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絵を描く人として心の折れた言葉

結論から言うと私は絵を描くこと自体やめたわけではない。
ただ、絵に対する向上心なんかはこの一言で全て押し流されたと言っても過言ではない。
言葉を変えてこのような事を言うような輩がいれば、それは「それで当然」と思ってるので人によってはそれが当たり前だろ、と反論してくるかもしれない。
でも中にはそういわれて心を痛めた人間もいる。私のように。

学生時代に、pixivで知り合った人がなんと学校の後輩としてやってきたのだ。仮にAさんと呼ぶとする。
Aさんは絵がとても上手く、様々な作品に着手しており、その作品群は今でも愛されている。
現在では確かデザイナー的な仕事をしていたはずだ、大学生時代にはとある学校のイメージキャラクターもデザインしていた凄腕の人だ。
そんなAさんの友人である私は本当に子どもの落書きの如くだった。
当時の私はそれでいいと思っていた。楽しく描けてるし人と比べるまでもないのだ。と思っていた。
何より私の絵が好きだという人もいた。どう頑張っても社交辞令だったと思う。愚鈍だった。
まあ正直それでいいと思っていたほどだ。
パソコンで絵を描き始めたのは遥か昔だが、ちゃんとペンタブを使い始めたのは凡そ高校生になった頃だ。
向上心はそこそこあったため、色々な絵を描いていたはずではある。

当時のpixivには「点数」というものがあり、気になった絵に1点から10点まで評価が与えられることが可能だった。
気に入らないCPには1点、好きなCPには10点と言った通り、自分の好き嫌いで絵に評価が出来る「いったい何様なんだシステム」があった。
今はもう「いいね」に変わってしまったが、当時はこれがある意味ではステータスの1つだった。
当然、評価など与えられない作品もあれば、全て1という作品もあり、このシステムは絵師の心を折るには十分すぎるものだった。
さらに言うと、「点数を付けた人数」までわかってしまうの「55点/6人」など言えば6人中の内1人が5点を付けたことになる。
端数が出ると私も何処かモヤモヤしたが、あまり気にしないでおいていた。
点数を与えられても描けるものは書けるのだ。


当時から私のイラストには評価が付きづらく、ついても50点が最高だった。
「もっと評価ほしいな」と思った私はとある絵を投稿した。
それは当時人気だったアニメ作品の1枚絵で、本当に単純な1枚絵だった。
私は頑張って描いた、わけでもないがセンスだけはいいな、と自負していた。
そしてその作品が初めて100点を超えた。
私はその時嬉しくなって何度も何度もその100の数字を見返した。
10人中10人が10点を付けてくれた。それはすごく嬉しいことだった。
嬉しくなって、私はAさんに学校で報告をした。
自分の心の中では世界の一番になったかのように誇らしい出来事だったため、多少自慢も兼ねていたのだろう。
しかし、Aさんから出てきた言葉は別の言葉だった。

「100点とか当たり前じゃない?」

私はその瞬間、何かで頭を殴られたような感覚がした。
そう、Aさんは神絵師なのだ。年下の神絵師だ。
私がどんなに束でかかったとしてもたった1枚で跳ねのけられてしまうほどの神絵師なのだ。
ショックを受けた私はAさんとの会話をそれ以外何も覚えていない。
覚えているのはAさんの飼っている犬、可愛かったなということくらいだ。
私はその後、震える手でAさんの作品を見た。
するとどうだろう、作品は全て1000点を超えている、いや、中には3000点、10000点を超える作品もあった。
迂闊だった、いや、うぬぼれていた。
私はたった100点で喜んでいたのだ。
唐突に現実を突きつけられた気がした。
求められていない。私の絵は全くと言っていいほど求められていない。
Aさんの描いた絵は色合いも構図も素晴らしい神絵と言っても過言ではない。
イベントに本を出して速攻完売、しかも3桁出すような人間だ。確か。
いや、それすら覚えていないので誇張表現かもしれない。
少なくとも人生で本を出すにあたって「20は多いかな」と考えてる私からしてみれば月のような人だった。
そう言われた瞬間、現実を突きつけられた瞬間。
私は絵を描くのが一気に嫌になってしまった。

昔から人と比べることはあれど、自分が好きな絵であればいいと思っていた。
若い頃は癇癪を起こして人の目の前で絵を破ったりしたこともあったが、それは若さ故だしもう終わったことだからどうでもいいとして。
一度言われた言葉が私の中でずっと傷になってしまった。
今でも絵を描くときにあの点数を思い出す。
いいねの数やブックマークの数を見てしまう。
いや、解っているんだ。
「そんなことないよ、君の絵が好きなんだよ」と言われても
「君の絵は好きだけど一番じゃないよ。他の人の絵でも補完できるんだよ」と言われている気がして
「じゃあ私が描かなくてもいいじゃん…」と思ってしまう事がある。
それでも時々描きたくなるのは絵を描くことが好き所以だろうが、描きたくないと1カ月はペンを手に取らない。
様々な画材を見て「わあ、素敵な画材だな」と思うが「結局これを買ったところで私は描かないしな」と感じてしまうし
「素敵な絵だな」と人の絵を見ても「私はどうせ100点の絵だ」としか思えなくなった。
向上心はその時に大きく失われた。
何かを模写しようとか、上手くなろうとする気持ちも減った。
それでも上手い絵だと思われたくて描くときもあるのだから、図々しい。
「好きこそものの上手なれ」というがセンスと努力がなければ並大抵の上手にはなれないだろう。

私が知らない所でAさんが頑張って絵の練習をしたり、絵画教室に通っていたのは私も知っていた。
そう言った努力があってこそあの神絵が誕生するのも知っていた。
知っていたからこそ言えた言葉なのだと私は思っている。
でも「たかが100点でしょ」と言われた気がして何処か居心地が悪くなってしまったのだ。
「絵の才能なんてないね」や「お前の絵なんて嫌いだよ見たくもない」と言われたわけでもない。
単に私の才能がなかっただけだ。
文章を書くのも、絵を描くのも、何をするのもセンスが乏しく、何にも特化できない。
あの言葉がまとわりつくのだ。
どんなことがあっても「お前はたかが100点」という気持ちしか生まれなくなってしまった。
何かやろうとしても、誰かからの評価を求めてしまった。
誰かと自分を比べてしまった。
Aさんとは違う10年来の友人Bもいるのだが、BもBで神絵師だ。
人体の練習や落書き~と言ってのけて様々なポージングの絵を描くあたり、ああ、本当の神絵師というのはこうやって色んな落書きを毎日生み出す人間のことを言うのだろう、と現在でも思わされている。
一方の私は、絵を描くことも苦手であれば、相変わらず本も売れない底辺の絵師も絵描きでもない。
ただの絵を描く人なだけだ。
小学生の子供が「ママ見て見て~!」といって「すごいね~!上手だね~!」と言われてるのを見て本心じゃ無くとも羨ましいと思ってしまう時がある。

私は何が欲しいのか、未だにわからない。
上手い絵が欲しいのか。
誰かの一番が欲しいのか。
才能が欲しいのか。
認められる存在になりたいのか。
価値のある人間になりたいのか。
誰かに見てもらえる作品を作りたいのか。
賞賛されたいのか。
それらすべてが欲しいとまで思えるほど強欲だろうか。
ただいまは貪欲に眠りを貪りたい気分だ。

私があの言葉をもらっていたら絵は上手くなっていたか、と言われれはそうではないと大声で言える。
私にはうぬぼれがあり向上心はなかったはずだ。
それでも、下手は下手なりに絵は楽しく描けていたと思う。
今でもなお、あの言葉が引っかかって
絵も文章も造形も、「100点」で止まっている気がして。
何も手につかないのである。


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