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不思議なひと 父の思い出

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本を読んでは思いついたことをメモして栞のように挟んでおくのが父の癖でした。父の本を開くと父のメモがいくつもあり、父と話しているようです。
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家事ケアしながらマルチタスク。秘策はない。朝のひとり時間と変わらないマイペース。青柿の真夏真っ盛り父の命日。猛暑だった。昨夜は自家製タレで穴子丼を作り、冷やしすまし汁とぬか漬け。父の好物。喜んでお茶漬けにしそう。東京から帰ったとき、どこに行ってもコツコツだな?と笑っていた。

おととい、帰って来た橋本治展をみてきた。神奈川近代文学館とすぐ近くの大佛次郎記念館を父は好きだった。緑深く静か。展示は素晴らしかった。有吉佐和子さんに約束した千羽鶴の手編みセーター、役者絵、ポスター、原稿用紙の手紙、どこまでも続く原稿。出口の等身大パネル。笑顔とまたね。今日まで。

原稿を抱えているときの悶々が続く。目のためにワープロ画面や紙から出来るだけ離れ、空で考えるようにしている。気づけばよく空をさまよう。父が習字の筆は紙でなく空に指で書けと言っていたのを思い出す。いまわたしは空で考え、目を閉じ、書くための一本の小径を探している。父は笑っているだろう。

少し空いてるところに春菊の種をまく。10月末種まきの旬ギリギリ。お汁の具くらいできるでしょう。シュウメイギクが満開に咲き誇り壮観。母の不安定は相変わらず。何かしら家事していればご満悦。父の誕生日だと言っても全然気にしてない。昨日ご機嫌にハロウィン乾杯したからもういいのかも。

駅向こうにある神社は例大祭。行けなかった。今年の秋祭り。夜になるとコオロギが一匹畳の上を歩いてる。もう三日。さっきから蚊取り線香のケムリがひとすじのぼるすぐ横を行ったり来たり。我が家は昭和レトロそのもの。父がいなくなっても令和ですよといってみてもあんまり変わらない。

ドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」の信友直子監督とお父さんの動画が素晴らしい。引き込まれ何度も見た。懐かしい。お父さんの話し方がわたしの父と似ている。広島の呉弁。それもそのはず父方の祖母は呉のひと。父は半分母親譲りの呉弁だったと知りました😊

二転三転しながら母はまあまあ元気を取り戻す。長かった。外出はまだしばらくおあずけ。二人暮らし、いわゆるワンオペ。この夏ではや丸5年。母の体調一進一退に慣れたのか鈍くなったのかわからない。わからないが平常。今夜は七夕。秋虫の声。青柿。父がいた夏に戻っていく⭐︎

亡くなって五年目になる父宛の葉書がたまに届く。父が好きだった会。いつかお前も行けよといわれた会。絵だったり文学だったり。ときおり誘われては思い出し、父を受け継いでいく。父からたまに手紙が届くのは嬉しいものです。父の思いが生きてどこからかやってくるのです。

美大卒かとよくいわれる。変わり者だともいわれる。どこか重なる。ちょっと嬉しい。それはそうと、法律系の原稿でまたもやうなっている。久々に医療ケースだが、父が入院した深夜の病棟を思い出しては筆がとまるばかり。プラネタリウムのようだった。言葉にならないため息のトンネルを抜けていこう😾

母と娘8050ともなれば、若いお母さんと幼い娘とおなじわけはない。母の話をつらつら聞くにつけ、卯年は母が言いたげな親子卒業を考える年になるのかもしれない。にしても親子卒業って一体なんなんだろう?父とはついぞ浮かばなかった。新年早々どうも不穏な気配である⭐︎

今日も今日とて武蔵国と相模国の境を行く古い山道を通ってパン屋さんへ。父が好きだった道。途中、黒のフレンチブルちゃんに会いました。父も犬を連れてよく歩きました。 好きな道だ飽きないなと言ってましたが、武相の境だったんですね。山道の入口でパンダさんが道案内してます⭐︎

父の茶碗ー10月11日

母と暮らして5年目。父が亡くなったさびしさを互いに気づかう時期をくぐり抜け、母は妙に強くなった。嬉しさ半分、とまどい半分。 ケアされるくらいなら同居したくないと、母は朝晩あの手この手、ノンストップで力の限り話し続ける。互いをすり減らす日々はやがて終わる。母の全力投球に匙を投げ、わたしはケアという言葉を捨てた。ではなにをしているのか。言葉がみつからない。 落語にいう。宗論はどちらが勝っても釈迦の恥。母のマイルール、私のマイルール、どちらが勝っても母娘の恥。たいがい母の圧勝だ

二俣川古道を歩くー宮沢遺跡

二俣川駅から本宿の大池へ いつも買い出しに出かける地元スーパーは、相鉄線二俣川駅南口から登っていく坂道に沿って建っている。坂道は昭和の宅地開発のときに整備され、幅広でまっすぐ。この坂をのぼり切った丘の上は平らな商店街通り。商店街がおわると、下り坂の坂道がまっすぐ自然公園に続く。 こども自然公園というのは新しい名前で、もともとは大池公園という。本宿の大池といわれた大きなため池があり、北条義時が畠山重忠を討伐するために鎌倉から数万騎の大群を率いてやってきたときに大池のあたり

畠山重忠終焉の地万騎が原には昔からしどみが沢山自生していましたが、二俣川の戦であまりにも馬蹄に激しく踏みにじられたので、片割れの実しかつけなくなったと言い伝えられているそうな うちの庭にも朱色のしどみがあります しどめ、草木瓜とも 父は知っていたのか自生だと言ってました⭐︎