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掌編「下足焼き」

 するめの足だけをまとめて袋詰めに売っているのを、近所のスーパーで見つけて以来、毎週のように買い求めている。

 十本つながった足を二本ずつに裂き、小さい鍋で温める。やがて、ぱち、ぱちとはぜる音が聞こえてくる。細長い二本の足がじんわりと動き出し、開いたり閉じたりする。熱された鍋の上で身をよじる姿は、女の肢体を思わせて少しなまめかしい。漂い始める香ばしい煙に、僕の鼻孔が広がる。


 ある晩突然訪れた人があった。舟橋だった。焼酎の瓶を手に提げていた。暗い顔に細かな無精髭を生やした彼を、舟橋だと認めるまでに少し時間がかかった。僕は戸惑いながらも、彼を部屋へと招き入れた。大学を卒業以来、十年ぶりの再会だった。

「まだここにいたんだね」
 僕から湯割りの入った湯呑みを受け取ると彼は言った。

 実際、とうに越すつもりだったが、つい出そびれて十年経った。当時から傾いていたこのアパートには、大学の同期が四人住んでいた。いまも残るのは僕だけだ。

 舟橋は湯割りを一杯飲んだきり、焼酎瓶はそのまま置いて、また来るよと帰っていった。そしてその言葉の通り、二週間後に彼は再び現れた。手に新しい焼酎を携えて。僕は前より一層彼を、笑顔で迎え入れた。

「下足、食うかい」

 ああ、と彼は答えた。僕は喜んで小鍋を取り出すと、下足をあぶり始めた。やがてぱち、ぱちとはぜる音が聞こえ、香ばしい煙が部屋を満たした。

「いいにおいだ」
 と彼は言った。僕は大層嬉しくなって、いつもよりも念入りに下足の焼き加減を見張った。

 腰を据えて飲み進めるうちに、彼がぽつぽつと身の上話を始めた。恋愛に失敗したこと、仕事での行き詰まり、酒ばかりが進むこと。

 十年前の知り合いをいきなり訪ねるぐらいだから、何かよほど苦しんでいることがあるのだろうとは察していた。退職して次の仕事を探しているようだが、当座の金に不自由はないらしい。

 社会の片隅で生きているような自分を、舟橋が頼ってくれたことが僕には嬉しかった。彼は月に二度ほどのペースで、狭い部屋に僕を訪ねた。いつも手土産を忘れなかった。返礼に僕は下足をあぶり、簡単なつまみをテーブルに並べた。

 銀杏の葉がみな落ちた頃、舟橋が一匹の子猫を拾ってきた。このひと月ほどの間に、僕も何度か近所で見たことのある猫だった。近づいても逃げるばかりだったのが、彼の手にはおとなしく捕われたらしい。残り飯をやると喜んで食べた。子猫はそのまま僕の部屋へ居着くようになった。

 猫の様子が気にかかるのか、舟橋が以前よりも頻繁に顔を見せるようになった。新しい仕事を始めたらしく、会社帰りに立ち寄ることも増えた。僕の仕事が遅くなると、いつまでもドアの前に待っている。夜の空気は冷たかった。僕は彼に予備の鍵を渡した。

 年の瀬が迫った。狭い部屋にこたつを置き、僕は舟橋と鍋を挟んでいた。猫はこたつ布団のかかった彼の膝の上に丸まっている。正月をどう過ごすかという話になった。僕は田舎に帰るつもりにしていたが、彼には帰省する先がない。

「俺、こいつと待ってるよ」
 と彼は言って、猫の頭を撫でた。

 大晦日、僕は部屋を彼に預け、北へ向かう電車に乗った。

 酒と珍味で詰まった鞄を提げて、四日後に僕はアパートに戻った。ドアの鍵は開いていた。舟橋はこたつにうつ伏せて寝ていた。僕のどてらを着ている。私物は好きに使っていいと言ってあったが、なんだか僕は妙な気分だった。まるで自分の分身がそこにいるような気がした。

 その晩は二人で大いに飲んだ。それから三日経ち、一週間が過ぎても、舟橋が自宅へ帰る気配はなかった。僕が仕事から戻ると、夕飯の支度が整っている。彼のあぶった下足で晩酌をする。新しい会社も辞めてしまったのか、出勤している様子はなかった。部屋はいつもきれいに片付いていた。冷蔵庫や箪笥の中に物が増えた。

 猫は彼によく懐いた。僕のどてらの中に潜り込んだ猫を抱いて、こたつ布団にうたた寝している彼の姿を見ていると、非難めいたことが僕には言えなかった。

 彼に行き場がないというなら、置いてやってもいいと思った。いつかは出て行くだろう。あるいは僕が去ることになるかもしれない。いつまでもこんなところでくすぶっているつもりは、僕にはなかった。猫は彼にやってもいい。そう思いながら月日が流れて、季節は夏になった。

 一緒に海へ行く女友達が僕にできた。彼女の友人と舟橋も誘い、四人で出かけた。うまい具合に、彼も相手と懇意になったようだった。僕の部屋を空けることが増えた。彼の不在を僕は喜んだ。

 春から働き始めた会社も合っていたようで、彼の人生は少しずつ調子を取り戻しているかのように見えた。僕のほうは残念ながら女友達とは別れてしまい、また少しずつ元のように、自分のために下足をあぶり始めた。

 銀杏の季節になって、舟橋の顔つきが変わった。一年前に突然訪ねてきたときのことを、僕は思い出した。あんなふうに憔悴してはいないが、伏せた目に覇気がない。彼は再び僕の部屋に根を下ろすようになった。

 二度めの年の瀬を迎えた。こたつの上には鍋が湯気を立てている。舟橋はかつて僕のものだったどてらに袖を通し、膝に乗った猫の頭を撫でている。

 僕は土鍋を片づけると、台所で下足をあぶり始めた。ふと振り返ると、いつのまにか彼は畳の上へ仰向けになり、こたつから半身を投げ出していた。どてらの袖からはみ出た両腕を高く上げ、天井からぶら下がる電灯に向かって、肘をゆっくりと伸ばしたり曲げたりしている。

 下足の焼ける香ばしいにおいが、部屋の中を満たし始めた。コンロにかけた小さな鍋の上で、二本に裂かれた細長いイカの足が、ゆったりとなかめかしく宙を掻いていた。



10年前に書いた話をPCから引っ張り出してきました。ちょうどこの季節に合うかなと思って。あぶった下足、うまいよな。

今年もお世話になりました。みなさま、どうぞよいお年をお迎えくださいね。

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。