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ケア日記ーじゃがいも 6月26日

とくに出来事もなく、今日はやめておこうかとおもいつつ、ケア日記連続4日目 出来事らしい出来事がないのが実は嬉しいのです

妹の差し入れを兼ねてラザニアをつくった前の日のことです わたしがいつもの買い出しにでかけるあいだに、じゃがいもの仕込みひと手間を母に頼みました

「じゃがいもお願いできる? ゆでてもふかしてもいいから、半分に切って火を入れておいてほしいの」

単純なお願いをしたつもりでしたが、わたしがでかけたあと、母はキッチンでひとり混乱していたらしい あとで妹に言われました

「何度も電話かけてきたのよ。じゃがいもどうしようって。お姉ちゃんに頼まれたけど、どうしていいかわからないって」

「え? そんなことがあったの?」

「ラザニアってなにって、じゃがいもをどうやってラザニアに使うかわからないからどうしていいかわからないって」

「ラザニアに使うって言っといたけど、どうやってまではママに言わなかったわ」

「ママもおなじことを何度も繰り返すようになったわねぇ」

つゆ知りませんでした 母に聞いてみました

「ママ、何度も電話して、じゃがいもどうするのって何度も何度も聞いたんですって?」

「あ、あの子に電話? したわよ! いまじゃがいもの話しかないじゃない? 仕方がないからそればっかり言ってたのよ あっちが痛いこっちが痛いの話ばかりじゃいやだもの」

あの子とは妹です 母は同じことを何度も繰り返し話しても気づかなくなったのか、じゃがいもしか思いつかないからじゃがいもじゃがいも言いながら妹とつかの間のおしゃべりを楽しんでいたのか、どっちなのかわかりません どちらの言い分もわかるような気がしてわたしたち3人はじゃがいも事件を引き分けにしました

数日来、母はわたしにとって世にもむずかしいひとに変身し、万事母の好きなようにやり、好きなように話してくれればいいとおもうようになりました(ココは前の前の記事に書いたとおりです) おかげで母の気持ちも言い方も気になりません 

このコペルニクス的転回のおかげで、「〇〇に気をつけてね」というわたしの言葉数は確実に減りました 正直なところ楽になりました 母も楽になったようです ありがたいことに母は元気になったのでしょう

生活のすみずみにある危ないポイントの声かけが不要になって、母とわたしは「ねばならないケア」から解放されてのびのびしています 困ったときのひとことを聞いてから動けばよいのです 

いまの母には尊厳云々とややこしいことをいうまでもなく、自分の家で好きなように暮らす、父がいないのがたまに寂しくても昔から変わらない母のやり方のままでいい、きっとそれが一番なのです 

2年ほど前に母の転倒を目の当たりにして以来、再度の転倒がこわいあまり、ちゃんとケアをし、予防しなくてはと気をつけすぎていたのかもしれません 年を重ね、母が一層弱くなっているはずだと思い込みすぎていたのかもしれません わたしは少々こわがりなのでしょう

いい意味でおおざっぱな母には、父のようにあれこれ口出ししないで好きなようにやらせてくれる家族が似合っているのでしょう 父は神経質そうにみえながら、なぜかそうでもなく、自分の部屋以外は母にまかせきりでした 父の流儀を見習っておおらかに、のびのびとやっていこうとおもいます

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