「『いただきます』はいらない」について考えた
毎週土曜日の読売新聞夕刊に「もったいない語辞典」というコーナーがある。
著名人が「使われなくなるのはもったいない言葉」を取り上げるリレー形式のコラムなのだが、昨日のそれは元NHKアナウンサーの村上信夫さんが「いただきます」について書いていた。
これを読み、「そうそう、ずいぶん前に『いただきます論争』というのがあったなあ」と思い出した。
事の始まりは「永六輔その新世界」というラジオ番組に寄せられた一通の手紙。
永さんが「びっくりする手紙です」と前置きして紹介したその内容とは、ある小学校で児童の母親が「給食の時間にうちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているのだから、言わなくていいではないか」と申し入れた、というもの。
それにはリスナーから大きな反響があり、大半が母親に否定的な意見であった。が、少数ながら賛同する人は存在し、
「食堂で『いただきます』を言ったら、隣のおばさんになんで?と言われた。『作ってくれた人に感謝して』と答えたら、『お金を払っているんだから、店がお客に感謝すべきでしょ』と返ってきた」
といった体験談も届いた。そこから「給食や外食時に『いただきます』は不要か」という議論が起こったのである。
「『いただきます』は必要ない」と学校に電話をかける親がいることにはそれほど驚かない。わが子の給食費を出し渋る親がいるご時世だ、そういう“常識”を持った人がひとりやふたりいても不思議はない。
当時私がショックだったのは、「それは人から物を恵んでもらったときに使う言葉だ」という母親の言い分を学校側が一理あるとして受け入れたことだ。
その一理はいったいどこにあるのか。
番組に届いた母親を支持する手紙の中には、手を合わせる仕草を宗教的行為だとする意見があったという。
私はそれまで、この「手を合わせる」について深く考えたことがなかった。幼稚園の頃から「手を合わせる」「いただきますの言葉」「軽くおじぎ」は三点セット。人が「はい、チーズ」と言われたらピースをするようなもので、「いただきます」で自然に出る動作だ。そのあと箸をとるという流れが体に染みついていて、食事前のルーティンである。
しかし、「拝む」に通じると言われてみれば、なるほどそのポーズは合掌だ。仏教を連想して抵抗を感じる人もいるのかもしれない。
とはいえ、「特定の宗教の押し付けにあたる」という訴えには、手を合わせるのをやめるという形で対処すればすむ話であろう。
たしかにもう、号令をかけて全員に「手を合わせる」をさせる時代ではない気もする。大事なことはなんなのかを考えたら、手は例えばももの上に置いていたってかまわないとわかるはず。「いただきます」ごとなくす必要はないじゃないか。
小さい頃、米という漢字の由来や「一粒の米に八十八人の神様が宿っている」「ごはん粒を残すと目がつぶれる」といった話を祖母から聞かされた。だからだろうか、私は茶碗にごはん粒を残さない。
牛や豚や鶏や魚の命、自然の恵みに対して、それらの生産に携わった人、調理をしてくれた人、給食費を払ってくれている親に対して、平和に食事がとれる環境に対してありがたいという気持ちを持つことを教えるために、子どもには「いただきます」が必要なのだ。
そのことを「こっちは代金を払っているんだから、それを言う理由がない」と主張する母親に理解してもらおうとするどころか、それもそうかと納得してしまうとは……。
そして、「いただきます」は必要ないと考える人は「ごちそうさま」も言わないだろう。
冒頭のコラムには、天ぷら屋で「いただきます」と言おうとした妻と娘を「言わなくていい。金を払うのは俺だから」と制した男性客の話も載っていたが、そういう人が「ごちそうさま」を口にするとしたら誰かに奢ってもらったときくらいじゃないだろうか。
でも、感謝の閾値は低いほうがいい。日々の暮らしにありがたいと思えることが少ないよりたくさんあるほうがきっと幸せだ。
【あとがき】
高齢の患者さんと話していると、「おかげさんで」という言葉をよく聞くんですね。若い人が「おかげさまで」を口にすることはあまりないですよね。私たちがなんとも思わないような小さなことにもありがたみを感じて、たくさんの人に感謝して生きているんだろうな、こんなふうだったら心も穏やかでいられるだろうなといつも思うのです。