男性の前開き事情
年下の同僚が「最近、だんなが怪しいんですよね」と言う。彼女のシフトをやたらと気にし、夜勤の日にはきまって飲みに行くらしい。
「でもそれだけじゃあなんとも。“鬼の居ぬ間に洗濯”かもしれないし」
「誰が鬼ですか」
相手の“匂わせ”では?と思うようなこともあったのだという。
「え、ワイシャツに口紅がついてたとか?」
「違いますよ、ひと昔前のドラマじゃないんだから」
「助手席にイヤリングが落ちてたとか?」
「発想が古いなあ」
「こっちが身動きとれない夜勤を狙うなんてサイテーですよ。だから今度、夜勤と思わせて、家から『いまどこ?』ってLINEしてやろうと思って。『家だよ』って返ってきたら、完全にクロですよね」
しっぽをつかんでやると息巻く彼女。しかし、「ほんとに浮気してたらどうするの」と言ったら、とたんに「……どうしましょう」とトーンダウン。
威勢のいいことを言っていても、「知りたい」と「知りたくない」のはざまで揺れ動いているんだよね。
早とちりなところのある彼女の思い過ごしであればいいのだけれど。
かく言う私も三十代の頃に一度、本気でやきもきしたことがある。
日曜の夜遅く、夫が出張から帰ってきた。週末返上で仕事だったのだ。
「ビール?それともすぐごはん?」
と声をかけた私は彼がスーツのスラックスを脱いだ瞬間、ふきだした。
「パンツ、後ろ前に履いてるーー!」
夫は前開きがお尻についていることを確認して、「……ほんとだ」。
いくらぴったりフィットではないトランクスとはいえ、前後を間違えたらその心地の悪さでわかりそうなものなのに。ズックを左右逆に履いていても平気な子どもみたいで、ちょっとかわいい。
という話を翌日同僚にしたところ、彼女が言った。
「じゃあご主人、昨日一日どうやっておしっこしてたんだろうね」
本当だわ、どうしていたんだろう。だって昨日はスラックスのファスナーを下ろしてもパンツの窓はなかったのである。どうやって中身を取り出していたのか。
「それなのに、逆に履いてることに気づいてなかったんでしょ。それって不思議じゃない?」
なるほど、ヘンだわと思った。
帰宅は二十二時過ぎ。朝ホテルでシャワーを浴びて着替えてから、四回や五回はトイレに行っているだろう。そして、一度でも朝顔で用を足していたら私に笑われたとき、彼の反応は「そうなんだよ、窓がなくて焦ったよ」とか「だから今日はトイレが不便だった」というものになっていたはずではないか。
「休日出勤とかいって、悪いことしてたりしてネ」
同僚が冗談めかして言う。……笑えない、ちっとも笑えない。
神妙な面持ちの私を見て、彼女は一緒にいくつかの可能性を考えてくれた。そして、私たちはこう推理した。
「夫がそのことに気づかなかったのは、パンツを逆に履いてから一度もトイレに行かずにすむくらいの時間しか経っていなかったから。つまり、家に帰る少し前にどこかでパンツを脱ぐようなことをしてきたのではないか」
これは確かめねばなるまい。
その日の夕食後、「やっぱりどう考えてもおかしいと思うんだよね」と切り出した。
「なんのこと?」
「昨日一日中パンツを逆に履いてたことにあなたが気づいてなかったこと」
「まだその話してるの」
「まだその話じゃないわよ、おかげで今日は仕事が手につかんかったわ!」
私は「気づかないなんておかしい」と思う根拠を述べ、夫はふんふんと頷きながらそれを聞いた。
「なるほど。パンツに窓がないとトイレができないのにそれに気づかず一日過ごせるはずがない、さては風俗に寄ってきたか浮気してきたか……と考えたわけだね」
「そう、そう」
私はつづけた。
「正直に言って、怒らないから。あ、いや怒るけど。っていうか怒るどころじゃすまないけど。とにかく本当のことを言ってちょうだい」
すると、夫がくっくっと笑いだした。
「そりゃあ気づかないよ。だって僕は前開きは使わないもん」
「使わない?じゃあどうやっておトイレするのよ」
「それはね、こうやるの」
夫はその場でズボンのファスナーを下ろし、その手順を見せてくれた……のだが、私は目が点になった。思いも寄らない方法だったからだ。
夫はズボンの前開きから手を突っ込み、トランクスのウエストのところをがばっと下ろして中身を引っぱり出してきたのである。
そして、自分は前開きを必要としないためそれのあるなしは気にも留めない、だからトランクスを逆に履いていることに気づかなかったのだ、と主張した。
誰に確かめたことがあるわけでもないが、ハト時計のハトが小窓以外の場所から飛び出すことがないように、私は男性のそれも必ず前開きから出てくるものと思っていた。ズボンの中でパンツをずり下ろして引っぱり出す、なんて人がいるとは……。
が、そのときふと思いついて、私はタンスから夫のトランクスを何枚か取り出した。どれも前開きのボタンがきちんと留まっている。
ようやく私は「前開きは使っていない」という言葉を信じる気になった。夫は途方もなく横着な人である。もしふだんそれを使っていたなら、ボタンは外れたままになっているはずなのだ。
それにしても驚いた。
夫はドアを開けっ放しでトイレをしたり、風呂上がりに素っ裸で部屋をうろうろしたりが平気。「恥ずかしい」という感覚に疎い。そういう人だから、小用の作法もほかの人とは違っていたのね……。
と納得しつつも、念のため訊いてみる。
「ふつうの人はちゃんと前開きのところから出してくるんでしょ?あなたがヘンなだけだよね?」
「知らないよ、ほかのやつがどうしてるかなんて。人によっていろいろじゃないの」
「えっ、窓から出さない人もいるの?」
「まわりのやつに訊いてみりゃいいじゃん」
「『おしっこするとき、どうやって取り出しますか』って?そんなこと誰に訊くのよ」
……訊いてみました。日記書きの友人たちに。
そうしたら、夫と同じ「ズボン内ずり下ろし派」がいただけでなく、トランクスの裾から出してくるという人、小も座ってするという人まで見つかったのだ。豪快にズボンを脱いでしている人を見たことがあるという証言も得られた。
へええ!男性の小用の流儀というのはワンパターンしかない(たぶん)女性に比べ、バラエティに富んでいるんだなあ。
夫が変わり者でなかったと判明してよかった。いやいや、夫の潔白が証明されてよかった。
ということで、浮気疑惑は一件落着したのであった。めでたし、めでたし。
ところで、私はこの話を当時の日記に書いた。
それはいつだってズボンとパンツのふたつの窓を通って出てくるものと思い込んでいた私には、そのくらい衝撃だったのだ。
そして、文中で「ふだん履きのパンツの種類」と「あなたは小用の際、前開きを使うか」を読み手に問うたところ、たくさんの回答が集まった。
「ふだん履きのパンツ」については、トランクスが六割弱を占めていた。
とはいえ、世代ごとに人気のタイプがはっきり分かれていた。
三十代・四十代はトランクス、二十代はボクサーブリーフが優勢。ビキニは少数派だろうとは思っていたけれど、たったの四人と予想以上に少なかったな。褌は三十代の方にお一人いらっしゃった(どこで買うのかな)。
どのタイプを履いているかによって取り出し方に傾向があるかもしれないと思ったのだが、今回の調査(?)では明らかにできなかった。
さて、本題。「前開きを使うか、使わないか」の結果はこうなった。
前開きから出す男性は五人に一人もいないという事実が判明し、あらためてびっくり……。
そして、私と同じように「驚いた」という女性は多かった。だよねー、そんなこと知らなかったよねえ。
八割もの男性が前開きを使用していないと聞いて不思議に思うのは、「窓はそのためについているのに、なぜ使わないの?」ということ。
理由を訊いてみましょう。
「前開きは使わない」と答えた人のほとんどが上記のどちらかを理由に挙げていた。あの窓は誰にでも使い勝手のよいものではないみたいだ。
となると、「じゃあ最初から窓なんてついていなくていいんじゃないの?」と言いたくなる。梅雨時や冬なんかは干してもそこだけ乾きが遅いし……。
そのあたり、どうでしょうか。
使わない派にはその存在感はこの程度のよう。
しかし当然のことながら、前開きから出す人にとってはなくてはならないものである。
という声もちゃんとあるので、結局のところ、使うか使わないかは最初にどうやって教えられたか、なんじゃないだろうか。
ちなみに、前開きを使わない人たちの取り出し方で圧倒的に多かったのが、ズボン内ずり下ろし法。
実に四人に三人がこの方法を採用している。夫は“変わった人”ではなく、むしろふつうの人だったのだ。
浮気を疑うわ、変人扱いするわ……。私ったらヒドイわあ。
というわけで、私の若かりし頃(そうでもないか)の壮大な勘違いにお付き合いくださって、ありがとうございました。
【あとがき】
前開きのないパンツが売っていることも、このとき読み手の方に教えてもらって初めて知ったのでした。
知らないままだったら、「買ってきたトランクスに窓がない!これでどうやっておしっこしろっていうの」とぷりぷりしながらお客様窓口に電話をかける女になっていたかもしれない……。
あー、よかった。なんでも書いてみるものだ(バカな話も真剣に書く、それが信条。えっへん)。