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自己を紹介できない

 大学3年時の11月、キャリアサポートの先生による進路指導のための面談が学生ひとりひとりに実施された。

 私は中途半端でつまらん人間なので、将来の展望はこれといってなかった。ただ普通に稼げて普通に遊べればいいな、くらいのことしか考えておらず、これといって就きたいと思える仕事もなかった(きっと仕事の方にしたって、私に進んで就いてほしいとは思わないだろう)。ただし、それでいて周りの悪い評価が異様に気になる面倒な性格であったので、周囲の友人が自分のやりたいことについて、大なり小なり輪郭を浮かび上がらせ始める大学3年の11月に何も方向性が定まっていない、という事実には私なりに焦りを覚えていた。ついでに言えば、その時点では卒業論文の題目もきちんと定まっていなかった。
 あの頃の私が一体何をして、日々何をどう考えて過ごしていたのか、それは他でもない私が知りたい。しかし仮に今現在の私がかつての私の前に現れ、お前は一体何をしているんだと説いたところで、まあまあまあと一緒にお酒でも酌み交わしながらくだらない一夜を過ごして終わってしまうことは想像に難くないが。

 閑話休題。

 進路指導面談の資料にと、事務局からは履歴書めいたものの記入が指示されていた。氏名、住所、生年月日に加え、趣味、自己PR、長所、学生時代に打ち込んだこと・・・。特に長所、自己PRと学生時代に打ち込んだことに関しては、当たり前だが広めの記入欄がどどんと設けられている。例えるならそう、白色の宇宙・・・とまではいかないものの、私の右手は一向に文字を書こうとはしてくれない。「私は、」の先はどこまでも続く空欄だ。書けるようなことは一切ない。むしろそう書きたい。私はここで、大学入学直後の研修旅行を思い出していた。

 あれは4月にしては少し寒く、桜の花の間を縫って雪がちらついた日。晴れて大学生になったばかりの私たち1年生は、学科ごとに研修旅行へと出かけた。その夜のこと、これから同じ学び舎で勉学に励むであろう仲間同士打ち解け合うための、自己紹介の時間が設けられた。私はといえば、研修旅行という大学生活の序盤も序盤で、部屋割りも守らずハシャぎ倒す愉快なメンツといきなりお友達になれたので、ここで下手を打っては不穏分子として弾かれかねん、と何を言えば愉快か考えていた。もはやバレているかもしれないが、弊大学におけるオタクの市民権が不明のうちにオタクと公表するのもはばかられる、ような気がする・・・。考えた挙げ句にここで言い放った自己紹介が如何様であったか、私ははっきりと覚えている。

「〇〇出身、(ねころぶねこ)です。自己を紹介出来るほど、愉快な人間ではありません」

 結果から言えば、まあまあウケは良かった。周りの学友も、先生方も、くすりと笑ってくれたと記憶している。それじゃ自己紹介にならないでしょう、と言われ、ごめんなさーいと笑って返した。当時の私がこんな自己紹介をしたのは、ウケを狙っていたのだということに間違いはない。しかし、アニメや声優や漫画が好きということをあえて話さずにいるとして、且つなんとなく周りの子とかぶらない笑える物言いとなると、もはや私には「私は愉快な人間ではない」というこの文言くらいしか残されていないように感じていたのだった。

私にも、いわゆるオタク趣味以外の、趣味と言える好きなこと・モノがないわけではなかった。例えば、料理。例えば、裁縫。猫、花、本、歌うこと、絵を描くこと、などなど。しかしそうかといって、料理は一人暮らしを始めたと同時に始めただけで何か凝ったものが作れるわけではないし、裁縫だって大した腕ではない。猫も飼っていなければ、花の名前や栽培方法に詳しいわけでもない。本を読む頻度も激減したし、歌は単にアニメソングをカラオケで歌うくらいだし(結局オタクでは?)、絵は中途半端な落書きだ。だからなんとなく、どれを趣味と公言するのも私にはおこがましいような気がして、どれにも触れられなかったのだった。
 「自己を紹介できるほど、愉快な人間ではありません」というこの言葉は、研修旅行の夜に初めて私の頭に浮かんで、初めて私の口から出た言葉だった。しかし、その言葉を考えついたとき、私はその言葉が意外なほど自分という人物を表すのにしっくりきてしまっているのを感じた。それが良いのか悪いのかということに関しては、今ならきっと後者なのだろうと考えることができるのだが、当時の私にとってはこの言葉はある種自ら見つけた救いのようなものでもあった。

 高校時代、私は漫画研究部と文芸部、それから美術部に所属して、なんとなく書いたり描いたりしていた。漫画研究部と美術部には、私がこの2つの部に所属するきっかけを作った絵の上手い友人が所属していた。友人は自分の絵はボロクソに言うくせに他人の絵は褒めてくれる人で、私の絵もよく褒めてくれた。また、当時の友人は文章を組み立てることがあまり好きではなかったらしく、私が文芸部に所属し、なんとなく小説めいたものを書いていたことも褒めてくれた。彼女に頼まれ、pixivに小説を投稿したこともある。
 彼女はよく、私に「絵も描けて文章も書けてさぁ、二刀流じゃん」と言ってくれていた。その言葉を喜ぶ私ももちろんいたし、友人も私を変に持ち上げたりする意図はなく言ってくれていたのであろうこともわかっている。しかし、それを言われるたびに違うよォ~違うんだよォ~・・・と居た堪れないような心持ちになった私がいたこともまた事実だ。絵も文も中途半端であるというのがその理由であるが、それに関しては前回の記事で綴った通りである。
 私はなぜか、上記以外でも実際問題それほどでもないのに褒められたり期待されたりしてしまうことが多いように思えていた。そしてその度自分の現実とのギャップに居た堪れない気持ちになるのだ。褒められればもちろん嬉しいし、そう言ってくれる周りの友人達を愛しているが、みんな私を買い被りすぎている。あえて貶してくれとは言わないが、どうしてこうなった、としか言いようがない。だから、誰もこれまでの私を知らない大学という新しい環境で、褒められて居た堪れなかった自分をリセットしてやろうと、あんな言葉を言い放ったのだ。自らを紹介するに値しないものであると定義づけることがある種救いだったと思うのは、こういう理由からである。「自己を紹介できるほど、愉快な人間ではありません」。私はこの言葉を口の中で何度か繰り返し、そして安心毛布のように心のなかで握りしめた。

 しかし実際のところこの言葉は救いではなく、呪いだったのではないかと今は考えている。ある日気付いた自分の中途半端さなど、わざわざ迎合してどうする。そんなものは燃えないゴミの日に棄ててくれ。
 確かに、例えば自己紹介で「太宰治が好きです」なんて言おうものなら実際の詳しさが如何ほどだったとしてもへえ、結構詳しいのかしら。なんて思われるかもしれない。「お菓子作りが好きです」なんて言おうものなら、ケーキとか焼いちゃうのかしら、マメなのね。なんて思われることだろう。実際私がある漫画にハマりたての頃、Twitterでほそぼそとその作品についてつぶやいたところ、直接リプライが来たわけではないが「ニワカのくせに」的反応を頂戴したこともある。だが、実際『人間失格』しか読んだことがなくても太宰治好きを名乗ってもいいし、ホットケーキミックスのレシピしか作れなくてもお菓子作り好きを公言してもいいだろう。「好き」と公言することに、知識量や技量の一定ラインを定めることなど必要ないはずだ。
 私は、あの自己紹介の言葉で自分で自分という人間を他者が見るときのハードルを下げた。しかしそれと同時に、自分が趣味や特技や好きなもの、長所や自己PRについて語るとき、ある一定の基準をクリアしていなければそれを語ることができない、というハードルもまた自らに課してしまったのだった。

 そして冒頭の履歴書めいた書類である。学生時代に打ち込んだこと、自己PR、長所、ひいては趣味の欄に至るまで、書けない。打ち込んだことに関しては、その時点では本当に何にも打ち込んでこなかったに等しかったためひとまず置いておいたとしても、PRするに値する自己がない。長所もない。強いて言えば・・・と考えるものの、結局は強いて言えばレベルのことだしなあ、と書けない。趣味も、これは・・・書けるラインか・・・?と気にしてしまい書けない。キャリアサポートの講義で、「会社の情報の中に、例えば社長さんの趣味がコーヒーとあったら、あなたもその日からコーヒーを淹れることを趣味にする。1ヶ月もやってれば立派な趣味です。そういうところからも会社にアプローチできますよ」といったような話があった。なんだかそういうことにも気を遣わなければならないのか!?どの程度なら趣味と言えるんだ!?とたかが進路指導の資料なのにぐるぐる考えてしまって、結局は1文字も書けないまま面談へと向かった私であった。なんでも大丈夫よ、とりあえず書いてみたら、とキャリアサポートの先生は仰ってくれたが、その言葉も真には救いではなかった。が、その日から私は空虚な、自分では心底中身がないと言ってしまえるような履歴書を書くことはできるようになった。再度言うが、私の履歴書には中身がない。

 「私ってなんだ?」
志望する企業もなんとなく決めて、なんとなく空虚な履歴書を送って、なんとなく社会人になった今も考えている。最近はとみに「自分らしさ」を社会が尊重してくれているような気がするが、それが何であるかが、25歳も間近に迫った今でもわからない。大人になったら分かるかも、社会に出たら分かるかも、なんて考えていたが、今もまだこの調子である。もう一生分からないかも知れない。はい自己紹介して、と言われても、未来永劫「自己を紹介できるほど愉快な人間ではありません」の言葉を心の中に握りしめてしまうのかも知れない。
 幸い今の私には同棲しているパートナーがおり、彼はとても優しいので「ねころぶねこちゃんってこうだよね、こういうのが好きだよね、○○が得意だよね」と教えてくれる。私がわかっていない私の私らしさの輪郭を私に見せてくれている。相変わらず「そうなのかなあ」「そんな大層なもんじゃないよォ〜」と私の中の私はやかましいが、優しい彼の、そして今まで私を認めてくれていたありがたい友人たちの言葉を無下にするのも申し訳ないことなんじゃないかな、とも今は思い始めている。

 だからいつかきちんとわかってあげたい。今はまだ分からない、認められない、私の私らしさ。

・・・今際の際まで分からなかったら嫌だなあ。


という文章を1年前に書きかけていたのに、締めるのが今になってしまった。
こういうところがダメな意味での「らしさ」だ、と、そういうのはきちんとわかっている私である。

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