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【短編小説】 きときとの兼六園

 雪化粧された早朝の兼六園は人影もまだまばらだった。
 雪吊りの松と石灯籠に三脚を立ててカメラを向ける男性に寄り添う婦人は空いていない缶コーヒーで手を温めている。
 きっと夫婦なのだろう。夫の趣味に付き合うのは、寒さの中、待つ時間を景色を眺めて楽しむ心のゆとりがなければ、良好な関係を維持出来ないだろうなと思った。
 そういう自分は、深酒をしてホテルでまだ眠っている彼を置いて、早朝の無料入園に散歩に出たのだが、大浴場で朝風呂に入った後、急いで乾かした髪が乾き切っていないのか、頭だけがやたらと寒い。
「マリッジブルーじゃないの?」
 最近寝付きが極端に悪くて困っていると告げたら、友達の知沙はそう言った。
「7年も同棲していて、今更紙切れ一枚で、何が変わるとも思えないけど」
「そうかな」
 苗字が変わるくらい。諸々の手続きが面倒だとは思っても、さほどこだわりがある訳でもない。
 お互いの家族とも何度も顔を合わせていて、打ち解けているから、嫁としての気負いなどもそんなに感じていない。
 でも長年の親友のひと言は、私の良き理解者で、深層心理を見抜いている可能性があるなと思う。
「プロポーズはどんな風だったの?」
「芸能人の結婚のニュース見て、いいなぁって言ったら、俺たちも結婚する?って。いいなぁは美男美女のカップルでお似合いだなくらいの意味だったんだけども」
「軽いな。それで何と返事したの?」
「うん。って」
「それだけ?」
「それだけ」
「夕飯カレーでいい?」
「え?」
「夕飯カレーでいい?うん。くらいの軽さだよね」
 そう言って、知沙は目をパチパチさせた。
 本当は、うんと頷くまでの僅かな1秒に、私の小さな脳みそのシナプスはフル回転した。
 ビックリ。あ、チャンスかこれ?いやもっとちゃんとしたプロポーズ希望。でも断ったら次がないかも。いや、大仰なプロポーズが恥ずかしくて、むしろさりげないタイミング狙ってた?それもあり得る。え、何て返事しよう。今?今なの?あ、寝癖可愛い。今そこか?でも寝癖可愛く見えるなら間違いないか。
 くらいのことを、ほんの一瞬で、キュルキュルっと考えた。
「その時、寝癖が可愛いと思ったんだよね」
「なるほどね。ご馳走様」
「もうっ」
 知沙がニヤニヤしだしたので、その話は強制的に打ち切った。
 けれどそれから2週間、いまだに不眠が解消されていない。
 以前は、旅先など関係なく、寝付きの良い方だった。
 ちゃんとしたプロポーズに拘ってモヤモヤしているのかな。
 婚前旅行は奏多の計画したものだった。
 ゆっくりと温泉宿に泊まって、美味しいものを食べて、ちょこっと観光して。
 デートがしたい、と彼は言った。
 確かに、7年も同棲していると、改まってデートと言えるような外出も減っていたように思う。
 若い頃に友人と旅行した先は、まるきり不案内でもなく、私を連れて歩くのにも安心だったようだ。
 慣れた場所を行き先に選ぶのは、保守的な男性にありがちだと思うけれど、臍を曲げられては敵わないので、黙っておいた。
 昔と同じようにときめいているかと言われたら、もちろん同意しかねる。そのかわり、空気のように自然な在り方で、失うのが困る程に必要としているのだろう。
 頭で解っていてもなお、私のどこかが満たされていない。
 けれど、そもそも、他人に全てを満たしてもらおうとするのが根本的に間違っているのだ。
 2人で旅行に来ていても、彼が寝ている隙にこうして散歩に出て、冬の美しい景色を堪能し、一人きりの充実した時間を過ごす事だって出来る。
 美しい風景の一部を写真に収める。彼に見せてあげたいと思う。
 けれど、本音を言えば共有したかった。この美しい冬景色の一部になって、彼と共に歩きたかった。
 よく眠っている彼を起こすのが忍びなくて、黙って出かけてきてしまったが、本当は揺さぶり起こして、無理矢理連れて来たかった。
 私は、夫の趣味に付き合うばかりの従順な妻にはなれない。さっきすれ違った夫婦を思い出す。
 かと言って、縦横無尽に振り回すというタイプでもない。
 そんな時、どうしたらいいか、ちゃんと解っていない。
 私でいいのだろうか。
 こんな風に思うのを、マリッジブルーと言うのならば、そうなのかも知れないが、心の何処かで、考えすぎだよと楽観的な自分もいる。
 そろそろ朝食の時間になる。
 朝風呂で暖まった身体が冷え切ってしまわぬように、足早に宿へと戻った。
 宿泊先へ戻ると、1階にある朝食バイキングの会場は、既に賑わっていて、パンの焼ける良い香りに、急に食欲を刺激される。
 部屋に戻ると、まだ浴衣をはだけて眠っているとばかり思っていた彼が、すっかり身支度を整えている。
「あれ、風呂じゃなかったの?」
 可愛らしい寝癖は影を潜めていた。
 どうやら朝風呂に行っているとばかり思っていたら、コートを着て小さなポシェットを下げている私を見て、外出していたと知って驚いたようだった。
「奏多こそ、起きてたのね」
「目が覚めたら和香ちゃんがいないから、急いで朝風呂行って来た。随分長風呂だなと思ってたら、出かけてたのか。散歩?」
「うん、兼六園まで」
「こんな早い時間に?」
「ロビーに早朝無料開放してるって、案内のパンフレットがあったのよ」
 ポシェットから取り出して見せる。一緒に折り畳まれていた、着物レンタルのパンフレットの方に目をやって、奏多が言った。
「やっぱり、ちゃんと結婚式やろうよ」
 入籍だけで、特別な式はしないでおこう。その分、新婚旅行や新居にお金使えるしと、どちらともなく、そういう流れになっていた。
「でも」
 口籠る私に、反論する隙を与えずになおも続けた。
「花嫁衣装着たところ、見たいな」
「和装?」
「どっちでもいいよ。両方でもいいし。きっと和香ちゃんのご両親も見たいと思うのだよね。身内だけでもいいからさ」
 奏多はタキシードと和装ならどちらが似合うだろうかとぼんやり考えてみた。
「あたしも。あたしも奏多のタキシード見たいな」
「なんでニヤニヤしてるんだよ」
「ふふふ」
 カッコいいではなくて、どこかコミカルになってしまう、そういうところが好きだ。
「ええ?そんなにタキシード似合わないかな?和装の方がマシ?いやもっと駄目だろ。まあいいさ。主役は俺じゃないから」
 挙式はしないつもりだと言った時の、母のほんの一瞬見せた寂しそうな顔が脳裏に浮かぶ。
 ウエディングドレスにさほど執着があった訳ではないけれど、みすみす親孝行の機会を逃すのは忍びないと後ろ髪を引かれる思いがあったから、奏多の配慮は嬉しかった。
 けれど、それ以上に、花嫁衣装を着たところを見たいと言われたことが何よりも嬉しかった。
 私でいいのだろうかを繰り返し自問する日々に、ちゃんとしたプロポーズと同等の、甘い言葉に救われた。
「ありがとう」
 充分だと思った。迷ったり、困ったりした時は、委ねてもいいのだ。不安に思わなくていい。
 奏多は柔らかい顔をして、私の凍えていた心が解れたことを汲み取ってくれた。ちょっとだけ照れくさそうにして、ルームキーを手に取ると、
「腹減った、朝食食べに行こう」
 きっと二日酔いも残っていると思われるのに、元気よく言った。
「ええと、朝食券を持って」
 コートを脱いだ私にハンガーを渡しながら
「俺も行きたかったな、兼六園」
 少しだけ寂しそうにする。
「行こうよ?」
「だって、行って来たのでしょう?」
「うん、でもお茶屋も土産物屋も開いていなかったし、朝と昼ではまた雰囲気も違うと思うから、また行ってみてもいいと思ってるよ」
 本当は2人で歩きたかったのだと、そんな遠慮は不要なのだと、甘く囁けばいいのに、より愛してしまった方が負けな気がして、平静を装う自分の幼さが痛々しい。
「でも、時間的には、近江町市場に行くならそちらが先がいいかな」
「蟹?」
「蟹!」
 新しい冒険の書を手に入れた勇者のように、私達は同じ目的地を目指して立ち上がる。
 いざ行かん、きときとの魚を目指して。
 足早にバイキングの会場へ向かう奏多の、シャツの裾を摘んだら、振り返って、自然と歩調を合わせてくれる。
 兼六園に行ったら、たまには手を繋いで歩こうなどと浮かれている私は、今夜の安眠を確信しはじめていた。

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