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【短編小説】 閏年


「閏年にしか歳をとらないのよ。二月二十九日生まれだから」
 ちょっとした段差で転ぶなんて、歳はとりたくないわと志乃さんが言うから、いやいやお若いですよと世辞を抜きで言ったら、彼女はそう答えた。
 手首に巻いた真っ白な包帯が痛々しい。
 志乃さんは、不自由そうな右手を庇いながら、買い物カートを押していた。
 青果のコーナーを過ぎて、生肉のコーナーに立ち寄ると、担当者を探して辺りを見廻していたが、僕に気がついて、包帯をしていない方の手を挙げた。
「どうしたんですか、その手」
 そう尋ねると、彼女は恥ずかしそうに、転んじゃったのよと言った。
「新聞受けに新聞をとりに行ってね、ちょっとした段差につまづいてしまって。ただの捻挫で済んだけど、利き手だから不便で」
「買い終わったら、車に荷物載せるの手伝いますよ」
「いつもご親切にありがとう」
「それと、いつもの、ですね?」
「ええ。ご用意頂けます?」
「少々お待ちください」
 志乃さんは大型犬を飼っている。何と言ったか長い名前の犬種で忘れてしまったが、その飼い犬のために、定期的に鳥の骨を取り置きで購入しているのだ。
 冷凍された、特注品のバーコードが貼られたそれを受け取ると、本当に荷物運びを甘えてしまっていいかしらと言うので、快諾して手伝った。
 平日午前中のスーパーは、まあまあ空いていて、その程度の顧客サービスの余裕があった。
「もうすぐ誕生日なんですね」
 確かそろそろ還暦だと聞いた気がする。
「そう。閏年しか歳をとらないから15歳。佐藤さんは?」
「今年30歳になります」
「じゃあちょうどあたしの倍ね」
 志乃さんはそう言ってクスクス笑った。
 それから、少し遠い眼をして、こんな話をしてくれた。
「私ね、15歳の時、ああ、ちゃんと法律上の年齢ね、30歳の学校の先生に恋をしてね。まあ、良くある話でしょ。
 そんなにカッコよくもなかったけど、笑顔が可愛くて、自慢はキュッと引き締まったお尻だって自分で言っちゃうだけあって、今でも後ろ姿が印象に残ってるわ。
 好きになったのは、見た目じゃなくて、この人とは分かり合えるなって、あの感じ、うまく説明出来ないけど。
 あの時の先生はすごく歳上の人だと思ったけれど、今の佐藤さんと同じ年齢だったのだなと思ったら、なんだか感慨深くって。
 卒業式の日に、お花をプレゼントして。
 各自配られた5本を、お世話になった人に好き好きに渡すのだけど、お花だけ渡すのが精一杯で、お世話になりましたしか言えなくてね。
 あたしの好意には気付いていたと思うけど、学校なんて卒業してしまえばそれきりで、ああ、きっとこれが最後なんだなって。
 仲のいい友人が、部活の仲間と別れを偲んでいるのをみて、邪魔しても悪いから、そっと帰ろうと思ったら、ものすごく大きな声で名前を呼ばれたの。
 典子!って。
 すぐに先生の声だってわかって、声のした方を振り返ったら、渡り廊下に先生が立っていて、こっちを見ていた。
 一瞬耳を疑った。みんな私を苗字で呼んでいたし、でも他に典子って名前の同級生はいなかったし。
 遠くて、言葉の交わせる距離でもなくて、でもあの時、先生は1人の男の人の顔をしていたわ。
 私を1人の女として見ている眼。
 とても驚いて、確認したいって思ったけど、ほんの一瞬のことで。
 先生は、誰かに呼ばれたみたいで、そちらに返事をしてから、また私を見た時はもう、いつもの先生の顔に戻ってた。
 片手を挙げて、そのまま渡り廊下の先の校舎に消えてった。
 泣きながら帰った。
 もう会えないとか、寂しいとか、そういうのだけじゃなくて。
 勘違いじゃないかって、何度も思って。
 けれど、あれは、あの眼は私が好きだって語ってた。
 気持ちが通じ合ったのが嬉しくて。でもどうにもならないのが歯痒くて。
 中学生が高校生になったところで、何も変わらないもの。
 そんな素振り、見せた事だって一度もなかったのに、今更って。
 感情がぐちゃぐちゃになって、泣きながら帰ったなぁって」
「素敵な恋をしたんですね」
 ありきたりの返答だなとぼんやり思いながら、でもそれが素直な感想だった。
 志乃さんは目頭を抑えて、昔語りしちゃったわって首をすくめた。
「15歳の時は、30歳ってもっと大人だと思ってたけど、そんなに何が変わったかって言われたら、仕事して、僅かながら自分で自由に使えるお金があって、でも性格みたいな部分って、あんまり成長してなくて、こんなもんかって、びっくりするのですよね。
 きっと先生も、普通の男の瞬間があって、学生にモテたら嬉しいし、でも気のある素振りとかしたら絶対ダメだし、だけど、15歳だからって見くびる事なく、1人の人間と人間ってスタンスで接する中で、きっと心に響くものがあったのだと思いますよ」
 すっかりトランクに荷物を積み込むと、何もないけれどどうぞと言って、買ったばかりの冷えたペットボトルのお茶をくれた。
 志乃さんは、ついでに自分の分も、開けて欲しいと言い、開けてあげると早速口にした。その口元に老いを感じて、自身が還暦になった時に、思い出して涙するような恋があっただろうかと思い巡らせた。
「確かめる術はないのよ。彼は若くして亡くなってしまったし。でも、あの瞬間を自分が覚えていて、それが全てでいいの。正解とかはなくても。きっと今のあたしが、30歳の彼に会っていても、恋をした。そんな風に思える相手が生涯にいたことが素敵だと思うのよ」
 僕は、少し前の休日を思い出していた。
 行列のできるうどんの有名店に、ひとり並んでいた。
 昼食のためにわざわざ行列に並ぶなんて、普段であればあまりしない。それなのに、列の最後尾に連なってしまったのは、少し考え事がしたかったからだ。
 転職希望と昇格を打診されての残留に心が揺れていた。
 学生時代の同期が、どんどん成功して、社会的地位を築いていく事に焦りがあったし、転任してきた上司が、上層部へのイエスマンで、やたらと仕事がやりにくくなったせいもあった。
 スマホも触らず、腕組みをして、うどん屋の白い暖簾を凝視していると、偶然に通りかかった杏奈に声をかけられた。
「佐藤くん?やっぱりそうだ。久しぶり」
 下から覗き込むようにして、僕本人で間違いないとわかると、パッと笑顔になった。
 突然のことに驚いて、普通の笑顔を作ることさえ忘れた。
「ここのおうどん美味しいの?」
 後ろに続く行列を見て、目をパチクリさせている。
「あ、ああ」
 そこへ、店員が行列の整理にやってきた。
「車道側にはみ出さないように、一列でお並び下さい」
 何となく、話し込んでいることを非難する視線を感じて、杏奈は
「あ、じゃあまたね」
 とだけ言って、駅の方へ去っていった。
 僕は目の端だけで、彼女を追った。
 振り返らないかなと期待して。でももし彼女が振り返って、僕が彼女を目で追っているのがわかってしまったらカッコ悪いから、目の端だけで。
 息を止めて、気配を待っていたのに、杏奈は振り返らなかった。
 けれど、その先の路地を曲がる時、その刹那。僅かに杏奈も目の端で僕を捉えたように思えた。
 僕は戦慄した。
 その横顔は、さっき見せた笑顔とは似ても似つかない、痛みを伴う切ない表情だったから。
 志乃さんと同じで、確かめようもない。
 彼女は古くからの友人で、人妻だ。
 28歳の頃、みんなで行った居酒屋で隣の席になった時に、何の話の流れだったか、
「結婚願望ないの?」
 と聞かれたとき、
「ないな」
 そう、キッパリ答えた僕に、彼女が見せた横顔にも似ていた。
 友人から、彼女の結婚の報を聞く迄、自分の胸の内に気が付かずにいた。
「俺はてっきり、お前と一緒になるもんだと思ってたよ」
 そう言った男友達の他愛もない言葉が胸を抉った。
 杏奈が去って10分もしないうちに店内に通された。
 1時間並んで、湯気の立つうどんがやっとテーブルに運ばれてきたというのに、嬉しさは何処かにいってしまっていた。
 何故か重たく感じる割り箸を割って、透き通った出汁に揺らぐうどんを掬う。
 口に入れると、その温かくて優しい味に、急に涙が溢れて止まらなくなった。
「カッコ悪いな」
 そう思ったが、湯気で曇ったメガネを拭う振りをして、何度も涙を拭った。
「忘れないであげてね」
 志乃さんは、頂いたお茶を煽る僕に言った。
「今、思い出していた恋はきっと宝物だから、今向き合うのが辛くても、心のどこかに大事にしまっておいて」
 何も言っていないのに、まるで心を読まれているような志乃さんの物言いに、慌ててぶっきらぼうに答える。
「そんなんじゃないですよ」
 転職じゃなく、今の店に残留することを選んだのも、心のどこかで、近くに住んでいる杏奈が買い物に来て、偶然会える可能性を捨てきれなかったからだ。
 未練がましいとは思っていても、想うことを止められないでいる。
「長話に付き合わせちゃってごめんなさいね。今はこんなに暖かいのに、夜は冷えるらしいから早めに買い物に出たのに、いけないもうこんな時間」
 そうだ、これから冷えると予報で聞いていた。客の出足が悪ければ、午後の惣菜を少し調整しなければ。
 僕は志乃さんにお茶の礼を言って、売り場に戻った。
 夜は冷えるのなら、今夜の夕飯は、あの日食べたような温かいうどんを、そう思いかけて、立ち止まる。
 ふと、さっき車に積み込んだ買い物カゴに入っていたステーキ肉が脳裏をよぎる。
 そうだ、閏年だから、4年に一度の肉(29)の日のポップも作らなければいけない。
 そうか、志乃さんの誕生日は肉の日じゃないか。道理で。嫋やかに見えて、やたらと鋭い眼光にタジタジになったのは、伊達じゃないのだ。
 そう思ったら、急に可笑しくなった。
 やはり夕飯は肉にしよう、それも塊肉の。
 報われない恋は、血と肉にして、身体に取り込んでしまおう。
 味付けは、涙の塩味に負けないように濃い目の塩胡椒で。
 ああ。今夜もまた酒が進みそうだ。

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