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【短編小説】 霧の朝

 玄関を開けてすぐに、いつもの出勤時間に家を出たことを少し不安に思った。
 外は二十メートル先も見えない程の濃い霧に包まれていたから。
 さらに、霧は川に近づくにつれて、濃さを増していく。
 電車は定刻どおり動いているだろうか?
 少し足早に歩を進める。
 川沿いの遊歩道に出ると、見慣れた風景が、全て濃霧に飲み込まれて、向こう岸は何も見えない。時折橋を渡る車のヘッドライトが見えるが、酷くゆっくりと進んでいることがわかる。
 橋を越えて五百メートルも歩けば駅だ。
 橋には広い歩道があって、車とすれ違う心配はいらない。
 行きも帰りも、橋を渡る時は昇って下る。そのアップダウンが、体力の落ちている時はややしんどい。
 二日酔いや、生理の時などは、もう少し駅近に引越しすることも考える。
 結局面倒になって、実現はしないけれど。
 人気のない真っ白な闇に、自分のパンプスの忙しないカツカツという音が響く。橋も昇り勾配が緩くなってそろそろ中央に差し掛かろうというところで、突如、その人は姿を現した。
「あっ、おはようございます」
 白いTシャツに、白い作業ズボン、短髪の頭には、白いタオルを巻いている。
 闇夜に黒装束が溶け込むように、全身白い出立ちの彼は、霧に溶け込みすぎて、急に現れたように感じた。
 いつもすれ違う人だ。
 会釈くらいは交わしても、挨拶までしたことはない。
 霧のない世界では、ただ、同じ時間帯に橋を渡る、通行人に過ぎないのに、霧の中から急に現れて、驚きのあまりに咄嗟に声をかけてしまったことを恥いったが、いくらか歳上だと思われるその男性は、とても自然に足を止めて、
「今日の霧はすごいですね、これからご出勤ですか?」
 と返してくれた。
 ああ、響くパンプスの靴音で、きっと彼はもっと早くに私の存在に気がついていたのだろう。
 彼の足元を見ると、白いスニーカーを履いていた。
「あ、はい、電車が普通に動いているといいのですけれど」
 彼は駅の方を振りかぶって、
「大丈夫でしょう、もう少し陽が登れば霧も晴れると思いますよ」
 彼がそう言い終わった途端に橋の左手、川の下流に昇る太陽の日差しが強くなって、対岸の風景が姿を現した。
「ほら」
「本当だ、すごい。霧の精霊か何かのようですね」
 彼は、霧の晴れることを言い当てただけでなく、彼の身につけている服が全て白いことに言い及んでいると気がついたようだった。
 白い服を着ているのは今日に限った話ではなかった。
 霧にかこつけて、理由が知りたかったのかもしれない。
「ああ、この格好?これは仕事着でね」
 彼は対岸を指差して、
「あそこのコンビニの二軒隣で豆腐屋やってるんだ。今は仕込み終わって、売り子のかみさんと交代して一旦帰るところ」
 霧が晴れるように、今まですれ違うだけだった白い服の男は、気のいい豆腐屋さんと判明して、目を丸くした。
「ああ、それで!あ、もしかして、おからドーナツが美味しいって有名な?橋のたもとにあるって聞いて気になってたんです」
 少し前に、同僚から貰ったおからドーナツを、これ美味しいねと言うと、最寄り駅の近くの豆腐屋さんのだと教えてくれた。気にはなっていたが、まさかこんなところで繋がるなんてと、興奮気味に語ると、
 彼は苦笑して、けれど満更でもなさそうに鼻の下をこすった。
「ああ、うん。でも、まずは豆腐を食べて欲しいのだけどね」
「あ、そうですよね」
 メインメニューよりサイドメニューばかりが褒められたら微妙な気持ちにもなるかと思ったが、おからドーナツのさっぱりとした甘さともちもちとした食感を思い出して、顔が自然と綻ぶ。
「水曜日が定休日だから、それ以外の都合のいい時に買いに来てみてよ」
「ええ、是非お伺いしますね」
「それじゃ」
「はい、それじゃ、また」
 きっとまたすれ違う。その時はまた挨拶を交わそう。
 豆腐を使ったメニューをあれやこれやと考えながら、霧の晴れた静かな通りを、足取りも軽く駅を目指した。駅に着いたら週末の予定に、おからドーナツを追加しようと心に決めて。



相変わらず締切すぎてるけどお目溢しを😜

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