がマックスになると2人で攻撃をしてくれる。
また、この降臨にも掛け合いが存在し、様々な掛け合いを合わせたり撮りおろしの音声も聞けたりするので豪華だ。
是非聞いてほしい。
装像も描きおろしの物があり、金枠の装像は全て書きおろしになっている。
★3にするとイラストがガラっと変わり、また別の一面や別の文豪とのイラストも見れるのでおススメだ。

最後に指輪のシステムだが、これは指輪を持つことで持つ武器が変わるのだ。
覚醒のシステムも話したが、覚醒の指輪を付けても彼らの見た目や特性が変わる。
刀だったものが弓に、弓だったものが銃に、銃だったものが鞭に、鞭だったものが刀に。
そういった固定とはなるが、彼等の武器が変わる。
またこの武器も立ち絵があり、現時点ではほぼすべてのキャラクターに武器替えの指輪が存在している。
その指輪を付け替え、新しい見た目を見るのもまた面白い。
新しい一面を見ることになるだろう。

誕生日

刀剣乱舞にはないシステムだが、文アルでは文アルに登場する文豪たちの誕生日を盛大に祝う事が出来る。
毎年ケーキを贈れるのだが、このケーキのメッセ―がなんと毎年違うのだ。
最初は「ケーキもらえるなんて」と言っていた檀だったが、3回目になるとそれを察したのか「俺も手伝った」といったニュアンスに変わるのだ。
本当にこのメッセージを見るのが毎年の楽しみになっている。
ただ、このメッセージは一度逃すと再度見ることは厳しくなってくる。
見たいと思った人は、文アルWikiに載っているので見てみるのが良いだろう。
誕生日には一部のキャラに対して誕生日限定の召喚もある。
刀剣乱舞と違い、このゲームにはガチャシステムが存在する。
装像は有名絵師の描きおろしであり、ここでしかほぼ指輪は手に入らない。
入手困難な過去の衣装も出るので、推しがいるのであれば是非引いておきたいところだ。
ただし実装された★3が少なかったりすると誕生日がなかったりするので、そこは次回にごうご期待ということで。

優しい?ガチャシステム

?を付けたのは後ほど説明するとして。
このゲームにはガチャが存在する。
召喚石と呼ばれるものを使うのだが、この召喚石は10回ガチャで3000石必要になる。
「なんだよ多いじゃんかよ」と思うそこのあなた。
なんと文アルは1日1回200石をくれるのだ。
30日欠かさずやるとすると、6000石、1カ月で20連稼げてしまう。
これもすごいのだが、イベントの難易度を全てクリアすると合計で600石も手に入る。
1カ月に3回~4回ほどイベントは存在するので、最大でも2400石。
合計で30連前後の石が毎月貰えるのである。
課金要素もあり、石ではなく帝国券となるため注意しよう。
無課金でも全然遊べるゲームなのだが、問題は時折あるステップアップだ。
このステップアップというものは、大体2人の文豪がピックアップされるのだが、その立ち絵のアドがとにかく高い。
私は以前、太宰と井伏、檀と佐藤がピックアップされた佐藤一門ガチャを意気揚々とやったのだが、どうしても檀が出てこず、佐藤は4枚も手に入れた。
このピックアップガチャというのは帝国券でしか回すことが出来ず、3回、5回、10回かなんか3回ほどでピックアップが回るのだが、3回目はピックアップ★5確定でありどちらかが出てくる。
つまりそこを外すともう一回しなければならないのだ。
私はこのせいで2万円溶かして「2万円の檀一雄」とかいう謎の単語で今でも友人と大爆笑をしている。
誕生日などのガチャは基本的に無料で貯めた石でもできるので、誕生日だけ回すのもいい。
ピックアップは一度逃すとほぼ出てこないというか、今のところ出てきていない為本当にほしかったら遠慮せずに課金すると良い。

ゲームの枠を超えた物語

実は文アルにはアニメがある。
アニメは文アルの物語を基盤としたものではなくほとんどアニメオリジナルだが、それもとても素晴らしいものだ。
物語に潜書し、事件を解決するだけではない。
それを書いた彼らの生き方、物語の真髄。
守らなくてはいけない文学の数々を目の当たりにして、主人公の太宰治は戦っていくのだ。
多くは語れないが、9話まではしっかりと見てほしい。
みんなここで沼に落ちる。ここは展開が素晴らしいのだ。

また、文アルは舞台をしている。
有難いことに文アルの舞台供給は年に2回もあるのだ。
こちらもまたオリジナルストーリーだが、本当に素晴らしいものしかない。
舞台装置から言葉の言い回し、エピソード、素晴らしい殺陣も行うのだ。
最近文劇6があったのだがこれには私も息を飲んでみた。
本当に、本当に素晴らしい作品だ。
大阪の舞台がどうかは知らないが、東京の舞台はとても舞台が近く感じる。
一度見た時に、夏目漱石役の方と目がバッチリ合ってしまってそれから夏目先生がとても好きになった。もちろん役者の方も好きだ。
文劇の熱意はすごく息をのむほどだ。
生と死が強く強く混ざり合い、彼らが命を懸けてでも守りたい「文学」と、その彼らにまつわるエピソードが色濃く出ている。
それは突然始まるのではなく「そう言えば生前こんなことが」といった切り口で始まる。
アドリブが始まったり、劇恒例の「今回この時間だけにやるアドリブ」なんかも存在するのでそこは楽しい。
時折見ているこちらを突き落とすような絶望的な話もあるのでなかなかしんどいものはある。
見た後の余韻はすさまじく、もう一度見たいと思えるほどだ。
私はとりあえず見れなかった分と見た分でDVDを買いそろえつつある。
文劇は本当に良いものなので、興味があれば皆見てみると良い。
DVD、Blu-rayの初回にはCDもつくぞ。
ちなみに文劇は全ての物語が繋がっている……というか並び替えて1つの物語というちょっと複雑な状態だ。
是非文劇100まで続けてほしい。
あと、太宰治は「ゲーム」「アニメ」「小説」「舞台」の4種類いると思っている。

音楽がもうすっごいの…

文アルの音楽は坂本英城氏が作成している。
坂本さんは龍が如く、殺戮の天使などの曲も作っているその手の名作家だ。
文アルの音楽のほとんどは坂本さんが手がけており、その曲の作り方はまさに「戦う大正時代」といった感じだ。
現代で戦うようなエレキ的ものではなく、オーケストラ仕立てのバトルミュージックには息を飲んでしまう事が多い。
何処か切なく、ノスタルジーを感じる音楽は彼らの過酷な戦いと熾烈な戦闘を描いている。
そして、希望がある。
悲しさ、儚さ、力強さ、前を向く光、そして希望を感じることができる。
本当に、この曲が無ければ、文豪とアルケミストは完成しない。
この曲が無ければ、文豪とアルケミストはページをめくることは出来ない。
曲の1つ1つが、本当に素晴らしいものだ。
ピアノだけで演奏されるオープニングテーマがあるのだが、それもまた落ち着いてて素晴らしい。
どこか歩いている、生きていたような感覚を覚えるのだ。

文豪とアルケミストを「やってくれ」

文アルはいいぞ、と私は何度も何度も何度も何度も言っている。
その度に「文豪に興味ない」「刀剣乱舞みたいなもんでしょ」と言う話を良く聞くのだが、まずは図書館に来てほしい。
文豪とアルケミストを起動して、キャラを選んで、キャラについて「調べる」ところから始めてほしい。
最初に選べるキャラで気になったキャラでも構わない、自分の知っている範囲でもいい。
「この人はこんな生き方してたんだな」と思うと、文アルはもっと楽しめる。
物語を読み、「あ~!この話か!」とわかる瞬間はとてつもなく楽しい。
文劇を見て「この話をするのここで?!」と思ったり。
アニメのちょっとしたシーンで「これアレがモチーフか!」と思ってみたり。
すると、不思議と彼らが文アルの世界で生きていることに尊さを感じるのだ。
彼らは現実にいた彼等ではなく、物語の中の、キャラクターに過ぎない。
でも、「もしも」の世界があればそれは楽しいと思う。
もしも太宰が生きていて、芥川に会えていたら。
もしも川端の周りが誰も死んでおらず、川端が自死を選ばなかったら。
もしも織田が病気で死なず、無頼派と飲み交わす世界があったら。
もしも正岡が死なずに、夏目と野球が出来ていたら。
もしも多喜二が死なずに、プロレタリアとご飯を食べていたら。
そんな「もしも」が詰まっているのが文アルだ。
あくまで「もしも」の話でしかない。
でも、物語なんてどれもそんなものだ。
FGOだって戦国バサラだって「もしもこの世界でこんなことが起きていたら」「もしも英雄と手と取って戦えたら」の世界に違いない。
だから、そんな「もしも」の世界で「楽しく生きている彼ら」を見てほしい。
苦難はある。浸食者と戦わなければいけない。
でもそれ以外は、楽しく、お菓子を作ったり、怪談を話したり、海で遊んだりしている。
ある意味平和な「文豪とアルケミスト」の世界に飛び込んでほしい。

少なくとも、私は貴方がプレイをしてくれるその日を待っている。


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