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達人達 ~完璧なる者

※HEARシナリオ部投稿の 「達人達 ~石取り遊び~」はシナリオ形式にして、短くした作品です。


 
私は、あの話を聞いて、驚いたのをよく覚えている。
当時、私は、他国から、流れて来たばかりだったので、藺相如(りんしょうじょ)のことを、詳しくは知らなかった。
廉頗(れんぱ)将軍が、土下座をして、藺相如に謝罪したと先生は言った。藺相如は今でこそ大臣だが、もとは身分の低い他国の者だった。
廉頗将軍は、気に入らなければ、大王様のお気に入りの家臣でも、殴りつけたりした。
まあ、それは、大して偉くもないのに、威張りかえっている者に対してだったが。
誰に対しても、廉頗将軍は、容赦が無い。
その廉頗将軍が、土下座をした……
「先生……藺相如様という方は、そんなに凄い方なのですか? 
廉頗将軍が、誰かと喧嘩をして、負けるなど想像がつきません」
先生は、笑った。
「喧嘩か……藺大臣は、廉頗将軍どころか、ほかの国の王様にも勝ったことがあるのだ」
「え?」
そして、大笑いしたあと、先生は、このようなことを話し始めたのだ。
 

 
「繆賢(びゅうけん)様……そんなに急いで、どこへ行かれますか?」
我が国の王に、覚えがめでたい繆賢という家臣がいたが、彼は、後ろから肩をつかまれた。
繆賢は、まるで役人に声をかけられた、犯罪者のようにびっくりして息をつき、振り向いた。
しかし、肩をつかんだ者は役人ではなく、自分の所に居候(いそうろう)をしている。藺相如(りんしょうじょ)という男だった。
「ああ、なんだ、藺相如か!」
「……まあ、落ち着いて事情をお話しください」
繆賢は、こうして問答している時間も惜しいくらいだった。
しかし、藺相如は、別に体が大きいわけでもなく、武術に秀でているわけでもないのだが、彼とまともに目を合わせると、圧倒される迫力がある。
繆賢は、やむを得ず事情を話し始めた。
 
「わしが、高価な宝物を収集していることは、そなたも、知っているな」
 
「ああ、この藺相如にはさっぱり価値のわからぬものを、繆賢さまは、集めておられるのは、存じております」
 
「わしは、月氏の宝玉(ほうぎょく)と伝わるものを大王様に献上した。ところが、それを偽物だと言うものがいて、宝物(ほうもつ)を愛する大王様は、激怒していると伝え聞いた。わしは、どのような罰を受けるか知れぬ。逃げねばならぬ!」
 
「どこへ行かれるおつもりですか?」
 
「燕(えん)の国だ! 燕の国の王は、わしと親しく付き合いたいと申しておられたのだ!」
 
藺相如は、大笑いをして、繆賢はぎょっとした。
 
「繆賢様、燕王は、わが国の大王に信頼厚い、あなたと仲良くしたいのであって、あなたの個人的な魅力を買っているわけではないと思いますぞ。大王の信頼を失った、あなたの存在など、国同士の揉め事のもとになります。燕に逃げれば、燕王は、必ずあなたを捕えて、この国に送り返してくることでしょう……」
 
繆賢は、めまいがして倒れそうになったが、藺相如は続けた。
 
「はっきり申し上げて、この状況で逃げる選択肢は、ありませぬ。いっそのこと、処刑される覚悟で、死に装束を着て、大王の前に行かれてはどうでしょう」
 
繆賢は、やむなく死に装束を着て、自ら、大王の前に出た。
我が国の大王は、眉の片方を上げて、少し呆れた様子で、繆賢を見た。
 
「大王様、この繆賢が、お薦めした宝物が、偽物だったという事を聞きしました。
それが真実であるならば、私の罪は、山よりも重く、海よりも深うございます。
処刑されても、本望です。
ただ、このことは、お伝えいたしたいと思います。
宝物の真贋を間違えたことは、無念の限りではありますが、大王様を騙すつもりは無く、大王様への忠義の気持ちはまったく変わりません!」
 
「繆賢、わしは、そなたを疑ってはおらぬ。
精巧な偽物は、玄人でも、騙されることがある。
そなたが、わしを騙してなんの得があるというのだ。
処刑するなど、もってのほかだ。
わしのことを、そんな人でなしとでも、思っていたのか?」
 
大王は、笑って言った。
繆賢は、へたりこみそうだったが、なんとか、毅然と立っていた。
 
「そんなくだらぬ事よりも、ちょっと、困っていることがあるのだが……相談に乗ってくれないか」
 
繆賢は、ほっとしたと同時に、何事かと思って聞いた。
 
「大王様、いったいどのような事でございましょうか」
 
「月氏の宝玉よりも、もっと、高価な宝物がある。いくつもの城と取り換えてもいいと言われている……」
 
「連城(れんじょう)の璧と呼ばれている……和氏(かし)の璧でございますか?」
 
「そうだ。和氏の璧だ。わしが所有しているのは、存じておるな」
 
「それは、もちろんでございます……」
 
「それを、秦の王が、十五の城と交換して欲しいと、申し入れてきたのだ」
 
繆賢は、大王様と同じように、表情を曇らせた。
 
「秦の王は、傲慢な性格な上、今、強大な軍事力を持っています。断れば、それを口実に我が国に……」
 
「ああ、攻め込んできかねないな。
しかし、和氏の璧を贈ったところで、城一つとて、交換してくれるとは到底思えぬ。
脅されて天下の宝物を巻き上げられるのでは、わしも我が国も、まさに天下の笑い者じゃ。
どうしたらよいだろうか……」
 
「大王様! 相談するのに、うってつけの人物を知っております!」
 

 
藺相如は、繆賢の推薦で、わが国の大王に目通りした。
 
「大王様、拝謁にあずかり恐悦至極に……」
 
「そんな挨拶はどうでもいい! 藺相如よ! そなた、和氏の璧と、秦王の申し入れの事は聞いておるな」
 
「繆賢様より、お聞きしました」
 
「どうしたらよいと思うか」
 
「大変、難しい状況ではありますが、誰か知恵と勇気のある者を使者として、秦の国に向かわせねばなりますまい」
 
「そんなことは、わかっておる。適任な人物がおらん!」
 
どのくらいの時間が過ぎただろうか。藺相如は、顔を下げたまま言った。
 
「もし適任の者がおりませぬなら、不才ながらこの藺相如が使者として、秦王に会い、十五の城を割譲させるか、あるいは、それができなければ、和氏の璧を無事に持って帰って参りましょう」
 
大王は、座っている椅子を、大きな音を立てて叩いた。皆、びっくりしたが、藺相如は微動だにしなかったという。
 
「藺相如、秦に赴いてくれ。この交渉、任せたぞ!」
 

 
「わはははは!」
 
「さすが、天下一の宝物! 美しいですわね!」
 
「これも大王様の御威光ですわ! あはは!」
 
秦の王は、大声を上げて、和氏の璧を弄んでいた。
藺相如は、秦の都、咸陽の宮殿の広間で、目を細めていた。
さすがに藺相如も、秦王が妻たちを呼んで、外交官の目の前で、和氏の璧を見せびらかすとは思わなかった。
しかし、これで、藺相如は、秦の王には、爪の先ほどの誠意も無いことを見てとった。彼は、即座に行動した。
藺相如は、あっという間に、秦王の妻に歩み寄った。
 
「和氏の璧には、ほんのわずかですが、傷があります。それをお教えいたします。御貸しください!」
 
秦王の妻は、その気迫におされて、和氏の璧を藺相如に渡してしまった。
藺相如は、和氏の璧を持ったまま、宮殿の大柱(おおばしら)の近くまで走り、叫んだ。
 
「我が主君、趙の国の王は、秦の国に対して、敬意を払い、五日間、身を清めて、盛大な儀式を行い、この天下の宝物を藺相如に持たせました。
それを、大王様は、こともあろうにか、公の場で、奥方たちに見せびらかし、はしゃいでおられる!
これは、わが国に対する侮辱です!
もともと、この宝物は、十五の城と引き換えに、お渡しする約束のはず。
大王には、その誠意が無いものと、私は、判断いたしました!」
 
秦王の配下の者たちが、藺相如を取り押さえるために、彼に近寄ろうとしたとき、藺相如は叫んだ。
 
「もし、藺相如を捕えようとするならば、この璧も私の頭もこの柱で砕き割ってやろうぞ!!」
 
その時の彼の様子は、髪の毛が逆立ち、空気が震えるように見えたという。
その気迫は凄まじく、秦王をはじめ、皆の動きが止まってしまった。
 
そして、我に返って、秦王配下の者たちが、再び動こうとした時、本当に、藺相如が和氏の璧を床に叩きつけようとしたので、慌てて、秦王は、家臣たちを手で制した。
 
「待て!! 早まるな! 地図を持ってこい!!」
 
顔の片方を歪めながら、秦王は、大声で言った。
 
秦王は、配下に地図を持って立たせ、藺相如に見せた。
 
「そこから、地図が見えるかぁ!」
 
「よーく見えまする!」
 
「郭安(かくあん)、義城(ぎじょう)、甲景(こうけい)、范陽(はんよう)、棟維(とうい)、新弦(しんげん)、喜諸(きしょ)、弁安(べんあん)、鄭櫃(ていひつ)、後安(ごあん)、綿陽(めんよう)、東黄(とうこう)、士菖(ししょう)、維門(いもん)、金安(きんあん)、占めて十五の城を割譲することを約束する! 早まるでない!」
 
秦王は、顔をひきつらせながら叫んだ。
 
しかし、藺相如は、それでも、秦王は約束を守らないと判断した。
 
「趙王は、五日間の間、身を清められ、盛大な儀式を行い、この宝物を秦に贈られました。秦王におかれましても、五日間、身を清め、正式な受け取りの儀式を行って頂けなければ、この宝物は渡せませぬ!!」
 
「はぁーーーーー!!! 
そなたの言う通りにする!! 
宿舎で休まれよ!!!」
 
激怒した表情で、投げ捨てるように言うと、秦王は、奥へ入ってしまった。
 

 
五日の間、秦王は身を清め、そののち、秦王とその側近全てが、正装で宮殿の一番豪華な広間に集まり、盛大な儀式を行った。
藺相如は、うやうやしく、ゆっくりと歩きながら、箱を持ってきた。そして、ゆっくりと、箱を開いた。
 
そこには、何も、入っていなかった。
 
皆が啞然としていると、藺相如が言った。
 
「和氏の璧は、すでに、わが国、趙へ送り返しました……」
 
その場が、騒然となったが、藺相如は続けて言った。
 
「秦の国はまことに強い国でございます。
それを傘に着て、あなたが、約束を破ったことは、数知れず。
万一、秦王様が、和氏の璧を強奪するようなことがあれば、趙の国の面目は、丸つぶれどころではありませぬ。
秦の国の兵力は、わが国の何倍でしょうか?
秦は強く、わが国は弱い!
我が国が、宝物一つで、秦の国と戦争をするとでも、お思いですか?
もし、大王が、誠意をもって、先に十五の城を割譲してくださるならば、わが国は、宝物一つ惜しむ事などありえませぬ!」
 
秦王の額には、血管が浮き出て、今にも叫びそうな様子だったが、我慢している様子でもあった。
 
「しかしながら……この藺相如、大王様に数々の無礼を働きましたゆえ、存分にご処分ください!」
 
秦王の配下が、藺相如を捕えるため、彼のもとに、走ろうとした時に、秦王は天井を向いて叫んだ。
 
「やめろーーー!」
 
配下の者たちは驚いて、動きを止めた。秦王は、怒りと畏れが入り混じった複雑な表情をしていた。
 
「この状況で藺相如を殺しては、三つのものが、損なわれる! 
一つ! 宝物が手に入らぬ!
二つ! 何の利益も無く、両国の友好が損なわれる!
三つ! わしは、これだけの知恵と勇気のある者を殺した、愚か者として、まさに天下の笑い者じゃ!
国に帰してやれ!!
城を先に割譲する!
趙の国とて、宝物一つで、わが国と戦争などいたすまい!」
 

 
先生は、それに付け加えた。
 
「藺相如様は、不可能と思われるような交渉を成立させて『璧を全う(まっとう)』した。
それ以来、何一つ間違い無く、立派なことを、『完璧』というようになったのだ……」
 
私は、その話の凄まじさを聞いて、しばらく言葉を失ったのを覚えている。
 
そして、気になっていた二つのことの一つを私は尋ねた。
 
「廉頗将軍は、なぜ、藺相如様に、謝罪したのですか?」
 
「ああ、そのことか。
藺相如様が、大臣になり、廉頗将軍の上役になってしまった。廉頗将軍は、藺相如様が『口先』だけで、出世したと思われ、それが面白くなかったのだ。それで藺相如様を、ぶちのめそうと思った……」
 
「なんということを……」
 
「藺相如様は、それを聞いて、屋敷に引きこもってしまった。
廉頗将軍を始め、皆、藺相如様は、『臆病者よ』と、嘲笑った。
藺相如様のご家来衆も、そうだった。『この人に、仕えるのを辞めて故郷に帰る』と言い出す者もいた。
しかし、藺相如様は、このように言われたそうだ。
『秦王と廉頗将軍は、どちらが強いか?』とな」
 
私は息を飲んだ。
 
「『わしは、秦の国の王を𠮟りつけたことがあるのだ。
廉将軍など恐れると思うのか? 
廉将軍とわしが争えば、龍と虎が相打ちになるように、双方が傷つき無事では済ませれぬ。
この国の行く末を心配して、私は、廉将軍との争いを避けているのだ。
察してくれ……』
 
そう、藺相如様は、おっしゃったそうだ。それを伝え聞いた廉頗将軍は、
『大臣殿に、無礼を働き、まことに申し訳ありませんでした』
と、土下座をして、謝られたのだ」
 
それを聞いて、廉頗将軍が我が強いだけの人ではなく、人としての見識の高さを持っていることを私は初めて知った。
私は、もう一つの疑問を尋ねた。
 
「先生……藺相如様と、秦王の会見を、まるで見てきたように話されましたが……」
 
「わしも、その交渉に随行しておったのだ。
わしもかつては、お前のように、藺相如様が超人的に肝の座った人だということを知らなかった。
随行せねばならない『和氏の璧』についての交渉内容を聞いて、わしは、生きて故郷に帰れないと思っていた。
しかし、随行したお陰で、思いもかけず、歴史に残る名場面に、わしは居合わせることになったのだ。これは、何よりも、我が人生の痛快な出来事であったぞ!」
 
そう言って、先生は、再び大声で笑い声を上げた。

◆ 

歴史書によると、古代中国、春秋戦国時代、趙の国に藺相如という人がいた。彼は、もとは繆賢(びゅうけん)という人の客分であった。
その当時、秦の国は強大で、その力を頼んで、秦は、趙の国に、たびたび無理な要求をした。
しかし、藺相如は、知恵と勇気を持って、それを退けた。
秦の国は、藺相如が生きている間、趙の国にまったく手出しができなかった。

■あとがき

完璧の故事をもとにした物語です。

一回、書いてみたかったエピソードでした。
朗読やボイスドラマ作りを趣味でやっていますが、どっちとも、難しそうな物語になってしまいました。

キングダムという漫画では、藺相如は、武将ということになっていますが、史実では文官で、私が知る限りでは戦場に出ていません。
でも、秦との戦いで、廉頗を前線から外そうとした、趙王に対して、非常に反対したと言われていて、その発言も的を射たもので、戦争の分野においても聡明な人だったかもしれないと思いました。

藺相如は、ほかにも、言葉の語源になっているエピソードがある人です。

和氏の璧の件で「近づいたら和氏の璧を壊すぞ」と、言い放った様子は、髪の毛が逆立って誰も近寄れなかったという記録があるそうですが、物凄い怒りの形相のことを「怒髪天」というそうです(昔の表現で、今は使わないかな……)。

また、藺相如と廉頗がトラブルを起こして、のちに和解したときに、お互いに一緒に首を刎ねられても悔いはないというくらいの契りを交わしたと言われていて、「刎頸の友」あるいは「刎頸の交わり」という言葉も生まれたそうです。
なんだか、やたら重い契りですが、戦乱が長く続いた国や時代は、世知辛いことこの上なく、裏切りばかりで、そういう時代だからこそなのかもしれません。

この故事は、
漢文の教科書に載っていることがあるそうですね。
(私は、教科書の方は、知らなかった)
楽しんで頂ければ幸いです。



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