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誰にも読まれなくても

 文章を書く、ということに憧れている。

 そうかと言って日記もきちんと続いたことはない。中学生の時に流行ったブログも、きらきらしいブログ用スキンと友人に描いてもらったかわいいプロフィール画像がありながら、Twitterのリアル用アカウントでぼそぼそ呟けばいいレベルのことと、小説のつもりのセリフの羅列をたまに書くくらいだった。こじらせていたので自作ポエムもあった。「引くほどどうでもいい」ブログだった。いやむしろスクールカースト上位の方々に見られたらひどい目にあっていたくらいの代物かもしれない。あの頃書いていたことを思い出すと転げ回りたいくらい恥ずかしいので、なるべく思い出さないようにしている。まあ、自分が書いていた「小説モドキ」の中身については思い出したくなくても覚えているのだけど。

「小説モドキ」

 あの頃、「小説モドキ」を書こうと思っていた理由もきちんと覚えている。のちに私の「引くほどどうでもいい」ブログのプロフィール画像を描いてくれる、絵の上手い友人。私も地味に歴の長いオタクだが、私がオタクになったのは、中学の頃の友人である彼女の存在が大きいだろう。彼女は中学生にしてディープなオタクだった。私を家に招いておきながら、私のおめめを隠してpixivを見ていたことを私は決して忘れない。漫画を買うことがあまり良しとされていなかった家で育ったいたいけな中学生の私の目に、ボーイズラブがむやみに触れないよう配慮してくれていたのだろう。結局ボーイズラブの言葉の意味を知ったのも彼女の家だったが。

 ともあれ、そんなディープ・オタクであった彼女はときおりペンタブでイラストを描いて、pixivに投稿するなどしていた。素敵だなあ、いいなあ、と私は思った。自分の描いたイラストや漫画を、学校の友人のみならず、不特定多数の見も知らない人たちに公開する。誰かに気に入ってもらえたら評価がつく。それはとても楽しそうで、元来のびみょうな自己顕示欲・承認欲求と、萌芽し始めた中二病心にとても魅力的に映った。友人のような素敵なイラストは描けないけれど、なにか作りたいな、という気持ちがほんの少し、心に生まれた。

 一方で、友人によってオタクを開花させた私は二次創作小説というものに出会う。当時好きだった漫画やアニメの小説を、とにかくたくさん探した。その中で、とても好きな文章を書く方を見つけた。今のようにスマホも持っていなかったし、パソコンを使えるのは1日30分までの決まり。二つ折りの携帯もインターネットに接続できない母親のものを借りて使っていた。だから、その方の小説は弟のDSを夜な夜なこっそり拝借して読んだ。中学生には少しむつかしい言葉遣いや漢字だったけれど、DSの小さい画面で一生懸命、夢中になって読んでいた。若干の世間知らず感も否めないが、その小説を書く方とコンタクトが取りたくなり、メールアドレスを交換していただくなどしていた。その方はきっととうに成人済みの方で、中学生の小娘からの熱烈なメッセージには戸惑われたことかと今になってわかる。しかし、丁寧にやり取りをしてくださったのが恥ずかしくも嬉しい思い出として心に残っている。

 彼の人の小説は、(少なくとも当時私が出会った中では)どことなく二次創作っぽくなく、豊富な語彙で構成された丁寧な描写の地の文や、日常なかなか使わないような慣用句も交えたセリフ表現で、有り体な言葉で言えば非常にカッコよく目に映った。もともと本を読むのはわりあい好きな方だったと思うが、当時の私の語彙を増やしたのはあれらの小説であったかもしれない。中学生というのはむつかしい言葉に憧れるものだ。質の高い二次創作小説によって語彙を増やした私は考え始める。

「絵はそこまで描けないけれど、小説なら書けるのでは?」

 当時好きだったアニメを題材に、二次創作を書いてみた。ルーズリーフに下書きして、母親の携帯でぽちぽち打ち込んで、コピー&ペーストで当時流行って立ち上げていたブログに載せてみた。今思えば彼の人の頭の良さそうな文章とは程遠い、まさに「小説モドキ」であったが、読んでくれたディープ・オタクの友人には褒められ、微々たる数ながら見も知らない人からのアクセスもあった。文章を書いたら、読んでくれる人がいる。こそばゆい達成感を味わった。それから高校時代まで、中二病は抜けたものの「小説モドキ」は卒業せず、ブログからpixivへ移行するなどしながらごくごくたまに小説を書いていた。

絵も文も、中途半端!

 そんなこんなで高校2年生になった私は、1年時所属していた茶道部に不満を感じはじめ、高校に入ってできた新たなオタ友(彼女も絵が上手い)を追いかけ漫画研究部、美術部、そして文芸部の3つに掛け持ちで入部する。ほとんどは漫画研究部に入り浸り、お喋りしながら上手な友人の絵を眺めたり、自身もちょろちょろっと落書きをしたりして過ごしていた。文芸部と美術部においてはなにか書き(描き)た~い、と思いながらも全く手が動かずほとんど幽霊だった。文芸部と美術部はオタ活をする場ではないので。

 しかし、全く手が動かなかった私にも、活動せよとのお達しが来る。文化祭である。文化祭では部誌を販売しなければならない。二次創作ならまだしも、一次創作。しかも、不特定多数の人の目に触れる。二次創作であれば、不特定多数とはいえ読むのはタグ付けしたジャンルを愛好する士であろうが、部誌となるとそうはいかない。中二病心も抜け、自己顕示欲と承認欲求の代わりに他人の悪い評価が異様に気になるカバーガラスメンタルを身に着けた私はこれに若干頭を抱えた。下手な文章、下手な絵を他人様の目に映すのが恥ずかしいことこの上ない・・・!「あの高校の部誌、下手なやついたよねw」なんて言われたらどうしよう・・・!!なんて、そんな評価が耳に届くわけもないのに気になった。自意識過剰である。
それでも、部誌と作品展示は決められたものだから創り出さなければならない。漫画研究部の方は、絵の上手い友人から合作しようとのお声掛けがあったのでまだ心強かったが(プロットは私がほとんど考えた。ご都合主義で恥ずかしい)、問題は文芸部。全く真面目に活動していなかった上に、当時は本を読むことも減っていた。一次創作の小説を書き上げる土台はちっとも出来上がっていなかった。うんうん唸って突貫工事で書き上げたのは、ご都合主義の短編小説。資料をあたったり、登場人物の背景を掘り下げたりはしていなかった。印刷業者の方に製本して頂くのがもったいないと感じてしまうレベルの、またもや「小説モドキ」になってしまっていた。他の同級生の作品は、きっとこの為にゆっくり考えたんだろうなぁ、という丁寧な作品で、いやあやっぱり日頃読書量が豊富で普段の活動も真面目に取り組んでる子はちゃんとしている・・・と思ったものである。そして思ったはいいが、特段やり方を変えもしないのが私という人間である。周りの子は丁寧に書いてるけど、まあ初めて出した部誌だし、ていうか高校の部活だし、文化祭は2年に1回だからもう公に出すことはないし、また作品出してって言われたらなんとかしよ~といった感じであった。私という人間は、何でもかんでも適当に、なんとなくその場しのぎ的にすべてをこなしてきた根っからの「なんとなく人間」だ。好きだったはずの「小説モドキ」を書くことさえ「なんとなく」な人間だ。如何に私が中途半端な人間であるかがわかると思う。漫画研究部の部誌においても、絵の上手い友人が、私には完璧に見える絵にああでもないこうでもないと唸っているのを傍目に、絵の大して上手くない私は人物のポーズや手の描き方など何一つ練習しなかった。画力の差がありすぎるあの漫画を、本当に合作と呼んでよかったのだろうかと、今にして思えば友人に対し幾ばくかの申し訳無さも抱いている。

 さて、中途半端な下手くそなりに作品を提出した私であったが、自分の作る作品のつまらなさ、中途半端さに関してはここではっきりと自覚ができてしまった。文化祭のその後も部内のみで部誌は発行されたが、学年が上がっても絵も文も別段これといった進歩はしなかった。一通り書き上げてみて、読み返してみても「おもしろいと言ってほしそうなつまらんもの」だなとしか思えない。その上、自分よりふたつ下の、この間まで中学生だった子の方が絵も文も上手だったりする。いや練習したらよかったじゃん、とは思う。でも、しなかった。こういうところが私の、中途半端でつまらん人間たる所以だ。しかも、そんな自分を変えたい!だとか、きらきらした向上心はかけらも持ち合わせていない。「うんなるほど、つまらんな。それは仕方あるまい」としか思えないのが私である。そんなわけで、高校卒業と同時に、もう自己発信するのはなるべく避けておこう、どうせ誰も読まないし、読んで頂いたところで何かが残るようなものは私には生み出せない。そういうのは一部の、なにか残せる力のある人達がやればいい。そういう考えにシフトしていった。

ないないづくし

 大学生になった私が自分で考えて生み出したものといえば、課題のレポートと卒業論文、それから少しの創作料理くらいだ。
卒業できる分だけの単位を取って、時間はいくらでもあったのに、遊ぶか、ぼんやりするかで時間を過ごしていた。友人に誘われて入部した書道部で、卒業間際に一度だけ書道パフォーマンスをしたことを除いては、まるで全く何も成し遂げてこなかった。運転免許くらいしか資格もない(しかもAT限定である)。卒業論文に関しても、周りの友人たちに比べれば空虚な論文であったと思う。自分の選んだ題材はとても気に入っていたが、論文制作にかけた熱量は、友人たちの熱量の一体何割になるだろうか。指導してくださった先生には申し訳ないし、この論文を読んだ諸先生方が何を思ったのだろうということに関しては、できればあまり考えたくない。まさにないないづくしだ。
そんなないないづくしの大学生であったくせに、周りの目が気になるところは相変わらずで、しかもその目は生意気にも外側へも向いていた。他人の発信する情報も、自分のものではないのに「これを読んだ人ってこの人のことどう思うんだろ。この人これ語る意味ある?」とか考えてしまう。全く余計なお世話であることこの上ない。性格が悪いといって過言ではないだろう。

何も出来ないカッコつけ

 あるとき、ある人のブログを読んだことがある。顔見知り程度の知り合い、とだけ言っておこう。そのブログは、性格の良くない私にとっては「この人これ語る意味ある?」の部類だった。誰が読むんだろこれ、といった感じの、些細すぎるほどに些細なことや、これを発信することでなにか得があるんだろうか・・・と思ってしまうパーソナルな部分。言葉は悪いが、こういうこと書いちゃうの、痛くない?とも思っていた。そういうふうに自己表現をする人を心のなかで若干下に見て、周りの目が気になってなんの自己表現もできない自分を正当化していたのではないだろうか。結局の所、私は何もできないくせにカッコつけだったのだ。

とりあえず、書いてみる

 きっと別に、誰にも読まれなくたって構わないのだ。ヤマもオチも意味もなくたって、つまらなくたって、誰かになにか残したり、評価を得たりしなくたっていいのだ。中学時代の絵の上手かった友人だって、私がネットの海で見つけた彼の人だって、高校時代の部活仲間だって、ブログを書いていたあの人だって、きっと誰かのために自己表現をしていたんじゃない。最初はきっと、ただ何か好きなものがあって、自分でなにか生み出したいと思った、その気持ちに従って自分のために自己表現を発信していたんじゃないだろうか。

 「おうち時間」が増えて、そんな大層なものでもない自己の内面に向き合った結果、私は自由に文章を書いてみたいのだ、ということに思い至った。そして、その欲求に付随して、自分がどうしてそれをしてこなかったのか、ということを分析し、今この文章を綴っている。きっとこれもまた、「引くほどどうでもいい話」だ。私の中に住む、私を見下ろす私が、「これ書いて何になるの?」「こういうの書いちゃうの、痛くない?」「これ読む人なんているのかしら」と、耳元でやかましくしている。その声に、そうだね、誰も読まないかもね、と相づちを打ちながら、私はこれから、なにかしら自己表現をしてみたいという自分の欲求に少しづつ従ってみようと思う。長いし、つまらないし、だから何?な文章だが、つまらない人間なりに、書きたいことを書きたいだけ書いてみる。それ以上でもそれ以下でもない、私のnoteである。

 まあでも明日から、この文章になにか反応がないかしら、とチラチラ気にする日々が始まってしまうのかもしれないけれど。


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