『彼女が欲しいもの』
01-小さな本屋
本が欲しいと彼女は言った。
「どんな本?」と尋ねてみても、ふふと笑うばかりだ。
日曜日の昼下がり、彼女は僕を本屋へ誘った。古くからやっていそうな、ごく小さな本屋さん。
「わたしの欲しい本はここにあるの」
店の前でそう言うと、彼女は僕に手を振って、風のように去っていった。
僕は店の中へ入った。いらっしゃい、とエプロンをつけたおじさんが、僕に気のいい笑顔を向けた。僕は軽く会釈して、さてどうしようかと思案した。
雑誌コーナーを覗いてみる。ファッション誌がたくさん並んでいる。手を伸ばしかけて、ふと思った。そんなもの、彼女は読まないかもしれない。なぜなら彼女は何というか、いつも個性的な格好をしているから。こないだ会ったときは、つばの広い真っ赤な帽子をかぶっていた。今日は襟元に大きな黄色いリボン。彼女には彼女の確たる美学がありそうだ。
そういえば猫が好きだと言っていなかったか。いつか一緒に暮らしてみたいと。いくつかあるペット雑誌を、僕はぱらぱらめくってみた。あまりピンと来なかった。"鳴き声でわかる猫の気持ち"なんて、彼女が知りたがるだろうか。猫以上に気ままな彼女が、猫の気持ちに頓着するとは思えない。
隣の棚へ移動した。恋愛小説。時代小説。サイエンスフィクションと続き、ミステリーコーナーの前で、僕はふと足を止めた。謎解きなんていかにも彼女が好みそうではないか。現に彼女は、僕にただ本が欲しいとだけ言って、自分はどこかへ消えたのだ。
なんとなく、あまり聞き馴染みのない作家のほうが喜ばれるような気がして、全然知らないロシアの作家の推理小説を一冊抜き取り、手に持った。
もうほとんどその本に決めかけていたのだが、不意にある詩集が僕の目にとまった。夜空のように深い青の分厚いカバーの背に、タイトルが金文字で埋め込まれてある。La Nuit.フランス語で、夜。僕は戸棚からそっとその詩集を引き抜いた。革のような手触りといい、両手に収まるサイズといい、中に綴られた詩のリズムといい、何もかもがしっくりくる。
二冊買うにはお金が足りなかった。僕は悩みに悩んだ末、推理小説を元の棚へ戻した。
店を出ると、意外にも彼女が僕を待っていた。僕は彼女に詩集の入った袋を渡した。
表紙を見るなり彼女が言った。
「欲しかった本よ」
ページを繰ると中の詩を一編、くちに出して読み上げた。甘い声音に僕はうっとり目を閉じた。
パタンと本の閉じる音がした。目を開けた僕に、彼女は詩集を差し出した。
「いまの詩が欲しかったの。この本はあなたが持っていて」
紺色の小さな詩集は、僕の部屋に迎えられた。鍵のついた引き出しの中で、いまもひっそりと眠っている。
02-くまとおもちゃの万年筆
通りを並んで歩いていると、彼女が突然足を止めた。百貨店の大きなショーウィンドウに飾られた、マネキンの女の子をじっと見ている。女の子は大きなくまのぬいぐるみを両腕に抱えて笑っていた。
「欲しいの?」と僕は彼女に尋ねた。尋ねたからと言って、買ってあげられるかどうかはわからない。百貨店のおもちゃ売り場に売られているぬいぐるみなんて、きっと何万円もするはずだ。
「欲しいわ」と彼女は言った。「でもこれじゃない」
僕は内心ほっとして、「でもくまのぬいぐるみは欲しいんだね?」と彼女に訊いた。彼女はそれには答えずに、ウィンドウからすっと離れた。首に巻いた桃色の長いスカーフが、風になびいて僕の頬を撫でた。
次に彼女に会ったとき、彼女は隣町に用があると言った。電車を二本乗り継いで、降りた駅から十五分ほど南へ歩く。右手に小さな雑貨屋の丸い看板が見えてきた。
「あの店よ」
指を差してそれだけ言うと、彼女は路地を左へ曲がってどこかへ行ってしまった。
僕は仕方なく雑貨屋に入った。どうやらアンティークショップらしい。キーの丸い旧式のタイプライターや、くすんだ緑色のグラス、バレリーナの踊るオルゴールなどが、テーブルの上へ雑多に置いてある。
小さなくまのぬいぐるみを僕は見つけた。正確には、くまが両手に持っている濃紺の万年筆。取り上げるとくまも一緒についてきた。万年筆はおもちゃのようだが、精巧に作られている。僕は値札を見た。ぎりぎり払える額だった。
「お買い上げですか」
後ろから突然声をかけられ、驚いた僕は慌てて振り向いた。まるで昔の洋館に住んでいそうな、古めかしいメイド服を着た小柄なおばあさんが、僕の顔をじっと見上げていた。僕は商品をおばあさんに見せて、代金を支払った。おばあさんはにこりともしなかった。
店を出ると彼女がいた。買ったものを手渡すと、彼女は小さなくまの手から、おもちゃの万年筆を離そうとした。「それは外れないんだよ」と僕が言う前に、彼女は右の指でつまんだ万年筆を僕の目の前へ差し出した。
「あげるわ」
僕は不思議な気持ちで万年筆を受け取ると、部屋に帰って鍵つきの引き出しの中へ、そっとそれをしまった。
03-揺れるイヤリング
僕は机の前で悪戦苦闘していた。
「詩を書いて。私のために」と彼女が僕に言ったからだ。いつまでに、と期限を決められたわけではない。とはいえ明日会う約束をしているのだから、明日渡すべきだろう。
時計は夜の二時をまわっている。彼女に捧げたい言葉は山ほどあった。それがいざ紙の上へ書こうとすると、文章がまるで浮かばない。そもそも僕は詩の書き方すら知らないのだ。
机の引き出しの中に、一冊の詩集が入っている。いつか彼女にプレゼントしようとして、受け取られなかった詩集。あの深い夜色のカバーを、ひとたび開けたなら。小さな宝石のような言葉が、無限にあふれ出すだろう。引き出しにかかった鍵を開け、彼女が喜びそうなとびきりのフレーズを盗み出す誘惑と、僕は何度も闘った。闘いは明け方まで続いた。
午後三時きっかりに、喫茶ロンドで彼女と会った。菫色の丸い大きなイヤリングが、彼女の耳の下で揺れていた。コーヒーを待つ間、彼女は濡れた目で僕を見つめた。僕はジャケットの内ポケットから、おずおずと白い封筒を差し出した。
二枚重なった四つ折りの紙を彼女は開き、中の詩を読み始めた。コーヒーが運ばれてきても、まだ熱心に読んでいた。僕はコーヒーを一気に飲んだが、喉の渇きは少しも癒えなかった。
やがて彼女は紙を畳み、元の通り封筒の中へしまった。それから少し首を傾けて、イヤリングに手をやった。
「なんだか混沌としてるわね」と彼女は言った。僕には言葉の意味がすぐに理解できなかった。
「コントン?」
「混沌。カオス。狼狽。無秩序」
「それはつまり——ぐちゃぐちゃってこと?」
ふふ、と彼女は笑った。
「ぐちゃぐちゃ。そうね、つまり——あなたは私を愛していながら、同時に憎んでもいるし、離したくないと思いながらも、一緒にいるのが怖いんだわ」
「そんなこと」
「ないと言い切れる?」
僕は開きかけたくちを閉じ、また開いた。
「でも好きなんだよ」
「そうね。いいのよ。私はただあなたの正直な気持ちが知りたかったの。おしえてくれてありがとう」
彼女は封筒を小さなハンドバッグの中にしまうと、最近見た映画の話をし始めた。彼女の耳の下で菫色の大きな丸いイヤリングが揺れるのを、ぼんやりと僕は眺めていた。
04-白いスニーカー
喫茶ロンドで彼女と別れ、僕はすっかり途方に暮れた。
日は傾きかけている。彼女はどこかへ出かけてしまい、街へ放り出された僕はやることが何も思い浮かばなかった。
映画を観る気にもなれず、読みたい本を探す気にもなれない。夕飯のための買い物をするか、どこかで一人前の食事をとるか。
彼女にあの詩を渡したことを、僕はひどく後悔していた。彼女が『混沌としている』と言った詩——。
『あなたは私を愛していながら、同時に憎んでもいるし、離したくないと思いながらも、一緒にいるのが怖いんだわ』
『でも好きなんだよ』と慌てて言うのが精一杯だった。僕が彼女を憎んだり怖がったりしているはずがない。それなのにはっきり否定することができなかった。なぜ。
どこへともなく僕は歩いた。雨が少し降ってやんだ。街を外れ、河川敷にたどり着いた。おろしたての白いスニーカーが泥を跳ねるのも構わず、僕は黙ってただ歩いた。
空は群青色に染まり、小さな星が瞬いた。自転車のライトが正面から近づいてきて、すれ違いざま僕の耳に軽快なハミングを聞かせた。夜の河川敷には、思いのほか多くの人が行き交っていた。犬を連れた人、手を繋いでいるカップル、勤め帰りの人。僕の隣に彼女はいない。
どん、と僕の背中に何かがぶつかった。それほどの衝撃ではなかったが、不意だったので僕はよろけた。
「すみません!」とすぐに声がして、僕の右腕が後ろからつかまれた。倒れ込むと思われたらしい。僕は体勢を立て直すと、振り向いて声の主を振り返った。
「ごめんなさい。ふざけていて」
学生みたいな男性が、背負っていた大きなデイバッグを僕に示した。
「後ろ向きに歩いていたんです。そしたらあなたにぶつかってしまって」
「後ろ向きに?」
僕は彼に連れがいることを確かめようとしたが、彼はどうやらひとりで歩いていたらしかった。
「時々やりたくなるんです。ごめんなさい」
「大丈夫」と僕が言うと、彼は軽く頭を下げて、小走りに去っていった。
ふっと小さな笑いが僕のくちから漏れた。途端に空腹を感じた。ある店のボンゴレが、潮の香りを伴って僕の頭に浮かんだ。身がたっぷり詰まったあさり。いつか彼女に教わった味。僕は地面を蹴り出すと、足早にその店を目指した。
05-青いガーベラ
僕は花屋に向かっていた。彼女に花を贈るために。
彼女が何かを欲しがるとき、それを正しく用意するのに僕は大抵苦労する。たとえばただ本が欲しいと言われる。あるいは詩を書いてくれとせがまれる。どちらも答えは無数にある。それで僕は、本屋の中をあてもなくウロウロしたり、徹夜で詩を書いたりするはめになる。
けれども今回のリクエストは、いつになく明快だった。
「ガーベラが欲しいの。一輪でいいわ」
それなら造作もないことだ。
僕は一時間ほど早く家を出て、ある小さな花屋に立ち寄ることにした。何度か利用したことのあるその店には、花屋にあまり似つかわしくない、筋肉質な店主がいる。彼はとても親切なのだ。
店の入り口へ足を踏み入れるなり、店主は「いらっしゃいませ」と僕に笑いかけた。僕も彼に微笑み返し、まっすぐガーベラのある場所へ向かった。赤、黄、ピンク、オレンジ、同じピンクでも薄いのや濃いの、たくさんの色で咲き誇っている。
近づいてきた店主に向かって、僕はにこやかに言った。
「青いガーベラをください」
店主の笑顔が戸惑いに変わった。
「青はちょっと……」
「品切れですか?」
「いえ、その……青いガーベラそのものがこの世に存在しないんです」
彼の言葉に僕は唖然とした。青いガーベラが欲しいと、彼女が僕に言ったのだ。
「この世にない?」
「すみません。造花ならありますけど」
彼は僕を店の隅に案内し、一本の造花を抜き取った。
「これです」
確かに青いガーベラだった。いかにも作りものといった感じの。仕方がないのでそれを買い、花屋を出た僕は考えた。彼女は本当にこんなものを欲しがっているのだろうか。プラスチックでできた花など、彼女が喜ぶだろうか。
しばらく思案したあと、僕は画材店に入った。画用紙を一枚と、青と黄緑のクレヨン二本。喫茶ロンドのテーブルの上で、造花を見ながら一生懸命青いガーベラを僕は描いた。
ちょうど描き終わった頃、彼女が僕の前に現れた。目の覚めるような緑色のワンピースに身を包んだ彼女は、真っ白な帽子をかぶっており、まるで開いたばかりのチューリップのように瑞々しかった。
僕は造花のガーベラと、へたくそな絵を彼女に示した。
「貰ってくれる?」
彼女は絵を覗き込むと、ガーベラの花びらを一枚一枚指でなぞった。
「真っ青で綺麗」
青く色移りした指を、ふふっと笑って僕に見せた。それを見て僕も笑った。
春の日差しが暖かい、土曜の昼下がりだった。
06-半月
ふと思い立って髪を切りに行った。さっぱりして帰ってきたら、玄関でスニーカーを脱いだ途端に具合が悪くなった。
胸がむかつく。冷や汗が出る。頭が痛む。
立っていられないほどの疲労感に襲われ、僕は這うように部屋へ入った。すぐベッドに倒れ込み、布団を鼻まで引き上げた。寒気に震える体を縮め、この不具合の正体を探ろうと今日これまでを振り返る。
朝、牛乳を床へこぼした。
お気に入りの靴下が片方見つからなかった。
落ちていた細い紐を掃除機で吸い込んでしまい、ローラーから取り除くのに三十分かかった。
観るつもりだった映画の公開が、終わっていることに気がついた。
出かけようとしてスマホを見たら、バッテリーが残り五パーセントだった。
こうして振り返ってみると、ろくなことのない一日だ。実を言うと、髪も希望より短く切られた。もうあの美容師は指名しない。
体が温まってくると、途端に僕は眠気に襲われた。何か大事な用があったような気がするが、瞼が重くて頭が働かない。
目が覚めると真っ暗だった。布団の中から手を伸ばし、枕元にあるライトスタンドのスイッチを探った。
頭の中はクリアになっていた。それに空腹だった。僕は起き上がって部屋の電気をつけた。
キッチンでベーコンを刻みながら僕は再び思い返した。
牛乳、靴下、掃除機、映画、スマホ、髪型、それに原因不明の体の不調。
数えてみたら七つもある。ラッキーセブンならぬ、アンラッキーセブン。
手早く作ったパスタと缶ビールをテーブルへ運んだ。ビールをひとくち飲んで、スマホを見る。カレンダーのポップアップが表示されていた。
〈19:30 ボンゴレ〉
僕の全身から血の気が引いた。すぐに時刻を確認する。19時38分。僕は上着とバッグをつかみ取ると、部屋を飛び出した。なんという一日だ。
引いた血液が一気に顔へ戻ってきて、僕は額に汗が滲むのを感じながら、店の番号を探した。彼女が待っているに違いない。彼女の連絡先を僕は知らないのだ。
大通りまでの細い坂を急ぎ足で下りながら、僕がやっと店の番号を見つけたと同時にスマホが鳴った。驚いた僕は反射的に緑のボタンに触れた。耳に聞こえたのは彼女の声だった。
「ごめんなさい」と彼女は言った。
「なんだか風邪を引いたみたい。お店には行けないわ」
僕は足を止めた。「それは……」と言ったあと、言葉が続かない。「お大事に」となんとか言って、電話を切った。
これはラッキーと呼ぶのか、それとも。
空を見上げると、大きな半月が僕を無言で照らしていた。
07-僕が欲しいもの
彼女から連絡が来ない。
最後の約束は、ボンゴレの美味しいレストランでの夕食だった。僕のスマホに、風邪を引いたから店には行けないと電話があって、それからふっつり音信が途絶えたのだ。
着信履歴にあるのは、「非通知番号」の五文字だけ。彼女は僕に連絡先を教えてはくれなかった。いつも次に会う約束をして別れていたから、それで何の問題もなかった。
彼女のバラのような笑顔を、僕は何度も思い出した。つばの広い赤い帽子も、菫色の丸いイヤリングも、鮮やかなグリーンのワンピースも、本当によく似合っていた。もう一度彼女に会いたい。せめて元気でいるのか知りたい。
よく待ち合わせた喫茶ロンドへ、毎日のように僕は通った。出勤前、仕事帰り、週末は何時間も本を読んで過ごした。彼女は現れなかった。似た人すら来なかった。
ある日僕は思い切って、マスターに尋ねてみた。僕の連れ合いだった女性を、最近見ませんでしたかと。そんなことを訊くのは妙だし、変に思われるのもわかっていたが、それでも僕は勇気を出した。ほかに手がかりが見当たらないのだ。
マスターはコーヒーカップを磨く手を止め、僕を見て少し眉を上げた。
「女性ですか」
「はい。僕の向かいに座っていた」
マスターは首をひねり、戸惑いながらこう言った。
「あなたの姿はよく見ましたが、いつもおひとりでしたよ」
どう帰ったのか覚えていない。気がつくと僕は部屋にいた。カーテンを開け放した窓の外は群青色に染まり、ぽつぽつとオレンジの明かりが揺れている。
詩集のことが頭に浮かんだ。夜色の革表紙。預かっておいて、と彼女に言われたもの。
僕は机の引き出しの鍵を開けた。中を見て息を呑んだ。
詩集。おもちゃの万年筆と、小さなくまのぬいぐるみ。僕が彼女に書いた詩。青いガーベラの造花と、それを描いたクレヨン画。彼女にあげたはずのものまで、ごちゃごちゃに詰め込んである。
黄色いリボンの端が見えた。引っ張り出して、それを眺めた。彼女がいつか襟元に結んでいたもの。
そんな。
まさか。
何かの間違いだといういいわけが頭の中に渦巻く一方で、僕の心ははっきりと思い出していた。
こどもの頃になりたかった、もうひとりの僕。
もうひとりの、わたし。
僕はリボンを首に結び、鏡の前に立ってみた。
不安げな目をした彼女が、僕をじっと見返していた。
最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。