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「鳥皮」(前編)

クラスメイトに貸してあった本が、ある朝自分の机の中に返却されていた。
本の表紙には付箋紙が貼ってあった。そこには美しい文字で、
「宮田さんへ。ありがとう。楽しく読みました」
と書かれており、右下にシャチハタのハンコが押されていた。
そのハンコの、丸い円の中に刻まれた文字が、何度見ても「鳥皮」と読めた。

高校を卒業したあと、地元を離れた彼女と何度か手紙のやり取りをした。便箋に綴られた美しい筆跡の文末には、いつも「鳥皮」のハンコが押してあった。

文通が途切れてから、もう十年以上が過ぎた。
彼女の本当の姓が何だったか、その「鳥皮」の印象が強すぎて、わたしの記憶からすっかり抜け落ちてしまっている。渡辺とか佐々木とか、ごく一般的な名字だったように思う。

なぜ「鳥皮」という名のハンコを押すのかと、もちろんわたしは彼女に問うた。理由がまったく想像できなかった。
単に好きだから、という返事だった。焼き鳥屋で出てくる鳥皮の串が何より好きで、好きが昂じてわざわざハンコを注文したのだという。
食べないときも思っていたい。好きな人の名前と同じハンコをこっそり買って持っているのと同じよ、と彼女はたしかそんなことをわたしに言った。
「たぶん宮田さんにはわたしのこういう気持ちが通じると思うから、気軽に押しているけれど、相手はきちんと選んでるの」とも言われたような気がする。

わたしが彼女に貸した本は「仮面の告白」だった。三島由紀夫の。それはよく覚えている。
自分で読んで、あまりに強い衝撃を受けたので、誰か知った人にも似た思いを味わってほしいと思った。誰かと分かち合えば、衝撃が少しは薄まるように感じたからだ。
クラスの中に、この本を読んでくれそうな人は彼女しかいなかった。

十年以上も忘れていたのに、「鳥皮」の彼女のことを突然思い出したのにはわけがある。
先日、磯川さんから手渡されたメモ用紙の隅っこに、「砂肝」という赤い刻印の文字を見たのだ。
印字はシャチハタのように整った明朝体ではなく、もっと無骨な四角い文字だった。

「ああ、あれですか?」
 次の週に一緒に出かけたバーで、磯川さんは何でもないというように少し笑った。
「試し押しですよ」
「試し押し?」
「僕の友達が焼き鳥屋をやってるんですけどね。そこのメニューで使うハンコ」
「メニューですか」
「そう。砂肝とかモモとかつくねとか、ハンコで押した小さなメニューをたくさん作って、カウンターに置いておきたいって言うんでね。僕はそのお手伝い」
「へえ」

古いバーだった。
わたしと話をしながら磯川さんは、目の前の分厚いガラスの器に盛られた落花生に何度か手を伸ばした。
割った殻を床の上へ落として、中身を口の中に放り込む。慣れた手つきだ。
 
落花生の殻が床に散乱している立ち飲みバーがあると、会社のお花見の席で磯川さんが言い出した。
べつにお客の行儀が悪いとか、掃除が行き届いていないとかいったことではなく、その店ではむかしから割った殻を床に落とすのが慣習になっているという。

おもしろそうだと思った。夜桜とビールで酔っていたのもあって、行ってみたいとわたしは言った。それじゃあ店の名前と場所を今度教えてあげましょうと、磯川さんはみんなの前でわたしに約束した。

しばらく日にちが経ってから、磯川さんがわたしの席にあのメモ用紙を持ってきた。
立ち飲みバーの名前と簡単な地図がそこには記されていて、試し押しをしたという「砂肝」の赤い印が、メモの隅っこに押されていたのだった。

磯川さんからメモをもらった翌週の水曜日、会社からほど近いビルにあるパン教室での授業を終えたわたしは、地下鉄の入り口で磯川さんと偶然鉢合わせた。磯川さんは残業の帰りだという。
同じ電車に乗って立ち話をしていると、立ち飲みバーの話題になった。

「磯川さん、よく行かれるんですか?」
「最近ご無沙汰ですね」
「そうなんだ」
「いまから行ってみようかなあ」
「いまから?」
「宮田さんも一緒に来る?」

そんな会話の流れがあって、急遽二人でバーへ行くことになった。


(後編へつづく)

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。