見出し画像

「鳥皮」(後編)

バーには落花生しか置いていないというので、どこかで先に何か食べましょうかとわたしが提案すると、あまり遅くなってもいけないからと磯川さんが気遣った。時計を見ると、九時を少し回っている。

手に提げているトートバッグの中に、さきほど焼いたパンがいくつか入っていることをわたしは思い出した。それをそのまま磯川さんに告げると、ぜひくださいと言う。
大通りから少し離れた路地にベンチがあった。
レーズンパンとクリームパンをひとつずつ、彼は食べた。教室で同じものを食べてきたわたしは、缶コーヒーだけつきあった。

立ち飲みバーはかなり混んでいた。
狭いところを詰めてもらい、二人並んでなんとかカウンターに肘をついた。すぐあとから入ってきた二人連れのお客には、バーテンダーが満員だと告げた。

磯川さんとわたしは体を少し斜めにして、互いに向き合うような格好でカウンターの前に立った。
わたしの靴の裏が何かを踏み砕く感触があった。落花生の殻に違いない。床の上に落とす話は本当なのだとわたしは思った。

さきほどからハンコのことを話している。メモにあった「砂肝」の印字は、試し押しだと磯川さんが言った。
「鳥皮もありますか?」とわたしは磯川さんに訊いた。
「え、なんですか?」と磯川さんが聞き返した。
「その焼き鳥屋さんのメニューの中に、鳥皮っていうハンコ、あります?鳥の皮」
「ああ、鳥皮ね」
頷きながら磯川さんは、分厚いガラスの大きな器に山と盛られた落花生の、てっぺんの一つを摘まみ上げた。ぱきんと割った殻を躊躇なく床へ落とす。
「皮ならありますよ。皮ひと文字。鳥はほら、ちょっと難しいでしょう、彫るのに」
わたしは鳥という漢字を、右の人差し指で小さく宙になぞってみた。難しいだろうか。
そんなことを言えば、砂肝だって皮だって難しいように思える。

「あれって、手彫りなんですか?」
メモ用紙の端に押してあった、無骨な四角い文字の格好を思い出しながら、わたしは尋ねた。
「手彫りです。と言っても、消しゴムに彫っただけなんだけど」
「磯川さんが彫ったの?」
「ええ」
言いながら磯川さんは、落花生をまた一つ摘まんだ。

殻を割る彼の手つきを、わたしはしばらく眺めていた。
瓢箪の形をした殻は、彼の親指の腹に押されると、ぱきんと乾いた音を立てて、縦半分にきれいに割れる。二つに開かれた房の上下には、ビーナッツがひとつずつ行儀よく収まっていた。
「うまいですね」
わたしの目線の先が自分の手元に注がれているのを見て、磯川さんは少し眉を上げた。
「簡単ですよ」
器から取った新しい落花生を、磯川さんはわたしの手のひらに乗せた。
「ここ、少しくぼんでるでしょう」と、上のほうの房を指差して言う。
暗い灯りの元でわたしは目を凝らした。

「わかりますか?」
「なんとなく」
「ちょっと失礼」と言って磯川さんが、わたしの親指をつかんだ。
くぼみだというところまでわたしの指を導くと、「軽く押してみて」と促す。
言われた通りに軽く押すと、ぱきんと軽快な音が鳴った。
手を広げてみたら、縦半分に割れ目の入った落花生が乗っていた。
「すごい」
わたしは感動した。
「僕も人から教わりました」
立て続けに割ってみた。ぱきん。ぱきん。ぱきん。次々ときれいに割れていく。
カウンターの上に十個ほど並べたところで、指の腹が痛くなった。
わたしはピーナッツをひと粒ずつ噛み砕きながら、空いた殻を順番に床へ落とした。

バーには一時間ほどいた。
駅の改札に入る手前で、磯川さんがわたしに訊いた。
「さっきのパン、まだ残ってますか?」
「ありますよ」
わたしはトートバッグの中からパンの包みを取り出した。あと二つ入っている。
「僕にくれませんか?」
「いいですよ」
はい、と言って包みを磯川さんに渡した。ありがとう、と磯川さんは少し頭を下げた。
「おなか空いたんですか?」とわたしが尋ねると、
「あんまり美味しかったんで」と磯川さんが答えた。意外な言葉にわたしは目を丸くした。
「今度は焼き鳥食いに行きますか」と磯川さんが続けた。
いいですねと返事をして、わたしたちは別れた。

ホームに立って電車が来るのを待ちながら、ぼんやりと考えた。
磯川さんと焼き鳥屋に行ったら、きっと鳥皮の彼女の話をすることになるだろうな。彼女はいまでもあのハンコを持っているだろうか。たまにはどこかへ押すこともあるのかしら。
風が吹いてスカートが揺れた。軽く押さえた右手の親指の腹が、ほんの少しうずいた。

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。